ぼっち
心ばかりの御礼ではありますが、と終は言った。
「『でい』というその化生に、私の体をさしあげましょう」
狒々退治の褒賞の下賜という名目で呼ばれた屋敷で、白髪の麗人は螺鈿の眼をこちらへ向けていた。
「お恥ずかしくも、先日御見目汚しをいたしましたが、私の体は少々人と異なる」
初の夫、双に飛ばされた終の首は、まるで元通りになって支障なく動いている。
「妖しが蔓延る末世の今、陰陽師として重宝されている間は問題はなくとも、私もいつか妖しと同じく人の世から追われる時がくる。鬼夜叉殿、双さまの槍に再び首を刎ねられることもありえるでしょう」
傷痕一つ残らない綺麗な首筋に指をやり、終は続けた。
「その時。私の体を、『でい』、名を持つ化生」
何故だか陰陽師をとても恐れているでいは、初の腹の中で沈黙している。
だが、腹の向こうでぐるぐると回る感覚から、でいが聞いていることはわかった。
「君にさしあげます」
自らの身を写す器がないのも不便でしょう。
いずれ初さまが御子を望むことがあれば、その時、既に腹が満ちているというのも問題がありましょう。
「私の願いも叶いました」
もう心残りはございませんから。
終は解脱した聖人のように安らかな表情をしていた。
その後、少しもじもじと指を絡み合わせて、白皙の頬に朱を散らす。
「けれど、許されるのなら。時々、また、会いにきてもよろしいでしょうか」
叶わぬのなら、時々、遠くから一目見るだけでも構いません。
流石に、邪気も打算もまるで感じられない殊勝な態度に、もともと懐の深い双も「お初に聞け」と実質受け入れたようだった。
初も、また頷いた。終は、眦をほんのりと染めて微笑んだ。
時の止まったような人の、春の盛りのような笑みだった。
■
寄らば語って聞かせましょう。
不可思議、奇妙で、滑稽、神秘極まりない、ある生首の物語。
「でい。それはなんですか」
「この間、都の市に行った時に人間が述べていた能書き」
を、真似したのだと得意げに腹の中の声が胸を張る。噺家の真似事のように朗々とした声が立ち上る。そういえば最初に終と会った時、彼もこういうような語り口をしていたと思う。
双は勤め先で戦事があるからといない。
屋敷の中、座敷の一つで、初はでいと話をしていた。
「でいは、陰陽師さまの体をもらうの?」
「くれると言うのだから、時がくれば貰ってもよい。陰陽師は嫌いだが、あの者の体は人外に近いから、我にもよく馴染みそうだ。もとより我は器を転々と移り住んできた身ゆえ。あの者の言うことも一理ある」
でいには自分の体がない。実体がない、と自分では言っていた。
ならば一体、でいとはなんなのか。でいの正体とは。
そう思って、初と出会う前までの、でいの話を聞いたのが発端だった。
尋ねた初に、でいは言った。寄らば語って聞かせましょう。
これは、不可思議奇妙で滑稽醜悪極まりなく、目を奪うほど美しい、とある生首が生まれるまでの物語。
■
それでは順を追って遡っていこう。
まず、おぬしに出会った時の我は生首だったが、当然生首は最初から生首として生まれ落ちたわけじゃない。
おぬしの夫、鬼神の如き若武者のあの童、双と申す者に戦場で首を刎ねられた。
その時の我の器は、やはり若き武者だった。
『もし、そこにどなたかおられるのか』
我が其奴を見つけた時、既にその人間は死にかけていた。
山中で行き倒れ、近くには死んだ馬が倒れていた。尻に矢が刺さっていて、どうやら射られながらもここまで主人を乗せて駆け続けたが、とうとう力尽きて絶命したようだった。
『もし、どなたか、おられるのですか』
我は、山の牡鹿を器としていた。
山中に入ってきた血の臭いを辿って、男に辿り着いた。
『――鹿? なんと、美しい。山の主か』
