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 久しぶりに見る美しい顔に一瞬目を奪われた。しかしすぐにハッと我に返り、うろたえているのを隠したくて視線を外す。


「あ、あの、足、すみませんでした。大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。それより珠希くんは少し軽すぎやしないかな。まるで猫に踏まれたような感触だった」

「ね、猫、」

「そう、猫」


 そう言ってニコッと笑う顔に顔が熱くなった。しばらく会っていなかったからか、いつにも増して気持ちがそわそわしてしまう。返事もできずに呆然と見つめていると「康孝様」という低くも艶やかな声が耳に入ってきた。


(あの人だ)


 熱くなっていた顔がひやりとした。


(どうしよう)


 康孝さんに会えたのは嬉しいけれど、恋人と楽しそうに話す姿は見たくない。早くこの場を離れなくてはと思っているのに体が強張って足を動かすことができなかった。


「やぁ、公彦(きみひこ)くん」


 にこやかに笑う康孝さんの顔に胸がズキンとした。僕を見るときよりも自然な笑顔のように見えて、「あぁ、やっぱり」と胸が苦しくなる。


(二人はやっぱり恋人に違いない)


 そのことを見せつけられたような気がした。思わず顔を逸らしたけれど、綺麗な人が近づいて来る気配に頬が引きつる。


「先日は茶会にお招きいただきましてありがとうございました。おかげで楽しい時間を過ごすことができました」

「それはよかった。声をかけた甲斐があったよ」


 茶会という言葉にドキッとした。先週、不動家から茶会を催すという連絡をもらったものの断った茶会に違いない。それにこの人は出席していたのだ。


(やっぱり僕は康孝さんとは結婚できない)


 結婚しても惨めな気持ちになるだけだ。それに康孝さんのためにもならない。これだけよくない噂の渦中にいる自分と結婚すれば康孝さんまでよくないことを言われてしまう。


(全部愚かな僕のせいだ)


 こんな僕では康孝さんを幸せにはできない。恋人と一緒にいるほうが康孝さんも嬉しいはず。


(やっぱり婚約は解消してもらおう)


 家同士の話がどうなるかはわからないけれど、早く次の縁談を持ってきてほしいと話せば少なくとも両親は何も言わないはずだ。不動家のほうは康孝さんがうまく事を進めてくれるだろう。


(それに、婚約を破棄すれば恋人と結婚できるんじゃないだろうか)


 そうだ、いっそ不動家から断ったということにしてもらえばいい。もともと鳴宮家とは家格が違うのだから世間も「やっぱり」と納得してくれるはずだ。それなら康孝さんに悪い噂は立たない。きっと美しい恋人との結婚話も進めやすくなるだろう。唇を噛み締めながらあれこれ考える僕の肩に大きな手がポンと触れた。そのままグイッと引き寄せられ、「え?」と目を見開く。

 僕はいま、なぜか康孝さんに肩を抱かれている。久しぶりの手の感触に胸の奥がきゅうっと切なくなった。


(駄目だ、期待なんてしてはいけない)


 わかっているのに泣きたくなるほど嬉しかった。肩を抱かれただけで僕の体は喜びに震えそうになる。


(もしかして、本当は少しでも僕のことを……)


 一瞬でもそう思ってしまった自分が情けなくなった。これ以上近くにいては浅ましい気持ちばかりが膨らんでしまう。そんな自分が嫌で嫌で仕方がない。


(いまここで婚約を解消してほしいとお願いしよう)


 恋人がいる前ならちょうどいい。婚約を解消したいと申し出てから、二人の幸せを願うと言えば何もかも吹っ切れる。そう考え、口を開きかけたところで「次はわたしの許嫁にも来てもらえると嬉しいんだけどね」と康孝さんが口にした。


「え?」


 驚いて視線を上げると、康孝さんも僕を見ていた。そうしてニコッと微笑みながら言葉を続ける。


「早くみんなに自慢したくて仕方がないんだけど、珠希くんは恥ずかしがり屋でね。なかなか自慢させてくれないんだ」


 何を言われたのかわからず呆然と康孝さんを見上げる。


「康孝様は案外のろけるのがお好きなのですね」

「おや、あいつから聞いていないかな」

「そんなことはひと言も。というより、康孝様の話題になると機嫌が悪くなるので口にしないようにしていますから」

「おっと、きみのほうこそのろけだな」

「ふふっ、そうですか?」


 僕が想像していた以上に二人は親しげな様子で言葉を交わしていた。でも、なんとなく恋人という雰囲気には感じられない。それに、いまの話では綺麗なこの人に別の相手がいるように聞こえる。


