第一章【二】火事
カチリ。
時計針が動いたような、音がした。
カチカチカチ。
(なに、この音……歯車みたい)
カチカチカチカチ、カチッ。
ジリリリリリリリリッ。
「うひゃあっ!」
飛び起きると急いで目覚まし時計を止めた。
小さいころから愛用している目覚まし時計は、設定した時間に音がなるというシンプルなものだが、音の調節ができない。
大音量で鳴り響くため、アパート暮らしの現在は騒音問題になりかねなかった。
嫌でもすぐに起きなければならないので、ある意味でこれ以上ない最高の目覚まし時計である。
(……朝からどっと疲れるけどね)
今は亡き両親が誕生日にくれたパンダの目覚まし時計をその場に残し、ベッドから起き上がった。
まず最初にパソコンをつけて、起動するまでの時間で携帯電話の確認をする。
当然、確認するのは今絶賛課金中のアプリ『あなたと執事クロニクル』だ。
しかし、アプリをタップしたところで赤字で【配信停止のお知らせ】と書いたページが表示された。
「あ……そっか。終わったんだっけ」
確か半年前に配信が停止し、そろそろアプリ自体も消えるはず。
そのことはとっくに知っていたのに、なぜ今更このアプリをひらいてしまったのだろう。
(まぁいっか。朝のミッションクリアしなきゃね)
パソコンで開いたオンラインゲームのデイリーミッションをクリアしていく。
それが終わると、トースターに食パンをいれて、仕事にいく支度をする。
いつも通りの日常だ。
楽しくもない会社に勤め、ひたすら頭を下げて毎日をこなしていく。
待ちに待った休日は、部屋でごろごろしながらゲームやマンガ、ライトノベルを堪能する。
両親はすでに他界し、独身の一人暮らし。
友達もほとんどおらず、唯一の楽しみは嵌まっているゲームに重課金すること。
今はオンラインゲームにやや課金しているが、以前まで重課金していた『あなたと執事クロニクル』以上の面白さはなかった。
その日も仕事が終わると、一人寂しく帰路につく。
(そろそろ新しいゲーム物色しようかなぁ。でも、執クロよりやり込み要素があって簡単にできるゲームなんてそうそうないんじゃ……絵も重要だし)
ふと、つい先日、事故があったという横断歩道に差し掛かった。
信号は青だったが、事故のことが脳裏を過って何度も左右を確認する。
夏場はまだ明るいこの時間だが、今は冬。
辺りは真っ暗で、歩いている自分自身さえよく見えなかった。
ブォン。
バイクの音がして振り返る。
つい今歩いてきた歩道の隣にある細道から、バイクが左折してくるところだった。
あ、と思ったときには、バイクは目の前に迫っていて。
なんとも圧迫感のある痛みに悲鳴すらあげることができず、激痛を覚えながら地面に倒れ込む。
落とした携帯電話が、カシャンと音をたてるのを聞いた。
(あ、データ……ゲームの……)
拾おうと手を伸ばした。
なんとか携帯電話を掴んだ瞬間、喉の奥から血が湧き上がってきて吐血した。
(息が苦しい)
ヒュー、ヒュー、と何かが鳴っていると思えば、自分自身の喉である。
激痛で意識さえ朦朧とするのに、頭の一部がとても冷えていて、やけに冷静な自分自身がいた。
死ぬんだ、と漠然と思う。
自分の身体を見下ろそうとして止める。
血だまりが広がっていく様子、感覚のない身体。
唯一動いた手ももう携帯電話を握りしめたまま動かなくなってしまった。
(私……本当に、死ぬの……?)
そう思った瞬間、絶望が胸にひろがった。
つまらない毎日だったけれど、死んでしまっては好きなことができなくなってしまう。
(生きたい……生きたい)
周囲が騒がしくなってきた。
事故の音を聞きつけて人が集まってきたらしい。
誰かが何かを言っているが、その声すらもはや聞き取れなかった。
こうして、『私』は死んだのだ。
◇
「――っ!」
声にならない声をあげて、ノアは目をひらいた。
全身が氷のようにつめたくて、嫌な汗でびっしょりと濡れている。
両手で胸を、腹を、全身を確認する。
(生きてる……?)
