【第四話】
「少し長くなってしまったね」
神山さんは一度外に視線を移してから、私に向き直して微笑んだ。私も外を見た。雨はもう止んでいた。日はすっかり落ちて、食堂には多くの人が集まり、楽しげな声が駆け巡っていた。神山さんは自分の話をしながらも食事を終えていて、私たちは湯飲みに入った麦茶を飲んでいた。神山さんが話す間、私は「ええ」や「はい」といった相槌しか入れることができなかったが、そのことに気づかないくらい、神山さんの話には夢中にさせる何かがあった。神山さんは私が食事を終えても焦ることなく、自分のペースで食事を続けていた。しかし、その行動は、むしろ私が気楽に聞けるよう配慮しているとすら感じて、私は今ひとつ馴染めなかったこの空間で初めて安らぐことができた。
「いえ、とても素敵な話で思わず聞き入ってしまいました」
私は嘘偽りなくこの言葉を使うことができた。
神山さんも嘘のないまっすぐな笑顔を浮かべた。
「では、もし明日も時間があるのなら、今度は私の部屋で続きを聞いてくれないか?」
神山さんは少年のような素直な表情を浮かべた。私はそれを見れただけでも、ここに来た甲斐があったように感じた。
「お願いします。このままでは東京に帰っても続きが気になって眠れません」
私も微笑んでいた。冷えた麦茶が喉を流れて涼しい空気を運んでくれる。
「では、明日十九時に満月の部屋に来てください。食事はフロントに連絡しておけば塩尻さんの分も持ってきてくれますので」
神山さんはそれだけ言うと立ち上がり、ゆっくりと食堂を去っていった。私はもう一杯だけ麦茶を飲んで、自分の部屋に戻った。
無数の蛙の鳴き声が競うように部屋の中に響いていて、神山さんの話に脚色してしまいそうになる私の感傷を埋めてくれた。完全な夜なのに、やけに外が明るく感じたので外に出ると、ほとんど球体の月が私を覗き返していた。明日はちょうど満月だなと一人つぶやくと、私は寝ることにした。
何かをしたいわけではなかったが、何もせずにはいられなかった。朝目が覚めた時、そう思った。念のため、時間を潰す用の小説と論文を持ってきてはいたが、部屋の中に篭り続けてしまうこと自体、私が自身を問い詰めてしまうような気がして避けていた。そして何よりも、一日経ったことでリュックサックの中身に余計に意識が注がれてしまった。私はこの部屋の中にはいられないと思った。
テレビをつけると地元番組の天気予報が流れていて、今日の熱海がずっと快晴であることを真っ赤に踊る太陽のマークが伝えていた。外を見ると窓ガラスは結露している。太陽に照らされた丸い岩からは白い蒸気が上がっていた。熱海は接待で何度か来たことはあったが、観光地は知らなかった。なにしろ家族と旅行する時でさえ、いつも近場の決まった遊園地だったのだから、県を跨いだ先の観光地など知るわけがなかった。とは言ってもまだ準備する時間は山ほどある。私は干しておいたバスタオルを取り、シャワーに向かった。すると露天風呂からは暖かな湯気が上がっていた。幸い朝食までの時間はまだたっぷりある。私は何かに取り憑かれたように湯船に向かった。
体を浸すと湯は溢れ、地面に叩かれて音が鳴った。体全てを湯が包み、湯気と一緒に静かな自意識までも蒸発させてくれた。
朝食の時、神山さんに会うことはなかった。周りを見るとすでにバックを椅子の上に置き、出かける準備をした人たちもいて、私は自分だけが未来を失っているのように思えた。やり場のない視線は庭園の揺れる葉に向けた。
樺澤麗華の担当をするようになってから、朝食をゆっくりと食べる時間は簡単に確保できたが、それはあえてしなかった。医者として強く編み続けてきた緊張の糸が、習慣を変えることでプツリとと切れてしまう恐れを感じ、私はどことなくそれを避けていたのかもしれない。結局、私は菓子パンを自分の席でかじる、という朝食の形を維持し続けていた。それが今、こうして何の目的も持たずに熱海に来て、やることはなくて、できることと言えば出された朝食をゆっくりと食べることくらいなのだ。そして、その選択をしたのはもう記憶が一切残っていない私自身だ。自分が守ろうとしたものは、あっさりと女優に化かされて、つまづいた拍子に切れてしまった。そう考えると、大事にしていた習慣なんてものは、骨董品みたいなもので、こちらがどんなに守ろうとしても、予想外の方向からあっけなく壊される。そんなものに思えた。私は自分に呆れて笑ってしまった。私の右手はだらしなくバターロールを持っていた。
