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長い夜を歩くということ  作者: 放馬 舜
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【第二話】

 「ご一緒してもよろしいですか?」

今度は気のせいではなかった。声がした方向に顔を向けると、老人がテーブルの端に立って私に笑顔を向けていた。優しげな表情に刻まれた深い口角の皺が印象的だった。私は「はい、もちろんです」と笑顔で応え、対面の席に手を差し出した。老人が私の前に座り、仲居がやってくると、私がしたように引換券を渡した。そして、私がしなかった簡単な会話を交わして、私が気づいた彼女の応対の素晴らしさを褒めた。彼女の顔は照れて綻んだ。それは蛙が水たまりに飛び込み生まれた小さい波紋のように愛らしいほのかな笑顔だった。私は彼女の隠されていた少女の一面に触れた気がして、私の表情も自然と緩んでいた。

 私は老人に「お一人ですか?」と話しかけられた、私は「はい」とすぐに答えてから少し話したくなり「少し長い休みをいただきましたもので」と付け加えた。老人は嬉しそうに笑顔を崩さず「そうですか。頑張ってこられたご褒美ですね」と言った。変わらないはずの表情には四季で彩りを変える木々のような豊かで微細な変化が現れていて、私は素直にこの言葉を受け入れることができた。私は「そうですね。頑張ってきたかもしれません」と謙遜することを辞めて答えた。多くのしがらみはここでは存在しない。頭の中でそう言葉が鳴ると体をがんじがらめにしていた黒い糸が、スルスルと音を立てて解けていった。ただ絡まっていただけと言わんばかりに。老人は何も言わずに笑顔で居続けてくれた。「あなたも…あ、すみません、お名前を聞いてもよろしいですか?」私は申し訳なく頭をかいた。老人は「いいんだよ。そんなに気にせんで。私は普通に話を聞きたくて、したくているだけの老ぼれなんだから」と口を開けて笑い「神山です」と丁寧に答えてくれた。「では、あなたの名前も聞いていいですか?」と少しだけ首を傾げる。「塩尻と言います」と私は答えて「神山さんもこちらへはお一人で来られたのですか?」と先ほど聞けなかった質問を続けた。老人は「ええ、独り身の老後はやれることが少ないもので」と恥ずかしそうに首をさすった。きっと彼ほどのユーモアがあれば、友達がいないということもないだろう。さらに、仕事中の客と仲居という関係性にもかかわらず、相手が仕事を忘れて心を開く会話力は、とても隠居し年金暮らしをしている老人とは思えない。話を掘り下げようとすることが相手の望むことかどうかはわからない。今、私が抱えている気持ちはこの老人への個人的な知的欲求だ。それを相手に押し付けるのは最善とは言えない。こんな時にすべきことが何なのか。今の私にはわかっていた。「普通のご老人はここほどの旅館には泊まりに来れませんよ?」と私は少し口角を上げて冗談を返した。老人は口を開けて仰け反り楽しそうに笑う。「君に話しかけてよかったよ」と目尻にはみ出た涙を拭う。「では一つ、珍しい老人の話を聞いてはくれんかね?」と老人は私に問うた。私は「ぜひお願いします」と微笑みを返した。


 彼は当時としては珍しく大学に通うことができた。幸いなことに両親は地元では有名な地主であり、次男であった彼は親の後を継ぐことはなくとも、「名家に恥じない人であれ」という教えがあったからだ。彼の父は頑固で時に強引で融通の利かない人ではあったが、自分の身を一番に捧げて仕事をする姿を子供たちは見ており、彼も尊敬していた。そんな父を支え、厳しくも強く育ててくれた母のことも同じように尊敬していた。彼の通う大学は東京にあった。そのため両親は「勉学に励むため」と仕送りを提案していた。しかし、彼は「自分で生きる力を身につけたい」とそれを断っていた。結局のところ両親の説得により、学費のみという話で落ち着き「一体この頑固さは誰に似たんだか」と母は笑った。

