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父への挨拶は大広間についてすぐに康孝さんと一緒に済ませた。ちょうど隣に上の兄もいたので両方に頭を下げる。けれど父も兄も僕を見ることはなく、終始康孝さんに顔を向けたまま話をしていた。
僕はそのことに正直ホッとした。以前のように父や兄から何か言われるのが怖かったからだ。父の顔を見るのが怖い。兄の目を見るのが怖い。もう大丈夫だと思っていたはずなのに、長年抱いてきた気持ちは家を離れても消えることはなかった。僕は父や兄の顔を見ることができないまま、胸のあたりに視線を向けて話が終わるのをじっと待った。
あのとき、下の兄がいないことには気づいていた。だからといって顔を合わせることはないだろうと思っていた。上の兄より下の兄のほうが僕へのあたりが強く、向こうからわざわざ近づいてくることはあり得ない。もし声をかけられるとしても康孝さん目当てで、康孝さんに直接声をかけるだろうと思っていたからだ。
(そう思っていたのに、どうして僕に声をかけてきたんだろう)
チラッと康孝さんのほうを見る。相変わらず大勢に囲まれたままだからか姿は見えない。それでも会場で一番賑わっている輪を見れば中心に康孝さんがいることは一目瞭然だ。もし康孝さんと話をしたいのなら輪の中に入ればいい。兄はパーティを主催する父の息子なのだから、周囲も道を空けてくれるはずだ。
それなのになぜ僕に近づいてきたのだろう。そう思っていても僕から尋ねることはできなかった。Ωである僕が勝手に話しかけることを兄がよしとしていないからだ。
「婚約破棄されなくてよかったな」
婚約破棄という言葉にドキッとした。一年も結婚式を延期した僕は康孝さんに婚約解消を申し渡されてもおかしくない状況だった。そのことを思い出し、指が震える。
(それどころか僕のほうから婚約破棄しようとしていた)
康孝さんに恋人がいると一方的に思い込み、勝手なことをしようとした。もしあのとき康孝さんに声をかけられていなければ、いまごろ婚約破棄を申し出ていたかもしれない。
(……僕はなんてことを考えていたんだろう)
すべて終わったことだというのに、兄の指摘に愚かな自分の行動を思い出して指先が冷たくなる。
「一年もかかるなんて想定外だったが、おまえが不動家に嫁入りすれば鳴宮はもっと大きくなる。ようやくおまえも家の役に立ったな」
役に立ったと言われ、腕がビクッと震えた。「おまえは役立たずだ」と言われ続けてきた日々を思い出し胃のあたりがキュッと縮む。「家のために高貴なαの目に留まれ」、「鳴宮の家を本物の華族にするために華族のαに嫁げ」、そう言われ続けたことが蘇り胸がズキンと痛んだ。
(すっかり言われ慣れたと思っていたのに……違う、そうじゃない。慣れたんじゃなくて慣れようとしていただけだ)
久しぶりに投げつけられた言葉に心が抉られるような気がした。少しずつ消え始めていた劣等感がじわりじわりと蘇る。「僕は役立たずのΩだ」とくり返し思ってきた言葉が頭の中に浮かんでは消えた。
(……違う。僕はもう役立たずなんかじゃない)
「珠希くんはわたしにとってかけがえのない大事な存在だ」という康孝さんの言葉が聞こえた気がした。康孝さんに役立たずだと思われていないのなら、それでいい。鳴宮の家でどう思われていようとも気にしなければいいだけだ。
(……でも、本当にこんな僕が康孝さんと結婚していいんだろうか)
兄の言葉はそのまま周囲の僕に対する言葉だ。屋敷に到着したとき聞こえてきた声もそういう内容ばかりだった。いくら僕が変わろうとしても僕への評価は変わらない。そんな僕との結婚は康孝さんにとって迷惑なだけじゃないだろうか。僕は本当に康孝さんの隣にいてもいいんだろうか。体の前で組んでいた両手にギュッと力が入る。
「おい、返事くらいしたらどうなんだ?」
声を出そうとして喉がキュッと詰まった。視線を上げることもできず、両手をさらにぎゅうぎゅうに握り締める。
「相変わらずどうしようもない奴だな」
「そんなことを言ったら可哀想よ」
女性の声に肩がビクッと震えた。いまのは兄の婚約者の声だ。鳴宮と同じ新華族のαで、兄弟が帝室と血縁関係にある華族を伴侶に得たと少し前に話していたのを思い出す。鳴宮の家族は許嫁の家が高貴なΩを娶ることができてよかったと我が事のように喜んでいた。あのとき僕を見ながら「Ωでも血筋が違うとこうも違うのね」と話していた婚約者の声が蘇り、喉がごきゅっと嫌な音を立てる。
「無事の婚約継続、おめでとう。あら、こういう言い方はよくなかったかしら」
僕は兄よりもこの人のほうが苦手だった。兄と同じようにΩへの当たりが強いというだけでなく、Ωそのものを嫌っているように感じるからだ。
「そういえば結婚式もまだなのに不動の屋敷に住んでいるそうね? さすがはΩ、やることが大胆だわ」