『我を見て、一目で尊きものと見抜くとは。見所のある奴。なにゆえ行き倒れた?』
男の面貌は深手に血の気が抜けて蒼白だったが、静謐な美貌が目に付いた。洗練された言葉遣いといい、恐らくは武士の身分であり、都から出てきた者だろうと察す。真実はでいの予想通りで、瀕死の男は、仇討ちのために旅をしてきたと言った。
『私は名のある家の出だが、押し入ってきた賊に一夜にして親族を殺され、私だけが生き残った。家督を継ぐためには、親の敵を見つけて討たねばならない。武家の当主が殺された場合、嫡子が仇討ちを成し遂げなければ、家名の継承も許されぬのだ。ここで死ぬのは無念だが、それ以上に、私が死ぬことで汚名を雪げず、家が断絶することが何より口惜しい。このままではあの世の父母に顔向けもできない』
でいは強大な力を持った妖しだ。他者の体に乗り移り、器としながら今まで転々としてきた。
男の身の上話を聞いて、でいも同じように自身のことを教えてやった。
自分は偉大な妖しなのだと胸を(この時のでいは鹿の姿だったので、正確にはしなやかな首を伸ばした)張ったでいに、男は縋るように最期の言葉を告げた。
『もし、山の主よ。貴方が人の体を乗っ取れるのなら、私が死んだ後、この体を自由に使ってくれて構わない。代わりに、どうか私の仇討ちを果たしてほしい』
懐から仇討ち赦免状を取り出すと、それきり事切れた。
でいは一昼夜その体の傍にいたが、男が生き返らないとわかると、生前男の望んだ通りにしてやった。
「それが、あの生首の主ですか」
「そうさ。あの器には比較的長く在ったよ」
長く、と繰り返すと、ざっと百年くらいかなぁと腹が答える。
そういえば初の体を器としようとした時も、百年は保つようなことは言っていた。人間五十年の寿命を百年に保たせる。そう考えれば本来のでいの寿命はいくつなのかと気になったが、答えたでいは「うんと長く。たったひとつきりの木の芽が森となり山となって、そこを人間共が拓いて国を造り、それが滅んで、を幾度も繰り返す」とよくわからないことを言う。
「それで、でいは仇討ちをしたのですか」
「勿論。我は其奴の仇を討った」
瞳を丸くする初に、今は姿のない化生はけれどやはり得意げとわかる声で語る
「八十年経った辺りでやることもなくなって思い出したのだ。子孫を捜し当てていざいざ因縁の仇討ち」
また能書きのような台詞を言い出したでいに、きっとその当時もまた何かの芸能を見聞きしたのだろうと想像した。
「しかしなぁ、我はすっかり忘れていたんだ。人間はすぐに死ぬ。子孫の家を見つけて訪ねたはよいものの、そこで仇の張本人は既にこの世にないと言われた。仕方なし、代わりに子孫を討って手打ちにしようとしたら、先祖の墓から掘り出した骨を渡してこれで許してほしいと請われた。なので、許して帰った。骨を持って」
「その骨はどうしたのですか」
「役所に持っていった後、返却されて食べた」
骨は美味しいのだろうか。尋ねると煎餅みたいなものだと教えてくれる。
一応、どういう論理かわからぬが、それで仇討ちは果たされたということになったらしい。
古い仇討ち赦免状と骨、そして何より不可思議にも仇討ちに出奔した頃のままの姿のでいの入った器自身が証しとなり、御家は無事に再興されたと言う。
武家屋敷はおおわらわ。先祖代々の家臣達は奇跡だと泣いて喜んだ。やがて都のほうで陰陽寮が興り、往来を闊歩するようになった陰陽師がでいの正体を妖しと暴いたため、追い出される前に戦場へと出た。
そうしてそこで双に討ち取られた、と。
そういうわけだった。
「ほとぼりが冷めるまで適当に戦場で人の生気を吸っていようと思ったのに、大変な目に遭った。我のような妖しならまだしも、まさか名乗りも上げずに斬りかかる武士がいるとは思わぬよな? 我は吃驚だった」
