【続編】王太子エセルバートは時遊びの逆時計を使って処刑された王太子妃リズを救う【王太子視点】
「もう妃になどなるものですか、私はあなたと楽しく幸せに生きていきたいのです」https://ncode.syosetu.com/n3112hw/の王太子エセルバート視点です。
ちょっと違った視点からどうぞ。
一目惚れだったんだ。
俺はリズにそう言った。結婚して半年でやっと言えたことだった。
リズは驚いた顔をして、それからうつむいた。どうしたのだろうと思ったら、照れているようだった。
ロザリー侯爵家令嬢リズとは、舞踏会で出会った。俺が王太子として初めて舞踏会に出されることになって、俺はそれが嫌で王宮から脱走することにした。たまに息抜きに街へ出るのと同じだ。着飾った礼服は使用人の部屋で着替えればいい、俺はバルコニーの飾りを足場にして伝って、階下に降りる。
どうも、それが舞踏会の会場の窓からリズに見られていたらしい。リズは先回りして、階下の庭先で待っていた。
「あの、エセルバート様?」
俺は飛び上がるほどに驚いた。リズはバレエ人形のように可愛らしく、なのに表情が乏しかった。容姿も立ち居振る舞いも模範的な淑女、見惚れるほどにだ。首元のほくろでさえ彼女の瑕疵にはならない。
リズはバルコニーを降りてきた俺に少しも驚いた様子もなく、何もおかしくはない、とばかりの声色で話しかけてきた。それも含めて、俺は気圧されたのだが。
「あ、ああ、君は?」
「失礼いたしました。ロザリー侯爵家のリズと申します。窓からエセルバート様のお姿を拝見して、つい、追いかけてきてしまいました。申し訳ございません、はしたない真似を」
俺が逃げるところを見ていたから、リズは追いかけてきた。普通に考えれば、俺を射止めようと必死になっている令嬢のような考え方、とも思うのだが、リズがあまりにも淡々と言うものだから、気まずくなることもなく、俺はそのまま受け止めた。
とりあえず、誰かに見つかってはまずい。俺はリズの手を引いて、庭の木陰に移動した。
ここまで来れば、リズも一緒に王宮から脱走してはどうだろう。このまま帰しても、主役不在の舞踏会でリズは手持ち無沙汰だろうし、もし誰かに告げ口をされてはまずい。それに、舞踏会でどこかの貴族の息子がリズを口説く、ということを想像すると、嫌な気持ちになった。
「リズ、ちょうどよかった。甘いものは好きかい?」
「いえ」
「そ、そうか」
「申し訳ございません。厳しく制限されていて、ほとんど食べたことがないものですから」
そんなこと、あるのだろうか。甘い甘い砂糖は貴族たちの大好物だ。高価な砂糖を大量に食すことができるのは一種のステータス、だというのに、リズは食べたことがないと言う。ロザリー侯爵家といえば財産家で有名だから砂糖が買えないほど貧乏ということはないし、リズの言っているとおり淑女教育の一環として禁止されていたのだろう。
何だか、不憫だ。年頃の娘がそこまで躾けられて、と思った。
それに、俺はリズを手放したくない、このまま一緒にいられるよう、口説く。
「よし、分かった。今から着替えて街のカフェに出かけよう」
「しかし、舞踏会は」
「あんなもの、いいんだ。よし、どうせなら弟も誘ってこよう。共犯者に仕立ててやる」
本当は少し距離のある弟レオを誘いたくはないが、王太子を止めなかったとリズが責められる要素を少しでも減らすためだ。王太子と弟王子の二人に誘われては、リズは断れない、そういう話にしておこう。
それに、もしかするとレオと距離が縮まるかもしれないし、という打算もあった。俺にもこのときはレオと仲良くしたいという思いはあって——その思いは結局実を結ばなかったが、俺なりに努力はしていたのだ。
すると、リズはぎこちなく、どこか悲しげに微笑んで、こんなことを言った。
「楽しそうですね。エセルバート様が楽しそうになさっていると、私もそう思えます」
慣れない言葉を使っている、と聞いていて分かった。
彼女は、『楽しい』ということが分かっていない。楽しそうだ、ということは分かる、だがそれだけだ。一体、どんな教育を受けてきたのだろう。ロザリー侯爵家は、彼女にそんな感情さえも与えてこなかったというのか。
