第一章【三】転化
「やめて!」
叫んだ瞬間、ライラが動きを止めた。
ノアの声に反応したわけではないようで、ライラはキッと頭上を睨む。
つられて見上げたノアは、カラビアルの部屋のシャンデリアが真上にあることに気づいた。
その豪華でやや古風なシャンデリアは、ミシッと音をたてては、破片のような何かを床に落とす。
熱気のせいか、それとも火事によって屋敷が歪んだのだろうか。
もし、あのシャンデリアが落ちてきたら。
想像するだけでぞっとした。
「ノア、あなたにはどうして私がこんなことをしているかわからないでしょうね」
「……ライラ」
何も言えなくて、ノアはただライラを呼ぶ。
ライラは嘲笑を浮かべた。
「私はね、べリス公爵になるの。……いいえ、もっと大きな地位を手に入れてみせるわ」
「何を言ってるの、ライラは次の――」
公爵じゃないの、と言おうとして、ライラの婚約が決まったことを思い出した。
そうだ、ライラはエリオットのもとに嫁ぐことになったのだ。
ライラの表情が歪み、憎しみを宿した瞳がノアを射抜いた。
「私が! この、べリス家の正当なる世継ぎの私が! どうしてあんな無知な伯爵ごときに嫁がなければならないのっ」
「……待って、ライラが望んだんじゃ……」
「ふざけないで! 私は……私の望みは、べリス公爵になること……それなのに」
ライラがカラビアルを蹴飛ばした。
何度も何度も、踏みつける。
「ライラ、やめてっ!」
とっさに飛び出したノアは、カラビアルをかばうように覆いかぶさる。
そんなノアの身体ごと、ライラが踏もうとしたとき、ノアの視界が反転した。
床に押し付けられて、カラビアルがノアの上に覆いかぶさっている。
歯を食いしばるカラビアルの口からより多くの鮮血があふれて、ノアの頬を濡らした。
カラビアルの背中越しに、シャンデリアからぱらぱらと破片が落ちてくるのがみえる。
「最後くらい、二人で話をさせてあげるわ。そのまま二人で死んでちょうだい、仲良しでうらやましいこと!」
ライラはそう叫ぶと、踵を返した。
ノアの場所からはライラがどこに行ったのか見えないが、おそらく逃亡したのだろう。
ライラはとても頭がいい。
カラビアルの娘として、どこに出しても恥ずかしくない立派な世継ぎだ。
彼女が今回のことを仕組んだのならば、みすみす炎に巻き込まれるようなことはしないだろう。
「ノア」
「……お母様」
「私の右袖……内側に……指輪がある」
重症を負いながらも落ち着いた様子のカラビアルに、ノアは首を横にふる。
「ノア」
強い口調で、しかし優しくわがままな子どもに言い聞かせるように呼ばれて、ノアは言われるままカラビアルの袖を探った。
指先に硬いものが触れて、カラビアルを見る。
引きちぎるように言われて、糸で縫い付けてあったそれを強引に引っ張った。
手のひらに収まったそれを見る。
ごつごつとした、分厚い銀色の指輪だ。
(これって……!)