それが、生首のでいが私と出会うまでのおおまかな経歴らしかった。
それではその前は、と初は尋ねる。
その若武者の器を得る前、鹿の体より更に昔、でいはなんであったのか。
「人間は知りたがり。やれやれ。では、もっと遡るかぁ。ええと、しばし待て。古い記憶は、底をひっくり返さないと」
ぐるりぐるりと腹の中で化生が躍る。
胎児のように。羊水を泳ぐ金魚のように。
やがて記憶の底をひっくり返しながら、でいの、次の話が始まった。
■
我の器はいろんなものだった。
鹿の前は鳥だった。鳥の前は猫。猫の前は熊。そのまた前は鼠でまたまた前は魚そのまたまたまた前は……。
そうやって、器に寿命がくる度に、その体から抜け出て新しい器を渡り歩いた。
ある時、貴族の屋敷に在った。小さな村一つあるような広大な屋敷には、立派な土倉が建っており、中には所狭しと価値の高い調度品が仕舞われていた。その中の花器の一つ。ちょうどその時、蠅として迷い込んだでいは、そこに活けられた枯れかけた花を器とした。
「花。花も器とできるの」
「勿論。我は命あるモノならばなんだって器とすることができる。石などは生き物よりも少々器の心地が固いが、花は移り変わるのが速いから、器にいい。生気が宿るモノのほうが器として適している」
土倉の中には座敷牢があった。
花器の上、枯れ落ちるばかりの花が息を吹き返すのを見止めたのは、その花が供えられた、座敷牢の主だった。
『ああ、なんてきれい。私のために咲いてくれるのかい』
女は痩せ細った手を格子の間から伸ばした。花に触れられることはなかったが、その手は女の最期の吐息が落ちるまでずっと花に向かって伸ばされていたし、花もまた綺麗に咲き続けた。
人であった頃よりも、その他のなにかであった時のほうが多い。
もともと人ではないから、人ではない姿で人を見ることには慣れていた。
「このように、人と言葉を交わして過ごしていたことはなかったのですか」
「人の体を器としている時は、無論、人として過ごすために人の中に溶け込むこともあった。だが、姿は人であろうと、我は化生。所詮、五十年、百年で入れ替わる人の中で無理に人を演じる必要もない。ただ、人でない時は、自分から話しかけるのは稀だった」
人は己と似たもの以外を忌み嫌う。自らの力で調伏できないモノなら尚更。妖しなら殊更。
花の器であった時も、口を利くことはしなかった。
座敷牢に入れられた女が求めていたのは、自らを重ね合わせていた花であり、女が求めた救いは妖しの取り憑いた花ではないのをわかっていた。
やがて女が息を引き取ると、それまで時を止めたように瑞々しく広げていた花弁を落とした。ひらりひらりと落ちる花弁は、やがて格子の向こうの女にまで届いて、冷えた牢の床は零れ落ちた血のように鮮やかな椿の花によって埋め尽くされた。やがて土倉を開けた家人が見たのは、その中で眠るように横たわり死んでいる女の姿。
そしてまた、別の器へ。
「それでは、でいの本当の姿はなんなのですか」
それまで朗々と語っていたでいが、初の問いに黙る。
沈黙の後、「言っただろう。我には実体がない」とよく言っている言葉を繰り返した。
「それでは、でいの一番古い記憶の器はなんだったのですか?」
でいは苦しむように唸った。思い出すのに時間がかかっている様子だった。私よりも遙かに長生きの妖しであるでいは、ひっくり返した記憶に揉まれているようなやや疲れた声で「そういうおぬしはどうなのだ」とこちらへ矛先を向けた。
「わたし?」
「我ばかり、不公平だ。おぬしの昔の話もお聞かせよ」
わたしの昔の話。
言われてみると、確かにでいの言った通り、これがまったく黙ってしまうのだった。
自分の生い立ちについては今更語るようなものでもない。初はお武家の妾の子で、使用人と変わらぬように育てられ、嫁入りを機に家を追い出され、嫁いだ双にくっ付いてここにいる。
