その後1
僕が不動家の離れに住み始めてふた月が経った。少し前、僕は康孝さんと話し合って結婚式の日取りを決めた。英語にはまだ不安が残るものの、康孝さんの隣に立つのだという決意はできている。それにこれ以上延ばしたくない気持ちもあった。
結婚式まではひと月弱ほどで、いまはその準備で少し慌ただしい。それでも康孝さんよりずっと楽をさせてもらっていると思う。
(鳴宮とのやり取りは全部康孝さんに任せてしまっているから……)
家同士の結婚式の打ち合わせには毎回康孝さんが一人で行っている。それを心苦しく思うのと同時に康孝さんの優しさに心から感謝していた。
(あのパーティでの様子を見て、僕を連れて行かないほうがいいと判断したんだろう)
あの日、僕は過去の自分と決別するのだと決意した。すべて忘れることはできなくても、きっと大丈夫。隣に康孝さんがいるのだと思えば恐れることは何もない。これからは前だけを向いて生きていこう。そうできると思っていた。
でも、現実はそんな簡単なものではなかった。正直、父や兄たちの顔を思い浮かべるといまでも胸が苦しくなる。目の前に鳴宮の家族がいたら平静でいられるだろうか、そう考えるたびに体が強張るのを感じた。康孝さんはそんな僕の状態に気づき、僕を連れて行くのをやめたのだろう。
(以前はこんなことなかったのに)
気が重くなることはあっても顔を合わせることはできた。父に何を言われても耐えられたし、家族揃っての食事も毎日していた。それなのに一度家を出たからか、あの中に戻るのだと思うだけで胃が縮こまるような気持ちになる。
(平気だと思っていたけど、そうじゃなかったんだ)
そのことに僕はずっと気づいていなかった。いや、気づかない振りをしていたのかもしれない。
過去のことを思い出しても平気でいられるようになりたい。結婚式では鳴宮の家族も出席する。「それまでにどうにかしたい」、「どうにもできなかったらどうしよう」、最近はそんなことばかりが頭をよぎる。
「珠ちゃんは何も気にすることないわ」
「え?」
「いま家のこと考えてたでしょ?」
「あー……うん、少しだけ」
「気にしなくていいのよ。全部康孝兄様が好きでやってることなんだから」
そう言いながら向かい側のソファでティーカップを傾けているのは康孝さんの妹である琴祢さんだ。中身は“クリーム・ティー”というもので、留学先の英国でお気に入りになった飲み物だと教えてくれた。
琴祢さんは不動兄弟の中では唯一のΩで、いまは留学先の英国で勉学に励んでいる。Ωで外国に留学していると聞いたときは驚いたけれどΩ王女に乞われてということらしい。不動家はそんな話がくるほどの家柄だということだ。
今回は学校の長期休暇を利用しての帰国だと聞いていた。ところが僕たちの結婚式が近いことを知って帰国の期間を延ばしたのだという。「わたし、これでも成績優秀者だからそうした融通はきくの」とは琴祢さんの言葉で、Ωなのに自信たっぷりな言葉にも驚かされた。
(学校に問題はないと言っていたけど、本当に大丈夫なんだろうか)
この国では「Ωのくせに」と絶対に言われる。留学先での琴音さんの評判が悪くならないか心配になった。
「何があっても結婚式には出るわよ」
「え?」
「そういうこと考えてたでしょ?」
「それは……そうだけど……外国での勉強は大変なのに大丈夫なのか気になって」
「平気よ。それに珠ちゃんと康孝兄様の結婚式のほうが大事だもの。出席しなかったら一生後悔するわ。教授たちに嫌味を言われるよりそのほうがよっぽどわたしは嫌よ」
やはり琴音さんは強い。自分の意見をしっかり持ち、Ωだという引け目もない。そんな琴音さんが僕には眩しくて仕方がなかった。
「それに言ったでしょ? わたし、珠ちゃんにずっと会いたかったんだから」
琴祢さんは康孝さんと僕が婚約したときから僕に会いたがっていたのだそうだ。今回ようやく念願叶ってということらしく、康孝さんがいないときはこうして離れに来ては僕の話し相手になってくれる。
「珠ちゃんは少し周りに気を遣いすぎね」
「そんなことはないと思うけど」
「そうかしら。その様子じゃ康孝兄様にも気を遣ってるんじゃないの?」
「そんなこと……」
「なくはないでしょ」
どうやら琴祢さんは康孝さん並に勘がいいらしい。反論しようと思って開いた口を閉じ、何も言えないまま視線を落とした。
「珠ちゃんは少しくらい我が儘を言ったほうがいいわ」
「我が儘?」
「αは大好きなΩに我が儘を言われるのがたまらなく気持ちいいのよ。だから遠慮する必要はないってこと」
「き、気持ちいい……」
「なんならベッドの中で待てをさせてもいいくらいよ。康孝兄様なら奥歯を噛み締めながら、それでも表面上は笑顔で我慢するくらいやるわね」
