13
「兄弟水入らずのところを邪魔してしまったかな」
そう言いながら康孝さんが僕の肩をぐっと引き寄せた。隣に康孝さんがいる……それだけで胸を覆っていた黒いものが消えていく。いつの間にか全身に力が入っていたことに気がつき、握り締めていた拳を解いた。「ふぅ」と小さく息を吐くと、肩を抱く康孝さんの手に力が入るのがわかった。
「大陸での新しい事業展開、おめでとう。お父上の手腕には感服するよ」
「あ、ありがとうございます。そう言っていただけると父も喜びます」
「そういえばきみたちの結婚もそろそろだとか」
「は、はい」
「わたしたちもそろそろと考えているところでね」
「そ、そうですか」
威圧的だった兄がしどろもどろになった。しっかりと兄を見ている康孝さんと違い、視線は左右に揺れ動いてどこか落ち着かない。
(こんな兄さんを見るのは初めてだ)
上の兄と違って下の兄はいつも攻撃的な人だった。学校でも上級生やほかのαを顎で使っていたと聞いている。それは卒業してからも変わらないようで、パーティではいつもαの取り巻きを引き連れていた。そんな姿しか見せたことのない兄が、康孝さんの前では人が違ったように大人しい。
(……まるで鳴宮での僕みたいだ)
この屋敷での僕は自室にいるときでさえ小さくなっていた。αの気配が息苦しくて、だからといって屋敷の外にも居場所がない。パーティでは周囲の声に俯き、家では家族の声に身を縮めてばかりいた。
(そういえば、不動家ではそんなこと一度もないような……)
何度か康孝さんの家族と顔を合わせることがあったけれど、鳴宮の家で感じるような威圧感を受けたことはない。もちろん康孝さんからも感じたことはなかった。康孝さんのそばにいると自然と呼吸が楽になり、ここだけが僕の居場所なんだと心の底から思えた。
康孝さんはむやみやたらとαの威厳を撒き散らしたりはしない。いまもそれらしい気配は感じなかった。それなのに兄は康孝さんを恐れている。こんなにも優しい人をなぜ怖がるのだろう。
(もしかして、これがαの格の違いというものなんだろうか)
先生からαには格というものがあると聞いた。僕も少しだけ聞いたことがある。
この国でもっとも強いαは帝室の方々で、格下のαは格上のαに決して逆らうことができないのだそうだ。一方、Ωには格上や格下という概念はなく、伴侶となるαの格によって評価される。
「これまで注目されてきたのはαの格だけですが、Ωにもそうしたものがあるとわたしは思っています。伴侶になるαの格だけでΩを見るのは間違っている。たとえば社交界で格下だと思われているαであっても、優れたΩと結ばれることで状況が変わることがあります。いわばΩがαの隠れている才能を見出すといった感じでしょうか」
この話を聞いたとき、僕は初めて先生の意見に疑問を持った。この国ではαがすべてを支配している。Ωはそんなαに付き従い、優れたαの子を生むための存在でしかない。女性αとの違いはより優秀なαを生む可能性が高いということだけで、それが成せないΩはただの役立たずだと言われてきた。
(そういう考え方は古いのだと康孝さんも言っていた。でも……)
不意にこれまでのことが頭をよぎった。鳴宮の家で散々言われてきたことが蘇り、重苦しいものが胸に広がる。
(しっかりしろ。隣に康孝さんがいるのだから、恥ずかしくないΩでいるんだ)
そう思うのに胸がつかえるような気持ちが消えてくれない。しっかりしなければという思いと、やはり僕では駄目かもしれないという気持ちが混じり合い、心の中がぐちゃぐちゃになっていく。
「ところで、先ほどの流暢な英語は……あぁ、そちらのご令嬢の言葉だったのかな」
話を振られた婚約者の頬がパッと赤くなった。康孝さんを見るうっとりした眼差しに今度は真っ黒な気持ちが広がる。
(どうしてそんな目で康孝さんを見るんだろう)
隣に婚約者である兄がいるのに、なぜ……嫉妬や苛立ちに似た気持ちが心の奥からにじみ出るようにわき上がった。康孝さんを奪われてしまうのではないかいう気持ちになり、そんなふうに考える自分が嫌で視線を逸らす。
顔をほんのわずか逸らした直後、肩を抱いていた康孝さんの手が離れた。もしかして僕のみっともない気持ちに気づいて呆れたのだろうか。隣に視線を向けることもできず体を強張らせていると、大きな康孝さんの手が腰に触れた。ポンポンと優しく二度撫でられ、それが「大丈夫だよ」と言っているように思えて熱いものがグッとせり上がってくる。