貴族の令嬢は、確かに政略結婚の道具だ。しかし、一人の人間でもある。なのにリズは道具として完璧に仕立て上げられた、ただ目当ての男を射止めるために。
胸が締め付けられる。そんなことを強要されて、逃げることも口答えすることもできずに、彼女は舞踏会に送り込まれ、ここにいる。
俺の考えは、傲慢かもしれない。彼女を助けたい、手を差し伸べたいと思った。普段は嫌っている王太子という身分が、彼女を自由にできるのではないか、散々考えた末に、俺はリズのためにできることをしてやろうと決めた。
「リズ」
「はい」
リズは従順に返事をする。まるでよく躾けられた犬のようだ。背を伸ばして、相手を見つめ、言葉を待つ。
だから、俺は言葉をかけることにした。彼女のために、彼女を心から愛していくために。
「いや。リズ、可愛い名前だね。とてもいい名前だと思うよ」
俺は、リズを王太子妃に選んだ。
三年後の悲劇を知っていれば、そんなことはしなかったのに。
遠く、王宮前の広場で王太子妃リズの処刑が行われていた。
彼女への怒声がここまで聞こえてくる。父である国王から自室での謹慎を言い渡された俺は、リズの最期を見届けることも、たった一言声をかけることもできなかった。
彼女は希代の悪女というレッテルを貼られ、数多の冤罪をなすりつけられ、利用されて貶められた。そして、面白おかしく流されたリズの醜聞に踊らされた市民の不満を逸らすために、見せ物の公開処刑で——首を落とされる。
王太子エセルバートは、王太子妃リズに騙されていたのだ。
俺は必死でリズを庇った。冤罪を晴らすために、奔走した。なのに、日を追うごとにリズを非難する声が高まっていく。それが彼女の罪を糺すためではなく、そのほうが自分たちにとって都合がいいから彼女に罪を着せ、大罪人へと仕立て上げたのだ。
それに気付いていても、『悪女に誑かされた可哀想な王太子』は徐々に権力を奪われ、お飾りと成り下がってしまった。
王太子妃がいなくなれば、王太子は正気に戻るだろう。何、戻らなくても優秀な弟王子がいる。そもそも後ろ盾の少ない王太子より、家臣たちが推す弟王子のほうが国をよりよく導ける。
その声は、王宮中から聞こえはじめた。俺に聞こえるように話す者さえいた。やがて国王は、家臣たちの求めに応じ、王太子妃の処刑を命じた。国王としては、可愛がっている王太子をこれ以上非難の声の中に置くのは忍びない、せめて王太子に王太子妃へ向けられた憎悪が及ばないように、と判断したのだろう。
俺はリズと強引に引き離され、二度と会うことはなかった。そして今日、それが確定してしまった。彼女は死罪となり、もう俺の傍に戻ってくることはない。
遠く、鐘の音が聞こえる。すべての処刑が終わり、夜が来る。
俺は、しばらく呆然としていた。無力感、後悔、喪失感、憤り、自責、何もかもが胸の中で混ざって、どうすることもできない。
俺はどうしてリズを助けられなかったのだろう。処刑される前にリズを逃すことさえできなかった。上手くやれば母のように追放で済んだかもしれないのに、俺なんかと結婚したせいで彼女は命を奪われた。
何日、俺はそればかりを考えて、ぼうっとしていたのだろう。最愛の人を守れなかった、殺してしまったことに傷ついて、どうにか現実に戻ってきたときも、夜だった。
俺が三年前のあのとき、一目惚れしたリズを助けたいなどと思わなければ、こんなことにはならなかった。
しかし、時間は戻らない。そう、戻らないはずだ。
「……いや、違う。確か……」
記憶の奥底に釣り糸を垂らしたとき、『時間を戻す』という言葉が引っかかった。
それは幼いころ、父に案内されて宝物庫にある王家の秘宝を見ていたときだ。
王家の者しか入ることを許されていない宝物庫は、代々直系の男子が中に保管されている秘宝のすべてを把握し、引き継いでいく義務がある。だから、俺も父に宝物庫へ連れて行かれて、将来お前もこれを引き継ぐのだ、と言われた。
王位継承のための宝剣、絢爛豪華な王冠、金の王笏、古より伝わる書物に、不可思議な伝承を持つガラクタのようなものまで、俺は目を通した。
