6
シェイナ・グレイスとキール・ハーコートが付き合うことになったというニュースは、翌日には一気に広まった。その結果、キールに好意を抱いていた女子から冷たい視線を受けたり、聞こえるように悪口を何度か言われたりもしたのだが、そんなときはマリアが彼女たちを黙らせてくれた。意外と気が強いタイプなのだと知り驚いたが、気さくで優しいという印象はそのままだ。
あの後、実習から戻った兄たちにキールとのことを報告し、マリアとウィリアムにもシェイナがルナシーであることを話した。二人とも驚いてはいたが、あっさりと受け入れてくれて拍子抜けした。
「ルースとエリックの時はどうだったんだ?」
キッチンでの一件から一週間あまり。暇な時間は、キールと例の温室で過ごすことが日常になりつつあった。あの日はただ緊張しかなかったけれど、今は不思議と落ち着く。ここならば誰の視線も気にする必要はないし、話をするには最適の場所だ。
「ルースは、自分たちがあまりに話を聞かなかったから仲良くなれた、って言っていたけど」
どういうことか意味がよく分からなくて気になっていたのだと、ベンチに座るようすすめながらキールは言う。大きな窓からは柔らかい光が差し込んできて、ベンチに座ると背中がほんのりと暖かい。
「本当にそのままよ。二人はルナシーの存在は知っていたけれど、他の事情は知らなかった。差別される対象だってこともね」
現実を最初に教えることで、偏見を持ってしまうかもしれない。そう危惧した二人の両親の教育方針だったとは後で知ったのだが、それでも彼らには驚かされた。
「二人と出会ったのは、フェリックスとの件があったすぐ後でね、私も流石に精神的に参っていたから、引きこもりがちだったの。お兄ちゃんたちは学校に行っていたけど、私は行けなかった」
友達が欲しくない訳ではなかった。だけど、また同じことの繰り返しになるのではと思うと、怖くて仕方がなかったのだ。
「でもルースとエリックは毎日のように、学校が終わるとうちへ来たわ。同い年の子供が近所にはいなかったから、珍しかったのね」
「ルースも言ってた。いきなり訪ねて行っても、シェイナのお母さんが快く迎えてくれた、って」
「引きこもってばかりの私を心配して、なんとか他の子との関わりを持たせたかったのね。それに、お菓子の腕を褒められると弱いのよ」
二人が来る時間には、いつも手作りのお菓子が用意されていた。シェイナが本気で嫌がっているのではないと、オリビアはちゃんと分かっていたのだ。
「ルナシーだって知られたのは、家族ぐるみで仲良くなり始めた頃よ。住んでいる地域に移動遊園地が来て、その初日の夜には特にイベントがたくさんあるから一緒に行こう、って誘われたの。でもその日は満月で……、体調が悪いから無理だって断るしかなかった」
だが勘の良い二人は、それが嘘であると見破った。そしてシェイナを連れ出そうと、庭の木に登り、シェイナの部屋のベランダへと忍び込んだのだ。
「カーテンを閉め切っていたし、外からは部屋の中が見えないように呪文をかけていたの。だから音がしても窓を開けたりしない限り大丈夫とは分かっていたんだけど、ルースとエリックがノックしながら私の名前を呼んでいるのが聞こえてびっくりしたわ」
無視するべきだったのだろうが、二人の声が大きく、騒ぎになるのを防ぐためにもショーンが彼らと話すためにベランダへ出た。しかし二人は強引に部屋へ入り込み、隠れるためにシェイナが被っていた毛布を引きはがしてしまったのだ。
「もうおしまいだと思ったわ。髪も目の色もいつもと違っているし、顔だちも少し変わるから、気味悪がられると覚悟した。でも、二人が予想外の反応をしたの」
「どんな?」
「私を見るなり、『なんだ、元気そうじゃない。ところでその恰好どうしたの?』『あぁ、もしかしてルナシーだったのか? でも元気なら出かけようよ。早くしないとサーカスが始まる』って」
キールが目を大きくして口を開け、呆然としている姿を見ると、思わず吹き出してしまった。シェイナも当時、まさにこんな顔だったと思う。居合わせたショーンもだ。
「私だってことがすぐに分かったことにも驚いたけど、二人の反応にはもっと驚いたわ。二人にとっては、私がルナシーってことよりもサーカスの方が重要な問題だったのよ。『ルナシーだから行けない』って言っても、どうして駄目なのかが伝わらなくて大変だった」
駆け付けた両親とエドワードを交えて話しているうちに、フランスに住んでいるエリックの従兄がルナシーということが分かった。頻繁に連絡を取り合っているし、休暇にはエリックの家に泊まりに来ることもある。だが離れて住んでいたために、実情をよく知らなかった。ルナシーは満月や新月の夜に症状が出る、その代わりに特別な力を与えられている。その程度の知識だけ。二人を引き取りに来た彼らの両親からは、自分たちの教育が甘かったと謝罪された。
