【第七話】
彼は彼女と同棲を始めた。と言っても彼の住むマンションに彼女が身一つでやってきただけで、見かけ上の変化が特にあったというわけではなかった。しかし、それはあくまでも見かけだけの話で、彼の心にはどんなインテリアでも埋まらない暖かさが宿った。彼女が初めて玄関のドアを開けた時、見えていないはずなのに「凄い」と素直に驚いたことが彼には嬉しかった。自分のやってきたことが彼女を驚かせ、彼女への恩を、この場所を与えることで返せることが彼にとっては誇らしかったのだ。
日中の彼女について、彼は何も知らず、一緒に暮らすようになってから驚かされた。ある日、彼女は大量の破れた洋服を紙袋に詰め込んで帰ってきた。両手で重そうに抱える姿はセールで激戦をくぐり抜けた主婦のように疲れていて、彼は慌ててその荷物を引ったくった。彼女にこの紙袋の正体について半ば問い詰めるように尋ねると「これが私の昼間の仕事」と楽しそうに白い歯を見せた。彼女は日中の内職で生計を立てていたのだ。そして、毎週水曜日は決まってあのバーで歌い、不定期で別の店で歌っていたのだと言う。彼は彼女が努力していることを、彼女と交わすバーでの真剣な言葉で知っていた気でいたが、それよりも孤独の中でもがきながら、彼女が一切それを見せることなく屈託のない笑顔を浮かべていたことを知り、手に持った袋の紐が指に強く食い込んだ気がした。
「もしも、お金が必要ならうちの会社で働けばいい。私は君の助言があったから会社をここまで成長させることができたのだから、それくらいのポジションは準備しても文句は出ないだろう。私がどうにかする」
と彼は力強く答えた。でも、彼女はプッと吹き出してから大笑いした。そして言った。
「いきなり目の見えない小娘を会社に連れてきて、影の功労者扱いして、助言を貰うようにしたら、それこそ社長がおかしくなったってみんな心配するよ?もしかしたら次の総会で不信任なんてことにもなりかねないんじゃない?そんなことになったら私たち一緒に住めなくなっちゃうじゃない」
想いだけが彼の胸の中でうねって心を焼く。それがもどかしく、このざらつく熱のやり場をどうにかしてしっかりと形に表したかった。彼女は小さく息を吐き微笑んだ。柔らかい笑顔が彼の中を痛めつける自己嫌悪を優しく振り払ってくれた。
「でも、ありがとう。一緒に暮らせるから内職の量も減らせてるんだよ。だから、真二も無理しようとしないでよね」
彼女の言葉には以前のような刺す強さは消えていた。それは付き合うようになってからであり、きっと彼女の本質の別の一面なのだと彼は受け止めていた。
彼は家に帰ることが待ち遠しかった。彼の楽しみは水曜日だけではなくなり、毎日がカラフルに染まる。そんな広告会社社長として社員たちに示しがつかないありきたりな表現しか出てこないくらいに、彼の普通は充実していた。
付き合いでの会食は相変わらず多かったが、それでも、仕事にならないようなものについては彼は断るようになった。付き合いが悪くなったことを咎める人間も多かったが、彼にはそんなことはどうでもよかった。かえって一本通った行動が彼の時間の価値を高めてくれたのだろう。彼は会食でより丁重に扱われるようになった。それと同時に芸能人が色目を使って彼を誘惑してくることが増えた。しかし、そんな選択肢を選んでしまっている時点で彼女たちはもう杏奈という女性に勝てるわけがないのだ。彼は夏の桜でも見るように彼女たちに一線を引く笑みを浮かべ、そして、たくさんの愚痴を聞いてやり、彼女たちの汚れた心を洗い流し、タクシーに乗せて見送ってやった。そして、一人、別のタクシー拾って帰る。これもまた彼の日常になっていた。
同棲を始めて最初のうち、彼女は家の曲がり角で体をぶつけ、ちょっとした段差につまづくなどして、彼は気が気ではなかった。しかし一ヶ月もしないうちに彼女は普通に歩き、普通に生活をして見せた。
彼が家に帰る時、彼女は内職をしながら待っているか、疲れてテーブルにうつ伏せで寝ていた。その度に彼は彼女を抱きかかえベッドに運んだ。彼にとってその瞬間は自分に戻れる時であり、幸せそのものだった。その時が何万回でも繰り返されることを望むほどに、彼女の存在は彼そのものを開く鍵となっていた。
