【第六話】
神山さんが立ち上がり「新しいものを開けようか。まだ大丈夫かい?」と私に微笑んだ。私は「はい」と答えて、台所に行こうとすると神山さんに制止される。
「少しばかり、しゃべりすぎて次の話を整理したいからね。話を聞くだけと言うのも疲れるだろう。私に取りに行かせてくれないかい?」
神山さんは恥ずかしそうに視線を斜め下に移した。「そのまま待っていてくれたまえ」と神山さんは優しく言った。私はまたも「はい」と答え、神山さんの顔にずっと刻まれている笑顔の皺を眺めていた。椅子に深く座り直し、小さく息を吐くと、息が部屋に舞う煌びやかな空気を巻き取って、窓の外に勢いよく飛び出していく。神山さんが新しい酒を持ってくると、また私のコップに静かに注いでくれた。私も神山さんのコップに慎重に注ぐ。神山さんは一度だけ満月を眺めてから、また話を始めた。
一躍有名人となった彼は仕事での会食が増えていった。大学では毎晩のように酒の飲んで語らい、就職してからも毎日同期同僚たちと議論を重ね、会社を立ち上げてからは新規開拓に部下の指導。と常に人に囲まれ、人とつながる生活をして今を作り上げた彼であったからこそ、その会食の場でも大きな信頼を勝ち得ていくことになった。ただイエスマンとなって頭を下げるだけ、ということはせず、自分の意見を機知と機転を利かせて言葉巧みに操り、時に一歩もひかない覚悟ある発言で驚かせてみせた。自分の立場を考えて恐る恐る喋っているような他会社の役員に比べると、その差は一目瞭然であった。先輩経営者たちもただ運の良い調子に乗った若造と最初は見下していたものの、その評価はオセロがひっくり返るように鮮やかに逆転し、図らずも彼の会社にはさらに仕事が相次いだ。それは会社にとって望ましいことではあったが、やりきれない思いを彼はずっと抱えていた。それは胸の中で小さな炎が肺や心臓を焦がしていくような痛みだった。
毎週水曜日の恒例行事だけは彼の中で何とか維持しなければいけないものだった。彼が彼のままで居られる場所は、あのカウンター席にしかなく、その場所で過ごす時間だけが彼の心に柔らかく安らかな癒しを与えてくれた。彼と少女の関係はそれからも隣の席で話をする年の離れた友人であったが、一つだけ変わったことがあった。それは彼女の彼への呼び方が「神おじさん」から「真二」に変わったことだった。たったそれだけのことでも彼は嬉しかった。それくらいに彼にとって、彼女の存在は心の内側に大きな場所を作っていたのだ。
「たまにはここだけじゃなくて、外に連れ出してくれてもいいんじゃない?」
彼が陽気な声のする方に顔を向けると彼女は当然笑っていて、拒否でもしたらそのまま殴ってきそうだった。それは嫌だったので、「休みを作るよ。ちょっと待っていて」と彼は伝えた。彼女は満足げに頷いた。
彼は秘書にまとまった休みを押さえてもらい、彼女にどこへ行きたいか確認した。彼女は顔を上げて頬を指で叩きながら「海」「月」と連想クイズのようにリズムよく言った。彼が「それだけ?」と聞くと、彼女は「そう、それだけ」とキッパリと言った。彼女は続けて「海は行ったことなくて、月は見たことがないから」と素っ気なく答えた。彼はこれ以上聞いても仕方がないと思い「じゃあ、どこか探しておくよ」と伝えた。彼女はカクテルを一口飲んで笑った。鈴蘭が小風に揺れるように、細かな恥じらいと喜びがその横顔にあった。
海はシャンデリアを一体に敷き詰めたように、太陽の光を反射して輝いている。景色の主役になれるはずだったが、残念ながら彼の視界の中央には彼女がいた。白いワンピースの裾が風で靡かせながら、彼女の足に絡み付く。サンダルを抜いで、彼女は初めて足で砂浜を感じた。そして、恐る恐るゆっくりと海に近づき、耳と鼻と肌で海の前書きを感じていた。彼女がもう一歩踏み出した時、いたずらな波は彼女の足に水をかけた。
「つめた!」
驚いて右足を上げて、濡れた足であとずさる。彼女は振り返ってキョロキョロと辺りを見回す。
「ちょっと!真二何やってるの?早くこっち来て!」
彼は「すぐ行くからちょっと待って」と声をかけた。アンクル丈のパンツを膝までまくり上げて、彼も靴を抜いで彼女のもとに駆け寄った。
