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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

或る文学作品

高尾

作者: 栄啓あい

 私が東京に来たのは、桜の咲き始めた少し暑い日だった。


 新幹線に乗って、東京駅に着くと、名古屋とはまた違った雰囲気の、喧騒している人混みがあった。


 東京に来た理由は、別段深い理由はない。


 名古屋で務めていた会社の支社を東京で出すというので、転勤という形で来たまでであった。


 次の乗り換えは、JR中央線というものらしい。

 

 中央線といえば、名古屋でも走っていたが、それと一応つながっているらしい。 私の向かう駅は、この電車の終点、高尾だ。


 すると、電車に乗っていくと、私の思っていた都会の東京とは、どんどん離れていった。


 気が付けば、そこには田んぼが広がっていた。


 私の生活は、ここが拠点となる。


 会社は、自転車で二十分程のところにある。


 駅を出ると、そこには郷里の裏道に入ったところと同じくらいの人通りの大通りがあった。


 空気の澄んだ町といえば、間違いではないが、実際のところ、山のよく見える、特別田舎でも都会でもないところである。


 一度高尾山というところにも行ってみたいものだ。


 然し、そんな気は起こるものの、家でのやることがたくさんあり、時間も体力も失せて、なかなか足が向かない。


 









 一週間をこの町で過ごしたこの日、私は今日も自転車に乗っていた。


 近隣の中学生や小学生の登校を見ながら、通勤する。


 いくつか気になるラーメン屋さんも過ぎ、人気(ひとけ)のない路地に入り、職場につく。


 ルータの並ぶ、回線がたくさん飛んでキンキンする室内で、八王子に来て部長になった先輩にあいさつし、自分のパソコンに向かって二人だけで作業をする。


 二人だけだと大きく感じるこの部屋には、ネットワークの機械などの電子機器がいくつも並んでいる。


 その中では、カタカタとキーボードの打つ音が聞こえている。


 時折来る電話に対応し、また打ち始める。

 

 どこからか、小鳥の歌が聞こえてくる。


 小鳥は、目の前の窓の前を横切っていく。


 響くキーボードの音から感情が出てくる。


 休憩をしていると、赤く、目を凝らして見ないと見えないくらい小さな虫が歩いていた。


 ふと私は思った。



 私は、いま、生きたいように生きている。


 一人暮らしで転勤してきてた今日(こんにち),幸せなどをずっと感じるものではない。


 この虫も、生きるだけで精一杯なのだ。


 結婚とかも考えているつもりではあったが、もう年も年である。


 これからの人生、どう生きていけば自分の幸福が得られるのか、いや、もう私は得てしまっているのだろうか。


 結婚して子供ができて出世するというのだけが成功の人生ではない。


 私は今、何をして、どう生きているのだろうか。



 おっと、話が逸れた。


 兎に角、休憩後、また、一生懸命仕事にとりかかろう。


 





 仕事が終わり、自転車を走らせる。


 今日は、違うルートで帰ってみる。


 学校の裏山のようなものがあった。


 そこには蛇が住んでいると、前に聞いたことがあるので、あまりよくないところなのかもしれない。


 それでも、春の暖かな気持ちの良い日暮れだったので、行ってみる。


 階段を昇ると、そこには野原があった。


 そこはまさしく、私の想像する、小さな野原だった。


 寝転がってみると、目の前には、モンシロチョウと蠅が、追いかけっこをしていた。


 ああ、このまま寝てもいいなあ。


 そう思いながら、転がっている。


 しなやかな風とまろやかな空間が私を包み込み、だんだんと暗くなっていく橙色の空を見ながら、心地よい音が聞こえる。


 私はどうしてここにいる。


 私はどうしてここにいる。

 

 何となく学校に入り、何となくバイトをし、何となく就職し、何となく転勤し、気が付けばここに居る。


 成り行きの人生なのかもしれない。


 そう思うと、なんか少し悲しくなってくる。


 生き甲斐とは何だろうか。


 三十年以上生きた今、そんなものを感じているだろうか。


 ふと、見慣れた景色が蘇る。


 喧噪の中で人々が行き交う大きな道路、ビルが立ち並び、洒落た店が選びきれないほどある。


 少し歩くと、新幹線が停まっている駅があり、金の時計の下には、たくさんの待ち人が立っていた。


 地下に入ると、休む暇もなく赤い電車が次々と、停まっては、発車していた。


 私の郷里とどことなく似ていて、切ない。


 いや、これは本当に、あの名古屋の景色だ。


 今日も、例の裏道に入り、赤い屋根を目印に、その隣の家に入る。


 中は少しばかり散乱していて、冷蔵庫の中には、大量の野菜が入っている。


 きゅうりや小松菜を切り、食べやすいようにする。


 レタスも切っていく。


 すると、包丁は私の指にかかり、そのまますとんと指が切れ、第一関節より爪の方が、なくなっていた。


 そこから出てくる血が、野菜に流れ、レタスは赤く染まっていく。


 私は心が遠ざかっているような気がした。


 冷や汗を感じた。


 気が付けば、そこには、星がよく光る紺色の空が広がっていた。


 私にとっての幸福は、怪我も病気もあまりせず、健康で、安全で、安心して暮らしていることそのものなのかもしれない。


 時々怪我や病気だってしたっていい。


 大怪我や、生に関わる病気でなければ。


 今を、生きるのが最高の恵みなのだ。


 そう心に刻み、立ち上がって、自転車に乗って、山に向かって走り出していった。


 昼までの暖かさは、夜には少しだけ寒さに代わっていたが、これから夏が始まりそうな追い風が吹いていた。

参考場所

中央線

高尾町・廿里町

黒木開戸緑地

甲州街道

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして、秋の桜子さんのご紹介で、拝読させていただきました。 何気ない日常をテーマに読ませる作品を書けたら、それは力量のある証拠。 とある編集者さんのお言葉です。 この作品は、その言葉に…
[一言] 主人公が自分の人生を見つめ直す。 それだけ、と聞くと聞こえは悪そうだけど この作品は、読んでいても退屈さを感じる事もなく スラスラと最後まで読む事が出来ました。 最後の、野菜切ってるところ…
[一言] 高尾は面白いですねぇ。 学校をサボって、高尾山を革靴、制服姿で上ってみたのはいい思い出。 良くもバカやったもんだ(^_^;) ちょっと、お高いけど、トリックアート美術館もなかなかに見応えが…
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