【第三話】
少しだけ距離を開けて軽やかな音楽が彼に届いている。毎週水曜日は彼の楽しみとなっていた。壊れるための道具だった酒は、彼女の歌声を素直に聞くための心の鍵となり、酔いは彼の感情を解放させてくれた。相変わらず彼女の歌う曲の名前は覚えられず、酒の名前ばかり覚えた。席に座れば何も言わずに一杯目が出てくる。マスターとはそれほどの関係になっていた。
「ねえ、今日の歌どうだった?」
それが常に彼女の第一声だった。彼の隣に現れた彼女はカウンターと椅子の位置を手探りで確認すると、風に吹き上げられるように軽やかに椅子に座った。
「杏奈ちゃん。今日は何色にする?」
マスターが優しく微笑んでグラスを磨いている。私はつまづいたようにその言葉に疑問を抱き、持ち上げようとグラスに触れていた手を止めた。彼女は当たり前のようにその言葉を受け止めていた。
「どうしよっかな。今日はなんか、ズルッとして、重たい感じの曲が多かったからちょっとスカッとしたいんだよね。そうなると青かな」
彼女は疲れたのか眠たそうな顔を、体ごと左右に揺らしながら答えを探していた。
「青だね。わかった」
マスターはリキュールを後ろの棚から取り出して、テーブルの上に置く。続けて冷蔵庫からジュースを取り出す。彼は目の間で次々と行われている摩訶不思議な光景を見てあっけに取られていた。どんなマジックが起きるのか。そもそも、盲目の彼女に見せるマジックなんて意味があるのか。彼にできることはただ静かにこの場で起こる二人だけの儀式を見届けることだけだった。
マスターがシェイカーに氷を入れ、バースプーンがグラスの中で回される。フィギュアスケーターのスピンのようにバースプーンはクルクルと綺麗に回り、シェイカーは細かい水滴で濡れて輝いていた。幾つかの酒を入れ、ジュースを入れる。マスターは種と仕掛けがあるはずのシェイカーを振り始めた。心地よい氷の響きがリズムよく耳を転がる。最後にシャイカーを傾け、ピルスナーに注がれた時、彼の目の前には答えがいまだに提示されず、謎はさらに深く渦潮の中に巻き込まれていった。彼女の前には美しい山吹色のカクテルが置かれていたのだ。彼はそれでも、「違う」という声をあげることができなかった。儀式は彼女が一口飲むまで続いている気がしたからだ。
「胸の前に置いたよ」
マスターはゆっくりと彼女の前にカクテルを置いた。青と注文された山吹色のカクテルは、彼女の前で結露を滑らせながら、整然と彼女の手に取られる時を待っている。彼女は何かを楽しみに待つでもなく、いかにもそれが当たり前であるように、マスターの声がする方へ顔を上げて微笑んだ。彼女の指先がテーブルに触れ、滑り流れてコースターに触れ、グラスへと登って行く。そして包むように優しく掴み、口に運んだ。
「うん!美味しい!今の気分にぴったりの最高の青だよ!さすがマスター!」
彼女は大きな口を開けてにっこりと笑った。その色はカクテルよりも鮮やかな黄色に見えた。
「杏奈。その色は青じゃなくて黄色っていう種類の色じゃないの?」
彼はようやく二人の間に入っていくことが許された。彼女はまったく驚きもせずに答えた。
「へえ~、神おじさんには黄色に見えるんだ。でも、私には色なんて見えないからわかんないもん。だから、私にとってこれは青なの。気持ちをパッと明るくしてくれる青なんだよ」
また彼女は一口飲んで笑った。彼は自分の前にある透き通った琥珀色の飲み物を飲んだ。もう一度見直すも、その飲み物はやはり琥珀色で、私のよく知る苦い味がした。
「青って言ったら、水や海、雨や氷なんかの冷たくて静かなイメージが僕にはあるけどな」
彼女は「えー」と声を出して眉間にしわを寄せた。
「それ聞いたことあるけど、なんかしっくりこないんだよね。冷たいイメージとか暗い感じとかそういう雰囲気?だって、あの熱い火だって最初は赤だけど、温度が上がると青になるんでしょ?なんか私にはそっちのイメージの方がしっくり来るんだよね。一瞬にして全部消し去ってくれる感じっていうのかな」
彼女は考える時、右手の人差し指で頬をリズムよく叩く。彼女はそんな時、いつも歌っているのではないかと彼は思った。
