【第五話】
麦穂のように金色に染まった満月が部屋の庭にゆっくりと光を降ろしていた。霧雨がかかるような優しい明かりに、私は電気をつけることを忘れて魅了されていた。寝起きで呆けた私の記憶の中に同じ満月が映る絵を見つけた時、携帯のアラームが唐突に鳴った。18:55と表示された画面に私の意識は木槌で思いっきり叩かれたように引き戻された。急いで携帯とルームキーを握り、部屋を出た。
遠くに見ていたはずの満月に私は今降り立っていた。そう思った。しかし、そこは満月であっても満月の部屋であった。遊郭を思わせる絢爛な装飾は私の目には眩しく、朱色に染まったダイニングテーブルは地球上で初めて発見された色だと思わせるほど艶やかで繊細だった。神山さんは「こちらへどうぞ」と手をソファに向けた。昨日と変わらない優しい笑顔が私に向けられる。そのたった一つの接点が私が間違いを犯したわけではないと確信させてくれた。アンティークのソファに座ることは憚られたが、「失礼します」と思い切って座った。皮の感触が圧倒された体の緊張包み込み、ほぐしていく。
「ご夕食をお持ちいたしました」
呼び鈴が鳴り、玄関モニターには仲居が手を前で合わせてお辞儀をしている。
「おお、ちょうどよかった。入ってください」
神山さんはモニターに本物の顔でもあるかのように丁寧に優しく語りかけていた。私はこんな時どうしたら良いのかわからず、手を肘掛に置いていつでも立てるようにするほかなかった。仲居は肩幅を超える銀のトレイに料理を乗せて部屋に入った。力強さすら感じさせる所作は手馴れたもので、手際よくテーブルの上に料理が並んでいった。輝くように盛られた鯛のお作りが中央に置かれ、口を天井に向けたお頭と目が合った。
「あの、この夕食は神山さんがご準備していただいたものでしょうか?」
私は神山さんに恐る恐る問い、視線を上げた。
「まさか。私は魚をさばくことはおろか、炒め物ですらまともに作れなかった男ですよ?」
神山さんは冗談を言う時、誘うように首を前に出す。彼のおどけた姿が、いろんな苦難を超えたからこそ得られた冗談だと知ると感慨深く、彼の笑顔でできる一つ一つの皺がより深く刻まれて見えた。
「いえ、そういうことではなく、私の夕食にしては少し豪華すぎて、予想をはるかに超えるものでしたので」
ここで何か気の利いたことでも言えたら良いのだけれど、私はそこは不器用で、会食もなるべく避けててきたものだから、本気で言えるようなこのタイミングで逃してしまう。こういう類の後悔は初めてで、これが最後の後悔であれば良いと思った。
「老ぼれの話に付き合ってもらうんだ。これくらいのことはさせてもバチは当たらんよ。塩尻くん」
神山さんは台所に向かい「日本酒は飲めるかい?」と振り向いた。私は「はい」と答えて反射的に立ち上がった。そのまま「お酒とコップは私が持って行きます」と駆け寄ると神山さんはにっこりと微笑み「悪いね」と言葉をかけた。子供の頃に母に頭を撫でられた時のように私の胸は暖かく緩んだ。この言葉も私は素直に受け取ることにした。
蚊取り線香の煙が、風で繊細に揺れながら天井に伸びていく。肌を拭くように撫でる夜風の涼しさは、満月に一番近いこの場所でしか感じることはできないだろう。鯛のお造りはまだ三分の一残っている。神山さんは仕事を辞めてからの楽しみについて語ったが、その中でも、「旅行なんて今まで行くことはできなかったから」と話す姿が少年のように楽しげで印象的だった。しかし、どこか必死すぎるような感想も持った。死に場所を求めているような、荷物の置き場所を探しているような、そんな歪さが笑顔の中に隠れている気がした。話が一段落すると神山さんは横を向いて月を眺めた。その顔は泣き出しそうなほどに優しくて、孤独な月を抱きしめるようにまっすぐだった。私もつられて大きくなった満月を見た。しかし、これ以上何か感情を得ることに抵抗があり、すぐに鯛の黒目に視線を戻した。
「杏奈が…」
神山さんを見ると、月に視線を固定したまま口を動かしていた。その言葉はきっと私に向けられていたはずであったが、声は月に向かって漂っていた。