しかし、でいのように人に語って聞かせる物語となると、まるで面白みのある話が思いつかず口を噤んでしまう。
ほれ見ろと言わんばかりにでいはぐるぐると腹の中を回っていたが、その時ふと、記憶の底から浮かび上がってくる片鱗があった。
たった一つだけ、話して聞かせられる昔語りがある。
「実を言うと、わたしは元々、いま生きている予定のない人間でした」
恐らくは、双も知らない話だろう。
ぽつりと切り出すと、でいは興味を引かれたようだった。
「ほほう。話してみなさい」
「わたしは生家では妾の子でしたので。父であるご当主様がご健在の頃は捨て置かれましたが、ご本家の皆様にとってはあまりよろしい存在ではなかったのでしょう。ご当主様が亡くなられてすぐに、奥様がわたしをどうするか検討され、双さまに嫁ぐこととなりました」
世間では、男やめもにうじがわき女やめもめに花がさく、とも言う。
当主の夫の手前、夫が存命のうちは目の上の瘤であった女とその子を排することができなかった当主の妻は、夫の四十九日も明けぬうちに行動を起こした。即ち、目障りなものを排除しようとした。
妾の女は既に亡く、後に残されたのは十二、三を数えたばかりの娘だけ。
ようやく初を手放すことができるとなった時、奥方様は十何年振りに胸を撫で下ろしたに違いない。初めは、どこぞの貧民窟の廓にでも売り飛ばされるところだった。それを、半分とはいえ同じ血を引く者として流石にそれは忍びないと、新しく当主と立った義理の兄が叩き出すに留めてくれなければ、そしてそれを見止めた商人が嫁ぎ先の口を利いてくれなければ、初は今ここにいなかっただろう。
「しかし、わたしは奥方様に厭われておりましたので。それ以前にも、ご当主様が戦事で御家を長く空けられた際に、しばしば御家から追い出されそうになったことがありました」
それは小さなことから大きなことまで、様々あった。
だが、一番印象に残っているのは、もっとも幼い頃の記憶だ。
あまりに幼かったせいで、細部の記憶は朧気だったが、不思議と奇妙な経験としてこの身に記憶の片鱗が染み込んでいた。
「ある時、御家の治める領地で、妖し騒ぎがありました」
先日の狒々の事件とは似ているようで少し異なるものだった。あの頃も、妖し騒ぎは時折あったが、陰陽寮が編制された今よりは、もう少し妖しは人の身近にあったという。たかだか数年の違いだが、まだ陰陽師の体制も整っていなかった頃、より身近な妖しへの対応を、民は土地を治める御家に求めた。
「村を囲むお山で、日夜地震が起こるのだと。地鳴りのような音が響いて、出入りの商人も怖がって出入りを拒み、このままでは外界との繋がりも切れて生活に支障が出てしまう。自然の地震らしくないから、きっと妖しの仕業だろう、どうにかしてくれ、と」
その頃、初はまだ七つにも満たぬ幼い身だったが、こうしたことは御家の使用人達が初が長じた頃になってもよく話していたから覚えている。
「奥方様はその訴えを聞いて、原因の妖しに生贄を捧げることをお決めになられました」
当主が留守の間、代理として御家を預かる者としての奥方の命は、密かに決定され、夜闇に乗じて速やかに実行された。
そうして、幼い初は、見知らぬ山の入り口に取り残された。
「おぬしを生贄に?」
「そのようです。わたしは、当時幼く、あまりよく覚えてはいませんが」
初を置いて行った使用人は、この道を真っ直ぐ昇るように、と一寸先も危うい夜の山道を指差すと言った。
妖しの被害を収めるまでは降りてきてはならない、と告げられ取り残された幼い私は、恐らく言われた通りにしたのだろう。暗い山道を、じりじりと歩いた記憶は微かにある。
しかし、そこから先の記憶はというと、一転して朧気だった。
