10
思わず「はぁ」とため息をついてしまった。その口を慌てて右手で隠す。向かい側の一人掛けソファに座る康孝さんをそっと見たけれど、今朝届いた新聞に目を通していてため息に気づいた様子はない。そのことにホッとしつつ、手にした招待状をもう一度見た。差出人の名前を見るだけでまたため息が漏れそうになる。
(さすがに断るわけにはいかないか)
招待状は鳴宮の家から届いたものだ。今週末、鳴宮の屋敷でパーティを開くと書いてある。大陸に新しい会社を設立するのを祝うパーティだと書かれているが、僕にまで招待状を寄越したのは“不動家の嫁”という立場で来いということなのだろう。
事業は順風満帆、そのうえ息子が不動家に嫁いだとなればこれほどの宣伝はない。鳴宮の家を離れてもなお家のために役に立てと言われているような気がして気分が滅入る。
「どうかしたかい?」
「……いえ」
招待状をテーブルに置き、微笑みながら康孝さんを見た。僕の気持ちなんてとっくにお見通しの康孝さんが、「わたしも一緒だから心配はいらないよ」と微笑む。
「……すみません」
「うん?」
「鳴宮の我が儘に康孝さんを巻き込むことになって、申し訳なく思っています」
「珠希くんは何も気にしなくていい。それに家同士のつき合いはこれからも続くからね」
「そう、ですね」
華族の結婚は個人ではなく家同士の繋がりを意味する。だから華族は新華族を毛嫌いしていた。理由は由緒正しい自分たちの一族に成り上がりの家を入れたくないからだ。それでも少しずつ新華族との結びつきが増えてきているのは経済的な理由にほかならない。
(でも、いまの不動家に鳴宮の財力は必要ない。それなのに鳴宮ばかりが一方的に不動家の名前を利用するなんて……)
康孝さんに申し訳なくて仕方がなかった。こういうことは僕が鳴宮の家に強く言うべきなんだろうけれど、父や兄たちが聞く耳を持ってくれるとは思えない。それより僕が余計な口出しをしたことで康孝さんに迷惑をかけてしまうんじゃないかと、そちらのほうが心配だった。
(ただでさえここに越してきたときに康孝さんには迷惑をかけたのだし)
出て行くときの父の様子を思い出し、膝に置いていた手にギュッと力が入る。おそらく父は康孝さんの申し出を快く思っていなかったに違いない。結婚式まで僕をパーティに出席させ、社交界での鳴宮の地位を上げる目論見が外れたからだろう。
(それに、僕だってずっと結婚式を延ばしてもらっていたのだし……)
それだけでも康孝さんには相当迷惑をかけていたはずだ。余計なことをしてこれ以上康孝さんの手を煩わせたくはない。
「珠希くんは何も心配しなくていい」
テーブルに新聞を置いた康孝さんがソファから立ち上がった。そのまま僕の隣に来ると「わたしに任せておいて」と言いながら隣に座る。
「でも……」
「大丈夫。それに初めて珠希くんと一緒に出かけるパーティだ。内心楽しみで仕方がないんだ」
顔を上げると優しい笑顔があった。
「ここに来てすぐに仕立てを頼んだスーツもできあがった。あれを着た珠希くんをエスコートできるのかと思うと楽しみで仕方がないんだ」
「楽しみ、ですか?」
「わたしの婚約者はこんなに可愛いんだと、ようやく大勢に自慢できるからね」
「そ、そういうのはあまり……」
「気負わせてしまったなら申し訳ない。でも、自慢したくて仕方がないわたしの気持ちも少しだけわかってほしい」
膝に乗せていた僕の手に康孝さんの大きな手が被さるように触れる。
「珠希くんがこんなに愛らしいのだと自慢したくて仕方がないんだ。愚かな男の見栄だと呆れてくれてかまわない」
「愚かだなんて、そんなこと思ったりしません」
「ありがとう」
康孝さんの指がくすぐるように手の甲を撫でた。それにゾクッとしてしまう僕のほうこそ浅ましくて恥ずかしい。
「珠希くんを見たら、なぜわたしが一年も結婚式を待ち続けているか大勢が理解してくれるはずだ。それにわたしがどれだけぞっこんかもね」
「そんなことは、っ」
中指と薬指の股のところを擦るように撫でられて言葉が詰まった。ただ撫でられているだけなのに背中に甘い痺れが走る。