そのうちの一つに、止まっているカメオ細工の時計があった。珍しいな、と思ったのだ。時計なんて、最近作られたものなのに、どうして代々受け継がれてきた秘宝の中に入っているのだろう、と。
父に尋ねると、こう答えが返ってきた。
「それは由来の怪しいものでな、時計の裏にはこう書かれている。『時遊びの逆時計』と。何でも、時を止めたり、戻したり、進ませたりと自由に操ることができるそうだが……試しても、うんともすんとも言わない。何か条件があるのか、それとも歴代の王の悪戯か。まあ、ここにあるのだから、一応は保管している」
ふぅん、と俺は時計を持ち上げ、裏を見た。すると、蓋があって、中を覗くと文字が刻まれていた。
『時を遊ぶ力が欲しければ、願え。さすれば、力を与えん。我ら——契約——と——』
最後のほうは、擦り切れていて読めなかった。だが、願えば本当に、その時計で時を操れるのだろうか。そのときの俺は、試す気はなかった。子供だからそうまでして時を操りたいという気はまったくなく、父に促されて別の秘宝へ興味が移っていた。
俺は、藁にもすがる気持ちだった。そんなガラクタの、誰の悪戯とも知れないものにさえ、希望を託すほどに追い詰められていた。
俺は部屋を抜け出した。脱走するのはいつものことだ、窓から飛び降り、別の部屋のバルコニーへ着地する。そこから王宮内をこっそりと移動し、宝物庫の鍵のある国王の部屋まで走った。
当然、国王の部屋の前には見張りの兵士がいる。いくら俺が王太子でも、国王の命令がなければ中には入れてもらえない。どこかの窓から侵入しようにも、国王の部屋のバルコニーへ飛び移れそうな足場はなかった。
機を窺う。兵士がどうにかいなくなってくれれば、などと思っていたところに、国王が現れた。執務を終え、部屋に帰ってきたのだ。
どうする。ここで姿を見せて、宝物庫の鍵を貸してくれと言うのか? 気の触れた王太子と言われ、謹慎どころか幽閉されてしまうのではないか。しかし——いや、考えていてもしょうがない。
俺は、姿を見せることにした。謹慎中の俺がいきなり現れたことに、国王も兵士も驚いていた。
「父上、お話があります。どうしても、二人で話したいことなのです」
馬鹿正直に、そう言ってしまった。だが、他に手はない。俺は兵士を相手取れるほど武術に長けていないし、他人を籠絡するような話術も下手だ。なら、正攻法で行くしかない。
幸い、国王は穏やかに、頷いた。
「いいとも。入りなさい、エセル」
今考えれば、国王は俺に負い目があったのかもしれない。息子を守るために、無実の妃の首を刎ねた、その罪の意識が少なからずあったのだろう。
国王の部屋に入るなり、俺は要求を切り出す。
「父上、宝物庫の鍵を貸してください」
「何のために?」
「……試してみたいことがあるのです。無駄だったとしても、先に進むために」
それだけで許しが得られるのか、と思わなくもない。
しかし、ここで許しを得ようが得まいが、俺は無理矢理にでも宝物庫の鍵を奪っていこうと決めていた。どうせ気の触れた王太子だ、何をしたところでこれ以上の失望を与えることはない。
開き直った俺を、国王はどう見ていたのか、やがて鍵のかかった棚から木箱を取り出した。蓋を開け、俺へ差し出す。
そこには、真鍮製の鍵がビロードに包まれていた。俺がおそるおそる手を伸ばし、鍵を手にしても、国王が止める様子はない。
「お前が宝物庫の秘宝をどうしようと、誰も罪には問わぬ。あの宝物庫と秘宝は、我々だけが知っているのだから」
国王が、俺をどう見ているのかは分からない。
俺に失望したのかもしれないし、可哀想にと同情していたのかもしれない。
それでも、俺は宝物庫の鍵を手にした。それ以上は、考えないことにした。
「ありがとうございます」
俺は踵を返し、地下の宝物庫へ急いだ。
地下には、王家の者だけが入れるフロアがある。とはいえ、そこは宝物庫しかなく、実質的に宝物庫の鍵を持つ人間だけが入れる。中に何があるか、それは宝物庫の鍵の所有者とその後継者しか知ることはない。