彼女はさっきまであれほど驚いていたはずなのに、もう入る気満々といった様子でスカートをまとめて右手に握っている。
「海って冷たいのね。もっとあったかくて柔らかいものだと思ってた」
彼女は不満そうに海に文句を吐き捨てた。しかし、その態度は子供が負け惜しみを言うのと変わりないものだから、海もきっと許してくれるだろう。彼はそう思った。彼女の小さな左手を彼は握る。少し冷えていた彼女の手のひらに木漏れ日が差したようにほんの少しだけ温かさが戻った。
彼らは一歩踏み出し、波を足の甲に受ける。そしてもう一歩踏み出し、両足が海に触れる。一歩、また一歩と海に吸い込まれていく彼らは、同じ空間で溶け合ったように心地よく、海の冷たさは秘密を共有した証のように彼には思えた。、彼の膝下まで海の中に進むと彼女は歩くのをやめた。深呼吸をして、彼女は自分を包んでいる全てのものを感じ取ろうとしていた。髪の毛をくすぐる風と足を包み撫でる海水の流れ。そして、繋がれた左手に。その瞬間、ほんの少しだけ彼の右手は強く彼女に握られた。彼が口を開くよりも早く彼女は「戻ろっか?」と白い歯を見せて笑った。彼は何もなかったふりをして「そうしよう」と言った。振り返る時も、海を出た時も彼らの手は繋がれたまま、その手が離れることはなかった。太陽が砂浜に影として二人を映し出した時、彼はそれに気づいたが、あえて無視をした。彼女も何も言わず凛とした表情でただ前だけ向いて歩いていた。その姿がやけに堂々としていて、彼の方が少しだけ恥ずかしくなって目を逸らした。
彼らは海を後にして、道路に上がった。駅からも離れたこの場所だからどうしようかと今更になって考えたが、手を上げたら簡単にタクシーは捕まった。彼女を先にタクシーの中に案内しようとすると手探りで座席を色々と触り、手こずっていた。「慣れないモノだとちょっとみっともないのよね」と明るく強がって振る舞う彼女の姿はむしろ等身大のように思えて彼は安心した。
タクシーが走り出した時、ちょうど陽が落ち始めて海の色が変わる。赤く染まった海面は、沈む太陽を持ち上げようと必死に揺らめいていた。彼が景色に見惚れていると「ねえ真二」と彼女に声をかけられた。彼が隣を見ると彼女も瞼を閉じたまま夕焼けを見つめている。
「なんだい?」
彼は彼女を見て答えた。すると彼女は
「これが赤なの?」
そう呟いた。バケツいっぱいに盛ったお菓子が一つ落ちるような言い方だった。彼が「ああ、そうだよ」と答えると、彼女は「ふーん」と唇を尖らせる。そして、
「やっぱり、赤ってさ一見暖かくはみえるけど、なんか悲しくて寂しい色だよ」
彼女はまたも言葉をこぼした。そして、彼を見て隠すように笑った。彼は「ああ、そうだね」と答えた。
食事はどうするのだろうと彼は心配していたが、それは彼女に対して失礼極まりないことだった。彼女は上手に刺身を箸で取り、醤油につけ、口に運んでいた。美味しいと何度も頷く顔には笑みが灯り、緩んだ彼女の姿は彼を安心させた。彼女が言うには「包丁を使って料理もするくらいだからこのくらいは全然余裕」とのことで、歌うように豪快に笑っていた。浴衣に羽織姿の彼女は無理矢理着させられた七五三のように幼く見えたが、考えてみれば、会うのはいつも薄暗いバーで彼女はステージ衣装のままなのだ。その姿の方がよっぽど無理に背伸びしているはずだ。彼はそう思うと彼女の強さの中に隠した繊細な恐れを垣間見たような気がした。彼女は自分の料理をすぐに食べ終えると、「真二、食べるの遅いけど、食べきれないならなんかちょうだい」と都合よく甘えた声を出した。彼は「はい、お嬢様。お待たせいたしました。こちらが私めの献上品でございます」と嘘っぱちの芝居とともに、どうせ食べきれない刺身と天ぷらを彼女の皿と交換した。「よろしいよろしい」と満足げに彼女はニヤニヤして天ぷらに手をつける。衣が弾ける音は心から喜んでいることを知らせてくれて彼は心地よかった。彼は立ち上がり、冷蔵庫で冷やしておいた日本酒を持ってきた。
「杏奈は日本酒飲めるかい?」
「初めてだからわからない。でも飲んでみたい」