「心配なのは珠希くんを見て懸想する輩が出ないかだが、そこはわたしが全身全霊で守るから心配する必要はないよ」
「心配、なんて、」
今度は人差し指と中指の間を撫でられた。そのまま関節をたどるように人差し指の先から付け根まで撫でられる。たったそれだけなのに、「ん」と鼻から抜けるような息が漏れてしまい慌てて唇を噛み締めた。
ところが康孝さんの指は止まらなかった。手の甲から手首に移った指が、今度は手首の内側を撫で始める。内側のほうが皮膚が薄いからか康孝さんの指がやけに熱いように感じた。それとも僕の体が熱くてそんなふうに感じているのだろうか。手首を撫でていた指が手のひらに移り、くすぐるように爪で引っ掻かれて肩がびくっと震える。
「康孝、さん、」
「珠希くんは何も気にしなくていい。わたしが唯一だと求めたのは珠希くんだけなのだから」
「あの、手を、んっ」
「それに鳴宮の人たちにもそろそろ理解してもらう頃合いだ」
指を絡めるように手を繋がれたかと思えば、急に美しい顔が近づいてきてハッとした。
「きみは不動康孝にとってかけがえのない唯一だと知らしめておかなくてはね」
耳元で囁かれ、触れた熱い吐息にうなじがカッと熱くなった。鼓膜を揺らす低い声にお腹の奥がジンと痺れる。何か大事なことを言われた気がするのに、康孝さんの艶やかな声に酔っ払ったような状態でうまく頭が動かない。僕は返事をすることもできず康孝さんの肩にコテンと寄り掛かってしまっていた。
「そういえば英語の勉強は順調に進んでいるようだね」
「は、い。先生が、とても上手に、教えてくださるから、」
指を絡めたまま手を持ち上げた康孝さんが、指先に一本ずつ口づけを始めた。熱い唇が触れるたびに痺れが腕を駆け上がり、口から甘いため息が漏れてしまう。
「相性がよかったのかな。彼のように自立したΩは周囲から鬱陶しがられることも多い。だが、Ωだからという理由だけで本人の才能や優れた部分を見ようとしないのはよくないことだ。この国もいずれ変わっていくだろうが、過渡期というのは渾沌としていて不合理なことも多い」
「先生、は、とても素敵な、方だと、思います」
「そうだね。でも、きみも十分素敵だ」
「そ、な、こと、」
「珠希くんはもっと自信を持っていい。語学のセンスも華族としての立ち振る舞いも恥じるようなところは何一つない。すべてきみの才能や努力の結果だ」
「んっ! 康孝、さん、手を、」
「きみはもっと自信を持つべきだ。鳴宮の家でのことはすべて忘れ、生まれ変わる時が来たんだよ」
指先への口づけがようやく止まった。ところが今度は指を絡めていない手が僕の頬に触れる。すぐそばにいるからか、康孝さんの香りをいつもより強く感じた。
(なんていい香りだろう)
この香りを嗅ぐだけでホッとする。同時に、そわそわと落ち着かない気持ちや顔が火照るような気恥ずかしさもあった。それでもこの香りをずっと嗅いでいたと強烈に思った。
(僕は、これからもこの香りに包まれていたい)
康孝さんのそばにいたい。康孝さんが向いている先を僕も一緒に見ていたい。健やかなるときも病めるときも康孝さんの隣にいたいと心の底から願った。
「きみは自分が思っているよりずっと素敵な人だ。わたしのほうが置いていかれないか心配になるくらいにね」
「そんなこと、僕のほうこそ置いていかれないように、必死です」
「はは、つまりわたしたちは切磋琢磨し合う伴侶ということだ。なんて素敵な関係だろうね」
「……そうなれれば、いいんですけれど」
「もうなっている」
「え?」
「珠希くんにそっぽを向かれないように、わたしも日々必死なんだ」
「……僕がそんなこと、するはずありません」
「そうあってほしいと心から願っている」
ふわふわした頭のまま必死に返事をした。そんな僕に微笑んだ康孝さんの顔が近づいてくる。僕はゆっくりと目を閉じると、ほんの少しだけ身を乗り出すように顎を上げた。
(僕には康孝さんだけです)
唇に触れる康孝さんの熱に切なくなるほどの愛しさを感じた。