?刑執行人
「所詮この世は地獄への待合所に過ぎない」
そう言って目の前の男は葉巻を吹かした。僕に言わせれば彼の右手が掴んでいるのは何の変哲もないタバコにすぎず、しかも甘い匂いを振り撒くキャスターだ。
しかし彼はかたくなにそれを葉巻だと言って憚らない。それが彼なりの美学なんだそうで、まったくもって訳が分からない。大体葉巻と煙草は単に名称が複数あるって訳じゃなく、存在自体に違いがあるのだ。
僕は肺の底からすっかり息を吐き出してしまうと、彼の目の前に座った。会うなり無遠慮に人の顔へ煙を吹き付け、意味が不明な言語を並べ立てた彼は、僕のこめかみの青筋には気づいていないようだ。
「……いきなり何の用だよ、変人」
「さぁ?なんだと思う」
ピキリ、確かに音が鳴ったと思う。日々堪忍袋の緒の強度が逞しくなっているように感じる。
自分は穏当な方だと思っていたが、こうも忍耐の日々が続くとなると話は別だ。
飄々とした彼の様子に辟易しながら、僕は頬杖をつく。飴色の机には手書きのメニュー表が置かれているが、もうそのメニューの大体は暗唱できてしまう。横の小さな窓には申し訳程度の観葉植物が太陽の光を欲しがっていた。今日はどんよりとした曇り空だ。
「またいつもの無駄話か?……いい加減飽きたぞ、僕は」
彼は先に注文していたらしいイチゴオレを啜って、口の端についたそれを舐めとる。様子を見ていたらしい妙齢の女性が、小さく歓声を上げた。知らぬが仏、とはうまい言い回しだと思う。
「聞くも聞かないも君次第だ。俺に強制する権利はない。……君が最後まで責任をとる男かどうかが分かるだけだ」
少し色素の薄い瞳が僕を見据えた。僕はまたもや深々と嘆息して、彼の瞳から目を逸らす。
─────まったくとんだお荷物を抱え込んでしまったものだ。
僕だってこんな重荷からは解放されたい。
でもできない。
それは僕がほんの少しだけお人好しだったから。そして途方もなく、臆病だからだ。
「はーぁ……。こんだけ図太いんならもう大丈夫だと思うんだけどな」
「だから聞かなくてもいいんだぞ?ところでこの前行ったビルの屋上からの景色は十分に満足だったな」
僕は涼しい顔でイチゴオレを飲み干す彼を睨み付けた。こうやって脅してくる時、彼は決まって飄々とした態度を崩さない。
僕としては、それがまた非常に癇に触る。いつも思うのだ、そんな軽々しく扱っていいもんじゃないだろ!と。
ジーンズの上で拳を握る。そう怒鳴りたい気持ちを押さえるためだ。
怒鳴ってしまったが最後、彼がどんな行動をとるのか、分かったものではないから。そして、僕がもっとも恐れてる行為が彼によって成し遂げられたとき、僕は罪悪を感じずにはいられないだろうから。
「聞く気になったみたいだな」
「話してみろ変人」
「大した話でもないんだが」
「じゃあ言うな……」
何を言っても暖簾に腕押しの感触しか寄越さない彼は、とても僕の協力がないと生きていけないようには思えない。
それでも、僕は、彼を見捨てられない。
結局は自己保身のためであろうとも、貫き通せば他者のためと評価が下される場合があるのだ。
彼が薄い唇を開く。笑みさえ浮かべているように見えるが、目は全く笑っていない。面白い話ではないのは容易に分かることだ。
「……この世で生きている人がいる。でも、いい人もいれば悪い人もいる……ここまでは一般論」
「へぇ」
そんなの一般論と言えるのかと言うのをグッとこらえる。空気の抜けるような相槌だけ打つと、彼はスッと目を細めた。別に僕の返事に不満がある訳じゃない。
なにか言葉を返されたときの彼の癖だ。
「なんでその二種類がいるのか考える。俺は、無意識に救われたいと思っているのか、どうでもいいと考えているのかの二種類がいるからだと思った」
「また、極論だね」
滔々と語る彼には、彼なりの考えがあって、でも現実はあまり見えていないのだろう。僕は背を丸めてこっそり嘆息する。
まずいい人、悪い人の定義からして曖昧だ。何をもっていい人とするのか、悪い人とするのか、判断基準によって百八十度見方が変わるときがある。
きっと彼の中でだけははっきりしているのだ。どんな人かと問われれば、僕は「傷つけない人じゃないか」と答えるだろう。
人は彼に聞くかもしれない。何を?何を傷つけない人なの?