「父さんは反対したらしいけどな。ま、引き受けるということは必ず結婚するということだろうし、それなら鳴宮の家にも迷惑はかからないと判断して了承したんだろう」
「それもあるでしょうけど、これ以上延期されてはたまらないと思われたんじゃなくて?」
「あぁ、そうかもな。不動家は華族の中でも別格だ。せっかくの話をこいつの我が儘で潰されでもしたらたまったもんじゃない。不動家と縁続きになれば鳴宮も晴れて古き良き華族の仲間入りだ。これで新華族だの成り上がりだの鬱陶しいことを言われなくて済む」
「あら、あなたは大丈夫よ。わたしが伴侶になるんですもの。わたしは帝室とも縁がある華族になったのよ? その伴侶を馬鹿にするのはわがしが許さないわ」
顔を見なくても、真っ赤な紅をひいた唇を三日月のような形にして笑っているのがわかった。僕を見るとき、いつもそういう表情をしていた。美しくも恐ろしいあの顔を見るたびに冷や汗をかいていたことを思い出し、背中を嫌な汗が流れ落ちる。
「弟は不動家に嫁ぎ、俺はやんごとなき華族の仲間入りを果たしたきみを迎える。そうか、そう考えると兄さんより俺のほうが格が上ということになるよな? うまくやれば鳴宮の跡は俺が継ぐことになるかもしれないぞ」
「それもいいでしょうけど、せっかくならもっと大きなことをしたいわ。そうね、いっそ鳴宮の分家として独立して本家より大きくなるのもいいんじゃないかしら。鳴宮のお父様は旧大陸ばかりご覧になっているようだけど、これからは新大陸だと思うの」
「たしかに父さんの後ろを付いて行くだけじゃあつまらないな」
「でしょう? わたしたちも新規事業を立ち上げましょうよ。新しい国と取引するにしても、わたしの生家と鳴宮の財力、それに不動家の名前があれば確実に成功するわ」
楽しそうに話す二人の会話に胸が悪くなってきた。僕自身はどう思われてもかまわない。僕が誰と結婚しようと兄たちにとって役立たずのままでもかまわなかった。でも、康孝さんを巻き込むのだけは我慢ならない。僕と結婚するせいで康孝さんまで利用されるのは嫌だ。握り締めた手のひらに爪が食い込む。
「そういえばおまえ、英語を習い始めたんだってな」
「まぁ、Ωが英語を? 本当に?」
「不動家は英国との付き合いが長い。それを知ってのご機嫌取りだろう。Ωが英語を使う機会なんてあるはずないのにご苦労なことだ。ま、せいぜい鳴宮の家のために旦那様の心をしっかり掴む努力を忘れないことだな。もし別のΩに心移りでもされたら目も当てられない。わかってるだろうが、出戻りなんてできると思うなよ」
「うなじを噛まれたΩは出戻りなんてできないわよ。……あら、まだ首飾りをしているということは噛まれていないのかしら。同じ屋敷に住んでいるのに噛まれないなんて、おかしな話ね」
不出来なΩだから噛んでもらえないのだろうと言わんばかりの言葉に唇をグッと噛み締める。うなじを噛まないのは康孝さんの優しさだ。これまでの僕の状況を案じて心が安まるのを待ってくれている。結婚式の日取りを決めかねているのも僕の体調を慮ってのことだ。
(康孝さんは念には念をと言ってお医者様まで呼んでくれた)
でも、そのことを鳴宮の家族は知らない。いや、たとえ知っていたとしても僕の都合や体調を気にする人たちじゃない。
「そういえば珠希さんが住んでいるのは本宅じゃなくて離れだと聞いたのだけれど、本当なの?」
「父さんにはそう説明したらしい。なんでも新居ができるまでの仮住まいなんだそうだ」
「それって本当かしら。もしかして離れに住まわせておいて、新居には本命の……って、ごめんなさい。式を挙げる前だというのにこんな話をすべきじゃなかったわね」
クスクス笑う婚約者の声に反論することさえできない。手足も顔も冷たくなり、何か話そうにも喉まで冷え切ってうまく声を出すことができなかった。段々と冷たくなる体につられるように気持ちも真っ暗になっていく。
「An Englishman's house is his castle」
突然の英語にハッとした。一瞬だけ顔を上げたものの、兄たちの視線に耐えられずすぐに俯く。
「いまの意味、おわかりになって? あなたは不動のお城には入れず離れにいる。だからといって役目を疎かにしてはいけないわ。鳴宮のために、わたしとお兄さんのためにしっかりと務めを果たしてもらわないと困るもの」
「それは大丈夫だろう。昔からこいつは俺たちに逆らうことはできないんだ」
「そうだったわね。それなら安心だわ」
二人が笑っている。その声は鳴宮の、この屋敷で何度も聞いてきたものそのままだ。
(……僕はこれからも鳴宮の家から離れることはできない)
黒いもので胸が押し潰されそうになる。昔の癖で唇をグッと噛んだとき、肩をポンと叩かれてビクッと震えた。
「わたしの大事な伴侶と話しているのは誰だろうと思ったら、きみだったのか」
僕の隣に現れたのは、輪の中にいたはずの康孝さんだった。