 三月となり、進学のために東京駅に降り立った彼は驚愕した。初めて触れる東京の街は図書館の本棚のように隙間なく家が立ち並び、人が縦横無尽に流れていた。自然に囲まれた彼にはめまいがするほどだった。これから四年間という時間が、地球の裏側に設置されたマラソンのゴールのように思えて、不安が彼の頭の上からすっぽりと覆った。

 しかし、人類という一つの種が、極寒の氷の上でも灼熱の砂漠の上でも生活ができるように、彼もまた、東京という異世界に慣れていった。時間は都合よく彼の体も心も記憶も書き換えて、大学生活を豊かなものにしていった。

 彼が四年生になる頃には、最初に見た東京の景色は、灰色のビルの現実的な姿に変わり、感情も特になかったと彼の中で書き変わっていた。群れる人の数にも慣れ、人間関係の希薄さにも慣れた。博打も酒も女もすっかりと板についた。しかし、どんなにはしゃいでも、勉学をおろそかにすることはなかった。仕送りの一番上に乗せられた手紙を読む度に、彼の背筋は鉄柱を落とされたようにしゃんと伸びた。十人の女性と付き合い、覚えていないくらいの女性を抱いた。同時に三人と付き合い、鉢合わせすることもあった。しかし、女性からどんなに責められようと泣かれようと彼には痛くもかゆくもなかった。逆にそういう女性たちを彼はただにこやかな笑顔で、料理のコースメニューを出して美しいフィナーレに導くように関係性の糸を淡々と細めて完結していった。

 彼にとって一番大事なことは「名家に恥じない人であること」であり、それは一番に「勉学」であり、モテるということは「魅力がある」という事実をわかりやすく表したものとしか当時の彼には思っていなかった。だから、「泣きつき」や「感情に訴える」という動物的本能をむき出しにする女性が自分の隣にいることはそれだけで「恥」であり、彼は一刻も早く距離を開けておきたかったのだ。

 そんな残酷さを持ち合わせていた彼であったが、一般的にはその明るい性格で先輩後輩を問わず多くの仲間を作った。残忍さはドライとして受け入れられ、悪い噂が立つこともあったが、何よりも彼自身が全く気にしていなかった。女性からは「プレイボーイ」なんて言われることはあっても、子供が危ないと言われるほどに好奇心を刺激されることと同じで、悪名は彼の魅力をより強く引き立てた。彼は男女問わず真摯に相談に乗り、馬鹿話をして酒を浴びることもあった。そういった優しさが結局彼への評価を高めていた。

 仲間たちが簡単に就職を決めていく中、彼もまた簡単に広告代理店への就職を決めた。最後の瞬間まで彼の学生生活は彩られ、時間は瞬く間に過ぎ去ったというのに、思い出だけは無限の時間を有するほど彼の頭の中に刻まれていた。

 彼の入った会社に昼夜はなかった。研修もなく、初出勤日を迎える前に上司から伝えられていたのは「寝袋を持参するように」という淡々とした言葉だった。同期は二十人おり、彼ら彼女らは皆とても頭はキレ性格も良かった。朝から飛び込み営業で名刺を配り、夕方に帰社し、その後は先輩の手伝いや仕事のチャンスを掴んだ同期のプレゼン資料を全員で作成した。奇跡だと言えるのはこの状況に対して、誰一人として疑問を持つ人間がいなかったことだ。当たり前のように二十二時に同期で会議が始まり、スケジュールを立て、深夜になるまで仕事をしていた。彼らは同じ辛さを志という形に昇華した同志となっていった。それはもう今で言う所の洗脳に近いものであったのかもしれないが、彼らにはそんなことはどうでもよかった。