「それで、次の日には二人の家族も交えて勉強会。でもおかげでそれからは、生活しやすくなったわ。引っ越し続きの生活も終わったし、学校にも通えるようになった」
あの出来事がなければ、フィバースに入ることもなかっただろう。
「……驚いた?」
「あぁ、でもアイツ等らしいな」
当時の様子を想像したのか、口を閉じたままキールは口角を上げる。このところ、彼も二人のことが分かってきたらしい。
不思議な感覚だ。
シェイナとキールが親しくなるのと同時に、シェイナはマリアとウィリアムという新しい友人を得た。そしてキールも、同じように自分の友人たちと仲良くなり始めている。一歩踏み出しただけで、たくさんのことが変わり始めている気がする。恐ろしさを感じる一方で、期待に胸を膨らませ、幸福を噛みしめたいと思う自分がいる。
「……本当に良かったの?」
「何が?」
「今度の週末のこと。誘っておいてなんだけど……」
パーティーへ行けない代わりに、デイルがシェリンガム邸で楽しく過ごせば良いと申し出てくれた。いつもならシェイナたち兄妹以外では、ルースとエリックのみだけれど、今回はキールだけでなく、マリアとウィリアムも誘って良いとのことだった。それを伝えると、三人ともすぐに快い返事をくれたのだが、これで良かったのかと不安にもなる。彼らもパーティーに向けて準備を進めていたのに、その機会を奪うのは申し訳なかった。
「気にしなくて良いよ。マリアは上級生に誘われたことがあるから、今回が初めてって訳じゃないし、ウィリアムは食べ物にしか興味ないから。それに俺は……」
「なに?」
「情けないって自覚しているから誰にも言わなかったけれど、最初から、シェイナに断られたらパーティーには行かないつもりだった」
予想外のことばに、思わず目を見開く。キールはそんなシェイナをちらりと見て、拗ねたように顔を逸らす。
「……シェイナはエリックと行くつもりだったみたいだけど」
服屋で会ったとき必死で勇気を出したのに、一瞬で打ち砕かれたと、そう口にする彼はいつもよりどこか幼い気がして、不謹慎ながらも可笑しかった。
「エリックだけじゃなくて、お兄ちゃんたちとルースも入れて五人で行くつもりだったわ。キールはマリアと付き合っていると思っていたし」
一緒に行けたら素敵だろうとは思ったけれど、それはただの妄想でしかなかった。
「あわよくば一曲でも一緒に踊れたら、それで十分だと思っていたの」
先ほどの仕返しに、キールはそう思ってくれなかったのかと冗談めかして言ってみれば、観念したように逸らしていた顔を元に戻す。
「他の誰かのためにお洒落して、そいつの隣で楽しそうにしているシェイナを見る勇気なんて無かったんだ」
女々しくて幻滅したか、と問われ、慌てて首を振る。
「ううん。そんな風に想ってくれていたなんて、嬉しい」
同じように彼もシェイナを好きでいてくれていることが、未だに夢のように思える。だけどこうして話すようになると、キールはシェイナが忘れてしまっているようなことまで細かに覚えていて、彼のことばに嘘がないのが伝わってきた。
温室の隅に置かれた植木鉢に目を向ける。そこには、例の薔薇が新たに花開こうと蕾を膨らませていた。キールには、満月の夜を迎えた後に薔薇を渡して欲しいと伝えているため、まだシェイナの薔薇とは言えない。だけどあの可愛らしく、鮮やかな赤い花を見るのが好きだった。あの薔薇を見ていると、不思議と心が満たされてくる。当日までは気を抜けないと頭では理解しているのに、やはり浮かれてしまっているのだろう。あの薔薇を手にしている自分を想像せずにはいられなかった。
*****
「ハーコート」
シェイナと話したり一緒に行動したりすることには緊張しなくなったが、未だにこの声を聞くと思わず身構えてしまう。シェイナと同じ赤褐色の髪、緑の瞳なのに、雰囲気がまるで違っている。
「……何でしょうか?」
「来い」
それだけ言うと、一つにまとめた長い髪を翻して、エドワードは自室へと早足で向かう。その後を慌てて追い、彼に続いて部屋に入ると、勉強机に向かっていたショーンが椅子を回転させて振り返る。彼らと同室のはずのエリックはいなかった。
「座れ」
訳も分からず戸惑っていると、顎で椅子を示される。おずおずと座ると、エドワードがベッドに腰掛け、三人が向かい合う形になった。シェイナに告白しようとした日のことを思い出すが、今日は助けてくれるルースとウィリアムもいないし、呼び出された理由も分からないので余計に質が悪い。
「シェイナにもう例の薔薇は渡したのか?」
ショーンに問い掛けられ、首を振って否定する。
「いえ、シェイナから満月の夜まで待って欲しいと言われているので」