俺は記憶を頼りに、宝物庫の扉まで辿り着いた。俺を奇異なものでも見るかの目で使用人や兵士たちが見送っていたが、かまうものか。
呆気ないほどすんなりと鍵を開け、俺は宝物庫へ入る。目当てのものがどこにあるか、知っている。すぐにそれは、俺の目の前に現れた。
手のひらほどの大きさの、カメオ細工に埋め込まれた時計。流転する時の流れを表したような渦の中で、時計は十二時を指して止まっている。
俺は時計の裏の蓋を開けた。『時遊びの逆時計』の名と、いつか見た文言が刻まれている。願えば、力を与えると書いているのならば、俺は願う。
時を遊ぶというその力を。
俺は、その不思議な現象に気付くまで、少し時間がかかった。
うっかり、宝物庫の鍵を落としたのだ。俺の手から離れて、落ちていくその鍵が——途中で止まった。
中空で、ぴたりと止まったその鍵へ、俺は手を伸ばす。何が起きているのか、と混乱しながら、反射的に手が伸びたのだ。俺が触れると、鍵は待っていたかのように落ちそうになる。
何だ? 何が起きた?
俺は『時遊びの逆時計』と宝物庫の鍵を持ったまま、外へ出た。何か、変化はあっただろうか、と微かな希望を抱いて。
窓のある地上階へ出たとき、外は雨だった。いや、数え切れないほどの雨粒が、空中で止まっていた。
兵士があくびをしたまま止まっていた。使用人が持っているランプの炎と同じように止まっていた。人間の足音一つしない王宮は、初めてだ。無音の世界で、俺の呼吸音だけが響く。
ようやく、俺は理解した。時が、止まったのだ。『時遊びの逆時計』は、俺の願いに応じて、その力を発揮した。
だが、これだけではだめだ。三年前のあのときに、時を戻さなくてはならない。そのためにはどうすればいいのだろう、戻るように願うのだろうか。
そんなことを考えているときだった。もしかすると、『時遊びの逆時計』を持つ俺が触れたものが、時間の停止から逃れたように——戻したいものに触れなければならない、といった制約があるのではないか。
俺自身が三年前のあのときに戻る、ということが叶うなら、もう叶っているはずだ。なのに俺は今のまま、ならひょっとすると、俺は誰かの時を戻すことはできるのではないか。
俺は、そのために試すべきことを、すぐに思いついた。
リズだ。リズに触れて、三年前のあのときに戻るように、願ってみなくては。
その他のことはどうでもいい。ただリズだけは、俺に選ばれないように、止めなくては。
俺は使用人のランプを奪い取り、駆け出した。雨は俺に触れると動き出し、俺の体を濡らす。止まっている雨粒で進めない、なんてことがなくて何よりだ。ただただ、俺は王都の郊外へと走る。
本来の処刑場は、そこにある。公開処刑は王宮前の広場で行われるが、処刑後の死体はそこへ運ばれるはずだ。罪人の死体は家族に引き渡されることはない、墓が作られることもない。打ち捨てられるだけだ。
俺は頭を振った。恐ろしいことを考えてしまった。もしそんなことがあれば、俺は耐えられない。それこそ、正気を失ってしまうかもしれない。
リズ。ごめん、俺は守れなかった。もう一度やり直したい、リズを守るために、あのときの選択を変えるために。
処刑場に着いたとき、俺は後悔した。
饐えた匂いが、漂っていた。腐敗した何かが、ここにはある。多少の量ではない、入口ですでに鼻を押さえるほどに匂うのだ。
俺は、探した。リズの遺体が、ここにあるはずだ。絞首刑の台を通り過ぎ、古い納屋をいくつか過ぎ、そして——処刑場の片隅で、見た。
骨が落ちていた。その先には、幾許かまだ肉がついた骨もあった。それは、どうやら野犬に食べられたもののようだ。食い荒らした跡がある。俺は、それらが人間の一部であることを認めなくてはならなかった。雨晒しの、処刑場の片隅には、大きな穴があった。埋められない、埋められる予定はしばらくはないであろう、大きさの穴だ。
正直に言って、見たくはなかった。その中に何があるかなど、すでに予測はついている。それでも、そこには、きっといるのだ。
俺は、穴の中を覗いた。