 二十八歳になった彼は仕事の余裕も生まれて余暇ができた。そして、その時間は彼の中で沈殿して見えなくなっていたある思いを気泡に包んで押し上げてくれた。それは「名家の看板を背負っていない劣等感」だった。彼はそのことに気づいてしまうと、もう自分が家族と絶縁でもしてしまったかのような虚しさを感じた。それは同時にどんなにつらくとも、どんなに快楽に塗れても、彼の中で核となり揺らぐことのなかった父の言葉が脆く崩れて消えかかっていることを意味していた。まるで一生懸命に作り上げた砂の城が、何度も吹かれる風に削り取られていくように。彼は今、自分がただの人間であることを強く意識させられることになった。しかし、彼には名家の誇りを失っても残っているものがあった。それは【ただの人】であった時、つまり、彼の大学時代から今までの積み上げてきた経験だった。それは大学時代の「勉学」であり、「友情」と「遊び」であり、そして、就職してから仲間たちと過ごした「仕事」と「実績」だった。彼は一つの決意を固めた。それは彼自身が「名家になる」ことだった。彼はその誓いを立てると上司に強い決意を持って退職願を提出した。

 彼が興した会社はなかなか糸口を見いだすことができずにいた。退社する時は幸いなことに、同期や先輩後輩からも「応援している」と笑顔で送り出され、社長からは酔いがあったとはいえ、とても残念なまだ何かを言いたげな顔をされた。しかし、「お前なら絶対にできる」とすぐに表情を笑顔に切り替えて励まされた。彼は社長の姿を見て「やれる」と改めて確信していた。お得意先に挨拶をした時も「名刺を絶対に持ってきてくれ」と言われ、人間の温かさが会社の看板が外れた彼の心には深く染み込んだ。

 しかし、お金と立場が絡む現実はそう甘くはなかった。彼は約束通り前の会社のお得意先に名刺を持っていき、連絡を取り合った。しかし、返ってくる答えは「私の一存で決められない」という言葉ばかりだった。どこかで彼は人と人として彼らと通じ合っていると期待していた。しかし、所詮は会社名を擦り付けただけの付き合いに過ぎず、看板が外れた彼はやはりただの人でしかなかったのだ。

 流石の彼もボディブローを打ち込まれ続けるような日々に落ち込み酒を煽った。それと同時に思うのは一人で今の立場を築いた父と前会社社長の偉大さであった。自分の実力を大いに思い知った。それでも彼は心の芯までも折れることなかった。立ち直った彼は泥臭く名刺を配り、何度も担当者に会って信頼を築き、与えられたチャンスに全力を注いだ。我を忘れる程もがいた。それでも弱気が彼に魔を刺すことはあった。しかし、彼の体に染み付いた仕事に対する姿勢は習慣として変わらずにいてくれた。それは朝起きたら必ず行う歯磨きと同じようなもので、常に動き続けるということが、彼が彼でいられる証明のようなものだった。やがて彼は聞いたことない業界だろうが御構い無しに営業をかけ、仕事を受けた。ハッタリをかけてでも仕事を取り、足りない知識は徹夜してでも覚えた。彼の仕事ぶりはやがて噂となって広がり、興味を持って相手の方から訪ねてくることも増えてきた。彼の仕事の幅を聞いた依頼者たちは驚いた。しかし、それらを全て一人でこなしていたという事実を聞くともう言葉も出なかった。「君はどんなところで仕事をしていたんだ?」と聞かれることはほとんどテンプレートのようなものになり、その度に彼は自信を持って答えた「ただの広告代理店です」と。

 彼の仕事が依頼だけで回るようになったのはそれから一年後だった。前会社のお得意先も「ようやく上司からの許可が降りた」と仕事を振ってくれるようになった。彼は前のお得意先に断られて以来、連絡をすることは控えていたので、突然のことで驚き、そして、感動した。彼はこの手のひら返しを恨むようなことは微塵もなかった。彼らの立場や状況、考えを彼は理解していたし、何よりも彼らはもう一度戻って来てくれている。自分の頑張りが一度切れた縁でさえ、もう一度手繰り寄せてつなぎ合わせることができた事実が、彼の自信となり、心臓に強固な根を張り、芽を出し始めていた。やがて社員は増えて、彼は自らが営業に出ることはなくなり、指導に当たることが多くなっていった。新橋に新しいオフィスを構え、入社希望者はさらに増えた。彼は三年にして、「名家になる」という夢の背中がようやく現実として見え始めていた。しかし、対照的に彼の中に産まれたのは「社長」として「人の生活を預かる者」としての「焦り」だった。