やはり、あまりに幼かったからだろう。結果的に言えば、近隣の村に響く地鳴りは、初が山中に入った日からぴたりと止まり、初はそれから一月後、恐る恐る様子を見にきた村人に保護された。
一月もの間、獣の跋扈する山中に在った割に、衣服の汚れを除けば、幼い初は健康そのものであったという。
村人はきっと幼いこの子を哀れに思った御仏や菩薩の加護があったのだろうと言い合い、やがて村人の報せを受けた御家の家人が村に来て、初を引き取って屋敷に戻った。
「ふぅん。肝心なところはわからずとも、幼子が山中で一月も生き延びるとは只事ではなし。おぬしはやはり奇怪な縁のもとに生まれついた人間だったということか。その地鳴りを起こした妖しとやらの姿は見たのか?」
「わかりません」
山中でのことは、今までにも幾度も尋ねられたが、何故か記憶が曖昧だった。
どのように生き延びたのかも、妖しの姿も覚えてはいない。
だが、確かなこととして、それからその山に地震が起こることはなくなり、妖しの噂も聞こえなくなったという。
「ふぅん。それにしても、人はすぐに人を生贄に捧げたがる。我も幾度か捧げられたことがあるが、一時的に腹が満ちても、べつにそれで食事をまるきりやめてしまうというわけでもあるまいに。愚かだよなぁ」
「でいも生贄を捧げられたことが?」
「無論。我は神にも届く無類の妖しゆえ。皆、我を恐れ、敬い、有り難がった」
近頃の人間にはそうした感情が足りない、と憤慨したようにでいが言う。私は話の続きが気になったが、にわかに腹を立てた様子のでいが更に言い募った。
「我は本当に立派な妖しなのだぞ。そんじょそこらの化生とは違う。そうだ、先程おぬしは我の本当の姿を問うたが、我の本当の姿は、とてもとても大きいのだ」
どのくらいの大きさかと言えばそれこそ山のように大きいのだと述べる。
「大きすぎて、遠く離れなければ全貌を見ることも叶わない。我の上に苔がむして、木が生えて、森ができるくらい。その辺に横たわっているだけで、気づけば上に山が出来上がっているから、それ自体が我の器となることも多々あった」
しかし、そこまで大きいと自分では何もできない。器がなければどこにも移動できないし、痒いところがあってもかくこともできないのだ。
「仕方なし、器を見つけて移動した後には、我の器であった山が抜け殻としてそこに残る。ウン、今も残るいくつかの山は、かつて我であった残骸なのだぞ」
そう聞くと大変なことだと感じる。同時に、でいの正体が私が思っていたよりも遙かに大きなものだったということに驚いた。
「ただ、姿のすべてが見えずとも人間共にも感じるものはあるらしい。そうやって我の気配を感じ取った人間が、勝手に怯えて怒れる神を鎮めるように生贄などを勝手に捧げてくるわけだ。器がない時の我はあまりに大きすぎて、ちっぽけな人間程度、腹の足しにもならない。生贄の中には、我が直接食わずとも自然と死ぬ人間も多かった」
そうして死した人間が、腐り、土に溶けて、その下に埋もれたでいの養分となった。
「では、器のない時は人とは話さなかったのですか」
「我の実体に口はない。できることといえば、せいぜい、体を揺すって、木や土を動かし、風を起こすことくらい」
不便だが、器のない魂だけの分、腹は他の時より空かない。だから、実体の時は常にまどろむようにただその場に在った。動けず、口を利けず、飢えることもない。その状態に飽きるまではそうして過ごす。
「人も、我の起こした出来事は見るが、魂の我自身を知覚することはない。死に近い人間は常世にも近いから我に気づくこともあるけれど。ウン。そういえば、我を見ることのできた生贄の娘がいたし」
「そうなのですか」
