第一章【四】新たな人生(前編)
誰かに呼ばれた気がして、ノアはハッと目を見張った。
覚えのない木製の天井が視界に広がる。
のろのろと体を起こしたノアは、ざっと辺りを見回した。
そこは小さな部屋だった。
一人用の固いベッドで眠っていたらしい。
奇妙な匂いがした。
土のような、カビのような、とても庶民的な匂いだ。
(庶民的……?)
公爵令嬢として育てられたノアには、縁のない質素な場所である。
それなのに、ノアはこの匂いを知っていた。
(ただのデジャブかしら。……あら?)
自分の身体を見下ろした。
着ているのは、肌触りの悪い布で作ってあるチュニックだ。
そこでやっと、ノアは自分に起きている異変を訝った。
静かな部屋だ。
穏やかな昼下がり、昼寝から目覚めたときのように心地も落ち着いている。
まるで、すべてが夢だったかのようだ。
(ここはどこ? 私に、何があったの)
ノアはふらつきながら部屋を出ようとして、枕元に置いてある銀の指輪に気づく。
慌ててそれを手に取った。
何度も表面をなぞって、指輪がここにあることを確認する。
内側には、べリスの文字とノアには読めない古代文字が彫り込んであった。
それを理解した瞬間。
ノアの脳裏に、カラビアルの最後の姿が蘇る。
喉の奥からせりあがってきた激情が、悲鳴となってあふれた。
炎に侵された屋敷、動かない使用人たちとロジャー、血を流し続けるカラビアル。
頭のなかが真っ赤になって、自分自身がわからなくなって。
息苦しくなってこのまま意識を手放さずにはいられなくなったころ、頬に痛みを感じた。
潜っていた水のなかから顔を出したように、大きく息を吸い込む。
激しく咽て、嗚咽をこぼし、何度も咳をした。
「おい、さすがにやりすぎじゃね?」
呆れたような声。
覚えのないその声を気にする前に、ノアは強い力で胸ぐらを掴まれた。
ノアを見据える、すみれ色の瞳があった。なんの感情も感じ取れない、無機質な目にノアは凍りつく。
さらりと流れるような細く美しい銀髪が、すみれ色の目に軽くかかっていた。
整った容姿の男だった。
ノアの胸ぐらを掴んで引き寄せていた彼は、引き寄せたとき同様に、いきなり手を放す。
その反動でノアはベッドから落ちた。
痛い。
けれど、ノアの心を埋め尽くしていた激情は、綺麗に消えていた。
「チッ」
銀髪すみれ色の瞳の男は、舌打ちをすると部屋から出て行ってしまった。
床に座り込んだまま唖然とする。
あっという間の出来事だった。
「あぁ――……まぁ、無事ならそれでいいや」
ため息交じりの言葉が聞こえて、そちらを振り返る。
今出ていった男ではない、別の男がいた。
ついさっき「やりすぎじゃね?」と言ったあの声の主のようだ。
よくある黒髪と黒目の男で、寝不足だろうか目の下にくっきりとした隈をつけている。
銀髪の男も、この男も、二十代半ばほどの年齢だろう。
「ノアちゃんだっけ。茶くらいいれてやんよ」
砕けた口調からはノアを気遣う気持ちが感じられた。
「ま、座りなって。ほら、喉乾いてんだろ?」
「あぁ……っ」
ありがとう、と言おうとして喉が痛み、また咽る。
言われて初めて自分を気に掛ける余裕ができて、ノアは自分の喉がものすごく乾いていることに気づいた。
男が差し出した茶を手に取ると、ノアはすぐに口をつけた。
(熱っ!)
