一話
どこの大陸の、いつの時代かは分かりませんが、ただそこに生まれた一つの日常の形がございました。村などはなく、一軒の小屋だけが目立つように建てられているのです。しかし、未だに訪問者の影は見当たらず、些細な菜園と近くを流れる小川の彩だけが今日も穏やかに描かれておりました。
そんな小屋でまさに鮮やかな取れたて野菜を洗っている黒髪の青年は夕夜、いえ確か今はユウヤと呼ばれていましたか。勿論、彼を名前で呼ぶことの出来る人はおりませんが、そう、例えば鍋に火を入れることに躍起になっている彼女とか。目付きの悪い青い大鳥こと、ランが五音の律でそれも頻繁に。
あとは、それから……作物の枝葉で隠れてよく見えませんが、あの豊かな菜園を育て上げた方もランと同じように彼に話しかけます。菜園を些細なものとは申しましたが、荒れた土地を一から耕した立派なものですよ?ただ、森全体を俯瞰すれば農園とまでは称せない、つまりは全体の割合と言う意味でのこと。
窓から覗けば分かる通り、この家の食事は菜園の作物に支えられているわけなのです。ですから、作物は大切に扱わないとって、あっ!もう、茹で上がっているのに、そんなに強火のままでは……。まぁ、ランはいつも頑張ってはいるのですが、彼女にとっては僅かな火加減がきっと難しいのでしょうね。
「今日もサラダとトウモロコシか。そろそろ別のものがって、ラン!ストップ、ストップ!!」
勢いよく沸騰していた鍋にようやく気が付いたユウヤは、慌ててランを止めに入りました。慣れた手つきでランの嘴を閉じるようにユウヤは握ると、ランは嫌がるように暴れました。全く、孔雀のような五色の紋が羽についているというのに、あまりにも性格がって……そんなに睨まないで下さいよ。
「トウモロコシは……良かった、大丈夫そうか。」
もう、それではいけませんよ、ユウヤ。鍋のトウモロコシの様子が気になるのは分かりますが、ランのことも見てあげないと。ほら、拗ねてそっぽを向いているではありませんか。初めてユウヤがランと出会った頃とは違って、だんだん扱いが雑になっているのは褒められたことではありませんよ?
残念ながら、野菜を切っているユウヤにこの声は届きませんけど。そうこうするうちに、ユウヤは木でできた手製の器にサラダと茹でたトウモロコシを盛りつけ終わりました。トマトにレタス、キュウリといった野菜の種類は……ひと月以上前から変わっていませんから、飽きるのも仕方ありませんね。
「イツ、朝の用意が整ったぞ!イツ!」
開け放たれた玄関を超えて、ユウヤの声は菜園に響き渡りました。すると、作物の間をゆっくりと練り歩く白い姿が。そうです、イツと呼ばれる彼女こそ菜園の管理者であり、もしかすると一番偉いかもしれないお姉さんとしての役回りとなっています。そして、この小屋でのランの理解者でもありましたね。
というのも……あ、彼女がイツですよ。厳ついくらいに伸びあがった角に、真っ白な身体をもった鹿としての姿が彼女なんです。イツは角が引っ掛からないように小屋に入ると、ユウヤが床に置いた器に口を付け始めました。そんなイツに真っ直ぐな視線を向けるランは何やら言いたげで……あの、やめた方が。
【さっきから、うっさいわね!聞こえてんのよ!私に燃やされたいの?】
あ、いえ、そんなつもりはなくてですね、でも仕方のないことなんですよ。えっと、物語の始まりにはお約束がございますから。私とランさんがこうして会話ができてしまうのも説明がつきませんし、色々と不都合になってしまいますから……あの、せめて聞こえるように舌打ちをしないでいただけますか?
