ソーシャルディスタンス
唇を少し噛みほぐしては、想い出はこの写真に溶け込まない事を知る。
戻れないと知った涙は思い出の写真に染みることなく地面へと散った。
ベンチに座って通り過ぎていく人たちを眺めてみる。
大丈夫、俺は知っている。
そう、こんな思いをしているのは俺だけじゃないってこと。
そう、去年の今頃と違って人の顔がよく判るようになったからマシだってこと。
しかし3年という代償は大きい。あいつの顔が思い出せない。
ここを通り過ぎていく人たちは大切な人の顔を覚えているのか?たとえば、その人はどんな顔をしてきた?鼻を高くしてマウントしてきたとか、めんどくさい事情を擦り付けてきた顔とか喧嘩を売ってきた時のうざけた顔とか…恋人の顔だとか。覚えているか?俺は思い出せない。
今から3年前、新型感染ウイルス、目の見えないウイルスのせいで、真面目すぎるあいつはマスクをし始めた。
まるで奴隷のように律儀にあいつはマスクを付けて社会に応じ始めた。
俺はどうしたかって?俺はただ世間をじっと眺めていた。生きているんだから、それは受け入れるべきだと認識していたからな。
ただあいつは、俺が挨拶をしに行くために肩を掴んだだけでも眉間ににシワを寄せては目に見える距離を作った。今だから吐き出すことが出来る…「きっと、ソーシャルディスタンスをとったんだろう」ってな。
俺はカラオケに行きたかった。他に趣味がなかった訳じゃない、ただ歌わなきゃやっていけない日だった。だけどあいつは距離を目に見えてとられるって判っていながらも誘ってみたら、「無理だよ」と一言で片付けた。今なら整理は出来るさ、それは「密室による感染拡大を防ぐため」だったと。
他にも友達が居なかったわけじゃないがあいつに対して腹をたっていたらいつの間にかリモートワークというものが浸透し始めていてあいつとの距離が物理的に程遠くなった。極めつけだったのはネット環境に下地がないために音声の不具合や仕事の割り振りの問題であいつのことを嫌いになってしまったことだ。リモートワークに馴れたらから言える…それは“あいつが悪いのではなく、相手を許せる心の余裕が俺になかった”ことだ!
俺たちとのふたりの間に目に見えぬ距離が出来た。
あいつはもう居ないんだ。
冬なら白い息に変わるため息をこの世界に溢す。そしてまぐれにもふたりで寄ったコンビニが目に入り立ち寄った。
お菓子棚の前にたどり着くと1人しゃがみこみ、緑のキシリトールガムを手に取った。
「そうそう、そういえばよ!キシリトールといえば―」
「はい?」
一瞬の気の迷いなのか、聞き慣れない声が聴こえて硬直する。呼吸の不自然さに気づいては物事の違和感に脳も気づき始め、目線を声のした方に動かしてみた。すると真上に上げれば見知らぬ人がそこに立ち尽くし、顔をしかめているのに気がついた。
俺は思わずなにもなかったようにキシリトールを手にしてお店を飛び出した。自分の手していたことを無意識に忘れたままで。逃げるかのようにお店を飛び出した。
飛び出した―――。
「ちょっとお客さん、」
もちろん、俺は呼び止められる人にきちんと呼び止められた。
思わず店内を飛び出してしまった俺なのだが、肩になにか生暖かい手を感じる・・