彼は答えないに違いないので、僕があえて答えよう。
正解は「全部」だ。彼にとって、全部が傷つけてはいけない対象なのだ。
だから彼にとって、人は皆、下手をすると世界のすべてが、地獄へ落ちるべき存在なのだろう、と推測できなくもない。
彼が腕を組み黙ったと思ったら、ウエイトレスが水を運んできた。もう顔見知りになってしまっているが、彼がいるときは一度も話したことがない。
この小さな喫茶店は、僕が来るよりはるか前から彼が利用していたはずなのだが、彼が僕以外とここで会話しているのは見たことがなかった。
僕は運ばれてきた水を受け取って、メニューのチョコケーキを指差した。ウエイトレスは心得た風に頷くついでに、「かしこまりました」とにこやかな声。きびきびした様子で身を翻す。
僕も大概甘い物は好きだ。
人がいると口を閉ざしてしまう彼が再び言葉を繰り出したのは、ウエイトレスの後ろ姿が厨房に消えた後。
「……救われたい人は無意識の欲求に従って社会奉仕を望む。己の罪を清算したいがため、善行と呼ばれるものを求め……罪を消そうとする……」
僕は、そんな人もいるかもしれないな、と考えたが、彼はじっとこちらを見ているのだった。
それが僕だと言いたいわけだ。
あのときの行動を、彼はこう解釈しているわけだと思い至ると、なんだかとても苛立った。別に善行を積みたいわけでもないし、救われたいと思ってもない。そんな人ばかりじゃないよと言おうとした矢先、被せるように次の台詞が放たれる。
「どうでもいいと思ってるヤツは無意識の欲求をないことにする。閉じ込めて未来はないと思おうとして……だから何をしても耳を塞いで目を覆ってやり過ごす」
彼はフーッと長い息をついた。イチゴの甘い匂いが届く。
なにも言えなくなった。
少し鋭い僕の共感が、彼が自分自身に向かっていっている言葉だ、と気づいてしまった。
手持ちぶさたに水を飲みこんだ。
至って普通の、若干カルキ臭い水だ。
「でも所詮、どっちも同じ、罪を犯していることに変わりない。違いは罪が重いか軽いかだ、それなら俺はより重い罰を」
結論を急いた感じのある彼の言葉が鼓膜を打つ。
あぁ、極論だなぁと思う。彼の目が僕を見つめる。
「そしてその中のある罪人は断罪を望む」
果たして彼は僕に、どちらの断罪を望んでいるのだろう。執行人でさえ罪人と認定している彼は、それで尚断罪を望むのか。
……彼の罪は……。
目の前のイチゴオレはもうすっかり彼の胃に収まっていた。僕は自身の胃袋がキリキリする感じを覚えながら、組んだ指をテーブルへ乗せる。
ここからは恒例の綱渡りだ。昔失敗しかけたことがある、もう二度と失敗はできない。
「……罪を受けたいんなら、ずっと生き続けていればいい」
「……」
彼がイチゴオレのストローに唇をつけた。もうその中身はないのに。
「この世は罪人だらけなんだろ。そんな中で過ごすことは、お前にとって苦痛なんじゃないのか」
ノーコメント。
沈黙は肯定の意味。沈黙は金、雄弁は銀なんて言葉はあるが、正直に答えるか否かのみの違いではと思う。
苦痛なのだ、この男は。
汚い空気を吸って吸って、吐き出す場所を求めている。灰皿の上には、キャスターが役目を終えて眠っていた。
「……生き続けてろよ。死ぬのは楽な道だからな」
そう言って睨み付ける。この男は繊細すぎるのだ。
一本の糸は彼にとって贖罪の手段にすぎず、それを否定されれば、きっと彼は「君もか」と言う。だからそれを肯定した上で、別の贖罪を与えるしかない。
ともすれば糸はいとも簡単に切れる。あのときと同じように、ぷつりと切ろうとする。
─────学生時代に失敗する人なんて、それこそ大人の大多数だと言うのに!彼はいつまで背負っていくつもりなのだろう!
ウエイトレスがチョコケーキを運んでくるのが見えた。
彼はそちらを見ないでフッと微笑む。
「ありがとう、罰をくれて」
やっぱりと思う。
僕は彼にとって罰を下す人。その役割は僕にとてつもなく重くのし掛かってきて、窒息してしまいそうになる。
一歩間違えれば、綱から落ちて僕は一生分の罪を背負う。少なくとも僕にとってそれは一生分の罪だ。
僕が死は罰だと言えば、彼は死ぬ。
生きることが罰だと言えば、自ら望んで苦しんで生きる。
でも僕がいなければ、彼は自らの罰を死と定義するに違いない。僕に「生きることが罰だ」と言わせるために、その事を思い出すためだけに、僕はこの喫煙可能な喫茶店に呼び出されるのだ。
僕は彼に死んでほしくない。だから僕は、彼を生かすことに決めた。
だって、自分が関わった人が自ら命を絶つなんて、それを見て見ぬふりするなんて、僕の臆病な心に耐えきれるはずがない。
……念の為に言っておくと、彼のために僕は話を聞くんじゃない。
僕が心の平穏を保つために、こうして頬杖をついているのだ。いくらそれが重荷になろうと、あの代償に比べればはるかに安い。
彼の口から漏れるのはすべて下らない話だ。
すべては罰してくれという一点に集約するのだから。全く、なんでこんなに極端な性格になったんだか。「こころ」でもバイブルにしていたのか?
あのとき……屋上から飛び降りようとした彼を助けなければ、僕はここで彼と対面してはいなかっただろう。学生時代のいじめなんて、加害者になることも、被害者になることも、……命を絶とうとすることも、陳腐化してしまった話だ。
ただ、彼は。
あれから四年経っても、まだそれを引きずっている。
さっさと忘れてしまえよ、もう僕も気にしてないんだからさ。
僕はイジメを気にしてはいるけれど、彼が重く背負うせいで、彼が被害者のように見えてしまっている。
彼はイジメを気にして、なにかに傷つけてほしいと思っている。できれば「僕」に傷つけられたいと。
「僕」も「彼」も繊細で、傷つけることに関して敏感です。
これからもずっとこの関係は続くでしょう。酷い話ですね。