生々しい夢だった。
いや、あれは本当に夢なのか。
夢の中でノアは、一人の女として人生を歩んでいた。
彼女が経験したことや記憶をそのまま受け継いだかのように、はっきりと思い出せる。
ただの夢とは思えなかった。
あれはまるで、ノア自身のよう。
それも、別の世界で生きたノアだ。
(何を考えてるの、私)
きっと疲れて混乱してるのだろう。
ため息をついて時計を見たとき、とっくに日付が変わっていることに気づいた。
ノアはついに、十五歳になったのだ。
待ちに待った成人である。
しかし、これっぽっちも嬉しくなどなかった。
(……私、倒れたんだっけ。誰かがここまで運んでくれたのね)
気を失う前のことを思い出して、盛大なため息をついた。
突然の婚約破棄。
これ以上の衝撃はないと思っていたところに、べリス家の血筋ではないと聞かされたのだ。
ノアにとって、これまで生きてきたすべてを否定されたかのような、そんな衝撃だった。
(信じたくないけど、きっと真実だわ)
ロジャーがあんな嘘をつくはずがない。
ノアはのろのろとベッドから降りた。
いろいろなことに混乱していたが、ギリっと歯をかみ締めて耐える。
たとえ血の繋がりがなくても、ノアはカラビアル・べリスの子として育てられてきた。
それはノアの誇りであり、自身の存在意義でもある。
(……お母様と、お話したいわ)
今日、一度にいろいろと起きたが、カラビアルとは会っていない。
カラビアルは昨日、賓客を迎えに行くと言って屋敷を出ていき、戻ってきてからずっとその賓客と話をしていたのだ。
さすがに深夜ならば、話し合いも終わっているだろう。
カラビアルが起きているかは微妙なところだが、そのまま眠るには目が冴えていた。駄目もとでカラビアルの部屋に行ってみよう。
そう決めたとき。
ふと、焦げ臭い匂いがした。
気のせいかと思ったが、匂いはどんどん強くなる。
ノアは警戒を滲ませてベッドから降りると、ブーツをしっかりと穿き、部屋を出た。
むわっ、とより強烈な焦げた匂いがして、ノアは小さく悲鳴をあげる。
間違いない、どこかで何かが燃えているのだ。
(何かが? ……いえ、これは……屋敷!?)
屋敷が、火事になっている。
そう理解した瞬間、気づけば駆け出していた。
向かう先はカラビアルのところだ。
たとえ屋敷が灰になろうと、カラビアルさえ生きていればべリス家は守られるのだから。
カラビアルの部屋に行く途中、ノアは使用人たちの気配がないことに気づいた。
泊まり込みの使用人が十二人いるはずだが、誰の姿も見えない。
まるでノア一人だけが、別の世界にきてしまったかのような違和感と恐怖を抱えながら、夜着の裾を持ち上げてひたすら走る。
(あっ、ここにいたのね!)
途中、大広間に差し掛かったとき、いつも閉じているドアが開いていることに気づいた。
カラビアルは使用人たちを家族のように扱い、時折大広間でともに食事を取っていたのだ。
どうやら、その大広間に使用人たちが集まっているようだ、というのは、ぼんやりと見えた人影から察した。
火事に気づいて避難しているのかもしれない。
ノアは勢いよく、使用人たちのいる大広間に飛び込んだ。
「みんな、無事!? お母様は……」
ノアは凍りついた。
大広間には、確かに使用人たちがいた。
少数精鋭にて住み込みで雇っている彼ら全員、ノアにとって親しい友人のような、身内のような、そんな者たちだ。
そんな彼らが全員椅子に座っていて――そして、苦悶の表情でこと切れている。
ある者は喉をおさえてうつ伏せで。
ある者は背もたれに身を預けて天井を仰ぎ、だらりと腕を垂らして。
――毒殺
貴族として生きていくうえで、もっとも警戒すべき暗殺方法として、ノアは毒殺について学んでいた。
だからこそ、使用人たちの亡骸をみてすぐにわかったのだ。
彼らは毒殺された。
証拠に各々がグラスを持っていて、ワインが滴り零れている。
「……あ、な、なんで」
ぞくりと背筋に悪寒が走った。
――これは、ただの火事ではない。
そんな予感に突き動かされて、ノアは勢いよく大広間を出た。
ただカラビアルの部屋を目指す。
煙のまわりが速い。
窓からみえる別館は、すでに火の手が高く上がっていた。
橙色の炎が薄暗い廊下を照らしている。
ノアが火事に気付いたときには、すでに本館は火に囲まれていたのだろう。
もっと早く気づいていればよかったが、ノアの部屋からは別館が見えず、火の手を確認することが不可能だった。
そのため、煙が部屋に入り込んでくるまで気づかなかったのだ。
悔しい思いでギリッと歯を食いしばり、ノアは夜着の袖で口元を抑えながら走る。
カラビアルの部屋につくころには、本館は呼吸も苦しい煉獄の炎に包まれていた。
(お母様、無事でいて……っ!)
