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 ホテルはパーティ会場から車で五分くらいの場所にあった。エントランスに入ると、すぐに従業員が近づいて来る。二言、三言話をした康孝さんは、少し離れたところで待っていた僕の腰に手を回しエレベーターへと案内してくれた。


「ちょうど夕食の時間だから食事を頼んでおいたよ」

「ありがとうございます」

「食後は紅茶と焼き菓子にしよう」

「……楽しみです」


 そんな会話をしながら到着したのはフロアに一室しかない最上階の部屋だった。窓の外は康孝さんの言葉どおり宝石箱のような煌びやかに光る街の灯りが見え、手前には日本庭園のあちこちに飾られた燈籠の灯りが幻想的な雰囲気をかもし出している。

 ほぅっとため息が漏れた。しばらく外を眺め、ルームサービスが来ることを思い出して慌てて上着を脱ぐ。ついでに息苦しくなっていたタイを少し緩めたところで康孝さんをそぅっと見た。


(何かスポーツでもしてるのかな)


 上着を脱いだ康孝さんの体を見て、そう思った。上の兄はスポーツが好きで子どもの頃からテニスや乗馬を嗜んでいるけれど、その兄より全体的に引き締まっているように見える。


(まるで美術館にある彫像のような……康孝さんは顔も体もとても美しい)


 つい、じっと見つめてしまった。あまりに熱心に見ていたからか康孝さんが振り返り、視線が絡むとにこりと微笑まれた。その笑顔があまりに素敵で慌てて俯く。何か話さなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。俯いたまま視線をさまよわせていると、呼び鈴が鳴って配膳係がやって来た。内心ホッとしながら、意味もなく袖口を整えたりズボンの皺を伸ばすように撫でたりする。

 食事はサンドイッチやキッシュなどの軽食だった。僕の食が細いことを知っているから、こうした料理を頼んでくれたのだろう。体の大きな康孝さんには物足りないないのではと心配する僕に、「パーティであれこれ摘んだから大丈夫だよ」と微笑んだ。康孝さんはやっぱり優しい。こんな素敵な人が僕の婚約者だなんて……そう思いながら、何度目かわからないうっとりした眼差しを向けた。

 その後、約束どおり康孝さん自ら食後の紅茶を入れてくれた。紅茶と一緒に届いたという焼き菓子は中央にジャムが載ったクッキーで、真っ赤な色が可愛らしい。小さい頃、こうした焼き菓子が大好きだった。


(そういえば、そんな話を康孝さんにしたような……)


 ちろっと視線を上げると「気に入ってくれたかな」と言われ、「もしかして」と思った。


(ううん、きっとそうだ。僕がクッキーの話をしたのを覚えていてくれたんだ)


 嬉しくて頬がポッと熱くなる。クッキーを一枚かじったところで、康孝さんが公彦さんというあの綺麗な人のことを教えてくれた。


「公彦くんとは、いわゆる幼馴染みという間柄でね。父親同士が同じ第一帝都大学出身で、生まれる前からのつき合いという感じかな」


 幼馴染みという言葉に少しだけ羨ましくなった。


(小さい頃から康孝さんのそばにいられたなんて、いいな)


 考えたところでどうしようもないことなのに、公彦さんのことを妬ましく思ってしまう。その気持ちを押し流すように康孝さんが入れてくれた紅茶を飲んだ。


「第二次性がわかってからも、わたしたちの関係は変わらなかった。互いにそうした気持ちが一切なかったから気にも留めなかった。わたしたちは生まれたときから幼馴染みで、いまもその気持ちは変わっていない。でも、親しくしていることが周囲には別の要因に見えたんだろうね。勝手に許嫁候補だと騒がれて、どれだけ困惑したことか」


 先ほどの二人の様子から、そうなのだろうということはわかった。でも、第二次性に翻弄されない二人に深い絆を感じて胸が痛む。


(幼馴染みの立場が羨ましいだなんて……僕はいつの間にこんな欲深い人間になったんだろう)


 まるで自分じゃないみたいだ。ついさっきまで婚約を解消しようと考えていたのに、いまは僕の知らない康孝さんを知っているすべての人が羨ましくて仕方がない。


「そもそも公彦くんは昔から孝嗣(たかつぐ)のことを、あぁ、例の親友が孝嗣というんだけどね、彼のことをずっと想い続けていたんだ。孝嗣のほうもそうだった。それなのに孝嗣ときたら、やれ身分が違うだの受け入れてもらえないに違いないだの、まったくとんだ腰抜けときたものだ」


 互いに想い合っているのに、あと一歩が踏み出せず小さな行き違いが起きていたらしい。そのせいで公彦さんと孝嗣さんという方は少し疎遠になりかけていたのだという。

 そんなとき、とある貿易商に公彦さんが目を付けられた。貿易商は英国貴族出身だとかで、何がなんでも公彦さんを国に連れて帰るのだと言い出した。一方、公彦さんは心に決めた人がいるからと頑なに拒絶した。それでも英国人は諦めようとしなかった。肝心の孝嗣さんは表に出られない立場だとかで公彦さんを守ることができない。

