レン
久しぶりの猫シリーズです。ほんのりファンタジーです。
今回はこの地域のボス猫だった、レンの視点からのお話です。
R-15は念のための設定です。暗い話でも大丈夫な方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
とても幸せだった。世界一別嬪な妻と、可愛い子供達に恵まれて、周囲は思いやりに満ちた優しい世界だと思っていた。
ねぐらにしている小さな家は爺さんの独り住まいで、自分達を話し相手とみて、粗末ではあるがいつでもありつけるよう餌を構えてくれていた。
自分が預かる縄張りで暮らす者達はそれを知っていて、食い詰めるとうちへやって来る。愚痴を溢す女達を妻が宥めたり、子供同士で団子になってじゃれ合っていたりと賑やかなものだ。
雨の日に爺さんが連れて帰ってきた小さな女の子、それが妻だ。
兄妹同様に一緒に育ち、当然のように惹かれていった。だが妻に言わせると自分は鈍感らしく、確かに、大切に思うこの気持ちが男女のそれとは中々気付けないでいた。
傍に居るのが当たり前で、世界一大切なのも当たり前。別に良いじゃないか。結局一緒だろ。そんな風に言ったらとても怒られた。
異変が起きたのは、うちの男衆が怪我をして帰ってきてからだった。
たまに若者が拐われることは以前からあった。意識を失わされ、身体をいじり回されたらしく下腹部と耳に傷を入れられ、回復した頃に解放される。そういった者達は寿命が伸びたが、繁殖能力が無くなり次世代に命を繋ぐことが出来なくなった。
だがそれとは違う。状況を詳しく聞いたところ、死んでも構わないとばかりにいきなり腹を蹴り上げられたらしい。
表皮に擦過傷などは大して見当たらなかったが、肋骨が折れているのかポコンと胸元に瘤をつくっていて、動くととても痛そうで、事情を聞く間も彼は目を伏せてじっと踞っていた。
そうこうするうちに、子供が行方不明になって悲惨な姿で発見されるようになった。もう息のない子にすがりついて哭く母親を見ると胸が痛んだ。
動きの素早い若者よりも非力な年寄りや子供達が狙われるようになったと思ったら、今度は餌場ではない所で泡を吹いて死んでいる若者を見つけた。見慣れない食べ物が一緒に落ちていて、長老に相談すると毒ではないかと言った。
そんなことが頻繁に起こり、皆が警戒してピリピリするようになっていた。
今日もいつものように妻に声をかけてから日課のパトロールに出る。
すると、これまたお約束のように悪友が喧嘩をふっかけてきた。
左目にある二筋の傷痕を跨ぐように模様が入っていて記号のように見えるからマーク、少年の頃にそう名乗るようになった。
その傷を作ったのは自分なのだが、そこは気にならないのだろうか。それとも、ボスの座には興味が無い癖にいつもいつも挑戦してくるのはそれの為なのか。
気が強く好戦的だが底抜けに陽気なこの男は、ひとしきり相手してやると満足するようで、その後はパトロールする間ずっとついて回ってくる。
ついでに縄張りうちで見聞きしたことを報告してくれるのは有難いが、最後には妻のレインがどんなに魅力的かなどと、まるでマークの妻であるかのように滔々と話し出すのには若干苛立たされる。
そしていつも、麗しの奥様にご機嫌伺いをせねばなどと言って帰りに押し掛けてくるのだった。
「雨の匂いが濃くなったな。降りだす前に帰ろう」
雲がぽってりと厚く垂れ下がる灰色の空を見上げてマークに声をかけた。家路への道を急ぐ。
異変にはすぐ気がついた。家までたどり着く道すがら、近所に住まう人間がぱらぱらと立って家の方向を窺っていたからだ。「警察に」などと言う抑えた声が耳に入った。
ちらりとマークに目線を送り家に飛び込む寸前、妻の火を吹くような怒声が聞こえてぶわっと総毛立った。
目に入ったのは、ひょろりと背の高い人間の男。被っているフードから覗く肌は不健康そうに青白く、右手に赤く染まったナイフを持ち、左手にはあろうことかうちの子を掴んでいた。
妻は男の真正面で怒り狂って威嚇しており、門の辺りには留守を頼んでいた男衆が倒れて血を流し、奥では爺さんが腰を抜かしてへたり込んでいた。
「空き家かと思ったら爺さんが居るんかよ。ちょうどイイ、こんな小物にも飽きてきた所なんだよね」
そうへらへらと笑いながら、うちの子にナイフを突き立てようとする。同時に、妻が飛びかかるのを見た瞬間、カッと全身の血が沸き立った。
後は夢中だった。とにかくナイフを持つ手を一番に何とかせねば。その思いで男の右手に飛びつく。
自分達よりずっと大きな人間に、この爪と牙がどこまで届くかなんて知らない。とにかく皆を守るのだ。
脇腹に熱く焼きつくような感覚があったのに構わず、全力で牙を立てる。マークも飛びかかったようで男はバランスを崩し、皆で縺れ合って地面に投げ出された。
ちょうどその時、ばらばらと複数の足音と人間達の怒声が聞こえて、あっという間に男は取り押さえられたようだ。
妻と子が駆け寄って来るのが目に入って安堵した。
しとしとと柔らかく降る雨が身体の熱を奪っていく。脇腹だけがじりじりと熱い。
顔をくしゃくしゃにして覗き込む妻の瞳から零れる水滴を、舐めとろうと頭をもたげるが力が入らない。
ああ、自分はここまでか。
置かれた状況を悟った。
世界一大切な女の盾になれて、その名前に命を捧げられるなら本望だ。だが、でも。
「そんな顔すんな」
ごめんな、一緒に居られなくてごめん。
ずっと守ってやりたかったけど。
勝ち気な君がこっそり哭く時は傍に居てやりたかったけど。
自分が居なくなっても、どうか独りで哭かずに笑っていて欲しい。
ごめんな、レイン。
愛しい声が必死に自分を呼ぶ声が遠退いていく。薄れていく意識の中、音にならない声で愛しい名を呟いた。
読んでくださってありがとうございます。
レンとレインの別れのお話でした。レインのその後は短編「ママ」の回でどうぞ。