彼には多くの友達ができていた。それは会食を重ねた結果でもあり、それよりも大きな理由は、彼の気さくで誰にでも優しい笑顔と社交性のおかげだった。そして、その中には戦友と呼べるような人間もいた。彼らはこのすばらしい友人を紹介したいと何度も会食に女性を連れてきた。名家の令嬢にドラマや映画で主役を演じた女優。彼の好みを何度も聞いて彼らは彼のために紹介をしてくれた。彼は同棲している彼女がいることをあえて言わなかった。しかし、これほど熱心な彼らの思いを受け続けていると、彼は罪悪感を感じるようになった。彼は仕方なしに彼女がいることを告げた。彼らは突然クラッカーでも鳴らされたかのように驚いた表情を浮かべ、そして、喜びと安心の声を上げた。「なんだ、それならもっと早く言ってくれればよかったのに」と彼の肩を叩き、「どんな人なのか?」と当然聞いてきた。その瞳は期待に満ちて輝いている。彼は今更言うのが少し照れくさく、それとは別にある胸の奥の泥のようなざらつきを覚えながら「よく行くバーで歌っている盲目の歌手だよ」と無理矢理に吐き出した。
一瞬だけ時が止まった。彼はその間が訪れた瞬間、いや、それよりも前の覚悟を決めた時から、拳を握りしめていた。肩に乗る彼らの手の感触が急に気持ち悪くまとわりつき、今すぐ切り落としてその口にねじりこんでやりたいと思った。すぐに彼らはありきたりの言葉を纏わせ、彼女について興味ありげな態度を示した。しかし、彼らの口が開けば開くほどに、彼の怒りの熱は身体中を回る血液に移り、全身を体の内側から焼き焦がしていった。彼はなんとか冷静に「少し仕事を思い出したので帰らせてもらう」と告げて三万円をその場所に捨て、立ち去った。
彼の付き合いはそれからさらに減った。彼は自分が時間を削ってまで会っていた人たちがどれほど世俗的で表面的にしか物を見れない人間であったかを知り、口から出る言葉が菓子に張り付いたビニールのように薄っぺらく形だけであることに呆れた。いっそ会うことを止めてみると、本当に仕事に必要な付き合いなど週に一度か二度程度しかないことがわかった。そして、彼の付き合いの悪さが原因で会社に悪い影響が出るようなことはなかった。それもそのはずで、すでに業界は彼の会社を中心に回っていたのだ。彼は仕事をもらう立場ではありながらも、他の会社では提供できない規模、クオリティーを持ち、業界を実質独占していた。別の会社がほとんど仕事を依頼されないということだ。彼は嬉しかった。それは彼女と過ごせる時間が増えたということでもあり、彼女のまだ知らない姿をこの目で何度も見ることができるからだ。未来の希望は、まるで星が生まれるかのように光り、彼の頭に浮かんでいた。彼は彼女にプロポーズすることを決めていた。密かにダイヤモンドの指輪を買い、そして、いつでも渡せるように、書斎の一番上の引き出しに鍵をかけてしまっていた。
彼は今日もバーで彼女の歌を聴いていた。また聞かれるであろう「今日の歌どうだった?」の問いに答えるため、彼はしっかりと彼女の方に顔を向けていた。曲名も少しだけ覚えられるようになっていた。それでもやはり彼が一番好きなのは「Fly Me To The Moon」だった。彼女が歌っている時はウィスキーを飲み、そして、二人で話す時にはカクテルを飲んだ。もうどれだけの色を頼み、話したのかはわからない。きっと同じ色を何度も頼み、その度に変わっていく二人だけの色彩を楽しんでいたはずだ。
彼はそんなことを考えていた時、突然話しかけられた。驚いて振り返ると、そこには会うことをやめていた友人の姿があった。その男はバツが悪そうにしながらも、彼女の特等席になんの遠慮もなく座り、重みを与えて踏みにじった。マスターに「彼と同じもの」と注文してグラスを受け取ると軽薄な言葉しか吐かない口に、彼と同じウィスキーを流し込んだ。どうやって知ったのか、と彼は問い詰めたかったが、あえて聞かなかった。ただ、彼女の美しく歌う姿が入る視界に、墨汁をこぼしたように入り込んでくることが許せなかった。写真を破るようにその存在を消してしまいたかった。「あの人が真二が言っていた彼女?」その男は彼女を見てそう言った。その男の言葉、一文字一文字を燃やして、喉を焼き切ってしまいたいほどに彼の感情は昂っていたがなんとか堪えた。彼はじろりと一瞥して、「ああ」とだけ答えるに留めた。その男はそれ以外何も言わなかった。ただ彼と同じように彼女の姿をずっと眺めていた。
