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いよいよパーティ当日になった。生まれ育った家に行くというのに落ち着かない。妙に緊張してしまうのは父や兄たちと久しぶりに顔を合わせるからだろうか。
「あぁ、よく似合っている」
部屋に入ってきた康孝さんがそう言いながら目の前に立った。僕の両手を取り、「珠希くんの雰囲気にぴったりだ」と微笑む。
「いや、こんなことを言っては見立てたわたしの自画自賛になってしまうかな」
「そんなことありません。康孝さんに見立ててもらってよかったです。こうした色合いのスーツは初めてですけど、鳴宮の家から持って来たスーツはもう出番がないかもしれません」
「あのスーツは生地はいいが色味が少しね。珠希くんにはこういうはっきりした色が似合うと常々思っていたんだ」
康孝さんが仕立ててくれたスーツは濃い紺色で、鳴宮の家では兄たちがよく選んでいた色だ。「せめて華やかに見えるようにしろ」という父の命令のもと僕用に仕立てられたスーツは淡い灰色や薄い紺色が多く、それにはっきりした色のタイをあてがわれるのが常だった。それどころかレースのついたポケットチーフを用意されたこともある。
(見た目が華やかな人なら似合うだろうけど、僕には馬子にも衣装というか……)
身だしなみを整えるために鏡を見るのがいつも苦痛だった。似合いもしない服装に何度ため息をついたことだろう。でも、康孝さんが見立ててくれた服は違う。顔立ちが変わるはずもないのに、以前より大人びた品の良さを感じるのはどうしてだろう。
(僕自身よりも、康孝さんのほうが僕に似合うものを知っている気がする)
それが嬉しくて、下ろし立てのパリッとしたシャツの胸元にそっと触れた。
(最近ではスーツもシャツも種類が増えたという話だけど、僕にはこうした普通の形が安心できる。きっと康孝さんは僕がそう思っていることもわかっていてこの形を選んでくれたのだろう)
ひと昔前は、外国からもたらされた燕尾服に山高帽やステッキがパーティでの主流だった。そうした服を着る人はいまは少なく、兄たちがパーティに顔を出すようになった頃にはほとんど現在のようなスーツ姿に変わっていたと聞いている。それどころかいまやスーツも様々な形のものがあり、ご婦人方が好むようなレースを胸元にあしらったシャツを合わせる人もいた。
年配の人たちは原点回帰だといってあえて和装を選んだり、軍の関係者なら式典用の軍服というのも増えている。そうしたパーティでの服装は外国の人たちから見ると興味深いらしい。そこに目を付けたのが父たちで、この国で流行しているスーツを外国に輸出する事業を上の兄が始めたのは数年前のことだ。
康孝さんも僕と似たような形のスーツを着ている。艶のある漆黒の生地は康孝さんの美しい顔にとてもよく似合っていて、そこはかとなく色気のようなものも感じた。
「康孝さんこそ、とてもお似合いです。黒をこんなに素敵に着こなす方は初めて見ました」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
そう言って僕の額に触れるだけの口づけを落とした。
「さぁ、行こうか」
「はい」
あれほど気鬱だったパーティなのに、差し出された康孝さんの手に触れただけで不思議と気分が落ち着く。康孝さんが隣にいれば、きっと大丈夫。僕は少し緊張しつつ、康孝さんとパーティに行くのだという高揚感のほうを強く感じながら車に乗った。
やって来た鳴宮の屋敷は、どことなく余所余所しい感じがした。屋敷を出てひと月ほどしか経っていないはずなのに、まるで何年も訪れていないような気さえする。毎日のように出入りしていた玄関が目に入り、パーティから帰ってきたときの重苦しい気持ちが蘇った。思わず足を止めてしまった僕に、康孝さんがすぐに気がつく。
「珠希くん、手をここに回して」
そう言って康孝さんが左腕を直角に曲げた。もしかして腕を組もうということだろうか。そうしたことをする人たちが増えていると聞いたことはあるけれど、自分がするには敷居が高すぎる。それに大勢に見られている状態でそんなことをとためらう気持ちもあった。
どこからか「ほら、あれが鳴宮の末っ子の」だとか「一年も待たせたのに婚約破棄されなかったのね」だとか聞こえてくる。中には「式も挙げていないのに不動家に住むなんて」や「厚かましいにも程がある」という声もあった。自分が周囲からどう見られているかなんて最初からわかっているのに、足がすくむように動かなくなる。
以前の僕ならすぐにレストルームへ逃げ込んだだろう。でも、そんなことはもうしない。僕は康孝さんの隣に立つことを決め、康孝さんもそれを望んでくれた。だからしっかりと顔を上げて堂々と前を向くべきだ。そうしなければ僕を選んでくれた康孝さんに対しても失礼になる。
唇をクッと真一文字にし、俯きそうになった顔をグッと持ち上げた。真正面を見ながら「大丈夫、僕は康孝さんの婚約者なんだから」と自分に言い聞かせる。
「康孝さんと僕が腕を組んで現れたりしたら、鳴宮の家族は驚くと思います」
「驚かせてやればいいさ。むしろわたしと腕を組んでくれる珠希くんを自慢したいくらいだ」
ちろっと横目で僕を見た康孝さんがパチンと片方だけ目を閉じた。初めて見る仕草に、外国で見たと先生が教えてくれた“ウィンク”という言葉を思い出す。まさかそれを康孝さんがするとは思ってもいなかったからか、思わず目を見張ってしまった。
「似合わないかい?」