「昔、この満月を、この場所で、杏奈と一緒に見たんだよ」
私はうまく言葉が出なかった。神山さんは変わらないまま、月に全てを奪われていた。私は何をしたら良いかもわからず、同じように月に焦点を合わせた。
「ああ、それじゃあ、昨日の続きの話をしようか。忘れてしまうところだったよ」
神山さんはようやく戻り、私の顔を見て、口を開いて大きく笑う。蚊取り線香の煙が海に漂う月の影のように大きく歪曲した。
神山さんが立ち上がった。私も釣られて立ち上がった。もうすでに神山さんの話は始まっている。そう思い、一歩踏み出す度、足の裏に残る感触さえしっかりと覚えた。
「それではせっかくだから、少しその前の話から聞いてもらおうかな」
神山さんは開いた窓辺の椅子に座り、私も対面の椅子に座った。私が座り終えたことを確認すると、抱えた荷物降ろすようにゆっくりとしゃべり始めた。
「ねえ、今日はどうだった?」
この質問をされる度に彼は自分が少しずつ口が達者になっていく気がした。
「良い曲だったね。また雰囲気の違う歌い方で。杏奈は大人っぽく歌えるんだと感心したよ」
彼女は彼の感想などまるで入らず上の空で、BGMにすらならないと言わんばかりだ。カウンター奥の酒瓶に向けた顔は全く動かない。
「どうしたんだい杏奈?ぼうっとして。いつもなら、とりあえず言葉で殴りかかってくるか本当に殴りかかってくるかなのに。今日は黙っちゃって。昨日変なものでも食べたのかい?」
マスターがうっすらとピンクを表面にした赤いカクテルを彼女の前に置いた。彼女は指でゆっくりとテーブルをなぞり、グラスに触れるとその感触を確かめ、持ち上げる。一口だけ飲んでからコースターの位置を確かめて、音を立てないように静かにグラスを置いた。
「変なものなんか食べてないよ。ただ、今日の歌が私の中でどうしても納得できてないだけ。みんなの感想を聞いても良かったっていうだけで、どこが悪かったのか言ってくれないから。余計にもやもやしてるの。でもいい案聞かせてもらった。もしかしたら神おじさんを殴ったら気持ちすっきりするかもしれない」
彼女は十年間悩んだ末に問題を解決した数学者のように屈託のない笑顔で私を見返した。しかし、声はあまりにも穏やかすぎて彼女ではないと彼には感じた。
「ちゃんと警告をしているうちは大丈夫だね。本当に殴る時の杏奈ならもう僕の肩は腫れているから。でもまあ、大人になればなるほど、悪いことは言ってくれなくなるからね。それは大人としての気の使い方であり、ずるさでもあるんだけどね」
彼女はムッと顔を強張らせ唇を尖らせる。そのまま一発叩くのかと思い、私は動向を目で追う。しかし、彼女は大きなため息を一度つく。重たく痛みで満たされた溜息だった。
「じゃあ、せめて神おじさんは教えてよ。私のダメだったところ。そしたら殴るの免除してあげるから」
どちらにしろ殴られるであろう彼女の提案を彼は受け入れた。
「そうだね。ダメだったところ…ではないけれど、無理して曲に合わせようとしているようには感じた。高校生がデートに無理してハイヒールを履いていくような。あれを歌っている杏奈は少しだけらしくなく聞こえた」
彼の口は淀みなくスラスラと動いた。営業で培ってきた相手を敬う言葉遣いなど微塵もなかった。彼はただ彼が感じたことを混じり気もなく、目の前の少女に伝えた。それは本気で一つの歌に向き合い、歌詞と音という甘美な毒を、その小さな体の中に流し込み、もがき苦しみながら、体を削られ、毒を受け入れ、表現を模索する彼女への唯一の手助けに思えたからだ。彼女はしばらく何も言わなかった。じっと酒瓶棚に顔を向けたままだった。そして、急に首をがっくりと後ろに倒して天を向く。閉じられた瞳は何もない虚空を彷徨っているのが彼には分かった。天井からぶら下がったライトは彼女の顔を晒すように明るく照らしていた。
「私らしくなかった…か…一番言われたくなかった言葉だよ。神おじさんにセクハラまがいの嫌なこといっぱい言われたきたけど、正直、今が一番キツいかな…」