 そこで公彦さんのことを頼まれた康孝さんが、パーティ会場に同行することになったのだそうだ。件の英国人以外にも公彦さんに言い寄る外国人は多いらしく、「わたしを警護人のように使うのは孝嗣くらいなものだ」と康孝さんが苦笑している。

 僕が二人を目撃したときも、まさに面倒ごとを対処している最中だったのだそうだ。パーティに行くたびに言い寄られることに辟易していた公彦さんは、そばにいてくれない孝嗣さんに不満を爆発させた。僕が目撃したのは、そんな公彦さんを康孝さんが(なだ)めてところだったらしい。


「不安にさせてしまったこと、申し訳なく思っている」


 真摯な態度に慌てて首を横に振った。


「僕のほうこそ、勝手に勘違いして……何度も誘ってくださったのを断ったりして、申し訳なく思っています」

「珠希くんは悪くない。婚約者を蔑ろにしたわたしの責任だよ」


 そんなことはないと言いかけた口を閉じた。このままでは延々と同じ言葉をくり返すことになる。せっかく康孝さんとこうして一緒にいるのに、言い合いみたいなことはしたくない。そう思い、「公彦さんはもう大丈夫なんですか?」と尋ねた。


「あぁ、もう大丈夫だ。一時はどうなることかと思っていたけど、先日ようやく両陛下に認めていただけたと連絡が来たからね。大騒ぎになっては困るからと名前の公表はまだ先になったようだけど、今後は本職の人たちが警護につく。これでわたしもようやくお役ご免だ」


 微笑む康孝さんの顔に見惚れながら、「あれ?」と思った。いま、大事なことを聞き流してしまった気がする。もう一度話の内容を思い返し、ハッとした。


(両陛下って……そういえば)


 孝嗣という名前には聞き覚えがあった。最近、新聞を賑わせている今上帝の第三皇子が孝嗣殿下というお名前だった気がする。たしか近々婚約発表されるとかで、お相手は誰だと兄たちも話していた。


「あの、孝嗣さんとおっしゃる方は、もしかして孝嗣殿下のことですか?」

「そうそう、最近新聞を賑わせている彼だ。わたしのところにも記者が押しかけてきて大変だったんだ」

「そ、そうだったんですね」


 苦笑する康孝さんを見ながら内心青ざめた。不動家が帝の血を引く家柄だとは知っていたけれど、まさかいまも宮様と親しくするほだとは知らなかった。そんなすごい人の許嫁が僕のような男で本当にいいんだろうか。僕では康孝さんに不釣り合いすぎやしないだろうか。

 一度そう思うとますますそう思えた。そもそも鳴宮家というだけで華族の間では不評だというのに、見た目すらつり合わない僕では康孝さんに恥をかかせてしまう気がして怖くなる。


「珠希くん」

「っ」


 いつの間にそばに来ていたのか、耳元で名前を呼ばれて肩がビクンと跳ねた。慌てて「は、はい」と答えた声が少し上ずる。


「珠希くんの考えていることを当ててみようか」

「え?」

「僕では不釣り合いじゃないだろうか。本当に僕でいいんだろうか。そう思っているだろう?」

「あ……と、そ、それは、」


 言いよどむ僕の顔を覗き込むように康孝さんが腰を屈めた。


「最初にきみを見初めたのはわたしのほうだよ。わたしこそ、珠希くんの隣にいてもいいのか不安に思っているくらいだ」

「そ、そんなことありません。康孝さんは僕にはもったいない人です。不安だなんて……そんなの、僕のほうこそ……」


 言いながら視線が下がっていく。康孝さんはすばらしい人だ。それに比べて僕には人に誇れることが一つもない。そう思うとやはり婚約者としてふさわしくない気がして唇をキュッと噛み締めた。そんな僕の肩に大きな手が優しく触れる。


「二年くらい前になるかな。とあるパーティできみを見かけたんだ」


 二年前というと、父の命令で本格的にパーティに出席するようになった頃だ。


「きみは会場の片隅で所在なさげにポツンと立っていた。華やかなパーティだというのに、暗い表情でじっとしている姿が気になった」


 自分を売り込んでこいという父の命令が嫌で、僕はいつも壁際にいた。それを康孝さんが見かけたのだろう。


「最初はその程度だったんだけどね。何度か見かけるうちに、気がつけばきみの姿を探すようになっていた。そしてあの日、白川家のパーティできみが夜桜を眺めている姿を見て忘れられなくなった」

「白川家……?」

「自慢の庭を開放してのパーティがあっただろう? 立派な枝垂れ桜があった屋敷だよ」

「……あぁ、」


 思い出した。庭に大きな枝垂れ桜があって、皆それを見ながら口々に褒めていた。もちろん枝垂れ桜は綺麗だったけれど、大勢の中に入りたくなかった僕は池のほとりに咲いていたソメイヨシノを一人で眺めていた。


