【第八話】
次の日、彼は会社に行くことができなかった。自分で会社を興してから一度たりとも休んだことはなく、それは彼女と会う前も、やけ酒を浴びていた時でさえなかったことだ。費やした日々と思いは結実して彼に「大企業の社長」という肩書きを作り、実家さえ超えるような旗印を授けてくれた。一日休むことが十年の信頼を泡に帰すことを彼は社会人生活で強く叩き込まれ、それは嘘ではないと確信している。しかし、積み上げた日々が今、外側から「ただの人」であったはずの彼に噛みつき、引きちぎろうとしている。求めてきたものの果てが幸せを破壊する義務と責任の檻だった。彼はただ逃げてしまいたいと思った。ただ遠く、満月を眺めた熱海よりも遠く、海さえ超えて、彼女の歌う言葉が通じる国に、彼女の手だけを握り、二人でいなくなってしまいたかった。彼はソファに座り、カーテンの隙間から漏れ入る光の柱をただ呆然と眺めた。どれだけの時間が彼の姿を見て通り過ぎたかわからないが、彼女がソファに座り、彼の肩に触れた時、朦朧とした意識がようやく現世に戻った。
「ああ、杏奈か。おはよう」
彼が声をかけると肩に触れた手が驚いて震えた。
「ああ…真二。ビックリした。会社には連絡してあるの?」
彼女は彼が言いたくないことを言わせなかった。彼は彼女に顔を向けることができず「ああ、秘書には連絡してある」と喉から息を漏らした。
「よろしい」
彼女はそう言うと彼の頭を撫でた。彼の中の暴れぶつかり合う思考が段々と動きを止めて、ゆっくりと沈殿していく。
「昨日、あの後何かあったんでしょ?それにその前からもずっと。昨日のことと何か関係があるんでしょ?」
彼女はソファに座り直し、彼を諭すように言った。言葉は軽く、私の肩をからかうようにぶつかった。彼女が立ち上がり、カーテンを開けた。シャッというレールの音とともに光の柱は広がって部屋全体を照らした。日の光が彼の閉ざされた口を溶かす。胸に押し込めた感情が言葉となり蒸発して抜け出ていく。彼は昨日の話をして、もっと前にあった彼らとの一連を伝えた。胸の中に残った火がまた大きく燃えそうになって、どうしても彼の体には力がこもった。しかし、話を聞いた彼女は突然吹き出し、すぐに大声を出して笑っていた。
「なんだ、最近おかしいと思ってたらそういうことだったのね」
彼は呆気に取られて、ただ彼女の笑いが収まるまでじっと待つことしかできなかった。一瞬にして思考も感情も飛び抜けた頭には彼女の笑い声だけが響いていた。
「それはまあ、何も知らない人がバーで出会った目の見えない歌手と付き合ってるって聞いたらどんな人でも不審がるに決まってるじゃない。しかもあなたは広仁社の社長なんだから。心配するわけだよ」
他人事のような言葉を彼は彼女の口から聞きたくはなかった。諦めてしまったような淡々とした言葉は彼女には似合わず、二人の間を客観的な言葉で開けられる気がして彼は嫌だった。
「でも…ありがとう。真二の気持ちは…十分に分かってるから。それだけでいいよ」
それから彼女は朝食を作り、「せっかく休みなら遊びに行こう」と外に連れ出された。どこか特別な場所に行きたいと彼は思わなかったが、彼女を乗せて車を走らせる時間でさえ、彼にとっては特別な時間だった。昨日のことなどどうでも良いと思えるようになっていた。やはり、所詮はただの一般論でしかなく、大した問題ではない、と今なら昨日の男に笑いながら言える。彼はそんな気がした。彼女の何種類もの笑顔が彼の誇りさえも照らして、崩してくれた。
「夕食は家で食べようよ」
そう言った彼女に彼は同意した。夕食を作る時間から一緒に居られることはどんなに会食が減ったとはいえ、なかなかないことだったので彼は素直に嬉しかった。彼は「何か手伝おうか」と帰りの車の中で聞いたが「それだと逆にわかりづらくなるからいい」と彼女は笑った。それはその通りだ。「じゃあ、何か手伝うことがあったら呼んで」と伝え、彼女が指示するままにスーパーで食材を買って帰宅した。