「そうだね。でも、実際に生活をしてみて、青い炎を見ることなんてほとんどないよ。見るのはだいたい赤いやつ」
彼女は足をバタつけせる。こういう時は決まって機嫌が悪い時で、彼は妹をからかうみたいにこの瞬間を楽しんでいた。
「もー、だから神おじさんは頭固いんだよ。酒浸りになって悩むんだよ。目に見えてるからなんだっていうのよ!そういう一般常識があるからなんだっていうのよ!自分の中に理由のない見え方なんて、それこそ何も見えてないのと一緒じゃない!」
彼女は幼稚園児がおもちゃを欲しがるみたいにありのままの感情で怒り、吐き出していた。彼は彼女にばれないように微笑みながら、続く言葉を待っていた。
「周りがとか、みんながとか、そんなことしてたら、最後にはおじさんの目は教科書でも貼り付けたみたいに字面と色だけ追ってるつまらないものになっちゃうんじゃないの?」
一通り吐き出した彼女は「ふう」とため息をつく。すると何か閃いたとばかりに顔を上げる。彼女の閉じられた視線の先に、この世の何よりも美しい色彩が広がっているのかもしれない。彼はそう思った。
「そういう意味なら私って、この世で一番色を知っている人ってことよね!」
彼女の瞳は閉じられたまま、彼女にしか見えない色彩をその奥深くまで堪能していた。少なくとも、彼にはそう見えていた。
「ああ、そうだね。きっと。杏奈はこの世界で初めての色をたくさん作れる人なんだろうね」
彼は薄膜のように残ったウィスキーを飲み干して、マスターに声をかける。
「じゃあ、私は黄色で」
マスターは何も言わずに口角を上げて片側の頬にえくぼを作った。
「神おじさんにとって黄色ってどんな色?」
彼女は打って変わって、猫がじゃれつくような声を彼の耳に転がした。機嫌はすっかり治っていた。
「そうだな。楽しくて、温かくて、しつこくはないけれど優しい色。それで、無くなってしまうとどれだけ大切だったのかを知って、少し寂しくなってしまう色かな」
彼は自分の言葉に笑ってしまった。仮にも十年間広告に携わってきた者が全くの主観で色を語るなんてあまりにも愚かだと思ったからだ。一つの色の選択で会社はイメージも売り上げも変わってしまう。社員にも口酸っぱく言ってきたことが、横の色を見たことすらない暴君の前では簡単にねじ伏せられる。彼の頭の中で映像が浮き上がった。南京錠がかけられた鉄製のドアを、彼女は顔色変えず、発泡スチロールにでも当たったかのように突き破っている。そんな映像だった。彼はまた笑ってしまった。
「年を取るとみんな神おじさんにみたいに辛気くさくなっちゃうわけ?なんかやだ」
彼女は彼の方に向き、嫌がる顔をして言葉をぶつけた。そしてすぐに笑った。
「杏奈にとって黄色はどんな色?」
彼はマスターがカクテルを作るシルエットを眺めていた。手元がちょうど見えなくて、どんな色になるのかわからなかった。マスターがシェイカーを振り始める。隣に視線を送ると、いつも即答する彼女にしては珍しく、星でも探すようにあちこちに視線を飛ばしていた。
「黄色は情熱の色だよ。でも、独りよがりじゃない。相手の気持ちを察するような、一周回って気にしすぎるような。そんな優しさと丸みがある色。押し付けることはなくて、人を思いやる感じっていうのかな」
彼女の閉じられた視線は答えてもなおバーの中を回遊していた。熱を冷ますためだった。彼女は照れている。彼はそう思った。
「それはつまり、黄色は杏奈にとって恋の色ってことだね」
彼女は口を尖らせて眉間に皺を寄せて彼の方を向いた。その表情は威嚇する猫のようにも見えた。彼女のキスは下手そうだなと彼は思い、気付かれないように視線を外して笑った。
「そんなの分かんないよ!もう神おじさんはうるさいな!マスター!隣の人がセクハラしてくるから早く飲み物出して口塞いでよ!」
「はいはい。すぐに出すから待っててください」
マスターの隠しきれない笑みも口元に浮かんでいた。シェイカーの氷を切る音が、私たちの会話を区切るように高く響いた。
「お待たせいたしました」