 彼の焦りは餓えた狼のように頭の中を暴れまわり、時に食らいつき頭痛となって現れた。このままでは自社の勢いはなくなり、後発の新興企業に追い抜かれ飲み込まれる。彼にはその暗い未来が頭の中で想像できてしまっていた。彼が社会人として積み上げた十年は時代に対する嗅覚を鋭敏にして、先を見通す思考を育てていた。彼の背後には黒い影が靴音を響かせながら迫り、いつ肩を叩かれるかわからない恐怖は、一人となった夜に増大して魔物と化した。そして、何も知らず危機感すら持たずにいる社員たちを段々と許せなくなっていった。叩き上げで育ってきた彼だからこそ、フロアで怒声をあげるようなことはせず、深夜まで働くことを強要もしなかった。自分の作り上げた会社の中で、自分だけが会社、そして社員の未来を考えて憂いている。自分一人だけが強いモーターで歯車を必死に回すも、隣の歯車が呑気に回っているようなやるせなさがあった。社員から見ると彼は無意味に負荷をかけ、摩擦を引き起こす反乱分子に映っているのかもしれない。彼はそう思うとこの気持ちのやりようがなかった。

 やりようのない彼の怒りは酒に向かった。彼は一人、バーのカウンターでウィスキーを飲み干し、またマスターに要求した。「同じものを」と波打つように言った彼の目は、人形のように何も映していなかった。

 彼の行きつけのバーは毎週水曜日になると小さなライブを行っていた。学生時代から音楽に疎い彼には、クラシックもジャズもロックもポップスも関係なく、音楽はただ心地よくなれればなんでも良かった。

 彼は目の前に出されたウィスキーを口に運んだ。前でグラスを拭くマスターも、後ろに並んだボトルも、視界に映るもの何もかもが嘘か誠かわからなくなっていた。そして、これは夢なんだと思った。酔いで体が揺れ続け、首は電極でもつけたように強く脈を打った。もう一度グラスを口に運んだ。苦く、喉が焼けた。今は現実だった。

 我を失った彼の頭の中でも、音楽はリズムよくうまい具合にするりと流れ、心の中にまで響いていた。恨めしくなるほどに楽しげで、時に堪え切れないほどの悲しみで、彼はいつの間にか泣いていた。誰が演奏しているのか。誰が歌っているのか。体をその方向に顔を向ける冷静さも気力もなく、彼はぼんやりと同じものを見続けていた。彼の視界にあったのはグラスの中で光る琥珀色の液体と硬い木目だけだった。


 「マスターいつものちょうだい!」

彼の隣から元気で強い女の声が響いた。でも、その声はまだ踏まれることを知らない若草のように澄んでいた。

「はい。ちょうど胸の前に置いたからね」

「いつもありがとう!マスター愛している!」

女は調子の良い返事をした。彼の酔いは少しだけ冷め、首を右に向けるくらいは簡単にできたが、そんなことをする意味もなかったので項垂れるように顔を落としていた。

「ねえ、おじさん。私の歌全然聞いてなかったでしょ?」

隣から声がした。彼はその声を自分にかけられたものだと分かっていた。しかし、駄々っ子みたいに彼は無視した。会社の外でまで自分の気持ちを殺したくはなかったのだ。彼はより一層意固地になって無視を続けることを決めた。

「やめてあげな。杏奈ちゃん。この人寝てるんだから」

マスターの少し掠れた低い声が隣の女を諭した。そして彼は、また一人になれる。そう思った。しかし、数秒もしないうちに彼の肩に痛みが走った。それはとどまることを知らず、脇腹に首に、そしてまた肩に。手のはっきりとした感触が皮膚の上で痺れ続けていた。いい加減耐えられなくなった彼は、今できる最大限の不機嫌を表情に乗せて、女の方にゆっくりと向いた。彼の視界は段々と鮮明な輪郭のある現実を取り戻し、オレンジの光の正体がカウンターに吊るされた電球であることもようやくわかった。女はなおも彼を叩こうと左手を振り下ろした。しかし、その試みは彼の右腕のシャツを引っ掻いて外した。