朝食の帰りフロントに寄り、今日の夕食を満月の部屋に運んでもらうように受付に伝えた。すると受付は私の顔を認証でもするように目だけを動かしてチェックしていた。しかし、その眼差しに嫌な印象はなく、仕事としての注意と私への興味をちょうど半々に分けたようなものだった。ついでに私は今日一日で回れる観光地について尋ね、受付は幾つかの候補を教えてくれた。
部屋に戻り、デニムを履き、黒のポロシャツを被り、ポケットに財布と携帯を突っ込んだ。瞬く間に私は外に行く準備を終えた。たとえどんな場所に行くのだとしても、それはちょっとした逃避行に過ぎない。お土産を買う必要もないのだから、手ぶらで過ごすことが一番だと思った。私は手練れの泥棒みたいに瞬く間に部屋を出た。ソファの上に置いたリュックサックが振り向きざまに目に入り、お前はこの部屋に戻らなくてはならない。そう念押されているように見えた。
受付にタクシーの手配を依頼すると、慣れた手つきで電話をしていた。食事後立ち寄った際に頼もうかと考えは過ったが、それは止めた。旅をするという心構えが私には必要だった。私は待ち合いのソファに腰かけて、外の木々を眺めた。少し風が吹くたびに力強い緑の葉は重なり、そして外れて遊ぶように揺れている。蝉の命がけの叫びが響いて、クーラーを効かせている中でさえ、皮膚が熱を持ってグツグツと煮立つようだった。
二十分ほど待つとタクシーはやってきた。私は少しうたた寝をしていた時に受付からそのことを伝えられた。私は寝起きも相まって勢い良く立ち上がり、受付に鍵を預けてから玄関まで向かった。靴を履き、自動ドアを開いて外に出ると、受付の「いってらっしゃいませ」という品の良い声が背中を押した。いよいよ旅をするのだという気持ちになれた。
外は思っていたほど湿気はなく、雨と仲の悪そうな青空が上空で飄々と広がっていた。運転手は後部座席のドアを開けてわざわざ外で待っていた。私は会釈をしてから、タクシーに乗り込んだ。運転手はすぐに運転席に戻り「目的地はどうしますか?」と明るい口調でこちらに振り向いた。私は最初の目的地を伝えると「そこはちょうどいい頃ですよ。今は人も少なくてゆっくりできるから。地元民はいつもこのくらいに行くんですよ」と笑っていた。タクシーは待ち切れないとばかりに走り出した。
今日の運転手はその第一声で予感した通りよくしゃべる人だった。熱海の観光客について。昨日乗せたお客さんについて。昨日見たテレビについて。どれもこれも運転手の自分の話であったが、常に笑顔を浮かべて話す姿は学校で起きたことを親に話す子供のようで、私は落ち着いて深く腰を据えることができた。私はふと熱海に来てから出会う人たちに恵まれている事実に気づいた。それは今日を期待させるには十分な気づきだった。
濃い花々の色が太陽に対抗して揺れていた。私は川岸からブーゲンビリアを見上げ歩いていた。絵画コンテストの審査員にでもなったように、一歩歩くと変わるその景色の中で自分の一番を探した。赤、紫と強い色を放つブーゲンビリアは決して私に同情することはなく、私の網膜を独占し、その足を止めさせようとする強情さまであった。私はその花に昨日神山さんの話に出た杏奈という女性が重なった。合間に覗かせるヒペリカムヒデコートは、その黄色の花を奥ゆかしくも風に小さく揺れて笑っていた。その姿は上品で可愛らしく、樺澤麗華の癖だった口を隠す笑顔によく似ていた。先へ進むと、太陽を求めて茎が横に伸び、私の頭上は緑に覆われ影になった。葉が重なる深い緑と、一枚だけで透ける陽気な緑のコントラストは、まるで絵の具を投げつけた前衛芸術のようで強く美しく、葉の隙間から覗く空の青までも、眼前で塗りつけられているような躍動感を持っていた。葉の隙間から漏れ入った光はレールのように地面まで伸び、漂う塵でさえもドレスの装飾品のように輝いていた。