「そ、そういう話は……」
「康孝兄様は少しマゾヒズムの気があるから大丈夫よ。そうでなければ一年も待ったりしないわ」と続ける琴祢さんに、僕は曖昧な笑顔を返すことしかできなかった。
琴祢さんは留学して二年が経つそうで、そのせいか雰囲気も僕が知っているΩとは随分違う。物事をはっきり言うところや物怖じしないところは先生に似ているけれど、先ほどのような際どいことを口にするのは琴祢さんの性格なのだろう。
(でも、そういう部分を含めてうらやましいと思ってしまう)
顔を合わせてすぐに「敬語はよそよそしいからやめてね」と言い、「珠ちゃんと呼んでも?」と言われたときは正直面食らった。兄とはいえαである康孝さんにも物怖じすることなく意見を言い、ご両親にもはっきりと自分の意志を示す。そんな琴祢さんにもようやく慣れてきたけれど、こうした会話はやっぱり恥ずかしい。
(外国には琴祢さんみたいなΩがたくさんいるのかな)
先生の「Ωよりαが優れているという考え方は古い」という言葉が脳裏をよぎった。きっと外国では琴祢さんや先生のようなΩがたくさんいるのだろう。αのように、とまではいかなくても、先生や琴祢さんの半分でも強くありたいと思う。
(そうすれば堂々と康孝さんの隣に立てる気がする)
ふと康孝さんの礼服姿を思い出して頬が火照った。結婚式用の礼服は黒色に生地違いの艶やかな黒い襟があしらわれていて、すらりとした長身の康孝さんにぴったりだった。パーティで着る服とは違い裾が少し長めだからか、先生から聞いていた英国紳士のようにも見える。
(あんなに素敵な人と僕は結婚するんだ)
こうしてすでに一緒に住んでいるというのに、結婚式という特別な出来事を想像するだけで体がじわりと熱くなる。
(そもそも、そういうことは、もう……しているわけだし……)
鳴宮でのパーティ以降、三日と空けずに肌を重ねるようになった。それまでは時々という頻度だったというのに、どうしても我慢できずに僕から強請るようなことまでしてしまっている。
(……って、僕は昼間からなんてふしだらなことを思い出して……)
慌てて頭を振った。それでも体の芯がポッポッと熱を持っているような気がして落ち着かない。なんとかしようと手でパタパタと顔をあおいでいると、僕をじっと見ていた琴祢さんが「気のせいかと思ったんだけど」と口を開いた。
「珠ちゃん、もしかして発情が近いんじゃない?」
「え?」
「ううん、もう入りかけている気がするわ」
「まさか。発情はひと月半も先の予定だよ」
およそ四カ月に一度の僕の発情周期から計算すると、次の発情は一カ月半ほど先だ。念のためお医者様に診てもらい、周期が大幅にずれる様子はないという診断結果ももらっている。
だから結婚式は発情の前に挙げることにした。ゆっくり準備をするなら発情後のほうがよかったのかもしれないけれど、そんなに待てる気がしなくて無理をとおした。
(……だって、早くうなじを噛んでほしかったから)
僕が式の日取りを決めた理由でもっとも大きかったのは、これだ。康孝さんとの行為が増えるにつれて、うなじを噛んでほしくてたまらなくなった。焦燥感というより飢餓感といったほうがいいかもしれない。
だから次の発情がくる前に式を挙げ、新婚旅行の間におとずれるであろう発情でうなじを噛んでもらうことにした。康孝さんもそうしようと賛成してくれている。そのための素敵な宿泊施設も用意してくれていると聞いていた。
「でも、この香り……やっぱり発情だと思うんだけど」
隣に座った琴音さんが、康孝さんによく似た綺麗な顔をグッと近づけてきた。そうして頬の近くでクンと鼻を鳴らす。いくらそういう気持ちがない相手とはいえ、異性との距離にしては近すぎる。「こ、琴祢さん」と慌てて仰け反ると、「やっぱり間違いないわ」と真面目な顔で言い切った。
「これまで発情の周期が乱れたことはないの?」
「発情したばかりのときは何度かあったけど、それももう何年も昔の話だよ」
「それじゃ、きっと兄様がかわいがりすぎているせいね。Ωは愛されすぎると発情が早まるというもの」
「まさか、
「あら、わたしの周りではそういうΩも少なくないわ。そういう話、したことない?」
「が、外国ってすごいね」
「そう?」
なんでもないことのようにそう答えた琴祢さんが、再びじっと僕を見る。
「それに珠ちゃん、この半月くらいの間でずっと綺麗になったわ。Ωとして成熟してきた証拠だと思うの。きっとうなじを噛んでほしくて、だからいつもより早く発情が来たんだわ」
呆然とする僕を気にすることなく「兄様に連絡するわね」と言って琴祢さんが部屋を出て行った。