かなり熱かったが、それ以上に身体が水分を欲していた。ひとくち飲むともっと欲しくなって、コップの茶をすべて飲み干す。
味などほとんどない出涸らしの茶で、しかも熱さゆえに飲み込んだあとも胃の辺りがキリキリと痛む。
だが、ノアは生まれてから今まで、これほど茶をありがたく思ったことはなかった。
ノアを眺めていた男が、顔をひきつらせていた。
「それ、淹れたてなんだけど。熱くねぇの?」
「っ、あ、熱いけど、からからで……もっと……」
「それならそこ、水差し。井戸水煮沸済みだから、安全よ」
ノアは男が示した先にあった水差しを見るなり、直接容器に口をつけた。
背中越しに、またまた男が引いているのを感じたが、水を飲まずにいられない。
夢中でがぶがぶ水を飲んでいると、ドアが開く音がした。
「……何をしている」
「お、レイ。どっか行ったんじゃねぇの?」
「手当に必要な薬剤を取りに行っていたんだ」
「ええー、なに優しいじゃん! あんたが私以外に優しくすんの初めてみたわ」
「……。……それで、何をしている」
「喉乾いたってさ」
「ばかな。今の状態で過分に水分を取れば、水中毒になるぞ」
「なんそれ」
「水分の取りすぎで起こる中毒症状だ。おもに、倦怠感や吐き気、腹痛が起きる」
ガシャン。
ノアの手から水差しが滑って落ちた。
こみ上げてきた吐き気に口を押えると同時に、飲んだばかりの水を吐く。
ひと通り吐くと、今度は頭痛と腹痛がノアを襲った。
ノアは真っ青な顔で、茶を淹れてくれた男を見る。
ぐぎゅるるるる。
ノアのお腹が、言いたいことを代弁してくれた。
「部屋でて右の突き当り」
男の説明を聞くなりノアは部屋を飛び出すと、真っ直ぐにトイレに駆け込んだ。
◇
「……起きて五分足らずの間に、よくもこれだけ追加で怪我ができるものだ」
ふらふらどころかヘロヘロになったノアを前に、銀髪の男が呟いた。
「口内の火傷に水中毒の諸症状からの、水分不足か。……入れたり出したり忙しないな、いっそ感心する」
「まぁ、そう言ってやんなよ。パッと見、いちばん痛々しいのはあんたがぶった頬だからな」
ノアは今、大きく口をあけた状態だ。
銀髪の男が手当てをしてくれるというので、口内を見せているのである。
男は濡れた脱脂綿をピンセットでつまみ、それをノアの口内に突っ込むと直接患部に押し当てた。
じゅううう。
焼け石に水をかけたときのような音がして、ぎょっと勢いよく顔を退ける。
「おい、なんかえげつない音がしたぞ」
「回復薬とはそういうものだ」
「ええぇ、まじかぁ」
彼らの会話を何気なく聞いていたノアは、痛いと思い込んでいた口内の火傷――熱湯を飲んだときにできたもの――が治っていることに気づく。
「……痛くない」
「こいつ、こうみえて腕は確かだから。よかったじゃん、診てもらえて」
「ええ、本当にすごいわ」
ノアはぱっと顔をあげて、不機嫌そうな顔をしている銀髪の男をみた。
「ありがとう、えっと」
「……レイブランド」
ため息をつきながらも答えてくれた銀髪の男に、ノアは微笑む。
「レイブランドさんね。そっちは……」
「ジョーンズだ。よろしく、ノアちゃん」
握手を求めてきたジョーンズと、しっかりと握手を交わす。
握手を終えると、しんと静寂が降りた。
(何があったのか、聞かないと)
どうしてノアがここにいるのか。
彼らはどうしてノアを助けてくれるのか。
なぜノアの名前を知ってるのか。
……ベリス家は、どうなったのか。
それらの質問が頭のなかでぐるぐると回る。
レイブランドはまるでノアの質問を待つかのように、じっと椅子に座ったままこちらを見ていた。
「私、どうして生きてるの?」
口から出た言葉は、頭に浮かんだどの質問とも違っていた。
レイブランドがノアの瞳を見据えてくる。
「お前が生きたいと望んだからだ」
「……それは」
「不服なのならば今からでも死ぬといい」
感情のない声で言われて、ノアは椅子から立ち上がっていた。
「そんなこと思ってないわ!」
「ならば、生きたいか」
「当たり前じゃない、どうしてそんなことを聞くのよ」
つい口調が強くなってしまったが、ノアはレイブランドに怒る権利などない。
彼はノアの怪我を治してくれたのだ。
そしてきっと、あの燃えさかる屋敷で何が起きたのか知っている――。
どうやってノアは生き延びて、なぜここにいるのか。
それを聞かなければと、ノアはぺこりと小さく頭をさげた。
「……ひどい言いかたをしたわ。あの、ごめ――」
「まったくだ」
「ごめんなさいねっ!!」
いちいち神経を逆なでする人だ。
椅子に座り直したノアは、ムッとしてもう一度レイブランドをみる。
彼は何度目かわからないため息をついた。
「あの日、俺もベリス家の屋敷にいた」
「……え?」
「カラビアルに呼び出されたのだ」
母の名前に、ノアはこれ以上ないほど驚いた。
若い男の口から母のことを聞いたのもそうだが、公爵であったカラビアルを呼び捨てたことにぎょっとしたのだ。
(あっ、賓客!)