遊歩路に上がると、激しい日光が待ち侘びていた言わんばかりに私の肌を焼いた。手の甲には汗が滲み出し、首からは玉になって流れた。私は手ぶらで来たことを後悔した。しかし、右後ろのポケットが膨らんでいることに気づいて手を伸ばした。それがタオルであることを確かめて安堵し、汗を拭き取ってから首に巻いた。次の予定までにはまだ早く、かといって小腹が空いたわけでもない。ここにいてもただ熱いだけでしかなく、仕方なく何かありそうな橋の向こうまで歩くことにした。先ほどまで見上げていた花々を今度は橋の上から見下ろすと、温い風が吹いてまるで見送りの挨拶でもするように花々は揺れていた。終わり、という形をあえて与えられた気がして、私は嬉しく思いながらも、少し胸の中をくすぐられる虚しさがあった。私はゆっくりと視線を歩く先へ変えていった。
橋を渡り切り、そのまま少し坂を登って右に曲がると、古き良き木造建築の平家が背を合わせて並んでいた。開け放たれて、テーブルやものを載せた台があるのを見ると、きっとここは商店街なのだろう。少しばかりあちこちを見回してから、私はそのうちの一つに吸われるように向きを変えて歩くと、中のおばあさんに話しかけた。
「すみません。ラムネを一本ください」
居間に座っていたおばあさんは立ち上がり、腰を曲げ土間を擦りながら私の方に歩いてくる。お金を渡すとガサツにポケットに突っ込んだ。そして私の前に置かれたクーラーボックスを開けて、氷水に浸されたラムネを一本取り出すと、タオルで拭いてから私に差し出した。水気の残った瓶は北極の氷を切り取ってきたかのように冷たく、首筋に当てると冷えた血液が体に流れている心地よさがあった。こんな炎天下の中を動き回るのは中学校の部活以来だとふと思い、もう十年以上帰っていない地元の景色と目の前の商店街が重なった。
「ほら、そんなとこじゃ暑いから中の座敷でゆっくりしていきな」
おばあさんはぶっきらぼうに私を手招きすると、また土間を擦りながら歩き、居間に戻っていく。その音が、なぜだか部活動のランニングを思いださせた。大した思い出でもなかったはずのそれは、確かな別の記憶と結びつき、辿らせるように私も足を擦ってその音と足に残る感触を確かめた。
言葉に甘えて座敷に上がると、首振り式の扇風機を自分の方に向けた。窓から見下ろす海はやはりキラキラと輝いていた。昨日見たものよりも華やかで、ブーゲンビリアと同じで自由に踊っていた。私はラムネをテーブルの上に置き、キャップを外し、プラスチックの蓋をラムネの飲み口に当てる。一息ついてから、右手に体重をかける準備をして、一気に押し込んだ。ドンッという音が悲鳴のようにテーブルから鳴った。私は急いでラムネを口で覆った。口の中を吹き上がる泡が弾け、一瞬で消える。吹き出すのが落ち着いてから、一度テーブルに瓶を置いて眺めてみた。ビー玉は一つ目の窪みを左右に揺れている。その原因は炭酸の泡で、小さな泡がビー玉を下から突いてからかっている。それは悪戯好きな子供と落ち着いた大型犬のじゃれあいのように思えて、私はほっと息をつくことができた。ふと居間の入り口に目をやると金魚が描かれた風鈴がぶら下がり、店の中に紛れ込んだ風に流され、遠慮がちな音を私に届けていた。私はビー玉を舌で押さえながらもう一口ラムネを飲んだ。少しずつしか飲めないことが、子供の頃はもどかしく、何度もキャップを外しビー玉を取り出そうとしたものだが、今の私はゆっくりと時間をかける良さをただ堪能していた。