幾重にも重なる人間の死体。腐乱し、手足がバラバラになって、首のない死体だらけだ。そしてそれらは、服を着ていない。処刑の手伝いをしている人間たちが、処刑された罪人の服を剥いで売っている、と聞いたことがある。貴族の服は多少血がついていても高級だから買い手がつく。処刑人たちはそんなことはしないが、手伝わされている身分の低い者たちは、そうやってその日の酒代を作る。
穴の中へ、俺は足を踏み入れる。ぬかるみに足を取られないよう慎重に、いや、本能的に近づきたくない気持ちを押し止めているせいで、歩調が遅くなっていた。
首を切られる罪人は、ほとんどが男だ。女は大抵、魔女扱いをされて、火炙りにされる。だから——あれではない、と——思いたかった。
折り重なる死体をどかし、見覚えのある女性の細い手を、その体を露わにする。首から上がなかった、そしてその首筋には、見覚えのあるほくろがあった。
体は、もう一部は野犬に齧られて、皮膚が食い破られて肉が見えていた。ランプに照らされて、白い肌はどす黒く変色していたこと、結婚指輪をはめていた左手の薬指は残っていないことが、分かった。
首は、どこかにあるのだろう。でもそれを探すことは、できそうにない。もう俺は精神が限界だった。それでも正気を失う前に、最後の力で、最愛の人の無惨な死体、残っている右手を掴む。
「リズ……今度は、間違えないで、幸せになってくれ」
俺は、『時遊びの逆時計』へ願った。
三年前のあのときに、戻してくれ。
「いや。リズ、可愛い名前だね。とてもいい名前だと思うよ」
俺はそう言った。
あれ? その言葉は、三年前のあのときに、リズへ——。
俺は、自分が右手に何かを握っていることに気付いた。ちらりと見ると、カメオ細工の中に嵌め込まれている時計だった。
『時遊びの逆時計』。俺は慌てて、ポケットへ突っ込む。
三年前だ。今は、あの三年前のリズとの出会いのときに、戻ったのだ。
だが、人形のようなリズの手を引いて、俺とリズはこれから使用人の部屋に忍び込み、服を着替えてレオの部屋へ向かう。
ああ、それからだ。リズをロザリー侯爵家へ戻すわけにはいかない。俺は何をすべきか、瞬時に把握した。
リズを、逃すのだ。まずは王宮から、そのあとのことはまた考えよう。そうでもしなければ、リズをここに置いておけば、ロザリー侯爵家へ戻され、他の貴族の男に嫁がされ、それで幸せになるとはまったく思えない。人形のような彼女は、いいように扱われて、その人生を終えるしかなくなる。
俺はひたすらに考える。使用人の部屋でリズのコルセットを脱がすときも、必死に考えた。使用人の女性の服を着慣れないリズに着せて、俺も礼服を脱いで目立たない服に着替える。このままレオの部屋へ行っていいのか、悩みながらも、三年前と同じルートを辿る。
レオは、表向きは俺を悪し様に言うことはない。体面を取り繕うことにかけては右に出る者はいないほどに上手い。だから、すぐに告げ口して俺を突き出す、なんてことはしないと思うのだが、どうだろう。三年前のあのときは一応、このあとは仲良くカフェへ行ったのだが——。
すると、レオの部屋の窓を叩く直前、リズは俺の袖を引っ張った。
何だろう、と俺が振り向くと、リズは結婚してからも見たこともないような、必死の形相をしていた。目はしっかりと、俺を見つめている。人形だったあのリズではない、と俺は察した。
「エセルバート様。私は、逃げます」
「逃げる? どこへ?」
「分かりません。でも、あなたを射止められなければ私には行くあてもありません。ロザリー侯爵家にも居場所はなく、貴族の娘としての立場もなくなるでしょう」
何だ? 三年前には、こんなことはなかったぞ。
まるで、リズは別人のように、人間らしい執着を見せている。
「それでも、私は生きたい。最後まで、楽しく笑って、生きてみたい。無駄な足掻きかもしれません、でもやらなければならないのです」
リズは、そう言った。
生きたい。楽しく笑って、生きてみたい。その言葉が、本当に三年前のリズの口から出てきたとは、信じられなかった。
俺は、生に執着を示し、『楽しい』ことを望んでいるリズに、すっかり呑み込まれていた。
ああ、そうか。ひょっとすると——俺も、リズも、記憶を持ったまま三年前に戻ったのか?