彼は食事を待つ間、何もすることがなく、かといって気持ちも落ち着かず、ソファに座りながらテレビを眺め、次々とチャンネルを変えた。どういった理由でチャンネルを変えたのか彼は明確にはわからなかったが、テレビには自社が手がけたCMが幾度も流れ、バラエティに回せば、撮影現場で会った芸人がテロップを出されて笑いをとっていた。ドラマでは会食に来ていた女優たちが所狭しと動き回り、画面の中で輝いていた。初めて消費者という立場から彼は仕事の成果を見ることができた。その時、胸には外れていた部品がはまったかのように充実した重みを感じた。
「どう?自分の会社が作ったもの見るのは?」
彼女はからかう言葉で彼をくすぐった。
「やっぱりいいものだね。誇りだね」
彼は何も考えず子供みたいに浮かれた声を出していた。彼女も微笑んでいた。
「それじゃあ、ずる休みは今日までで、明日からまた仕事頑張らなきゃね。社長さん」
彼女の声は跳ねて歌っていた。その声を彼は励まして発破をかけているのだと思い「ああ」と彼は胸の内側から声を出した。
夕食はいつもよりもなぜか美味しく感じた。味の細やかな違いに気づき、それを味わうことができる。そんな感覚だった。彼は素直にそのことを彼女に伝えると「やっと私の料理の美味しさに気づいた?全く仕事ばっかりの社長さんはこれだから困る」と笑いながら答えた。彼が苦笑いをしてなんとかやり過ごす。彼女はすぐに来週歌う曲について話出したので、彼は相槌を打ちながらその話を聞いた。
食事を終えてから彼はソファに座り、彼女は食器を洗っていた。食器洗いくらいは自分がやると彼は言ったが、彼女はさせなかった。「ソファにでも座ってゆっくりしてなさい」とまるで犬を叱りつけるように彼にピシャリと言ったのだ。彼がそうしてくつろいている時に、彼女はまるで忘れ物でも思い出すように言った。
「…ましょ?」
バラエティ番組の笑い声に混じって、横から何かが聞こえた。あっさりと明るく流れたその音は幸運の女神のように通り過ぎたため、彼は正確に聞くことができなかった。
「今なんて言った?」
「私たち別れましょ」
今度の声ははっきりと聞こえた。と同時に彼は脳みそが石にでも変えられたみたいに、何もかもがわからなかった。
「どうして、いきなりそんなこと言い出すんだ。昨日のことなら今朝も言ったことだけど、あいつの言ったことはただの一般論でしかないじゃないか。僕はずっとそれた道を生きてきたんだ。今度だって何も変わらない」
彼はなるべく冷静装って冗談をあしらうように、少し笑いさえしながら答えた。しかし、心臓は肋骨を折って弾き出さんばかりに強く打っている。彼女は口元に手を当てて揶揄うように楽しそうに笑っていた。
「それはバーで人の歌をまともに聞かずにやけ酒してた頃だよ?今は違う」
「そんなことはない。私は…」
「あなたはやっぱり社長だよ。ただの人なんかじゃない」
彼女は彼が一番大好きな白い歯を全部見せてくれる笑顔をした。反射的に出しかけた言葉は反射的に沈められた。でも、その顔が少しずつ遠ざかって寂しげに俯いてしまうような気がして、彼はどうにか手を伸ばして捕まえなければならなかった。
「君だけは…君だけはそれを言わないでくれ。杏奈が言ってくれたんじゃないか。お前は【ただの人】だって。君がそう言ってくれたから私は会社を立て直せたんじゃないか。新規事業だって、吸収合併だって全てそうだ。社長の私にはできなかったことだ。だから、これからだって変わらないよ。私は【ただの人】だ。それでしかないんだ」