「An Englishman's house is his castle、英国貴族の間でよく聞く言葉だね」
「英国人の家庭教師に英語を習っていますの。本国では貴族の方々と親しくされている先生で、わたしの英語はとても素晴らしいといつも褒めてくださいますわ」
「たしかに美しい発音だった。あれなら本場の英国貴族を前にしても困ることはないだろう」
「まぁ、ありがとうございます」
自信に満ちた婚約者の微笑む顔に胸が苦しくなった。僕を見るときとは違う艶めかしいものが混じっているのは康孝さんを前にしているからに違いない。
(どうしてそんな嬉しそうな顔をするんだろう……康孝さんは僕の婚約者なのに……)
頭に浮かんだ浅ましい考えにハッとし、ますます自分が嫌になる。
「珠希くん」
「え?」
声をかけられて肩が震えた。浅ましい僕の気持ちに気づかれてしまったのだろうか。卑しい自分を恥じながら、そぅっと康孝さんを見る。
「いまの英語の意味はわかるかい?」
もしかして答えろということだろうか。
(僕がαの会話に参加するなんて……)
少なくとも鳴宮の家族では喜ばれない行為だ。でも、康孝さんに問われているのに答えないわけにはいかない。それでもためらっていると、視界の端に自信に満ちた笑みを浮かべる婚約者の顔が映った。兄は「なんでこいつなんかに」と思っているのか眉をひそめている。
(……僕は変わりたい。鳴宮の家にいたときの僕のままではいたくない)
小さく息を吸い、兄たちを見た。ここで答えなくては康孝さんに恥をかかせることになる。それは嫌だ。それ以上に康孝さんにふさわしい存在になりたいと強く思いながら小さく息を吸う。
「直訳は“イギリス人の家は彼の城である”です。ですが、同時にこれは英国貴族の間で伝統的に使われてきた表現の一つです」
「では、この言葉が意味するところは?」
「面会するには事前に約束を取りつけるのが紳士淑女の最低限のマナーだ、という意味です」
「そのとおり。さすがは珠希くんだ」
「いえ、」
否定しかけた僕の腰を康孝さんがグッと引き寄せた。
(そうだ、ここで謙遜してはいけない)
そんなことをすれば褒めてくれた康孝さんを否定することにもなる。そう思い「ありがとうございます」と答えると、康孝さんがにこりと微笑んだ。
「語学はその国の文化や考え方を色濃く反映する。単語の意味だけでは推し量れないこともある。そういう意味では我が国の言葉も複雑だ。言葉そのものの意味で受け取っていいものか考えさせられることは多い」
康孝さんの顔から笑みが消えた。まるで彫像のような美しい顔が兄たちを見据える。
「珠希くんはわたしの唯一の伴侶だ。わたしと珠希くんとの結婚で不動家と鳴宮家は縁戚になる。だが、親しい仲にも礼儀ありという言葉があることを忘れてもらっては困る。わたしからもAn Englishman's house is his castleという言葉を贈ろう。だが、必ずしもきみたちにとってよい返事がもらえるとは思わないことだ」
兄が息を呑むのがわかった。
「もう一つ、珠希くんはすでにわたしの伴侶同然だ。不動家の花嫁を貶めることは不動家の人間を貶めるということだと覚えておくように。あぁ、これは言葉のままの意味で受け取ってくれてかまわないよ」
離れたところから上の兄が足早に近づいてくるのが見えた。気のせいでなければ顔が引きつっているように見える。
「弟が何か失礼なことでも?」
やや息を乱しながら兄が康孝さんを見た。
「いや、ちょっとした世間話をしていただけだ。そうだ、もう一つ言い忘れるところだった。逆らうことができないのは珠希くんじゃない、きみたちのほうだ。勘違いしないように」
いつになく厳しい康孝さんの言葉に、上の兄がギョッとしたような顔をした。すぐさま下の兄をギロッと睨む。下の兄は唇を噛み締めながら悔しそうな表情を浮かべていた。
「さて、そろそろ我が家へ帰ろうか。そうだ、お父上には近々式の日取りの相談に伺うと伝えてくれないかな」
康孝さんの言葉に上の兄が神妙な顔で「承知しました」と答えた。
「そういえばあなたもそろそろ式を挙げるとか」
「その予定です」
「では、そのときはわたしたち二人揃って顔を出すことにしよう。不動家の人間としてね」
「……ありがとうございます」
「それでは、また」