気持ちが変わることなどないのだが、ルナシーとしての別の一面を見た上で決めて欲しいとのシェイナの望みだったし、今までのことを思えば二週間など可愛いものだ。
「……そうか。そうすべきだな」
そして、少し目線を彷徨わせてからショーンは、キールが予感していた言葉を告げる。
「正直、俺たちはあまり賛成できない」
二人の態度から気付いていたことではあるが、実際に直接言われるとキツイものがある。だけどシェイナ本人の気持ちが分かっている以上、簡単に引き下がる訳にはいかなかった。
「二人がシェイナを大切にして、手放したくないのは分かります。それに俺はルナシーの事情に詳しいとは言えないから、頼りなく感じるのも」
だけどそれはこれから何とでもなることだ。厳しい現実を目の当たりにして傷付くこともあるだろう。だけど、シェイナがいる。それだけで十分だった。
そう率直に伝えたけれども、二人の表情は晴れない。そして今度は、真剣な面持ちでエドワードが口を開く。
「シェイナの気持ちだけを考えるなら、賛成すべきなんだろうな。運動神経が良いとは言えないところや、シェイナより成績が低いとか、その髪型や女々しいところやその他諸々を除けば、お前は見込みがある」
「……例えば?」
貶されている気しかせず思わず口を挟めば、忌々しそうに舌打ちされる。
「……少なくとも、お前は正直だ。シェイナに対する気持ちに嘘がない。ルナシーだって知っても態度を変えなかったし、腹が立つけど、シェイナと過ごすためなら俺たちに歯向う根性もある」
でも、とエドワードは続ける。
「お前のために言うが、もう一度よく考え直せ。シェイナは傷付くだろうが、俺たちが何とかする」
「こんなこと言いたくないし、認めたくもないが、シェイナは問題が多すぎる。平凡にただ楽しくなんて無理な話だ。でも今ならまだ間に合う」
ショーンにも諭すように言われ、愕然とする。まさか彼らの口から、ルナシーを差別するような言葉を聞くことになるとは思わなかった。反論しようと口を開きかけたが、彼らの表情を見て、苛立ちが何処かへと消える。
「……間に合いません」
シェイナと言葉を交わし、隣で過ごす喜びを知ってしまった。いや、出会った時点で、引き返すことなどできなくなっていたのだ。自分だけでなく幼馴染や家族が認めるほど、フィバースに入ってシェイナを知ってからキールは変わった。今更、元には戻れないし、戻りたくもない。あんな退屈な自分など。
キールがそう正直に気持ちを告げても、二人の表情は苦しげに歪んだままだ。むしろ、先ほどより悪化している気さえする。
「……シェイナがお前に話したのは、問題のほんの一部に過ぎない」
そう語るショーンに、シェイナが隠しているということかと問えば、すぐさま否定される。
「隠している訳じゃない。シェイナが問題として認識してなかったり、知らずにいるだけだ」
「どういうことですか?」
「ルナシーってのは、お前が思う以上に複雑なんだ。特にシェイナの場合、ロイドがまず問題だな」
「……彼が?」
ロイドのことはシェイナから聞いている。アナスタシア・バリーの息子で、母の死後はルナシーの援助をしているデイル・シェリンガム氏のもとで働いていると。彼自身もルナシーであり、良き相談相手ともシェイナは言っていた。そのロイドが問題というのはよく意味が分からない。
「確かにロイドは良い奴だし、頼りになる。だけど、シェイナとロイドの関係は特殊なんだ」
一種の主従関係でもあるとエドワードは言う。
「元々、ロイドはシェイナの面倒をよく見てたんだが、三年前にロイドがルナシーになったのをきっかけに、関係が変わった。ロイドの魔力は高い方だったけど、それでも後天的にルナシーになったヤツはその影響に耐えるのが難しい。特に満月や新月の夜はな」
大きく分けると、ルナシーには二種類の性質がある。満月の夜に力を増大させる者と、新月の夜に力を失う者だ。力を失う場合は他人へ害を加える可能性が低いため、比較的マシだと考えられているが、いずれにせよ体にかかる負担は大きい。だから、力を増大させ自我を失う可能性がある者も、力を失い健康を害する者も、薬で症状を緩和させ、普段に近い状態を保てるようにしている。
「どんな症状が出るか把握するために、ルナシーになって最初の満月と新月の夜は薬を飲まないんだ。もちろん、強い魔力を持っている人間が監視するし、症状を把握できたら薬も飲ませる。ロイドのときもそうだった」
だが、彼にその薬は効かなかった。当時のことを思い出しているのだろう、二人の表情は更に険しくなっている。
ロイドは新月の夜に魔力を失う性質だったそうだ。キール自身に経験はないから分からないが、自分たち魔法使いにとって、魔力とは血液のように身体の中を当たり前に流れるものだ。それが途絶えるとなれば、かなり辛いものがあるだろう。しかもルナシーのように魔力の強い者にとって、その負担は計り知れない。