いつもならば規則正しいノックと挨拶をしてひらくカラビアルのドアを、勢いよくひらく。
すでに意識は朦朧としつつあったが、カラビアルの部屋に入った瞬間。
会いたかったカラビアルの姿を認めて、ほっと安堵の息をついた。
「お母様!」
カラビアルは、驚いた顔でノアを振り返った。
金の髪を頭上で結い上げた男装の麗人、カラビアル。
彼女はこんな夜更けだというのに、夜着ではなく燕尾服をまとっている。
迎えに行っていたという、賓客の対応をつい今までしていたのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、ノアはカラビアルの部屋に一歩足を踏み入れた。
「お母様、よかったご無事で」
「逃げろ、ノア」
(……え?)
ノアは足を止める。
カラビアルの声はひどく掠れていたが、動きを制止させるだけの力強さがあった。
嫌な感覚がした。
全身の血の気がひいていくのがわかる。
つつ、と、カラビアルの口から血が伝うのを見た瞬間、それは確信に変わった。
「早く、ノア……ぐっ」
歯を食いしばったカラビアルが、その場に膝をつく。
床に座り込んだカラビアルの向こう側。
カラビアルに隠れて見えなかった人物が、姿を現す。
別館で煌々と燃え盛る炎を背に、ライラが立っていた。
彼女は手にナイフを握っていて、その切っ先からぽたぽたと深紅の血が滴り落ちている。
ごふっ。
カラビアルが吐血して、ノアの視線がカラビアルに戻った。
彼女の胸からはおびただしい量の血があふれていて、絨毯に吸い込まれていく。
「ライラ……?」
もう一度ライラに視線を戻す途中、壁に背を持たれさせて床に座り込んでいるロジャーに気づいた。
大きく目を見開いたロジャーは、誰が見ても死んでいることは明らかだった。
ふと、ライラが笑った。
恍惚とした笑みを浮かべて、ナイフについた血を舐めとる。
美しいライラが妖艶な化け物のように見えて、ノアは喉の奥で悲鳴をあげた。
「起きてしまったのね、お姉さま」
ライラの、くすくすという笑い声が気持ち悪い。
ノアは何が起きているのか理解できず、固まったままただライラを凝視した。
なぜライラが、ここにいるのだろう。
なぜ血まみれのナイフを持ち、笑っているのだろう。
そもそもこれは本当に、妹のライラだろうか……?
(ち、違う。ライラじゃない、ライラのはずがないわ。……魔術、そう、魔術だわ)
この世界には魔術師と呼ばれる者たちがいて、『魔術』をつかう。ノアは会ったことすらないが、奇怪な技で人々を誑かしたり、欺いたりするという。
(だって、ライラがお母様を刺すはずがない――)
「火事に巻き込まれて死んでしまえばよかったのに」
ライラの吐き捨てるような言葉に、ノアは現実を見るしかなくなってしまう。
「まぁいいわ。この手で殺すだけだから……もっとも、放っておいても焼け死ぬしかないけれど」
おかしそうに笑いながら、ライラは座り込んでいるカラビアルに視線を向けた。
持っていたナイフを大きく振り上げる。