「あ、起きた」

女が拍子抜けといった声を出した。彼はもう少しだけ視界の中心に女を入れた。女の目はまぶたで閉じられ、口は表現できない目の代わりに大きく綺麗に口角を上げていた。まだ社会を経験しているような年齢には見えなかった。

「おはよ。私の歌はそんなに退屈だった?」

少女は彼の表情など意にも関せず、というよりも確認することもできず、飄々と訪ねてきた。そして、指先でテーブルに触れてゆっくりと移動させ、マスターの置いたであろうグラスに触れ、手に取った。細く、柳のようにしなやかな指だった。

「いや…すごく良い歌だったよ。」

予想外すぎた彼女の姿に彼は驚き、先ほどまでの怒りはハンマーで叩かれたかのようにどこかに飛んでいってしまっていた。彼は、どうやら感情というものは案外単純らしい、とその時学んだ。マスターは何も言わずに彼にチェイサーを出した。彼は会釈をしてそれを受け取った。口に運ぶ前からまた少し、彼の酔いは覚めていた。

「何適当なこと言ってんの。おじさん一人で飲みすぎておかしくなってんじゃないの?」

少女の言葉は彼の驚きなど見えていないかのように、いや本当に見えていないのだろうが、とにかくお構い無しに強かった。気を遣うという考えはないのだろうか、と彼は考えてしまうほどだった。頭に響く鈍痛はアルコールのせいか、彼女の言葉の暴力の強さなのかわからなくなるほどだ。しかし、彼は少女の態度に嫌悪を感じることはなく、むしろ、雨上がりの青空のような清々しさすら感じて、彼は少しだけ口が軽くなった。

「ああ、そうかもしれないな。うん。おかしいのかもしれないね」

酒が彼の弱気まで流してくれることはなかった。飾らない少女の前に、飾らない無惨な弱音として、成仏しきれない霊のように流れ出てしまう。コップの中から水があふれる感覚か、それともバケツの穴から水が漏れ出てしまうような感覚か。そんな風に考えていること自体が無駄に思えてしまう。

「ふ~ん、まあ、そんなことどうでも良いや。それで私の歌、聞いてたの?聞いてなかったの?どっち?」

少女は彼のナメクジのような言葉をつまみ上げ、適当に投げ捨てた。と言うよりも往復ビンタでも食らわすようにはたき落とした。と言った方が正しいのかもしれない。しかし、その潔さが今の彼にはとてもありがたく、ただの悩み込んだ一人としてここにいることを許された気がした。彼は呆然と正面のボトル棚を眺めながら言った。

「うん。聞いてたよ。歌のことはよくわからないけれど、花火が上がるみたいに楽しかったり、雨が降るみたいに寂しかったり、どうして同じ人の声がここまで感情を一瞬で操っているのか不思議で仕方なかった。一言で言えば感動したよ。それがまさか、いきなり暴力を振るってくるような少女だとは思わなかったけどね」

私はテーブルに肘をかけて少女に顔を向けた。少女はやっと少女らしく照れて頬を赤くした。その一瞬は今日見た中で彼女が止まった唯一の時であり、両手は赤のワンピースを弄ぶことで複雑に絡まった感情を消費していた。

「最後の言葉がなければ、キスでもしてあげたのに。おじさん、勿体無いことしたね」

少女は太陽のような明るい笑顔をすぐに取り戻した。照れ隠しで声は一段と大きく、私の耳の中にねじ込まれた。彼はキスなんかよりもこの笑顔を見れたことの方が嬉しかった。キスなんてされた日には、その後の体にいくつ手形がついてしまうのかわからないとも思った。彼の問題は何一つ解決していないのに、背中に張り付いた黒い鉛の塊が剥がされたように彼の体は少し軽くなっていた。