屋敷が燃えたあの日、確か屋敷には母の大切な客人が泊まっていた。
それがレイブランドだったのだろう。
「お母様のお知り合い……ですか?」
「知り合いだから屋敷にいた」
「では、レイブランドさんが私を助けてくださった方なんですか……でも、どうやって……?」
「俺は魔術師だ。あの程度、造作もない」
「魔術師……そういえばさっき、回復薬って……」
回復薬とは、魔術師が使う即効性の治療薬のことだ。
少なくとも、物語に出てくる魔術師はそういった名前の薬をよく使っていた。それが事実というよりも創作に近い知識だと理解しながらも、意味合いとしては大体合っているだろう。
(魔術師……この人が、魔術師……)
魔術師とは、人のなかでも特別な力を与えられた選ばれし存在。
ノアはそう聞いていた。
だから、つい期待してしまう。
「魔術師ってすごい人なんでしょう。だったら、お母様たちも無事なの? ――……ねぇ、そうでしょ?」
「俺が助けたのは、お前だけだ」
「……どうして……」
呟いてから、慌てて口をつぐむ。
救われた身でありながら不満を言うなんてありえないことだ。
「いいえ、なんでもないの。助けてくれてありがとう」
レイブランドは何も言わず、そっとノアから視線をそらした。
また沈黙が降りる。
聞かなければならないことは沢山あるはずなのに、口をひらこうと思えない。
何も考えたくなかった。
「ま、今は療養が必要だかんね。ゆっくりしようや」
ジョーンズがそう言って微笑み、場の雰囲気を和ませる。
ノアは視線を彼に向けた。
「あの、ここはどこなの……どこなんですか?」
「かしこまらないでいいって、むずがゆくなる」
肩をすくめるジョーンズに、ノアは微笑んでみせた。
笑う気分ではなかったが、無理矢理にでも微笑んだほうが気分だって紛れるだろう。
「うん、ありがとうジョーンズさん」
「名前も呼び捨てでいいぜ。私もノアって呼ぶし。で、この場所だったよな」
頷くノアに、ジョーンズはニヤリと意地悪く笑ってみせた。
「ここは『魔の森』近郊にある村、ローリィだ。知ってっかよ?」
「ローリィって村は初めてきいたわ。でも、『魔の森』って確か、ライトハーン帝国にあるっていう、人が入ってはならない領域のことよね」
この世界には、人の領土を脅かす魔物という生き物がいる。
いつの時代も人と魔物は争ってきたが、三百年前に勃発した《人と魔物の戦争》で魔物は『魔の森』に封じられることになった。
それ以後、人の領土で魔物が暴れることはなくなり、ノアたちの世代にもなれば、魔物など昔話に出てくる伝説の生き物のような扱いだ。
(……ライトハーン帝国の『魔の森』近郊?)
ノアが暮らしていたのは、アリザナ国だ。
アリザナ国から小国ザムを挟んだ場所にあるのが、アリザナ国と同等の領土を誇る大国『ライトハーン帝国』である。
「じゃあここは、アリザナ国じゃないのね?」
「そ、ライトハーン帝国だな」
ノアはレイブランドを振り返った。
「私をライトハーン帝国につれてきたってことですか? わざわざどうして……」
「時空転移は、何度もできるものではない。だから直帰した」
「……直帰……え、炎のなかから……直帰?」
「ああ」
時空転移というのは初めて聞いたが、おそらく言葉からして瞬間移動のようなものだろう。
つまり、燃えさかる屋敷から外にノアを連れ出すよりも、『ライトハーン帝国のローリィ』に時空転移したほうが楽というわけだ。
魔術とやらをよく知らないノアは、レイブランドの言葉を信じるしかない。
(いえ……むしろ、ライトハーン帝国のほうが都合がいいかも)
ノアは握りしめていた指輪に、視線を落とした。
これからノアは、カラビアルの最期の言葉に従って行動する。
ライラはベリス公爵になりたいようだった。
継承には必ず【ベリス公爵の鍵】であるこの指輪が必要であり、そのことをライラも知っている。
「ジョーンズ」
「ん?」
「……部屋を貸してくれ」
「おう、いいぜ。ちと買い物行ってくるわ」
カラビアルが【ベリス公爵の鍵】を袖に隠していたことから考えると、もしかしたらライラには、偽の指輪を掴ませたのかもしれない。
(だったら、ライラがそのことに気づいて指輪を探すのも時間の問題だわ)
「ノア」
(私がこの指輪を隠すのよ。ライラが決して見つけられない場所に)
「――ノア」
ぬっ、と目の前にレイブランドの顔が現れて、ノアは全身を震わせた。
その場で固まっていると、レイブランドが頷きながら離れる。
「聞け」
「あ、は、はい」
どうやら何度か呼びかけられていたらしい。
いつの間にかジョーンズの姿はなく、部屋にはノアとレイブランドの二人になっていた。
「あの、何か……?」
「カラビアルから、お前を頼まれた」
「はい?」
「断ったが、状況が状況だ。俺は弟子を取らぬ主義だが、お前がどうしてもと望むのならば、弟子にしてやらぬこともない」
「弟子って、あの、なんの……?」
話が突然すぎてついていけずに、ぽかんとした顔でそう問い返す。
レイブランドは軽く眉を寄せて、簡潔に答えた。
「魔術に決まっている」
「……ま、魔術? 待ってください、私は魔術師じゃありません」
意味がわからずに首を横にふる。
そんなノアに、レイブランドはきっぱりと告げた。
「いいや、お前は魔術師だ」
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