そう言って笑った康孝さんは、まるで悪戯が成功したような顔をしていた。
(もしかして、僕の緊張を和らげてくれようとして……)
なんて優しい人だろう。おかげで肩の強張りが解けた。こんなにも素敵な人が僕の婚約者だなんてもったいない、いまさらながらそう思った。いや、こんなことを思うのも康孝さんに失礼だ。そう指摘してくれたのは先生だった。
――康孝様にしていただいて嬉しいと思ったのなら、同じだけ康孝様が喜ぶことをして差し上げればよいのですよ。
先生の言葉が蘇る。先生からは英語だけでなく様々なことを教えてもらっている。これまで僕が学んできたΩの考えとはまったく違う話に驚くこともあるけれど、僕は先生のようなΩになりたいと思うようになっていた。そう思える素敵な先生を紹介してくれた康孝さんには感謝してもしきれない。
「いつもありがとうございます」
そうつぶやいてから、康孝さんの左腕に添えるように軽く手を巻きつけた。そのまましっかりと前を見ながら大広間へと向かう。
部屋に入って最初に抱いたのは「なんて派手なんだろう」という感想だった。「こんなにキラキラしたものばかりだっただろうか」と思いながら部屋を見渡す。
大々的なパーティを開くことは少なかったものの、お茶会など頻繁に開いていた大広間はどこもかしこも煌びやかだった。何度も入ったことがある部屋だというのに、なぜか落ち着かず初めて訪れたような気分になる。
(こうした部屋より、いま住んでいる離れの建物のほうが好きだな)
今上帝より二代前の帝の御代に建てられたという建物は、外観は洋風に作られているものの中には和室や床の間もあり、茶室を兼ねた部屋もある。屋敷と呼ぶには小さいものの二人で住むには広すぎるほどで、居間から見えるこぢんまりとした和風の庭園を眺めるのが密かな楽しみになりつつあった。
(……早くあの家に帰りたいな……)
浮かんだ言葉にハッとした。家を出たとはいえ、僕はまだ鳴宮の人間だ。それなのに生家であるはずの家ではなく不動家の離れに帰りたいなんて図々しすぎやしないだろうか。
康孝さんの腕に触れている手に力が入る。それに気づいたのか、康孝さんが少しだけ身を屈めて「今日の珠希くんはとても素敵だ」と囁いた。顔が熱くなるのを感じながら「康孝さんもとても素敵です」と答えると、美しい顔がはにかむように笑う。それだけで僕の中に広がり始めていた重苦しいものが少しずつ消えていく。
(僕は大丈夫です)
声に出さずそう思いながら微笑んだ僕に、康孝さんは「わかっているよ」と答えるように頷いてくれた。僕は大丈夫、これまでの僕とは違う。康孝さんの婚約者として立派に務めを果たそう。いまの僕にならそれができるに違いない。僕は生まれて初めて自信のようなものを感じながら会場の中へと足を進めた。
(きっと大丈夫……そう思っていたんだけど、やっぱり一人だと不安になる)
康孝さんは少し離れたところで大勢の挨拶を受けている。不動家のことを考えればこうなるのは当然だ。誰もが不動家の次代を担う人物として康孝さんに注目し、お近づきになりたいと声をかける。そうした人たちと言葉を交わし付き合うべき相手か見極めるのは康孝さんの役目であり、もちろん僕もそのことはわかっている。
僕も倣わなくてはと思い、最初は康孝さんの隣に立っていた。ところが次第に取り囲む人たちの数が増え、人混みに慣れていない僕は立ちくらみしそうになった。
「あの、喉が渇いたので飲み物をいただいてきます」
そう囁いてそばを離れてどのくらい経っただろうか。オレンジジュースを飲み終わっても人垣が消えることはなく、再びあの中に入る勇気のなかった僕は少し離れたところで見守ることにした。
(それにしても康孝さんの人気はすごいな)
噂には聞いていたけれど、こうして実際目にするのは初めてだ。僕でも顔を知っている帝室と繋がりがある華族や富豪の当主までもが挨拶しようと康孝さんの元にやって来る。
(不動家がすごいことは知っていたけど、康孝さん自身もこんなにすごい人だったんだ)
そう実感したからかますます不安になってきた。本当に僕が康孝さんと結婚してもいいのだろうか。慌てて「そんなことを考えては駄目だ」と思ったものの、長年感じてきた劣等感が頭をもたげ始める。さらに僕が不安になったのは、康孝さんに熱心な眼差しを向けるΩが多いことに気づいたからだ。
(康孝さんくらい美しく優れたαなら、伴侶じゃなくてもいいから恋人になりたいと願うΩがいてもおかしくない)
実際、そういう付き合いをするαとΩは少なくない。パーティに恋人を同伴する人もいるくらいで、愛妾が許されていた時代の名残だと思っている華族はいまでも多かった。そうした風潮があるからか表立って咎める人はほとんどいない。そうしたこともあって、婚約者である僕が近くにいるにも関わらず秋波を送る人が多いのだろう。
暗くなる気持ちをなんとかしようとお腹にグッと力を込めた。そうしながら余計なことを考えたら駄目だと自分に言い聞かせる。
(大丈夫、僕はもう以前の僕じゃない)
改めてそう思ったところで「来てたのか」という声がした。
声が聞こえた瞬間、背中をぞわっとしたものが這い上がった。胸が一気に苦しくなり、一瞬だけ呼吸が止まったような気がする。それでも振り返らないわけにはいかない。ゆっくりと体を動かし、顔を見ないように胸元あたりに視線を向けつつ頭を下げる。
「ご無沙汰しています、兄さん」
「相変わらず辛気くさい顔だな」
「……すみません」
声をかけてきたのは僕の二番目の兄だった。