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その理由は、まだわからない


「部屋はお気に召しましたか?」


 背後から届いた声に、わたしは驚いて振り返った。


 そこにいたのは、あの人——テオフィロ王子だった。

 淡い灰色の瞳が、静かにわたしを見つめていた。


「……立派すぎて、少し落ち着かないくらいです」


 わたしはそう答えて、言ったあとに少し後悔した。

 遠まわしな嫌味のように聞こえたかもしれない、と。


 だが王子は苦笑すると、


「それは良かった。落ち着きすぎるのも、退屈でしょうから」


 気にしていない口ぶりで言う。

 それはまるで古い友人に話すような口調で、ちょっと驚いてしまう。


 気さくすぎるのではないか、と彼に対して。

 そして、それを不快に感じなかった自分に対して。


「……お気遣い、ありがとうございます」


 少しだけ視線をそらして答えると、彼はひとつ頷いてから、窓越しの庭へ目を向けた。


「あの奥のあたりでそろそろ咲き始めてる薄い紅い花は……そちらの国で育てられていた品種で間違いありませんか。 庭の世話をしている者たちは、我が国の気候では育ちづらいと言っていたが、どうしても植えたくて無理を言いました」


(え……)


 言われて、わたしも目を凝らす。


 すると、確かに見覚えのある花がぽつりぽつりと咲き始めていた。

 実家で、そして城の庭で、王都で。ひっそりと咲いていた、淡い桃色の花。

 わたしは子どもの頃から、この花が咲く時期を毎年楽しみにしていた。

 けれど……。


「……どうして、それを……?」


 尋ねずにはいられなかった。

 きっと、失礼なほど怪訝な顔をしてしまっただろう。

 けれど王子は「気に入っていただけたなら、それで十分です」と穏やかに微笑むばかりだ。


 その笑顔は——声は、あまりにも自然で、優しい。

 父王の病に乗じて兄たちを誅殺したと噂されている男とは思えないほどだ。

 計算や下心のない、素の眼差し。言葉。声。

 でも、それがかえって、わたしに警戒心を抱かせる。


(どうして……この人は、こんなに優しいの?)


 わたしは貴族の娘として育ったけれど、誰かから無償の好意を向けられることには慣れていない。

 けれど、目の前の王子から向けられているのは、間違いなく優しさであり思いやりなのだ。

 ()()()()()()()()


(どうして……)

 

 この婚姻は、”何人もいた王子の一人”から”次期国王”へと成り上がった王太子が、大国である成望国との縁を求めての政略結婚だったのではなかったか。


 困惑するわたしをよそに、


「ゆっくりとなさってください。長旅でお疲れでしょう」


 王子は柔らかく目を細めて微笑むと、部屋を出ていこうとする。


「ありがとう……ございます」


 自分でも驚くほど素直な声が出て、慌てて視線を落とした。

 

 彼が去ったあとの部屋は静かだった。

 けれど、不思議と寂しくはなかった。


 飾られている花に、そっと、触れる。

 ひんやりとした花びらと葉の感触。わたしの胸の奥に、小さな灯がともった。


(あの人は、いったい、何を知っているの……?)


 心に浮かぶ疑問と、言葉にできない何かを抱えながら、わたしは、この国で初めての夜を過ごすことになる部屋を、もう一度見渡した。




◇  ◇  ◇



 新しい暮らしは、思ったよりも穏やかに始まった。

 屋敷の侍女たちも、丁寧に礼儀正しく接してくれる。

 ずっと側で仕えてくれている梨静をはじめとする、実家から付いてきてくれた者たちともすぐに打ち解け、今は誰がどちらなのかわからないほどだ。

 

 それでいて、過度の干渉はしてこない。まるで、わたしの内側には踏み込んではいけないと心得ているように。

 ——そう、命じられているように。


 屋敷の中は、いつも心地よく静かだった。

 風が抜ける音、書斎の扉がゆっくり開く音、遠くで誰かが噴水の手入れをしている水音。

 すべてが柔らかく、落ち着いていて——それはきっと、わたしのために整えられた空間だからなのだ。

 

 政略的な婚姻を結ぶために訪れた国だというのに、物心ついてからというもの、これほどゆったりと過ごせたことはないと思えるほどの時間を過ごしている……。


 テオフィロも、相変わらず優しい。

 訪れたときの挨拶、ともに食事をしたときの他愛のないやりとり、ささやかな贈り物。

 派手ではないけれど、すべての言動が思いやりに満ちていた。


 ある日、わたしが庭を歩いていると、彼がそっと現れて、並んで歩き始めた。

 話したのは、


「今日は陽が柔らかいですね」


「ええ」


 それだけ。

 それだけで、会話は途切れた。


 けれど、不思議とその沈黙は重くなかった。

 むしろ、わたしの心を満たしていくようだった。 


 ふと、光を反射した彼の灰青の瞳を見上げる。

 それはまるで、水面に映った、静かな炎のようだった。見つめられるたび、心の奥がじわりと熱くなっていく。

 そして、気づいてしまう。


(わたしは……この人を、信じたくなっている……) 


 気づいた瞬間、胸が軋んだ。

 それは、あまりにも怖い感情だった。 


 戸惑うほどにわたしを丁寧に扱うテオフィロ。

 けれど——おそらく——彼は何も知らないのではないだろうか。

 わたしが、ずっと周囲に疎まれてきた理由を。


 そのとき、この人のまなざしは変わらないままだろうか……?


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