「まあ、でも、私も嬉しかったし、おじさんの悩みも聞いてあげるよ。ほら、話してごらん」

少女は新しくカクテルを頼み、彼に見えないように小さく指差す。「ツケ」と笑顔でマスターに口を動かした。見られていないとでも思ったのだろうが、その瞬間は彼が彼女の笑顔に見惚れた後で、彼の視界の中央にはばっちりと彼女の犯行は映っていた。マスターはもうすでに口元で笑いながら彼に目下せをした。いいですよね、とでも言っているような目をしていた。マスターも共犯であった。彼は観念して数回頷いた。するとマスターも数回頷く。「はいはい」と少女に言い、後ろのボトルを探り始めていた。彼はもうどうとでもなれと思った。なんのためらいもなく、自分の思いを少女にぶちまけていた。このままでは会社は傾いて、社員の生活を守れないと確信していること。でも、その危機感を社員たちは感じていないどころか、安定に慣れてずっと続くという勘違いを起こしていること。しかし、それを無理やりに伝えることも仕事をやらせることもできないこと。少女は今までとは打って変わって、黙って話を聞いていた。時々聞こえる「うん」という相づちが、言葉に詰まってやめそうになる彼の心を掻き出してくれた。

「会社ってさ、おじさんだけのものなの?」

少女はボトル棚に顔を向け、矢でも射るように真っ直ぐ言った。彼は反射的に苛立った。少女に感情的な視線を向けた。

「どういうことだ?」

彼は一回りも違う少女の言葉にムキになっていた。酔いもあるだろうが、それよりも一人で会社を作り上げてきた自負が彼を逆立てていた。

「だって、おじさんは自分が社長だから、辛い思いをしてきたから、社員たちを守ってあげたいと思ってるけど、社員は守られるために会社に来ているわけじゃないでしょ?仕事しに来てるんでしょ?だったらおじさんの抱えてる将来の問題は会社にいる人すべての問題じゃない?」

少女の言葉は的確だった。私は何も答えられず、察するということを知っていたのか少女は言葉を続けた。

「おじさんは確かにその会社の社長で、どの社員よりも会社と支えてくれる人たちの生活と未来を考えなきゃいけないよね。でも、一人で全てをどうにかしなきゃいけないわけじゃないでしょ。おじさんは社長だけど、ただのおじさんなんだよ。週のど真ん中に酔いつぶれて、二十歳の女の子に説教されちゃうような、ただのだらしないおじさんなんだよ。会社一つを何もかも支えようなんて蟻一匹で象を運ぶようなもんだよ」

少女は漫談でもしているみたいに声を上げて笑った。その笑顔を見ていると彼の自負など、綿毛が飛んで行くように攫われて崩れていく。必死に抑えていた蓋が急に外れてしまったかのように、目からは一筋の涙が流れていて、彼は鼻を啜らないように、気をつけながらハンカチで拭き取った。少女は気を使っているのかボトルに向けた顔の位置は変わらない。小鳥が歌い出すように少女は唇を尖らせて話を続けた。

「私だってそう。ベースがいて、ドラムがいて、ピアノがいて、サックスがいて、ボーカルの私がいて、初めてバンドなの。でも、私たちはどんなに集まっても一人のただの人でしかないんだよ。だから気負う必要なんてないと思うんだよね。私の中にはただの私がいつもどんな時もいてくれて、その子だけはどんなに批判されても、自分のことを抱きしめて守ってくれるの。そう思うと自分の思いを伝えることも少し楽になると思わない?」

少女はそう言うとにっこりと彼に笑顔を向けた。彼は人生の中で交際相手を、友人を、顧客を喜ばせ、その度に多くの笑顔を見てきた。しかし、今隣に見える笑顔はその中で間違いなく一番美しい笑顔だった。

「ああ、その通りだね。社長は何も言い返せないよ。やっぱり君の言う通りただのおじさんだ。蟻ぐらいの力しかないちっぽけなおじさんだ」

「でも、蟻は自分の体重の何十倍もある餌を運んだりするし、働き蟻って言うくらいだから働き者だよね。そうなるとここで呑んだくれてるおじさんよりも偉いのかな」

少女は真面目な表情を宙に浮かべ、椅子からぶら下げた両足を揺らして遊んでいた。「おいおい、それはひどいじゃないか」彼が言うと、「冗談だよ。まあ、冗談とも言えないけど」と少女も笑った。彼は苦笑いを浮かべたが、もうすっかり気持ちは晴れてしまっていた。

