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(……嫌なことを思い出した)
康孝さんの噂話を耳にするたびに夜通し泣いたことをいまでも思い出す。
(やっぱりパーティに顔を出すのはやめよう)
何度目の決意になるだろう。来るたびにみじめな思いばかりしてきた。婚約したら少しは変わるのかと思っていたけれど、結局婚約する前と変わらない。全部自分のせいだとわかっていても胸が苦しかった。眉尻を下げながら迎えの車に乗り、小さなため息を漏らす。
(いま思えば一度目の式の延期はまだいいほうだったかもしれない)
後部座席の背もたれに頭を載せ、額に手を置き目を瞑った。
「すみません、少し考えごとをしたいので三十分ほど遠回りしてもらえませんか?」
「承知しました」
「お手数かけます」
そう告げると、車がいつもとは反対のほうへ曲がるのがわかった。おそらく臨海地域を通り、それから屋敷がある西のほうへ向かうのだろう。
(帰るまでに気持ちを落ち着かせないと)
そう思っているのに、目を瞑ると二度目の結婚延期のきっかけになった光景が蘇った。
一度目の結婚延期後も父の命令に逆らうことができず、僕はいくつかのパーティに参加していた。そのたびに康孝さんの噂を耳にし、ますます気分が重くなった。こんな気持ちでは康孝さんに会えないと何度も考えた。
それなのに、週末になると康孝さんに誘われるまま会ってしまっていた。ホテルの喫茶室でお茶を飲みながら話をし、そのまま銀座を並んで歩くこともあった。たまにはどこか歩こうかと言われ、上野や浅草に出向いたりもした。新宿の御苑を散歩したり浜離宮の庭園を散策したこともあった。
(僕のほうから結婚を延期したのに、それでも康孝さんは変わらずに接してくれる)
康孝さんの優しさが、より一層僕を苦しめた。それならさっさと結婚すればいいのに、どうしても踏ん切りがつかない。「外国にはマリッジブルーという言葉があるからね」と言って待ってくれている康孝さんに申し訳なく思いながら、どうすればいいのかうだうだ考えるばかりだった。
そんなある日、父の命令でとあるパーティに出席することになった。直前まで嫌だと言ったものの父が聞き入れてくれるはずもなく、半ば強制的に車に押し込まれ送り出されてしまった。
(会場の片隅にしばらくいたら帰ろう)
そう思いながらエントランスに入ったところで「あれは鳴宮家の……」という声が聞こえてきた。続くのは、きっと「金で不動家の許嫁になったΩだ」というような言葉に違いない。聞かなくても予想がつく。
会場に向かうはずが、気がつけばレストルームに向かっていた。やっぱり来なければよかったと思いながら廊下を曲がったところで、前方に見えた後ろ姿にハッとした。
(康孝さんだ)
間違いない。斜め後ろだから顔ははっきり見えないけれど、すぐに康孝さんだとわかった。一瞬足が止まったものの、意外なところで会えた喜びに心が浮き足立つ。ところが隣に見知らぬ男性がいることに気づき、踏み出した足を慌てて止めた。
(誰だろう)
背は僕より少し高い。よく見れば首にΩ専用の首飾りをしている。
(……どうしてΩと……)
Ωだとわかった瞬間、ドキッとした。康孝さんが誰と一緒にいようが自由なのに、相手がΩだとわかると途端に落ち着かなくなる。
(……とても綺麗な人だな)
気がつけば物陰に身を潜め、盗み見るように二人を見ていた。男性は僕より淡い髪色に端整な顔立ちで、仕立ての良いスーツがとてもよく似合っている。身に纏う雰囲気や立ち姿から、それなりの家柄に違いないということもわかった。
(え?)
男性が立ち止まった。それに気づいた康孝さんも立ち止まる。すると男性の手が康孝さんの胸に触れた。声は聞こえないものの、表情から何かを訴えているように見えた。その顔があまりに必死で、それに潤んでいるように見える瞳が美しくて胸がざわついた。
康孝さんの手が男性の背中に回り、促すように歩き出した。並んで歩く二人の後ろ姿がとても自然だからか、二人は恋人なのかもしれないと思った。
(そうだ、康孝さんみたいに素敵な人に恋人がいないはずがないじゃないか)
家柄も容姿も性格も僕にはもったいない人だ。きっとこれまで何人もの恋人がいたに違いない。婚約はしたけれど、恋人との関係が続いていてもおかしくないと思った。だってこの婚約は僕たちの意志で決まったものじゃない。僕のほうは想いがあるけれど、康孝さんはきっと仕方なく受け入れているだけだ。
(あんな綺麗な人が恋人なのに僕と婚約なんて……やっぱりそういうことだったんだ)
僕に優しいのは気持ちがあったからじゃない。僕が鳴宮家のΩだからだ。そう考えたらいろんなことが腑に落ちた。あまりに優しいから、心のどこかで「僕のことを少しは気に入ってくれているのでは」なんて淡い期待を抱いてしまった自分がおかしくなる。
(あんな素敵な人が僕を気に入ってくれるはずがないのに……僕はなんて愚かなんだろう)
康孝さんには恋人がいる。きっとさっきの綺麗な人がそうなのだろう。婚約してもパーティに同伴したいと言われたことがなかったのは、こうして恋人と一緒に過ごすためだったに違いない。
僕と結婚するのは家のためだ。元々そういう結婚しかできないとわかっていたのだから、いまさら傷つく必要なんてない。康孝さんを好きになってしまったのは僕の勝手で、康孝さんにまでそれを求めるのは欲が過ぎる。
(結婚しても、きっと康孝さんは恋人のところに行くだろう)
そういう未来が見えた気がした。そして僕は屋敷で一人好きな人の帰りを待ち続ける。好きな人に気持ちがないことを知りながら、それでもきっと待ち続けることしかできない。
(……そんな生活が僕に耐えられるだろうか)
僕はくるりと踵を返すとエントランスから外に出た。暗い中、玄関前の噴水を見ながらあれこれ考える。けれど結局はうまく考えられずに夜空を見上げた。
一週間後、結婚式の打ち合わせに来た康孝さんに「もう少し待ってほしい」と申し出た。二度目の延期に両親は眉を跳ね上げたけれど、康孝さんは少し黙ったあと「いいよ、そうしよう」と微笑みながら承諾してくれた。僕はその言葉と表情に安堵し、同時に落胆した。