コップに一口ほどついで彼女の前に置き、彼自身のコップにも注いだ。彼女はテーブルをたどってコップを探り当て、警戒心の強い猫みたいに鼻を近づけて匂いを嗅いでから、ほんの少しだけ飲んだ。
「美味しいかはわかんない。でも飲めなくはない」
彼女は眉間にしわを寄せて言った。私は「チューハイもあるからそっちにする?」と聞くも強く頭を振って頑なに断った。その行為が彼には今この瞬間、すぐに大人になろうと彼女が必死にもがいているように見えた。食事もほとんど終わり、彼らは日本酒を飲みながら話をした。どれもこれもくだらない話ばかりで、彼女の話に彼は笑い、彼の話に対して彼女は「つまらない」と文句を言った。そして、彼が笑い、彼女の顔を見直した時、奥の開けられた窓から満月の端がこちらを覗き込んでいた。
「ちょっと涼みに月でも見ようか?満月の部屋で満月を見るのはきっと乙だよ」
彼は立ち上がり彼女の手を取った。彼女も「それもいいね」と微笑んで立ち上がる。八月末の夜風が酒で熱くなった首元を通り抜ける。空を見上げると黄金に輝く満月が星空の中にひときわ大きく浮かんでいた。薄く伸びた雲が風に流れて満月を隠そうとするも、強く照らす光が透かし切って存在を主張していた。彼らは窓枠に手を当ててそれを覗き込む。満月からは人を幻惑する鱗粉が雪のように振り下ろされ、彼らはその色香の虜になってしまった。
「月って黄色いんだね。でも、もっとキラキラしているな。それは満月だからなのかな?」
彼女がゆっくりと言った。平安の歌人たちが物思いにふけりながら、悩みに悩んで歌を読んだように、彼女も今、上空にある景色をまぶたの奥に隠された瞳で見ながら、ふさわしい言葉を探していた。その姿はまるで今地球に降り立ったかのように美しく、月さえも宝石に変えて彼女の身に纏われていた。
「そうかもしれないね。満月だからこんなにもキラキラと輝いているのかもしれないね」
彼はそう言ってまた月を見た。星が不規則に強弱をつけて光る様が彼らをからかっているように見えて、彼は自慢するように見つめ返してやった。
「月が綺麗ですね」
彼女は得意げに笑い、一歩だけ彼に近づき、試すように見上げた。
「私にとって月はいつでも美しく魅力的ですよ」
彼の言葉に彼女の笑みがほんの少し恥じらいに変わり、瞼の奥の瞳が揺れた。
「In other words?」
彼女は言った。彼は今も昔もこれからも、彼女の全てをこぼさないように指一本一本を絡ませて握った。彼女の手が火照っているのは初めて飲んだ日本酒のせいだけではないはずだ。
「In other words?」
彼女は彼に顔を向けてまた言った。少し震える肩に一度触れると、彼女の震えはピタリと止まる。彼女は彼へと顔を上げる。肩に置いた左手を彼女の頬に当てると、星が当たったかのように驚いていた。みるみるうちに紅潮する彼女の顔を見て、まるで魔法でも使えるようになったみたいだと彼は思った。でも、きっと魔法を覚えたのは私ではなく彼女なのだと、この期に及んであたふたする姿を見て笑った。頬に触れた左手に少し力を入れると彼女は覚悟したように顔を強張らせてさらに強く目を閉じた。彼は彼女の唇にキスをした。唇から離れると蕾が開いていくように彼女の緊張は崩れて表情が晴れた。彼の右手には繋がれた柔らかい彼女の指はより強く貼り付いていた。
「In other words?」
「私はずっと君に本気だよ。今までも。これからも」
彼女はキスの感触を確かめるように唇に手を当てて彼に問い、そして、彼の答えに無言で頷いた。
「In other words?」
最後の問いは彼からした。彼女は離れた右手で彼の左手を握り、下向いて照れ隠しに揺れ動いていた。そして、パッと顔を上げると彼に向けて言った。
「私もあなたを愛しています」
彼女は彼に身を預けるように背伸びして飛び込み、そして見えるはずのない唇にキスをした。奇跡的な一瞬の出来事を彼は連続写真で撮ったかのように覚えた。その景色に満月など入る余地はなく、そんなものがなくても十分に黄色く塗りつぶされていた。嫉妬した満月は雲に隠れて、私たちの前から姿を消していた。