 少女とは朝までずっと話していた。何を話したかを彼は全く覚えていなかった。しかし、彼は少女のいくつもの笑顔をカメラで撮ったかのように鮮明に焼き付けていた。


 彼は酒の抜け切らない頭痛の残ったまま出社した。しかし、心はおかしいほどに晴れやかだった。彼にとってアイデンティティである仕事に、私情を持ち込むことなど最も避けていたことだった。しかし、彼はこの会社の社長としてではなく、ただの人としていることを今日は決めていた。自分の感じるがままに体調の悪い刺々しい表情で社員の前に出て、準備をしている社員の横を熊のようにのそのそと歩いた。そして、社長室のドアを気だるく開けて入ると落ちるように自分の席に座った。

 土日の休みが現実的に見えてきて、和やかになるはずだった木曜日のフロアは、社長の荒れた様相で一気に不安と緊張に覆われた。有る事無い事を社員たちはコソコソと話し、共有することで安心をしたかったが、着地地点は結局わからないままで、皆が検討すればするほどに不安は高まった。結局、すぐに誰も社長については触れることはやめた。さながら嵐の前の静けさとなった。

 彼は社長室の中で一度大きくため息をついた。自分の内臓をひっくり返して口から出してしまうほどに全てを吐き出した。そして、立ち上がり、ドアまで歩き、少しだけ強くドアノブを握り、社長室のドアを開く。灰が積もるように濃くなる不穏の空気は、ドアが開かれる強い音によって払われ、全ての社員の視線が一点に集中した。彼は大きく息を吸い込んだ。昨日の少女の笑顔がパッと頭の中に映った。

「これから緊急会議を行う。全社員本日の予定を午後に変更して、今すぐ会議室に集合してくれ」

彼の落ち着いた声は重みを持って、強い響きを与えながら、確かに社員に届いていた。反対するものは一人もいなかった。社員たちは唖然とし、彼の言動に驚き一瞬固まった。しかし、すぐに意識を取り戻したように電話でアポの再調整を始めた。頭を鹿おどしのように折り、謝る社員の姿を見て、彼は少しの達成感を得て、意外なほどに罪悪感もない自分に驚いた。彼はこの場所にただの一人の存在として立つことができていた。

 想像以上に準備は早く進み、三十分以内に全ての社員が集まることができた。配られる資料はない。彼は前に出て、自分の胸の内にある会社の将来について、不安と現状への危機感を余すことなく伝えた。彼自身、自分の使う言葉が社員の頑張りを踏みにじるような内容を含んでいると感じていた。それでも、彼は勢いを一切止めることはなかった。台風が全てを巻き込みながら北上していくように、彼の熱意は吹き荒れて、問題はよりリアルに社員の肌を突き刺していた。そして、彼は最後に社員の前で深々と頭を下げて言った。

「ただ、私一人もがいても、この状況を打破することはできない。それはアイデアでも、新規顧客開拓でも、新規事業でもだ。だから、私に力を貸して欲しい。ただの一人の社員である私に皆の協力をお願いしたい」

彼はそれだけを伝えると急に恥ずかしさがこみ上げてきた。

「以上。急な調整をさせてしまってすまなかった」

彼は最後に言うと振り返り、ハンカチで目頭を押さえながら、逃げるように会議室を後にした。

 社長室に戻り、勢いのまま椅子座る。溶けるように体を預けて彼はうなだれた。やり切ったはずなのに未だに胸の中に熱を感じる。震えて汗ばむ手のひらを眺めて、彼は情けなくなった。やはり、私は【ただの人】でしかない。そう思うと彼は呆れて一人で笑ってしまった。社長室のドアがノックされたのはそれから三十分もしないうちだった。

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