彼は「そうだ」と言って立ち上がった。「君に渡したいものがあるんだ」と書斎に向かい、震える手で指輪を入れた箱を掴んでリビングに戻る。彼女は彼がリビングを離れる間、そして、戻ってきた時も微笑みをたやさなかった。崩れていくこの幸せの時間をどうにか埋めるために彼は一人で喋っていた。。昔見た映画のセリフを頭の中から引っ張り出し、小説の文章を探し、無くなってしまえば、支離滅裂な単語を全て並べた。
「これを君に受け取ってほしい」
彼女の手を取り、開いた手のひらに指輪を置いた。彼女の貼り付いた笑みは消えて、表情は震え出す。喜びと嬉しさと感動。そして、その全てを攫っていくような涙が彼女の開かない瞳からは流れていた。
「本当はもっと良いお店で、夜景でも見ながら、その景色の色を話しながら食事を楽しんで、それから渡すつもりだったんだけど、杏奈があまりにもひどい冗談を言うものだから。これはその仕返しだよ」
彼は震える息を喉で押さえ、必死に言葉を選んで絞り出していた。彼女はやっと口を開く。
「ありがとう。本当に嬉しい。本当だよ?もうここで命が終わっても良いと思えるくらいに幸せ…」
彼女の頬は満月を見た時と同じように赤く染まっていた。まるでその中に命でもあるかのように大事に両手で指輪を包む。胸に抑える姿はあの時ときっと同じはずだと彼は信じた。
「でも、これは受け取れない」
そう言うと彼女は両手を胸からゆっくりと剥がし、彼の前に差し出した。彼女の両手は震えていて、ブランド店のショーケースを見るだけで立ち去るしかない少女のように、彼には彼女がもがいているように見えた。しかし、彼女はそれでも覚悟を決めて、ゆっくりと手のひらを開いていく。彼女の痛みは涙となり、両目から止めどなく流れ続ける。とうとう開かれた手のひらの中に指輪は変わらずにあった。彼女の熱がまだ情緒を残して指輪に絡みつく。ダイヤモンドはまるで自分が幸せの化身であるかのような高飛車な態度で輝き続けた。
彼は頭の上から熱がゆっくりと抜けて消えていくのを感じた。それは仕事で部下が大失敗を犯した時の対応を考える時に似ていた。そして、そんなことが何よりも先に頭によぎった自分が許せなかった、しかし、感情はついてくることはなかった。
「真二はね、知ってたんだよ」
彼女はまだ流れる涙を拭きながら、それでも、どうにかして私の知っている彼女であろうとしている。彼はそう思った。
「昨日の人に会う前からずっとね。私と一緒にいるってことがどういうことなのか。だから、知ってたから、私と付き合っていることを伝えた時の間に怒ったし、私たちの中にあの人がいることを許せなかったんだよ」
彼は「違う」という一言ですら言えなかった。彼は真実であるはずのこの言葉を口から放つことを一切許されなかった。それは彼女に写っていた彼という人間の本音と、その人間から放たれるペテンの愛の感情が、彼女の心を削り取っていた事実を今まさに知ってしまったからだ。
「でもね、それを責めるつもりなんて一切ない。真二が私のことを本気で好きでいてくれたことはわかってるから」
違う。そうじゃないんだ。彼は胸の中で何度もそう叫んでいた。そう答えるしかなかった。でも、彼の口は固く閉ざされたまま。
「やっぱり真二は社長なんだよ。志を持って掲げて、その光に多くの人が集まって、そして今では光が見ず知らずの人にさえ、元気を与えてる。あなたのテレビを見る嬉しそうな顔を見ちゃったら、私のわがままであなたを、ただの人、になんてできないよ」
彼女は降参したとばかりに正直に笑った。そして、やっと彼女の本当を見せた。彼は今すぐにでも自分の心臓を貫きたかった。どうにかして自分を殺してしまいたかった。この体が一度死んでしまえば、私は今の私ではなく、ただの私になれて、彼女はまたあの笑顔で先ほどの言葉を撤回してくれる。そう彼は必死に信じようとした。彼が本気だと信じて、彼女を苦しめた偽物でさえ、本物に書き換えられて、これからの人生で埋めることができるとどうにか信じたかった。