「あのとき初めて微笑んでいるきみを見た。その顔が忘れられなくなった。きみがどこの誰か調べ、両親を説得してようやく婚約の話にこぎ着けたんだ。それまでの間に誰かに奪われてしまうんじゃないかと気が気じゃなかったよ」


 床に膝をついた康孝さんが覗き込むように僕を見る。


「わたしはあのときからきみに夢中なんだ」

「……そんなこと、」

「嘘じゃない。きみはわたしにとって運命の相手だと思っている」


 思わず視線を逸らしかけ、それじゃよくないと思い直して康孝さんを見た。


(……どうしよう)


 あまりにじっと見られるせいで顔がじわじわと熱くなってきた。家族にさえこんなに見られることがないせいか、つい視線をさまよわせてしまう。


「焦っていた時間が長かったせいかな。婚約しただけで珠希くんを手に入れた気になっていた。でもね、それで満足していたから何もしなかったわけじゃない」


 膝にある僕の手を康孝さんの大きな手が包み込む。


「こうして触れるだけで(たが)が外れそうになるんだ。口づけなんてしたら、きっと我慢できなくなる。その先のことまで求めてしまうだろう」


「婚約してすぐになんて、さすがにみっともないと思ってね」と言いながら、康孝さんの親指が手の甲をするりと撫でた。


「それに無理やりというのもよくない。だから待つことにしたんだ」

「康孝さん……」

「珠希くんはわたしをとても褒めてくれるけど、実際はこんなことばかり考えてしまみっともない男だ。いやらしいことなんて考えていませんという顔をして、その実心の中ではきみに触れたくてどうしようもなかった。こんなわたしに幻滅したかい?」


 ほんの少し眉尻を下げながらの微笑みは初めて見た。どこか自信なさげな雰囲気に胸がきゅうっと切なくなる。今日は康孝さんの初めてをたくさん見ている気がする。そして、そのどれもが僕の体を熱くした。


「みっともないなんて、そんなことありません」


 そう答えると、手の甲を撫でていた康孝さんの指が手首の内側を撫でた。それだけでうなじの辺りがぞくりとする。


「僕のほうこそ……華やかなところも秀でたところもないΩで……それに鳴宮家は新華族で、っ」


 シャツの袖口から入り込んだ指先に柔らかい内側の肌を撫でられて言葉が詰まった。ただ腕を撫でられただけなのに、康孝さんに撫でられているというだけでゾクゾクする。


「珠希くんは百合の蕾のようだ」

「え?」

「きっと花開けばその香りで大勢を魅了することだろう。いや、香りだけじゃない。きっと誰もがきみをほしがる」

「そ、んなこと、」

「わたしにはわかる。こうして……ここまで近づけば、その片鱗の香りがするからね」

「……っ」


 首元に美しい顔が近づいてきて驚いた。慌てて仰け反ろうとしたものの、背もたれに邪魔をされて身動きが取れない。


「あの、康孝さ、」


 それでも体を引こうとした僕の手を康孝さんが掴んだ。そのままグイッと引き寄せたかと思えば、耳の近くに鼻先を近づけてクンと鼻を鳴らす。


「や、康孝さん、」

「うん、いい香りがする。ほんのわずかだから、これくらい近づかないとわからないけどね。きっとこの香りに気づいているのはわたしくらいじゃないかな」

「あの、」

「珠希くん、もしかして発情はあまり強くないほうかい?」

「そ、そうですけど」

「なるほど、おかげでこの香りに気づく人がいなかったというわけか」

「あの、顔を、」

「でも、これからは一気に香りが開くだろうね。あまり大勢に知られるのは本意じゃないけど……いや、それも含めて自慢したい気もするな」

「え?」


 ようやく康孝さんの顔が離れてホッとした。吐息が触れたところが熱い。鼓動もどんどん忙しなくなる。なんとか落ち着こうと小さく深呼吸をし、康孝さんの顔を見た。見てすぐに体が固まってしまった。

 康孝さんの眼差しがいつもと違っている。いつもは優しく穏やかな瞳とは違う目で僕をじっと見ていた。熱っぽいような、それでいて睨んでいるような眼差しに喉がグッと詰まる。


(怖い)


 そう思った。それなのに、その目でもっと見てほしいと思ってしまった。いつもと違う康孝さんの様子に体の奥がジンと痺れるような気さえした。ゾクゾクとしたものが背中を駆け上がり、うなじが発火したかのように熱くなる。


「わたしがどれほど珠希くんを想っているか教えてあげたい」

「や、すたか、さん」

「きみに触れることを許してほしい。駄目かな?」


 目眩がするような言葉に、僕はよく考えもせずこくりと頷いていた。

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