マスターは私の前にカクテルグラスをそっと置いた。薄紅色の液体に、ちぎった雲を溶かしたような淡い白の表層が見える。私はグラスを手に取り、一口含んだ。柔らかい甘味が、赤子を抱く母の優しさのように口の中で広がり、グレープフルーツの酸味が甘味の上を無邪気に駆け抜けた。後を引く苦味は過ぎ去った思い出を懐古させた。
「どう?ちゃんと黄色?」
彼女はまだ機嫌が悪い。まるで壁でもあるかのようにボトル棚の方に顔が向いて動かない。
「うん。そうだね。僕が思うよりもずっと綺麗な黄色だよ」
もう一口飲んだ。少しだけ後味が和らいだ気がした。
「へ~、ちょっと私にもちょうだいよ」
彼女は子供がおやつを求めるみたいにテーブルを指先で叩いた。子供と同じくらいに機嫌もコロコロと変わる。彼は指示された場所までグラスを動かした。
「置いたよ」
その言葉と一緒に彼は彼女の指先に触れた。その瞬間、彼女は脅かされた猫みたいにピクリと驚くと、眉間に皺を寄せ彼を見た。
「ちょっとおじさん。誰も口説いてくれなんて言ってないんだけど?」
彼女は眉間に皺を寄せる。閉じられていてもわかるくらいに眼光は鋭い。でも、それは八つ当たりみたいなもので、普段から殴られている彼には今更大したことではなかった。
「そんなんじゃないよ。倒れやすいグラスだから、お嬢さんをエスコートするだけだよ」
虎でも手なずけるように彼は言葉で撫で彼女の顔を見た。口は閉じられたまま落ち着きをなくし、行き場を失った視線は上下左右に揺れていた。
「そんなこと言って、本当は、若い女の体に、触りたかっただけなんじゃない?」
言葉は歯切れが悪い。まだ一杯目のカクテルで、珍しく彼女の頬は赤くなり始めていた。
「それならもっとおとなしい子にするよ。その方が僕の好みだ」
彼女はぎゅっと顔を顰めると、彼に掴まれた左手をするりと抜いて、次の瞬間振り抜いた。彼の右肩にヒリヒリと痺れる痛みがやってくる。
「本当最低だよね!神おじさん!そんなんでよく会社経営とかやってこれたよね!絶対女子から嫌われてるから!」
補助をなくした左手はだらりと肩からぶら下がっている。彼は文句を言い終えた彼女を少しだけ眺めてから、もう一度彼女の左手を握った。
「はいはい。ほら、飲みたいんでしょ?グズグズしてるとせっかくマスターが入れてくれたのにぬるくなっちゃうよ?」
彼は彼女の手をテーブルの上まで導く。不満そうな横顔は彼の顔を決して見ることはなかったが、掴まれたその手は完全に委ねられていた。少しでも強く握ったら崩れてしまいそうなほど、彼女の手は白く、柔らかく、清純だった。彼女の手がカクテルグラスに触れて、彼は離れた。彼女はデザイナーが洋服の生地でも選ぶように丁寧に繊細にグラスの輪郭に触れて確かめ、細く伸びたガラスの柱を指先で摘んだ。グラスがテーブルを離れて宙に浮いた。その時、液体が笑うように揺れて光を反射した。グラスがだんだんと彼女に近づき、彼女の唇に触れて、薄紅色の液体は彼女の中に入っていく。彼女の一連の流れはそれだけで映画になった。
「うん。美味しい。でもちょっと苦いかも」
彼女は味わってグラスを置くと、舌先を出して苦笑いを浮かべた。強がって背伸びした彼女の顔は美しく、きっと絵画や彫刻では出せない成長の揺らぎに見えて、彼は微笑ましく思った。彼女の感じた味が彼女にとっての黄色であればいいと彼は思った。そして、私にとっての黄色にならないことを隣にバレないように彼は願った。彼女は自分が注文した「青色」のカクテルで口直しをしていた。
「これが大人の味ってやつだよ」
彼は落ち着いた彼女の顔を見てからかった。彼女は不満そうに一瞬口を尖らせるけれど、すぐに微笑んた。
「確かに、ちょっとびっくりしちゃったし、嫌な感じもしたけど、無くなろうとするとそれを引きとめようとしちゃう。なんだかずっと一緒にいたぬいぐるみを取り上げられて捨てられちゃうみたい。なんかそういう感じ」
彼女は頬を赤らめながら、微笑んで下を向いた。すぐにからかう言葉が浮かんだが、今は違うなと彼は思い、何も言わなかった。最後に一言だけ「そうだね」とつぶやき、彼も微笑みながら返ってきた黄色のカクテルを飲んだ。