「滅多にないケースだが、ロイドは命に関わる状態になった。ロイドが助かるには、シェイナと契約するしかなかった」
「……契約?」
キールの疑問に、今度はショーンが答える。
「詳しい仕組みは俺らにもよく理解できてないが、自分よりも力の強いルナシーと契約することで、症状を抑えることができるんだ。魔力が無くなることに変わりはないし、身体に負担はかかるが、意識ははっきりしているし死ぬ危険もない」
「そんなこと、できるんですか?」
薬で症状を抑える話は知っているが、契約なんて聞いたことがない。
「普通は無理だ。一種の主従関係になる訳だから、互いに信頼関係がないと駄目だし、主となる方も魔力の強さだけでなく、薬なしで自我を保つ必要がある。シェイナとロイドだからできたことだ。そしてそれ以来、あの二人には特別な絆がある」
ロイドはシェイナのことを最優先にするし、シェイナは誰よりもロイドを信頼している。まるで、己の片割れかのように。
「家族でもないし、互いに恋愛感情もない。下種な言い方すると、一晩同じベッドに裸でいても、何も起こらないのがあの二人だ。でもアイツらは、それが変だとは思ってない」
「仕方がないと割り切っているつもりでも、時々キツイって思うときがある。お前は余計そう感じるだろう」
いずれ耐えきれなくなるのは目に見えている。だから今のうちにやめておくようにとエドワードが言う。
下を向き、目を閉じて想像してみる。自分よりも、ロイドのことを一番に頼り、彼の隣で心から安らぎを得ることのできるシェイナ。今ならば付き合いの長さもあるから仕方がないと思える。しかし、それは永遠に続く。何年付き合っても、例えば結婚したとしても、自分は二人の間の絆を超えることができない。そう思うと、確かに辛いものがあった。だけど。
「……二人が反対する、本当の理由は何ですか?」
尋ねれば、二人は軽く目を見開く。
「二人は、エリックがシェイナと付き合えば良いと考えてましたよね? だけど、エリックならロイドさんに嫉妬しないなんてことはないはずです。シェイナがルナシーであるために問題に巻き込まれるとしても、それはエリックでも変わりません」
彼ならば良くて、なぜ自分は駄目なのか。納得できる理由が知りたい。
そう告げると、エドワードが深くため息を吐く。そして、意外な言葉を発する。
「……冗談に聞こえるだろうが、運命って信じるか?」
「運命、ですか?」
「そう。両想いになっても、必ず結ばれない運命の相手の存在」
シェイナにとってはそれがキールなのだと、真剣な表情をして彼は言う。その隣にいるショーンの様子からしても、冗談を言っている訳ではなさそうだった。
「どういうことですか?」
「ルースとエリックも、シェイナ本人も知らないことだ。お前には知っておく権利があるが、マリアやウィリアムに話すことは許されない。それでも、知る覚悟があるか? どんなことがあっても、立ち向かう覚悟があるか?」
つまり、そのことが原因で悩まされることがあったとしても秘密は守らなければならないし、最も親しい友人に相談することもできない。
何があるのかは分からないが、正直、こんなことになるとは思っていなかった。ルナシーが多くの問題を抱えているのは理解しているつもりだった。しかし彼らの口ぶりからすると、本当の問題はもっと他のところにある気がする。
「……正直な話、そこまでの覚悟があるとはまだ言い切れません。でも……、やっと掴めたシェイナの手を放す覚悟もありません」
「……なら、さっさと覚悟決めろ」
「それは、どちらのですか?」
「どっちでも良い」
先ほどの話の続きは此処では話せないから、知りたければ明後日にでも時間を用意するとエドワードに言われ、退室の許可が出される。許可と言うよりも、出て行けと言う命令に近いものを感じ、釈然としないながらも退室した。
必ず結ばれない運命。
それが本当なのだとしたら、これはつかの間の幸せということになるのだろうか。もちろん、人と人の付き合いなのだから、うまくいかないこともあるだろう。キールやシェイナの両親はフィバース時代から恋人同士で結婚に至ったが、それが珍しい例であることは叔母たちを見て分かっているつもりだ。卒業すれば同じ寮で毎日顔を合わせることもなくなるし、大学や就職先によってはすれ違いも増えるだろう。
だが、あの二人が言いたいのはそんなことではないらしい。
(……今考えても無駄か)
明後日になれば分かる話だ。今自分がすべきことは、憶測を立てることではなく、覚悟を決めることだ。
人気のない廊下を歩きながら、そう思い至る。すると少し、胸が軽くなったような気がした。