彼は何も答えなかった。相槌すら打たなかった。彼女がそんなことを求めているわけではないことも、手を差し伸べてもいけないことを彼はわかっていた。彼女はがっくりと首を倒して大きく息を吸った。そして吸った二倍息を吐いた。
「でも、その言葉に私が一番納得してる。うん、誰かに言われなくても私が一番それをわかってた気がする。でも、誰かにガツンと言って欲しかったのかもしれないね」
彼女は彼をからかう時と同じ大きな口を開けて白い歯を見せた。その表情は笑顔と呼ばれる種類のものだった。しかし、左手は右手に包まれるように握られ、足の上で弱々しく揺れ動いていた。
「この歌はどんな歌なの?」
彼の声に彼女は過敏に驚き顔を上げた。
「えっと…なんていうんだろう…私こういうの説明するのは苦手なんだよね…」
彼女は照れ笑いをして体をカウンターに向き直す。いつもなら答えを探すように宙を舞う視線は、鏡の世界にでも迷いこんだように弱々しく自信を失い漂っている。彼女は今、胸の傷から流れる哀しみの血と自ら受け入れた言葉の効能を、溶け合わせながら順応させようとしている。今なら、せめて手を差し伸べるくらいは許されるはずだ。彼はそう思った。
「じゃあ、歌詞を教えて。さっき歌ったみたいに」
彼は彼女に言った。二十人近くの前であれほど堂々と歌っていた彼女は恥ずかしそうに自分のカクテルに顔を向けた。そして一口飲んだ。
「わかった。じゃあ、ちゃんと聴いててよね」
恥じらいを隠そうと強がる言葉を合図に、彼女はその曲「Fly Me To The Moon」を呟くように歌った。私はカウンター越しの酒瓶を眺めながら彼女の声に耳を傾けた。蜜蜂が菜の花を求めて忙しなく飛び回るように、彼女の声は清純さと甘えと素直になれない棘があった。歌い上げると彼女は見えないはずなのに彼の顔を覗き込んだ。彼の言葉は決まっていた。
「今の感じだよ」
彼女は彼の言葉を噛みしめるようにゆっくりと頷いた。彼女の手がグラスに触れてカクテルが細かな波紋を作る。
「そっか、よかったよね。うん。自分でもわかる気がする。今、すごくすっきりしてる」
言い終わった後に、彼女の頬はほんのりと紅潮する。それは桜が芽吹き始める春のようで、彼は「そうだね」と小さくつぶやいてから、カクテルグラスを持ってくるくると回していた。
「この曲のIn Other Word?ってフレーズ。どういう意味だと思う?」
彼女は彼の方を向かなかった。しかし、彼女の意識ははっきりと彼の目を見つめていた。彼は彼女に向けていた視線を酒瓶に移して頬杖をついた。
「さあ、どうだろう。杏奈は今、どんな意味で歌ったの?」
「私は…後の歌詞を説明するような感じかな。”要するに”とかそんなイメージ」
彼女の言葉は返しが付き、喉にひっかかり歯切れが悪い。何かを表現する者として誠実であろうとする姿勢が、逆に彼女の豊かな感情に制限をかけていた。仕事という枠組みを壊してもらった彼だからこそ、言葉ではなく、肌で彼女のもがく姿を感じ、その苦しみもありありとイメージができた。
「それはステージで歌ってた時の杏奈じゃないかな。少なくとも今聞いた杏奈の歌はそういうふうには聞こえなかったな」
彼女は俯いて「青」と頼んだカクテルを見つめていた。見た目にこだわるべきではない語った彼女の頬は、先ほどよりもはっきりとカクテルと同じように赤に染まった。
「どういう意味かはわからない…でも、赤のような感じだった…」
「赤のような感じ?」
「そう。赤のような感じ。鈍感なわからずやを引っ叩くようなそういう感じ」
彼は何度か頷いて微笑んだ。彼女は言葉を口に出し始めた時、顔を上げて呆然としていた。彼女の頬の色が言葉になって抜け出ていってしまったような、色ならば白のような無防備な顔をしていた。「らしいね」と彼は言った。彼女はようやく彼の方に顔を向けた。
「私も教えたんだから、神おじさんも教えてよね?」
白の顔のまま揺らぎのない言葉で伝えられると、彼は少したじろいだ。きっと同棲する彼女に結婚を唆されるというのはこんな感じなのだろう。彼はどうにか気持ちをはぐらかした。