「康孝様、のろける前に許嫁殿の心をしっかり掴んでおかれたほうがよいですよ」

「相変わらず手厳しいな」

「僕が手厳しいのではなく康孝様がのんびりし過ぎなのです。結婚が三度も延びたのがその証拠ではないですか」

「これは痛いところを突かれた」

「康孝様は奥手でいらっしゃるから抱きしめることもしないのでは?」


 そう言いながら笑った綺麗な人が、「それでは不安になりますよね?」と僕を見た。


「あ、あの……」


 どう答えてよいのかわからず口ごもると、肩を抱く康孝さんの手に力が入るのがわかった。


「珠希くんは恥ずかしがり屋なんだ。そうした大人の会話に巻き込まないでくれないかな」

「この程度の会話は社交場では普通でしょう? それに、いまだに口づけすらしない康孝様のほうがよほど恥ずかしがり屋でいらっしゃるかと」

「あいつは余計なことだけは話しているようだね」

「純情青年のようだと笑っていらっしゃいました」

「やれやれ、きみは段々とあいつに似てきたな」


 珍しく康孝さんが困ったような顔をしている。それを見た綺麗な人が「ふふっ」と笑った。


「深窓のΩというのは、多少強引にされるほうが花開くというもの。とくに想いを寄せるαに求められる喜びは何ものにも勝るのですから」

「なるほど、経験者の言葉は説得力が違う。ところで手厳しいことばかり口にするが、少しは感謝してもらえているのかな?」

「もちろん康孝様には感謝しています。今回発表できるようになったのも康孝様のおかげですから。もしやお疑いでも?」

「ははは、冗談だよ。それに言うほど大したことはしていない。あいつに愚痴られるほうが気が滅入るから、そうならないように少し手助けしただけだ」

「そういえば、茶会でも『感謝はしているが香りを付けるなんてふざけた方法だ』と怒っていらっしゃいました」

「あれは緊急措置だと言っただろう? それに香りを付けていなければ、公彦くんはあの外国人に攫われていたかもしれないんだぞ?」

「わかっています。……あのときは戸惑いと興奮でみっともない姿をお見せしてしまいました。さすがの僕も言葉が通じない相手ではうまく躱せず……感謝しています」


 眉尻を下げる綺麗な人が「外国人がいるパーティには気をつけて」と僕を見た。


「とくにあなたのような慎ましいΩは外国人に狙われやすい。それに強引に蕾を開かせたいというαにも気をつけたほうがいいですよ。まぁ、康孝様の香りが付いている限り、そんなことは起きないでしょうが」

「当然だよ」

「そのために頻繁に時間を作っては会いに行くなんて、康孝様もよほど嫉妬深くていらっしゃる」

「そうやって二人して話の種にしているんだな」


 ため息をつきながら笑っている康孝さんの姿にドキッとした。見たことがない表情も素敵で目が離せなくなる。いつもの落ち着いた大人の姿ももちろんだけれど、こうして困っている表情にも胸がときめいた。


「それでは、僕はこの辺で。お二人の結婚式、楽しみにしています」

「きみたちのほうが早いかもしれないな」


 康孝さんの言葉に、綺麗な人が「ふふ」と艶やかに微笑んだ。そうして僕に近づくと「がんばって」と耳打ちしてから去って行く。


(……いまのはどういう意味だろう)


 困惑しながら見送っていた僕に、「ところで」と康孝さんが話しかけた。


「まさかとは思うけど、わたしは婚約破棄をされかけていたんだろうか?」


 何のことかわからず首を傾げる。そうして少し考え、さっきの独り言だということに気づいて血の気が引いた。慌てて「あの、」と言いかけたものの、どう説明すればよいのかわからず口をつぐむ。