「今日は…お友達を連れてきてくれたの?」
今日のライブを終えた彼女は微笑みながら男の方を向いて挨拶をした。男もお辞儀をしてから名前を言った。マスターに「あっちのテーブル席使うね」と一言だけ告げると彼女の手を取った。歌い終わったばかりの彼女の指は柔らかく熱を持っていたが、それ以上のことはわからなかった。
彼らはいつものように色を注文し、男も困惑した表情を浮かべてから同じように色を注文した。私たちの元には当然、注文とは違う色のカクテルが運ばれ、その男の元には注文通りの色のカクテルが運ばれた。彼らは何もいないかのように歌の感想を話してカクテルを飲み、今日の色について話してまた笑った。時々、男が行列に割り込むように会話の流れを切って口を出してきた。その度に彼女が明るく笑いながら会話をしていた。男は何も遠慮せずに笑い、彼は動く男の細胞一つ一つにすら苛立った。彼は彼女が男と話していた間、一言も喋らなかった。
彼女は「ちょっと他にもお礼を言ってくる」と席を立った。彼は「じゃあ、今日はこれくらいにしておくからゆっくり話しておいで」と彼女を送り出した。彼女がその場を離れると、彼は無言で立ち上がり会計を済ませ外に出た。男は慌てて彼の後をついた。
彼はタクシーを拾おうと手を挙げる。その手を男が掴んで強引に降ろさせた。
「おい。ちょっと待て。なんで、どうしてそんなに怒ってるんだよ」
彼はあまりにもふざけたその言葉を聞いて、赤く熱された心臓の怒りはとうとう弾けた。
「どうして怒っている?ふざけてるのか?お前は俺が彼女と付き合っていると言った時、何を思った?あの一瞬何も言葉が出なかった間はなんだ?そんな人間が今さら私の回り嗅ぎまわって、私の平穏を壊したんだ。怒らないわけがないだろう」
、彼は内側から、誰にも浴びせたことのない怒声を撒き散らしていた。ひどく黒く燃えるそれは山を燃やし尽くす溶岩よりも熱い。しかし、彼には全く足りなかった。睨む先にいる男は彼のことをまっすぐに見据えていた。
「ああ、はっきり言って、お前のこと馬鹿だと思ったよ。バーで出会ったなんて、気落ちしたところをいいようにされただけだと思ってたからな。今日だって、お前の目を覚まさせるために来たんだ。でも、彼女を見て話してわかったよ。あの娘は良い娘だ。間違いない。今まで紹介した女にお前が見向きもしない訳がはっきりわかった。それくらいにあの子は自分で生きる強さを持っていて、誰かの弱さを受け止められる優しい娘だ」
男は彼と張り合うように詰め寄った。彼はまだ怒りで拳を握りしめていた。彼の言いたいことはまだ終わっていない。
「でもな、俺たちは社長なんだ。俺たちの言葉も行動も選択も全て社員が見て、クライアントが見て、世間が見るんだ。お前は盲目の彼女のそばにずっと付き添いながら人前に出るのか?パーティーに出れるのか?他の社長の妻が三歩後ろを歩いて旦那を立てるのに、お前はまるで執事のように彼女の様子を常に目配せしながら歩くのか?そんな姿をお前は周りの人間に見せるのか?」
彼は何も言えずにいた。怒りはとっくに通り越していた。しかし、口は溶接されたかのように開かない。
「なあ考え直せ。お前が心底のあの娘に惚れていることはわかった。そして、その選択は人として正しい。それは俺だけじゃなくてきっと他の奴らが見ても一目瞭然だ。でも俺たちは社長なんだ。特にお前は業界の顔なんだ。綺麗な愛を貫けばいいただの人じゃないんだよ」
彼の目からは涙が流れていた。それはほとんど血が流れているのと変わらなかった。彼が立てた誓いが今、人として貰い受けた幸せを切り倒そうとしていた。流れる血は止まらない。その傷口は決してふさがらず、何よりも傷は内側から付けられていた。その奥にあるものを、彼はどうしても触れることができなかった。何も動けずにいると、男はもう何も言わずにタクシーに乗って消えていた。彼はそれでも、硬く拳を握りしめて、その場から動くことができなかった。