「ああ。既にその頃にはあの生首の主を器としていたが、ちょっとの間、人間の身体から離れて一眠りでもしようかと。だから、その時の我は口を利けなかったが、痒いところがあってね」
ちょうど、でいの足のような箇所に当たる部分に棘が刺さっていたのだという。
普段ならば気に留めるほどもない些細な刺激だったが、なんとなく気になっていたところ、やってきた生贄の娘が「かゆいの」と話しかけてきた。
幼子は年寄りと同じで、人の中でも死に近い。特にその幼子は常世のモノを惹き寄せるような生まれついての性質があったのだろう。まだ物心もつく前の幼い娘は、声を発すことのできないできの感情を汲んで、でいの上にできた山の至るところを探し回った。そうしてようやく見つけた棘を、えいと抜いたのだった。
「我は恩を知らぬ妖しではないから、娘を食いはしなかった。それに、山中の獣や虫達からも守ってやった。適当な動物の器に入って、近くで力を貸してやったのだよ。人間は放っておいたらじきに死ぬものと知っていたが、そういえば、あの時ほど人間の脆さを感じたことはなかったよ」
なんと力がなくて、弱々しく、脆くて、柔らかい生き物だろう。
一人でいたらすぐに死ぬ。常ならば、それも自然の摂理だと思ったが、少しの恩と、後はあまりに暇を持て余していたから、その珍妙な生き物をしばらく観察することにした。そうしたらだんだんと、あまりに弱々しくて、脆くて、柔らかいその生き物に対して、情めいたものが沸いてきてしまった。
「その子が転びそうになると、木の根を退けて葉を茂らせて受け止めてあげた。朝露の溜まった花を口に含ませてやった。木の実の餌をやって、枯れ葉で寝床を整えて、まったく、人というのは手が掛かると思ったものよ」
目を離すとすぐに死にかける人間を「このおばかめ」と呼びながらなんだかんだと面倒を見た。しばらくして迎えに来た人間に連れて行かれた娘の、その丸い額から、そおっと記憶を抜いた。
「どうして?」
「妖しは人の世には馴染まないから。余計な記憶は、持っていないほうがいいかと思って。ほんとは我と結婚してくれないかなと思っていたから、残念だったが」
我の小さい人間、かわいいおばかちゃん。長く生きろ。
そう言って、顔も口も目も時々しかないでいが去って行く幼子を見送っているところを想像する。
「でいとわたしのお話、似ているね」
「そうだったか? 奇遇なこともあるものだね」
「本当ですね」
しみじみとふたりで言葉を交わす。
「切り傷なんかをこしらえたら、傷口を葉で結わいてやったのだ。それくらい、かわいかった」
「結ぶ?」
「傷口を縫い合わせるのだ。人間もするだろう、「紐結び」。紐やみくじを、自分の魂の一部の祈りを込めて結ぶ」
「そういえば、わたしも双さまの紐を結びました」
私が結んだ紐が解けたから、何かあったのではないかと思って帰ってきたと言っていた双の言葉を思い出す。あれも立派な妖しに通じる呪術的な習俗だったのかと思えば、妖しの世界は交わらないようでいて近くにあることを感じる。
「まぁ、おぬしは我と臍の緒で結ばれているのだから、おぬしは何も怖がることはないよ」
得意げに腹の中を泳ぎ回るでいを撫でながら、初は双と終と並んで、でいが昼寝をしている時に話したことを思いだした。
でい。でいだら。でいだらぼっち。影よりも大きく、水よりも多く、空気よりも広大な、山の如き巨大なでいだらぼっち。その身が山となり、湖となり、川となり、森となり、その上に国が出来てはまた滅ぶ。おおきな一つの命。
そのような大きな存在が腹の中にいる実感はなかったが、胎は命を育むものであると考えるならば不思議ではなかった。
遠くのほうで、竹藪の間から双の声が聞こえてくる。畳の上から立ち上がると、初は外の日向のほうへと向かって行った。
ご感想をありがとうございました。




