第一章【一】とつぜんの婚約破棄
「ノア、きみとの婚約は白紙に戻すことになった」
「……え?」
ノアディーナ・べリスは彼の言葉を理解できず、ぽかんとする。
婚約者のエリオット・ブライスがやってきたというから、いつも以上にオシャレをし、大慌てながらも喜び勇んで客間にやってきたところだった。
正しくは、お誕生日席といわれる席に座るように促されて、座った瞬間に言われたのである。
ノアから見て斜め右側に座っているエリオットが、神妙な表情でじっとノアを見ていた。
その向かい側のソファには、しかめっ面をした父のロジャーと俯いている妹のライラがいて、ライラは膝の上でこぶしを強く握りしめている。
お誕生日席に座ったおかげで、三人の様子がよく見えた。
(……聞き間違いよね)
この婚約は、家同士の結びつきを強くするためのものだ。
アリザナ国でたった二つしかない公爵家の一つ、べリス家の当主カラビアル・べリス公爵が決めたこのである。
一方のエリオットが引き継いだブライス家は、数多あるうちの伯爵家の一つに過ぎない。
アリザナ国で『公爵』は貴族のなかでも特別であり、王族と大差ない権力をほこり、それ以上の財力を持っている。
いわゆる絶対権力者の一人で、その決定を覆すことはそう簡単にできることではなかった。
「あの、エリオット様。この婚約はお母様が決めたことで――」
「婚約白紙の件は、そのベリス公爵が新たに決めたことなんだ」
ノアの言葉を遮ったエリオットが、嬉しそうにほほ笑んだ。
彼の視線は俯いているライラに向いている。
ノアはますます混乱した。
ノアとエリオットの婚約が決まったのは、ノアが物心ついてしばらくしたころだ。
エリオットは八歳も年上だが、穏やかで優しい青年である。懸命に若き伯爵としてブライス家の当主を務めようとしているところも、立派で好感がもてた。
ノアはすぐにエリオットが好きになった。
だから、彼の妻になってともに伯爵家を支えるのだと胸に誓い、淑女教育だけでなく、ありとあらゆる勉強にいそしんできたのである。
それなのに、なぜ。
がらがらと足元が崩れていくような錯覚を覚えて、ノアはぐっとソファの肘置きを掴んだ。
めまいで視界がぐるぐると回る。
ノアは明日で十五歳になる。
早熟なアリザナ国では結婚できる年齢だ。
だからてっきり、今日のエリオットの来訪は、結婚式に向けての具体的な話し合いだと思っていた。
しかし、聞かされた内容はまったく違うものだった――。
「これはすでに決定していることなんだ。ノア、お前が何を言おうと変わらない」
咳ばらいをしながらつぶやいたのは、ロジャーだ。
婿養子でべリス家に入ったロジャーは、決して当主であるカラビアル――ノアとライラの母だ――には逆らえない。
これまでもそうだったように、これからもそうだろう。
だから、もし婚約破棄の理由をきくのならば、カラビアルに直接聞くほうが懸命だ。
ノアは、こぶしを震わせて立ち上がった。
「お母様にお聞きして参ります。申し訳ございませんがエリオット様、少しお待ちくださってもよろしいでしょうか」
「ノア、もう決まったことだよ。だから――」
「ですがこのままでは、エリオット様の立場が悪くなってしまいます!」
これは、家同士の結びつきのための結婚なのだ。
当然、恩恵を受けるのはブライス家であり、婚約が破棄となって困るのはエリオットである。カラビアルが何を考えているのか知らないが、こんな暴挙がゆるされるはずがなかった。
ノアが踵を返そうとしたとき。
「僕は、ライラと結婚することになったんだ」
ノアは動きを止める。
ゆっくりエリオットを振り返ると、彼は柔らかな視線をライラに向けていた。
「僕は彼女を愛している」
「……は?」
エリオットはノアのつぶやきには何も言わず、視線すら向けてこない。
しかし、エリオットの話は続く。
「ライラは謙虚でね。ずっと、僕からの求婚を拒んできたんだ。姉であるノア、きみに遠慮してのことだ」
「……ずっと……」
一瞬、婚約が決まる前からライラに惚れていたのかと思ったが、その頃のライラは三歳だった。
当時五歳のノアでさえこの歳で婚約は早すぎるという声もあったのに、三歳女児を口説いていたとは考えにくい。たぶん。
つまり、エリオットがライラに惚れたのは、ノアと婚約してからということになる。