おばあさんを見ると、私に背を向けて扇風機の風を浴びて、何をするでもなくテレビを見ていた。だから私は一人になることができた。普段から一人でいることが多かったが、それでも東京では常に何かに囲まれる。患者、見舞客、看護師、医者。そして、それらを繋いでいる人の思惑や感情がボロ屋敷の蜘蛛の巣のように至る所に存在する。それなりに上手くかわせてやってこれたと思っているが、それなりに上手くかわそうという考え自体が何よりも人と強く繋がってしまっていたことになるのだろう。左足のポケットに収まった携帯の存在感がキツくそのことを示した。汗は止まり、びっしょりと濡れたポロシャツは風を冷たく感じるほどになっていた。ラムネの最後の一口を飲み干すと、ビー玉は綺麗で爽やかな音を鳴らした。それは少年を新しい旅へ駆り立てる、希望を暗示するように透明だった。
熱海港から初島行きの高速船に乗り込み、私はすぐに展望デッキに上がった。高速船はゆっくりと港を離れ、人が歩くことのできないその場所を、大きな布にハサミを入れていくように小さな波を作って進んでいく。私は何もしていないはずなのに、その力強い船先に導かれ、追いかけているような錯覚を覚えた。体に絡み流れる潮風にポロシャツの裾は旗のように揺れる。振り向くと遠く反対側に富士山が見えた。それは海の上に立つ城のように悠然と聳え、私の背中を押してくれていた。
初島に着き、三十分ぶりに固まった地面に降り立つと、足には揺れる惰性が違和感として残った。来たは良いものの何があるのかは調べておらず、私は何か別の導きを求めて辺りを見回した。汚れた案内板に書かれた周遊路という文字が、はっきりと私には映り、指し示す先に歩いた。
歩きながら景色を眺める。右を向くと厚く尖った葉の多肉植物が、私の肌を刺すほどの威圧で力強く四方に伸びている。たった三十分で国を超えてしまったっかと思うほどにこの場所は南国だった。松は岩場を飲み込むように幹を伸ばし、針の葉を自己主張するように空中に突き立てていた。海岸には神様が遊びっぱなしで帰ったような無骨な岩が無造作に転がっていた。病院の白しか見てこなかったこの十数年間のおかげか、形も色も歪に変わるこの場所は、私に疲れを感じさせる暇を与えなかった。むしろこの先にある未知の景色を求める少年の心が枯れていた泉から湧き出し、私の足をずっと休みなく動かし続けていた。
不意に表れた木の進路図は雨風にさらされ、端は折れてささくれ立ち、カビで黒ずんでいた。もともと書かれていたであろう文字はもっと濃い黒で「初島灯台」と書かれていた。止まることのない足は振り子運動で文字が指し示す先へと歩みを進めていた。
人間とは違い、太陽光を懸命に求める樹々は、病院内での派閥のように音を立てず、バレないように葉を空の隙間に並べていた。私はその恩恵を受けて、影で涼みながら歩いた。アスファルトから土に変わり、足の裏はときどき石や張った根に押し返される。それは親から受けるしつけのように、開放的になりすぎる心を諌めた。樹々のトンネルを抜けた時、忘れていた強烈な日の光が身体中を覆い尽くした。空を見上げると巨大な隕石のように威圧感のある太陽と楽天的に空をくすぐるヤシの木が映り、その様子はキャラの立った漫才コンビのようだ。歩く地面は芝に変わり、緑と青の視界の中に白い灯台が現れた。その姿は生き生きとした自然の中にあってか遠慮がちで、気の小さい巨人のようだった。
入り口で入場料を払い中に入ると、少し湿気があり肌に汗が浮かんた。展望台に続く螺旋階段は白い塗料がめくれ、その下の鉄には赤錆が目立っている。私はそれをゆっくりと登る。歩く度、雨漏りがタライに落ちるように一定の金属音が鳴り、内部に反響して私の耳に届いた。運動不足の足はようやく疲れを思い出したのか、一段ごとに重りをつけたように動かなくなっていく。私は相撲取りが四股を踏むように膝に手を当て、引き上げながら登る他なかった。最後の一段を上がり、全体重をかけてドアを開けた。その時、潮風が私を労うように肌を撫で爽やかな潮の香りを運んだ。ほんの少し前までいたはずの本土を眺めると、奥に行くほどに高くなる景色の頂点に富士山が見える。海を挟んだ場所でも見える動じない輪郭に、私の体は抱きしめられているような安心感を覚えた。もう一度風が吹いた時、私の足は揺らいだ。それは富士山からの強い檄であり、私は自分の足を押さえて、その風を耐え切ってみせた。