「私があくまでも女性だとしたら、わかるよね?って読むね。そして、後の歌詞は言わない。相手にそのまま投げる」
彼女は表情を変えず、彼の顔をじっと見続ける。そして、喋り出す。
「とりあえず、神おじさんが結構悪い人だってことはよくわかったよ」
彼女は白い歯を見せて大きく笑った。そして「でも」と続けた。
「でも、本当に欲しいものは、ちゃんと言葉に出しておかないと、すれ違うことってあると思うんだよね。矢印が向かい合っていても高さが違うといつまで経っても交われないから。私たち人間って通じ合っていてもわからなくて不安になるし、言葉が聞けるだけで安心できたりする以外と単純な生き物だから」
「そういう言葉はどこで覚えたんだい?」
「歌なんてそういうのばっかりよ」
彼女は手をひらひらと振りながら、あっけらかんと笑う。
「神おじさん。月ってどんなものなの?」
彼女の表情に少しだけ無邪気さが戻って、彼は安心した。
「月は恋のキューピットみたいなものだね。あの大文豪夏目漱石だってI Love You を訳した時、今日は月が青いですね、なんて訳したくらいだからね。月と恋はセットみたいなもので、人が月を見上げるのは、大体恋の仲介役をして欲しい時だから」
「そういう話はどこで覚えるの?」
「広告なんてこういうのばっかりだよ」
彼女は口元に手を当てて、クスクスと笑った。彼女の顔は、流星のように美しく、照らされた光を艶やかに跳ね返していた。彼女の右上で光る電球が一瞬満月に見えて、彼は口を開きかけてやめた。
彼が埋めた小さな種は硬く乾いた地面に芽を出し、何度道行く人に踏みつけられようとも立ち上がり、他の雑草に養分を取られそうになれば駆逐し、そして、花を咲かせた。最初は小さく、誰にも見向きもされないような小さな花だった。花が散り、数えきれないほどの冬を越えて、柔らかく緑色をした茎は分厚く岩のように頑丈な幹になった。今やその樹を目当てに人が集まり、無数に伸ばした枝には風と遊ぶ若々しい葉と繊細に揺れる桃色の花びらがあった。それは彼が目指した「名家の創設」を形になったということだった。
彼の会社は業界トップの大企業へと成長を果たし、念願としていたテレビ事業への参入を前会社の吸収合併という形で行った。労働問題でバッシングを受け業績の傾いた前会社のマイナスを一気に取り戻し、一躍彼の名は世に知れ渡ることになった。彼の合併提案には自社内はもとより、前会社からも批判が殺到していた。「会社の私的利用だ」「情に流された決断はいつか自分の身を滅ぼすことになる」そんな言葉を毎日のように聞かされ、辞めていく社員もいた。根気強く説得を続けるも届かない想いは彼にとって苦しいものではあったが、彼の心に傷をつけたものはそれくらいであり、今の彼には些細なことだった。
彼は情など関係なく前会社を加える価値は大いにあると考えていた。彼にとっては騙されて身ぐるみを剥がされた勝利の女神に手を差し伸べる程度のことで、今の資金力と人材がいれば前会社の問題などすぐに鎮火させて順応させることができると考えていた。前会社の奥深くに根付いている結果を出すために全力で向き合う覚悟。自社で培ってきた人を理解し合おうとする精神。これは大きな化学反応を起こすと確信していた。そして、彼の勝算は見事にハマった。全ての出来事をことごとく当てていく超能力者のように周りは彼の姿を見えていただろう。しかし、彼にとってはドミノ倒しと同じで当たり前のように過ぎていくだけであった。とうとう彼のする仕事は無くなった。一国一城の主が現場に出続けることが組織としての危うさに直結することは、日本の歴史も欧米の帝国の歴史も物語っていて、彼の脳裏に焼きついた親の姿が決定的に確信させていた。彼の時間は増えていったが、それは次の高みを目指す時に喜べるものであり、登りきった先でも時間は進み、また自らの歩みを止めてはいられないことを知るのは、それから少しばかり時間が経ってからのことだった。