(……なんだかすごいことを言われた気がする)
すべてを見通しているような琴音さんの言葉を思い出し、顔がカッと熱くなった。行為の回数が増えていることにも気づいているのだろうか。火照る頬を押さえながら、もし本当に発情なら寝室に籠もらなくてはと考えた。
幸い僕は発情が軽いほうで、二日も籠もれば熱も欲も収まる。香りは弱く自慰もしたりしなかったりで、これまでαを求めて苦しむことは一度もなかった。そういう意味では楽な体質だとは思うけれど、そのせいで家族からは出来損ないのΩだとずっと言われてきた。
(……鳴宮でのことを思い出すのはよそう)
いまは早まった発情を収めるのが先だ。周期が乱れた原因が本当に琴祢さんが言うとおりか気にはなるけれど、きっと今回もいままでどおりすぐに収まるはず。
(式の日程を変える必要はないだろうからよかった)
そう思って立ち上がったものの足元がふらついてうまく歩けない。変だなと思いながら寝室に入ると、今度は香りが気になって足が止まった。
(康孝さんの香りだ)
これまでにも寝室で康孝さんの香りを感じることはあった。でも、それとは少し違っている気がする。普段よりずっと甘く、嗅ぐだけで頭の芯がじんわり痺れるような感覚だ。
(康孝さんの香りって、こんなふうだったかな……)
吸い込むたびに体がポッポッと熱くなった。頭もぼんやりして、それなのに康孝さんの香りを嗅ぎたいという欲だけが強くなっていく。
(……康孝さんの香りがもっとほしい……)
気がつけば寝室を通り過ぎ、衣装部屋にあるクローゼットに手を伸ばしていた。開くとふわっと香りが広がり、全身に康孝さんの香りを浴びたような感覚になってお腹の奥がじわっと濡れる。
もっと香りがほしい。大好きな康孝さんの香りをもっと嗅ぎたい。気がつけば前日に康孝さんが着ていたジャケットを手に取り顔を埋めていた。
(……こんなんじゃ全然足りない)
今度はスラックスに手を伸ばした。それでも足りなくてさらにジャケットを一枚、スラックスを二枚手にし、ゆらゆらと上半身を揺らしながらベッドに近づく。
康孝さんのスーツを放り投げ、ポフンとベッドに倒れ込んだ。すると毎日一緒に寝ている康孝さんの香りがふわっと舞い上がる。それが嬉しくて口元を緩めながら放り投げたスーツをたぐり寄せた。皺になるのもかまわず顔を埋めながら深く息を吸い込む。
(康孝さんの香り……大好きで、体の奥まで幸せになる香り……)
大きく吸い込んだ瞬間、体の奥がジンと痺れた。体の熱がぐわっと上がり息苦しささえ感じる。まるで蒸し暑い雨の時期に体を動かしたときのような感覚に近い。そう感じたからか、纏わり付く服が急に煩わしくなった。羽織っていたカーディガンを脱いだものの体の奥が燃えるように熱くて額から汗が流れ落ちる。布と肌が擦れるのが気になってシャツのボタンを外した。
(熱い、熱くてたまらない)
前立てを緩め、両足をモゾモゾと動かしながらズボンを脱いだ。涼しさを感じたのは一瞬で、肌に貼りつく下着も不快で脱いでしまう。
(発情のときって……こんなに熱かったかな)
シャツ一枚で丸まりながら康孝さんのスーツに顔を埋めた。すぅっと息を吸うと、胸いっぱいに香りが広がってあふれるほどの幸せを感じる。表現しがたい初めての感覚に何度も香りを嗅いだ。そのうち下半身がムズムズして切なくなってくる。
(こんな感覚、初めてだ)
僕の発情は驚くほど軽い。十八、十九歳ともなれば体も成熟して発情がつらいと聞いていたけれど、そんなふうに思ったことは一度もなかった。発情以外で自慰をすることはほとんどなく、後ろを自分でいじったことも数回しかない。
それなのに下半身が疼いてどうしようもなかった。お腹の奥がジクジクして苦しい。体を丸めながら康孝さんの服を抱え込み、スゥハァと何度も香りを嗅いだ。そうすれば落ち着くと思ったのに、ますます体が火照って切なくなる。
早くなんとかしてほしい。体の中をグルグル回る熱を吐き出してしまいたい。そうしなければ苦しくておかしくなってしまう。内側から燃えているような熱に気が触れてしまいそうだ。
気がつけば康孝さんのスーツに顔を埋めたまま「フーッ、フーッ」と獣のように息を荒げていた。体を丸めたまま腰をカクカクと揺らすものの、それで熱を吐き出せるはずもなく余計に苦しくなる。気がつけば尻たぶの間を滑ったものがすべり落ち、体のあちこちが静電気を帯びたようにピリピリし始めた。
「これはすごいな。珠希くんの香りでいっぱいだ」
大好きな声が聞こえてきて体がブルッと震えた。同時に揺れていた腰がビクンと震え太ももが湿る。
「やす、たかさ、」
必死に視線を向けた先には大好きな康孝さんの姿があった。