【あなた、私を初めてさん付けしたでしょ。呼び捨てにしたの、忘れてないわよ!あなたも毎日同じものを食べてみなさいよ、イライラするわよ?】
【ならば、食さぬことよな。お主は霊泉を飲み、竹の実だけを食すと噂に聞いたぞ?やはり、下品な其方は神霊の化身ではなかったとな。】
あぁ、また始まってしまいましたか。ここではランとイツの口喧嘩が絶えないわけですが、発端は毎度毎度取り留めもないことばかり。言い忘れましたが、ランとイツは精霊と呼ばれる枠組みにおりまして、この世界の立役者のはずなんですけど……現実はこのようなものでして、精霊と言えど様々とだけ。
そんな彼女たちの会話はユウヤには聞こえておらず、ただ喚いているか、もしくは鳴いているか、あるいは沈黙のまま。おそらくこの世界に来たばかりのユウヤにとっては、動物としか思っていないのでしょう。期待した魔法や科学なんて概念は今のユウヤからはとても縁遠いものに違いありませんね。
一応のこと、昔は魔法に頼り切った文明が存在していたのですが……悲しいことに資源が枯渇してしまい、知識だけが流浪の身と成り果ててしまいました。現在では、森や湖といった自然に住まう精霊たちがこっそりとお手伝いをしているくらいでして。人々は散り散りとなって……あれ、そう言えば。
「何か、もっとこう、ドレッシングがあれば美味しいんだけど。ここに来てから、どのくらい経ったっけ?」
ユウヤは木製のフォークで野菜を突つきながら、一か月半前のことを懸命に思い出していました。あの頃は森を彷徨うばかりで、やっとのことで空き小屋に辿り着いていましたね。それからイツ、ランと順に出会って、伝書鳩が偶然にもユウヤたちのいる小屋の上空を通って……そう、あれは驚きでした!
「人にも会っていないし。手紙が届かなくなってから、一週間、いや、二週間ぐらいか。イツ、ラン、いつからだっけ?」
ユウヤに不意に尋ねられたイツとランは口喧嘩を止めて、互いに記憶を振り返り始めました。長い時を生きる精霊にとって時間の感覚は薄いと言うのに、中々ユウヤも愛されていますね。人々が魔法から離れて以来、精霊の恩恵に預かれず自給自足の生活を強いられている方もいらっしゃるのですよ?
最近では、人々の前に決して姿を現すことのなかった妖精なんて枠組みがあったりなかったり。ほら、よく聞くじゃありませんか、お伽話とかで。魔法も科学も廃れていくことが必ず悪いとは限らないのがこの世界のいいところでもあるんですよ、その辺をって……どうやら答えが出たようですね。
【【 一週間と三日 (よ)(ぞ) !!】】
「ま、答えが返ってくるわけないか。どうすっかな~、これから。」
あらあらユウヤ、それではあまりにも彼女たちが可哀そうですよ?ですが、確かに気になりますね。向こうから始まった文通ですのに、遅れることはあっても途絶えることは初めてです。こちらからはいつも野菜を、向こうからは白紙の紙を交換しながらの文通でしたから、何があったのでしょう。
ユウヤにとっては紙なんて文明的な名残は貴重なものでして、不思議と向こうでは食べ物が足りていないとの一文もありましたね。実は、書く物に困ってユウヤはランの美しい羽根を一本ほど貰ったんですよ。まさか、それからイツの作ったトマトの果汁でインク代わりに書けるとは思いませんでしたが。
ユウヤは椅子の上で、肘を組みながら悩んだままです。おおよそ何を考えているのかは分かりますが、この世界の精霊のことすら知り得ていないと言うのに大丈夫でしょうか。まだ述べていないことが沢山あるのですが、きっと想像を易々と超えていきますよ?ほら、イツもランも止めないのですか?
「よし!決めた、外に、俺は外に出るぞ~!」
ユウヤは声高にそう叫びながら、椅子から立ち上がりました。もう、分かっていたことですから、次の展開も予想できてしまいますね。それにしても、イツとランはどうしてそんなに嬉しそうにしているんですか?さては……いけませんよ、いけませんからね、バレたら厳罰ものですから!