康孝さんが歩き出した。僕は腰を抱かれたまま促されるように隣を歩く。いつの間にか注目を浴びていたようで、あちこちからヒソヒソと囁く声が聞こえてきた。いつもならその声が気になって仕方がないけれど、僕はもう気にしたりしない。
(鳴宮の家にいたときの僕のままではいたくない)
今日、この場で僕は変わるのだ。卑屈なだけの僕のままではいられない。そう決意しながらちらりと振り返る。大勢が僕たちを見ているなか、部屋の奥でこちらをじっと見る父の姿があった。僕は頭を下げ、大広間を出た。
玄関に到着すると、使用人が慌てたように「お車を呼んでまいります」と外に出ていった。それを見送る僕の手を康孝さんがそっと握る。
「これでわたしと珠希くんが正式に結婚するのだと誰もがわかったことだろう」
「え……?」
「珠希くんが離れに住んでいることを勘繰る人たちがいるようでね。ただ二人きりになりたいからだというのに、まったく困ったものだ」
最後の部分に顔が熱くなるのを感じながら「そうだったのか」と納得した。だからだから兄や婚約者はあんな話をしたのだろう。
「でも、もう大丈夫だ。珠希くんが心配することは何もない。それに上のお兄さんとはうまくやっていけそうだしね」
そう話す康孝さんは先ほどとは違い優しい笑みを浮かべている。
「下のお兄さんは……まぁ、弟を御せないようじゃ家を継ぐのは難しいだろう。なんとかすると期待しておこうか」
無言で見上げる僕に、康孝さんがいつものように微笑みかけてくれる。
「あとは鳴宮の人たち次第だ。余計なことさえしなければ不動が口を出すことはない。まぁ、あれだけはっきり伝えておけば鳴宮の人たちも珠希くんへの接し方を変えるだろう。きみはもう鳴宮の人間じゃない。不動家の、わたしの伴侶だ。大事な伴侶を傷つけられて黙っていられるほどわたしは寛容ではないし腑抜けでもない」
「康孝さん……」
もしかして今回のパーティに参加したのも、そうしたことを鳴宮の家族に示すためだったのだろうか。
(……康孝さんはやっぱり優しい)
来たときはこの玄関に入る前に足が止まってしまった。でも、もう大丈夫。僕はもう過去を振り返ったりはしない。鳴宮でのことは今夜ここにすべて置いていくことにしよう。すぐには無理かもしれないけれど、そう思うことが大事なのだ。
『きみはもっと自信を持つべきだ。鳴宮の家でのことはすべて忘れ、生まれ変わる時が来たんだよ』
康孝さんの声が蘇る。僕は生まれ変わりたい。康孝さんのために、いいや、そうじゃない。僕自身のためにも生まれ変わるんだ。
玄関前に黒塗りの車が停まった。運転手が後部座席のドアを開けて待っている。
「さぁ、わたしたちの家に帰ろう」
「はい」
一歩踏み出すたびに車が滲んでいく。これは僕がかつてここで流した涙とは違うものだ。この涙は過去の僕の残滓で、生まれ変わるために流すべき涙に違いない。
先に僕が後部座席に乗り、続けて康孝さんが乗り込んだ。ドアが閉まった車内はとても静かで、大広間でのざわめきどころか通りの音さえ聞こえてこない。車が静かに走り出した。鳴宮の家から不動の屋敷までは一時間弱といったところだろうか。視線を窓の外に向けながら何度か目尻を指で拭う。
「珠希くん」
「は、はい」
呼ばれて慌てて何度か目を瞬かせた。もう大丈夫、涙は出ない。そう言い聞かせ、微笑みながら振り返る。
「わたしの前でまで我慢する必要はないよ」
「え……?」
「強い珠希くんも好きだけど、同時に弱い珠希くんを抱きしめたいとも思っているんだ」
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」
「本当に?」
「……まだ、あれこれ思い出すことがあるかもしれませんけれど、それでも大丈夫だと思えるようになりました」
「それならいいけど」
優しく微笑む康孝さんの大きな手が、包み込むように僕の手を握った。
「珠希くんはわたしが選んだ唯一の人だ。そしてわたしもきみに選ばれた唯一だと思っている。そう思っていてもかまわないかい?」
「僕のほうこそ……そう思ってもいいですか?」
「もちろんだ。わたしと珠希くんは互いに唯一の存在だ。これは一生変わらない」
康孝さんの言葉が体の隅々まで行き渡る。言葉とともに康孝さんの想いが染み渡り心がふわりと軽くなった。
(僕は康孝さんと一緒に生きていく)
もう迷ったりしない。こんなにも想ってくれている康孝さんの言葉を信じ、堂々と康孝さんの隣を歩こう。この日、僕は鳴宮の呪縛から少しだけ解放されたような気がした。