「それにね」
彼女はまた楽しげに、そして、もうできもしないのに下手くそな笑顔を浮かべた。
「それにね…私はもう月に帰らなきゃいけないの」
彼女らしさを模した笑顔はどこか痛々しく彼の目には映っていた。
「杏奈。何を言っているんだ?」
「私の目が見えないのはね。地球のものを見てしまうと月に帰れなくなってしまうからなの。地球から見る月もちゃんと見てみたかったな…」
彼女はあの日のことを、さらに飛び越えた昔のことを、少しずつ瞼の裏に映し出すかのように顔を上げていた。彼女は今歌っているのだと彼は思った。上手くなってしまったことが今ではただ苦しく、同時に彼の胸は暖かく彼女の黄色で染まる。
「見たっていいじゃないか。そして、このまま地球に住み続けたって悪くはないだろう?」
彼はもう、何もかもにすがりたかった。理由なんてものはどうでもよかった。どうにかして、目の前の彼女のことを説き伏せて丸め込めてしまいたかった。今、自分が感じているものだけが自分だと彼は信じたかった。
「確かにね。優しい人ばかりだったし、お酒は美味しいし、音楽は本当に歌っいて気持ちよかった。でも、それでも、やっぱり私は地球にはいられないよ」
「それなら…」
彼が話そうとすると、彼女はすらすらと言葉を宙に流した。
「私は…ここでは、ただの人、ではないから。そのことがいつか大切な誰かを傷つけて、何よりも自分を傷つけることになる」
「傷つけあったっていいじゃないか。人はそうして、互いのことを理解していくんだ」
「私が月を思い、焦がれた時、その思いを遂げることも、打ち明けることさえ、ここではできない。それはぶつかり合うだけではどうしようもないことだから」
「それでも、どうにか対応していくことはできるんじゃないか?人はそうやって進歩してきたんだ」
「でも、現実は…月に戻れないという事実は、ずっと消えないよ。誰かのために尽くしてもそれが成就しない虚しさも、相手の優しさを知りながらも満たされないまま抱く悲しみも、互いの優しさが互いを苦しめていくしか無くなってしまうんだよ」
彼はここでも、また言葉が出なくなる。喉に詰まる何かは彼一人の力で抑えられているようには思えなかった。それはきっと、今彼の中にいる彼女が目の前の彼女の思いに従って、そうさせているのかもしれない。そして、それはまちがいなく彼女の優しさであり、強さであり、彼への愛だった。ここでやけに冷静になれている自身が嫌で、彼はどうしても感情的にならなくてはならなかった。彼はどうにかして炎を、自分の内側にある激情を探し当てなければならなかった。
「私はもう十分幸せにしてもらったんだよ?だから、お互いが、ただの人で居られるここで終わりにしましょ?神おじさん」
彼女の最後の頼みを彼が断れるはずなどなかった。最後の優しさと下手くそな嘘がまだもがこうとする彼の体を抱きしめていた。彼はただゆっくりと抵抗していた首を縦に振った。彼女を見ると、涙の跡が嘘だったと思うくらいに優しく白い歯を見せて笑っていた。
夜が明けて、月は無言で彼女を連れ帰っていた。朝起きた時、ベッドに彼女がいないことをただ呆然と知り、何かに取り憑かれたかのようにリビングに向かっていた。薄くなった部屋の空気を裂いて歩いた先にテーブルがあり、その上には手紙が置かれていた。冬の枝のような冷たい手でなんとか掴み、ソファーに体を落とすと、彼はゆっくりと無意識のまま手紙を開いた。嘘を剥がした感情のままに、波打ちながら蛇行した彼女の文字は「今までありがとう。元気でね」と記され紙は涙で縒れていた。
彼は無表情のまま、また涙が流れていた。陽が上がり、カーテンの隙間から光が差し込んで、彼の前に柱を作る。涙が垂れ落ちる彼の目にはしっかりと色が見えて、それは黄色だった。彼女の黄色ではなく、鮮やかなまでに彼の知っている黄色だった。