その確証はなかったが、リズの変化はそれを予感させた。ならば、俺はこの、目の前にいる三年前の姿をしたリズへ、償いができるのではないか。
俺がリズを王太子妃に選ばないことで、リズはどんな人生を歩むだろう。
そんな不確かなことを、俺は選べない。できることなら、俺がリズを幸せにしたいのだ。幸せにできなかった三年後の償いを、しなければならない。
「さようなら。少しの間だけでも、夢を見させていただきました。このまま、お別れしましょう」
リズはそう言って、俺の袖から手を離そうとする。
俺は、咄嗟にリズの腕を掴んだ。
「ちょっと待っていてくれないか? すぐ終わるから、ここで待っているんだよ」
俺はリズを引き留めて、それからレオの部屋の窓を叩いた。
「レオ。話がある」
すぐに、部屋の窓が開く。レオは何食わぬ顔でやってきた。
「何でしょう?」
あまり、会話も顔を合わせることも、もうしないほうがいいだろう。
俺は単刀直入に、こう言った。
「お前に王位継承権を譲る。俺は逃げる」
いつも涼しげなレオの顔が、見たこともない呆気に取られた顔になっていた。
だが、もう決めたことだ。これしか、俺がリズを幸せにする方法はない。
「つまり、駆け落ちだ。止めるなよ」
俺とリズは、辺境伯のもとへ無事辿り着いた。母が驚きながらも出迎えてくれて、事情を話し、ここにいると累が及ぶから別の土地へ行くことを伝えた。
母と義理の祖父である辺境伯は、俺たちを止めなかった。ただ、いつでも帰ってきていい、と言って、大金と馬を渡してくれた。俺は感謝して、リズと隣国までの逃避行を続けた。
俺は——リズを幸せにすることは当然だが、もう一つ、どうしてもやっておかなければならないことがあった。
それは、復讐だ。
この国に、俺は復讐しなければならない。母を奪い、リズの命も尊厳も奪ったこの国を、許してはおけない。
たとえ時間が巻き戻ってなかったことになったとしても、俺はリズのために、この国へ復讐する。
それは、俺が人生をかけて行う、秘匿された大事業になった。
俺は『時遊びの逆時計』を使い、間者の真似事をした。時を止めて秘密を盗み、他者に売り、信頼を勝ち取り、十年以上かけて隣国での影の地位を築いた。同じことを周辺国でも行う、足がかりがあれば十年もかからず、四十を迎える前に俺は故郷を取り囲むように、周辺国に影響を及ぼせるようになっていた。
あとは、大した労もなく、故郷を——滅ぼした。戦争、飢餓、反乱、さまざまな不幸が襲い、数年後には国の痕跡すらもなくなって、国土は周辺国に分割された。元々腐っていた国を打ち倒すくらい、わけはなかった。王侯貴族は残らず死んだか行方不明になって、あとのことは分からない。とはいえ、義祖父の辺境伯と母だけは、隣国の縁ある商家へ逃した。
復讐のせいで、家を空けることが多くなったものの、リズはいつも笑顔で出迎えてくれる。身分を隠し、とある都市で俺たちは静かに暮らしていく。
俺はリズへ尋ねた。
「リズ。幸せか?」
リズは居間でくつろぐ子供たちを眺めながら、こう答えた。
「幸せです。あなたがいてくれるから、私は楽しくてしょうがないのです」
そうか、それならよかった。
俺はポケットの中にある『時遊びの逆時計』を弄びながら、子供たちに呼ばれたリズの後ろ姿を見送った。
おしまい