「もしそうだとしたら、わたしが不甲斐ないせいだね。うーん、公彦くんの言葉はあながち間違いじゃなかったということか」

「あの……さっきの方は……」


 尋ねていいのかためらったものの気になって仕方がない。視線を逸らしながら小声で尋ねると「親友の恋人だよ」と返ってきた言葉に「え?」と視線を上げた。


「親友の恋人、ですか?」

「親友というより腐れ縁のような間柄かな。母親同士が仲が良くてね。小さい頃からよく知っている親友が世界一大事にしている人だ。……もしかして、誤解していたかい?」

「……すみません」


 下手にごまかさないほうがいいと思い、素直に頭を下げる。完全な早合点だとわかったからか恥ずかしくて仕方がなかった。


「謝る必要はないよ。……あぁ、そうか。お父上がきみをパーティに送り込んでいると聞いてはいたけど、どこかで見かけたのかな」

「……はい」

「じつは公彦くんが少し厄介なことに巻き込まれてしまってね。それで親友の代わりにしばらくパーティに付き添うことになったんだ。おかげで珠希くんを誘う機会を逸してしまった。まったく、わたしはなんて情けない婚約者だろうね」


 そう言いながら肩を抱いていた手を離し、指の背で額にかかった前髪をひと撫でする。それだけで僕の顔は熱が出たかのように熱くなった。


「それで、珠希くんのほうは大丈夫だったかい?」

「はい。その、すぐに帰っていましたから……」

「それはよかった。最近は外国人も招かれることが多いから気になっていたんだ。珠希くんが攫われたりしないか不安で、つい香り付けなんてことまでしてしまった」

「香り付け……?」

「毎週末、会うたびにね」


 もしかしてお茶や散策のことだろうか。そういえば並んで歩くとき、よく腰に手を回されていたことを思い出した。


(もしかして、あのときにαの香りを……?)


 αはΩにほかのαが近づかないように自分の香りを付けることがあると聞いたことがある。ただ、身近にそういう話をする人がいなかったからか自分がされていたことに気がつかなかった。

 もし両親のどちらかがΩだったら、そういう話を聞く機会があったかもしれない。でも我が家のΩは僕だけで、そもそも家族はΩのことを話題にすることがなかった。


「香りだけで安心していたのはわたしの(おご)りだな。許嫁になってしまえば珠希くんを手に入れたも同然だと思い込んでいた。だから結婚が先延ばしになっても待てばいいと楽観してしまった。それが珠希くんの不安の表れだとどうして気づかなかったんだろう」


「申し訳なかった」と謝る康孝さんに、慌てて「やめてください」と首を振る。


「彼らのほうは一段落ついた。これからは珠希くんのことだけ見るようにするよ」

「もういいんです。それに僕が勝手に勘違いしていただけで、康孝さんは悪くありません」

「勘違いさせたわたしに非がある。きみは悪くない。むしろ放っておかれたことを怒ってもいいくらいだ」

「康孝さん……」

「これからはパーティも一緒に行こう。一緒じゃないときは行かないでほしい。この件はわたしから再度お父上に話しておく」


 再び肩を抱かれて胸がきゅうっと切なくなった。まるで僕を守ってくれるような仕草にトクンと鼓動が大きく跳ねる。


「そうだ、せっかくだからこれからお茶はどうかな?」

「お茶、ですか?」

「久しぶりに会えたんだ、パーティより珠希くんと話がしたい」


 それは僕も同じだ。不安が消えたからか、康孝さんと一緒にいたい気持ちが抑えきれなくなる。


「あの、ご迷惑でなければ」

「迷惑だなんて思うわけがない。……そうだね、この時間だと喫茶室は混んでいるだろうから、わたしが使っているホテルはどうかな?」

「ホテルですか?」

「そう。最上階だから夜景が綺麗に見えるよ。ちょうど今朝いい茶葉が手に入ったから味も保証する」

「もしかして、康孝さんが入れてくださるということですか?」

「こう見えて腕前は悪くないと自負している。というより、珠希くんが紅茶好きだと聞いて密かに美味しく入れる練習をしていたんだ」


 照れくさそうに笑う顔に頬が熱くなった。紅茶を入れる練習だなんて、そこまでしてくれていたことに腰のあたりがむず痒くなる。


「楽しみです」

「では、行こうか」


 ふわりと笑った康孝さんの顔に胸がトクントクンと鼓動を速めた。笑顔を見ても苦しいばかりだったのが嘘のようにふわふわした気持ちになる。そのまま僕は康孝さんとパーティ会場を抜け出し、案内されるまま車でホテルへと向かった。

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