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長い夜を歩くということ  作者: 放馬 舜
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【第九話】

 抜け殻となった彼に残ったものは社長という肩書きだけだった。浮かびあがろうとする感情を彼は振り払うために狂って仕事をした。彼女を忘れることなど片時もなかったが、その影を追うこともなかった。彼女が背中を押し、時に背中を叩かれながら勝ち取った居場所を、彼はさらなる高みへと推し上げていった。そのことだけが月にいるはずの彼女に見せられることであり、彼女に近づく方法だった。

 彼はただの人ではなくなった。しかし、社長として進む道はまた新しい炎を彼の中に渡し続け、それは聖火を受け取るランナーと同じで止まることは許されなかった。彼は脳が寝ていたと勘違いするほどに溢れ出すアイデアを仕事に変え、作り出し続けた。巨大な壁が目の前に現れ、彼がたじろいだ時、彼女は彼の背中を強く叩いて無理矢理に一歩歩ませた。そして彼が振り返る時、消えたのだろう。そう思えるほどに彼の人生には背中から顔を出す無邪気な白い歯が見えている気がした。


 神山さんの両目からは途切れることのない涙が流れ、笑顔で刻まれるはずの皺にそれは吸い込まれていった。

「私は今でも後悔しているんだ。あの時、全てを捨てる覚悟ができなかった自分を。彼女を思うことが罪滅ぼしになるわけではないのに、今もこうして、彼女との思い出を巡ってしまうんだ」

私は神山さんの話を冷静に聞くことができていた。もしくはあえて距離を空けるように聞いていたのかもしれない。それは私もただの人ではいられなかった一人であり、私が私に対して言えなかった言葉をようやく伝える事ができるからなのだろう。

「でも、神山さんは社長という役を投げ出すことなく、杏奈さんが願ったことを最後までやり遂げたということですよね?それは杏奈さんが望んで、そして、ただひとつだけ一緒に居られる方法だと彼女は思ったのではないでしょうか。だから、神山さんの…手放せなかった社長という役の中には、ずっと杏奈さんいてくれて、一緒に歩んで来たんだと僕は思います」

神山さんは浴衣の袖で涙を拭き、大きく口を開けて笑った。杏奈という女性の笑顔がそこには映っていた。

「私が君くらいの歳の時は…ちょうど杏奈に泣きついていた歳くらいじゃないか?私も君ほどの落ち着きと強さがあれば、変わっていたのかもしれないね」

「私は強くなんて…いや、そうですね。でも、それだと僕たちが会うこともなかったかもしれませんね」

「確かにね。それは…きっと困ることになる。杏奈と一緒だったとしても、また私は別のことで泣き言を言っていたかもしれないからね」

「その時は満月に聞いてもらうしかないですね」

「きっと嫌がって雲に隠れてしまうだろう」

穏やかな空気の流れが夏が去ることを拒むように停滞している。

「何度も言ってしまうが、本当に君に会えてよかったよ。もしよかったら、君の名刺をいただけないだろうか?」

神山さんは人生の荷を下ろしていた。緩んだ穏やかな表情がそれを物語っている。私は突然の提案に驚くも、仕事ではないのだから名刺など持ってくるはずがなかった。

「申し訳ありません。今手持ちが…」

そう言いかけた時に、視界の端の携帯が強く私に主張をしていた。手に取り携帯のカバーを外す。プラスチックの簡素なカバーには、張り付くように二枚の名刺が挟まっていた。私は落書きされた一枚をそのまましまい、角が少し丸まったもう一枚の名刺を差し出した。

「申し訳ありません。あいにく手持ち無沙汰なもので、このようなものしかなく、ご容赦いただければ幸いです」

私は彼に名刺を手渡すと今度は私が名刺をもらった。

「これが私の最後の名刺交換だな」

と神山さんは初めて名刺交換をした新人のように微笑み、じっくりと名刺を眺めていた。

「ほう、お医者さんだったんですね。これは意外でした。」

神山さんはそう言うとと一つの場所を見て止まっていた。私が彼の視線の先をたどった時、陽だまりのように優しく包む声が私の肌に触れた。

「そうですか。塩尻さんもこの一年間、頑張ってこられたんですね」

私はその言葉の意味を一切の迷いもなく理解することができた。しかし、何も言わなかった。彼も静かに私の名刺をしまった。最後の一口を私が飲み終えた時、雨が降り出していた。満月は隠れてただ騒がしい雨音が私たちを包みこんでいた。私は神山さんにお礼をして部屋を出た。彼の顔にはもう涙の跡すらなく、初めて会った時よりも明るく笑っていた。

「また、あなたとはどこかでお会いしたいものです」

彼はそう言ってお辞儀をした。

「きっとまた会えます。その時には…今度は…私が話を用意しておきます」

私はなんとか笑っていた。

 雨の音は強まり、土砂降りに変わった。部屋に戻るとソファに置いたバッグがふと目に入った。私はそれが自然であるように、それに手を突っ込み、少しだけ厚みのあるものを掴み、取り出した。表紙の厚紙をめくろうとして、手は止まった。私はそれをまた丁寧にバッグの中にしまった。あらゆるものに衝突し、流れて消える雨の音に、私は頭を擦り付けるように委ねた。


 四角形ばかりが目につくようになると、東京に帰ってきたと実感する。緑色から灰色の世界に移ろう中で私はそのどちらにもいない。まるで宇宙空間に放り出されたような、身動きのできない浮雲の心がなんとか体に引っかかってくっついている。

 新幹線の乗客はまばらで、気を使うことなく、流れる景色を見ることができた。私は昨日の神山さんの涙を思い出した。溢れるような彼の後悔の言葉が何度も頭の中で繰り返された。自分という存在と向き合い、感情と向き合い、醜さを晒すことを気づきもせず、私という外部に、神山真二、という役ですら破り捨てていた姿を見て、私は考え続けた。結果、ただひたすら憧れを抱いたのかもしれないと結論づけた。そして、東京を離れても、私は、塩尻尚樹、にすらなれず、医師、になったことが虚しかったのかもしれない。私は弱くなるという強さを、まだ、持つことができないでいる。

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