その間、ノアはエリオットとともにあるためにあらゆる努力を積み重ねてきたというのに、彼はそんなノアをあっさりと捨てたのだ。
「しかし、このたびついにベリス公爵から正式に許可が下りた。僕たちは今後、誰の目も憚らず一緒にいられるんだ」
もはや、エリオットの言葉はノアに向いていない。
彼の瞳は、うっとりとライラを見つめたままなのだから、嫌でもノアは自分がどれほど必要とされていないか理解した。
今日までの努力はなんだったのだろう。
彼の妻になるために生きてきたノアは、これからどうすればいいのか。
口のなかが乾いていた。
会話をする気力すらなく、一刻も早くこの場を立ち去りたいと思った。
それなのに足がうまく動かない。
めまい、それに吐き気までしてきた。
(……部屋に、戻らないと)
自分の身体を叱咤してドアに向かおうとしたが、途中で足がもつれて、その場にくずおれる。
膝をつき、両手で絨毯を押さえるようにして寝転んでしまわないように踏ん張った。
「ノア」
そんなノアに声をかけたのは、エリオットでもライラでもなく、父のロジャーだ。
優しい父がノアを心配してきてくれたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
ロジャーは、ノアの正面に立つ。
手を差し伸べる様子はなく、訝ったノアは咄嗟にロジャーを見上げた。
いつだって微笑を浮かべている温厚なロジャーが、まるでこの世の終わりのような顔で、ただじっとノアを見下ろしていた。
(お父様……?)
思えばロジャーは、部屋に来たときから表情が険しかったような気がする。
ノアは嫌な予感を覚えた。
「お前に、話しておかなければならないことがある」
重い口をひらいたロジャーの声は、緊張を帯びている。
きっとよくない話なのだと察したノアは、懇願するように目を眇めた。
「……聞きたくないわ……今じゃないと駄目なの?」
「今でなければ駄目だ」
ロジャーはそう言うと、何かを決意したようにぐっと拳に力をいれた。
「これはカラビアルも知っていることだが、お前はわしが独身時代にこさえた子なんだ。つまり……ノア、お前はわしの連れ子だ」
息をのむ。
「だから、お前にはべリス公爵の――べリス家の血が流れておらんのだよ」
(聞きたくない!)
ノアはとっさに耳をふさぐ。
視界が揺れて、ぐわんと大きな耳鳴りがした。
目の前がぼんやりとかすみ、黒い霧に塗りつぶされていく。
これ以上ない絶望が胸を覆いつくしていく。
信じていた世界が、がらがらと音をたてて崩壊していくようだ。
ふと、脳裏に母であるカラビアルの姿が過る。
――「さすがノア、私の娘だ」
――「ふむ、ノアは何をしても優秀だな」
――「私の娘、ノア」
甚大な権力を誇るベリス家の当主、カラビアル・ベリス。
ノアはカラビアルの恥にならないよう、言われたことをすべてこなしてきた。
エリオットとの婚約も、彼のために尽くすことも、すべてはベリス家長女としての誇りあってのことだ。
(それなのに、私はベリス家の血が流れていなかったの?)
消えゆく意識のなかで、ノアは自嘲した。
(そうよね。だって私だけ、美しいお母様に似ていないもの。……ライラはお母様に似てとても美しいのに、私は……)
ノアは美しくもない、平凡な娘だ。
ベリス家の女は皆、淡い金髪とエメラルドグリーンの瞳をしているのに、ノアはよくある漆黒の髪と瞳をしている。
見た目の違いはこれまでに何度も指摘されたことだ。
しかし隔世遺伝という場合もあるし、あまり気にしていなかったのである。
(いいえ、気にしていたから勉強を頑張ったの。似てなくても、お母様の子に相応しい実力があれば、ベリス家の長女として認められると思って……)
本当はノア自身、自分がカラビアルの子ではないと、どこかで気づいていたのかもしれない。
(エリオット様が、こんな私よりライラを選ぶのは当たり前ね)
ノアは薄れゆく意識のなか、諦めに似た感情を強く抱く。
強い既視感を覚えたが、それがなんなのか、ノアに考える余裕はなかった。
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しばらくお付き合い頂けましたら、嬉しく思います。