この指輪は【ベリス公爵の鍵】と呼ばれるもので、特殊な魔術が施されたこの世にたった一つしかないものなのだ。
ベリス公爵となった者だけが継承を許された指輪だと、ノアはそう聞いていた。
大切なもので、今までカラビアルは一度たりともこの指輪を娘たちに触れさせなかった。肌身離さずもっており、夫であるロジャーにも触らせなかったほどだ。
それがノアの手のなかにあることが信じられず、ノアはカラビアルを凝視する。
「お母様、これは」
「……ライラは危険だ。あの子の、行動や思考は、常軌を逸している……これまでも、何度もこのような……これからも……あの子は……」
ぼたぼた。
頬に大量の血がこぼれ落ちて、その感触にノアは瞳を潤ませた。
――カラビアルはもう、助からない。
ノアは、ごくりと唾を飲む。
もう助からないのならば、やることは決まっている。
これまでそうだったように、最期のこのときも、カラビアルが望むままに生きるのだ。
「だから、お母様はライラを嫁がせることにしたのですか?」
「ああ……社会的に、べリス家と切り離すために……しかし……」
カラビアルは浅い呼吸を整えるように目を閉じると、ノアが握りしめている指輪に視線を向けた。
炎の灯りに照らされて尚、カラビアルの顔色は白い。
「ノア、お前に頼みがある」
「なんでしょう?」
「その指輪を処分して欲しい。決して、ライラが手に入れないように……これを、あの子に与えてはならない」
真摯な瞳がノアを見下ろしていた。
「……わかりました。必ず、そうします」
カラビアルは、安心したように目を細めた。
愛しさのあふれる視線がノアを包み、目の奥が熱くなって、涙があふれる。
「お前は、私の娘だ。……血のつながりはなくとも、大切で、誇らしい娘。……だから、ノア。お前は、好きに……自由に、生きろ」
カラビアルの瞳から、輝きが消えていく。
炎がより大きく音をたてて、シャンデリアが落ちてくるのが見えた。
――生きろ。
カラビアルの声に突き動かされるように、ノアは彼女を押しのけて床を転がる。
背後で、シャンデリアが床にぶつかって砕け散る音を聞く。
震えながら背後を――カラビアルを――見たノアは、目を見開いた。
カラビアルはすでに息絶えていた。
ふらふらと近づこうとしたノアは、その場で思いとどまる。
(……指輪を、隠さないと)
そのためには、なんとしてもこの屋敷から逃げなければならない。
火事でこのままノアが死んでしまえば、指輪はこの場に残ってしまう。そうなれば、いずれライラが指輪を探したときにすぐに見つかってしまうだろう。
ノアはぐっと拳を握りしめる。
手のひらのなかにある《ベリス家の証》が、ノアに使命という勇気を与えた。
「……生きなきゃ……」
ノアは、カラビアル・ベリスの娘だ。
当主から託された使命を全うせずに、ここで死ぬなどできない。
指輪をポケットの奥に押し込んで、ふらつきながら立ち上がる。
しかし、廊下に出たノアは唖然と目を見張った。
すでに火の手が回り、逃げ場などなくなっていたのだ。
「だから……逃げ場がないから、なんだっていうのよ」
自分自身に呟いたノアは、ふっと笑う。
屋敷の見取り図と、ここにくるまでに見たおおよその出火場所と、火の流れを考える。
ここからだと西の出入り口がもっとも近くて、火の回りも少ないはずだ。
そう結論を出すと、もう迷わなかった。
姿勢を低くして、口を袖で覆いながら炎のなかに飛び込んだ。
息苦しく、炙られた肌がじくじくと痛む。
それでも必死に足を動かした。
逃げるために。
生きるために。
――けれど。
西の出入り口までまだ遠い、西館の廊下に出た瞬間。
勢いを増した炎の柱が見えて、ノアは絶望を覚えた。
公爵家は広く、廊下はまだ続いている。
それなのに、炎は勢いを増し、誰も通さないと言わんばかりに怪物のようにうねっていた。
「なぜだ」
ふいに、覚えのない声が聞こえた。
ここにはノアしかいないはずなのに、低い男の声はノアに問う。
「なぜそこまでする? ここで助かったとしても、きみの人生は苦しいものにしかならないのに」
すでに意識が朦朧としていたノアは、それを幻聴だと取り合わなかった。
少しでも大きく息を吸い込めば肺の奥まで焼けて動けなくなりそうで、無駄な動きはせずにただ屋敷から出ることだけを目指す。
しかし、身体が限界だった。
立つことすら困難で、その場にしゃがみこんでしまう。
(……まだ、死ぬわけにはいかない……死にたくない)
死がすぐそこまで迫っている恐怖に、既視感を覚えた。
だがそれがいつのことなのか、深く考える余力はない。
意識が沈む、間際。
ノアの身体が床に倒れる寸前に、誰かがノアの身体を抱き上げた。
引き続き、よろしくお願いします。