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 それからは夢のようだった。


 キールだけでなくウィリアムやマリアとも話す機会が多くなり、友達と呼べる存在が増えたような気がした。もちろん、キールから告白されたことは噂になっているし、今までなかった組み合わせに周囲の注目を集めることにはなったが、シェイナに直接何かを言ってくる者はいなかった。誰も教えてはくれないが、おそらく兄たちのお蔭だろう。


「それにしては、あまり浮かない顔ね」


 天気が良いにも関わらず月のない夜空を見上げ、オリビアがカーテンを閉める。そして、リビングのソファで膝を抱えている娘の隣に腰を下ろした。


「……ごめんね」


「何が?」


「急に帰ってきて」


 満月の夜とは違い、新月のときはシェイナの姿は普段と変わることはない。しかし魔力は強まるため、地下室に籠る必要はなくとも、念のため日没後は寮の部屋から出てはいけないことになっている。今まではそれで不自由したことはなかったが、今回ばかりは違った。ここ最近、キールたちと共に食事をしていたため、今日だけ断って部屋に籠るというのが難しかったのだ。体調が優れないと誤魔化せばなんとかなったのかもしれないが、先日のことがあったので余計な心配させてしまうのは避けたかった。


 だからと言って、全てを打ち明ける気にもまだなれず、金曜日の授業は早く終わるというのを良いことに、シェイナだけ自宅に帰ることにしたのだ。明日はミレイラたちとロンドンに行くことになっているが、待ち合わせ場所には父かロイドが車で送ってくれることになった。急いでドレスを買う必要はなくなったのだが、気分転換になるだろうから行ってくるようにとエドワードが言ってくれたのだ。


「気を使わないで、好きな時に帰ってきて良いのよ」


 そう言って、テーブルに用意していたティーセットに手を伸ばし、カップにお茶を注いでくれる。シェイナの分にはミルクと蜂蜜も加えられ、甘く柔らかいカモミールの香りが鼻をくすぐる。


「ありがとう」


 カップを受け取り、一口含む。お腹の底の辺りに、ほっこりと温もりが広がる。


「まだ、勇気は出せそうにない?」


「……うん。大丈夫だろうとは思うんだけどね」


 実際ここ数日の間に、何度か打ち明けようとしたことはあった。しかしその度に喉の奥が渇いて、言葉が出なくなってしまうのだ。


「いろいろあったもの。悪い方に考えてしまうのも仕方ないわ」


 でも、と母はシェイナの髪を指で梳くようにして撫でる。


「ルースとエリックの時のことを思い出してみて? あの二人ほどのことは滅多にないでしょうけど、あのときは可笑しかったわね?」


 当時のことを思い出すと、自然と吹き出し、笑ってしまう。


「あの二人は特別よ」


「そうね、キール君たちはもう少し静かに話を聞いてくれるといいわね」


 冗談めかして言われ、気持ちが軽くなる。


「自分の口から打ち明けるのは初めてだから、緊張するのは仕方ないわ。でもねシェイナ、自分の気持ちを偽ることだけはしないでね?」


「……え?」


「難しいだろうけど、自分がルナシーだからとか、そんなことを理由にしたいことを諦めることはして欲しくないの。忘れないで。あなたは確かにルナシーだし、そのせいで苦しむことも多いわ。だけど、ルナシーである前に『シェイナ・グレイス』なのよ。私たちの大好きな」


 キールの姿が脳裏によぎる。


 彼も、同じことを言ってくれた。


 兄たちにもロイドにさえも言っていないその時のことを話すと、オリビアは嬉しそうに微笑んだ。


「キール君が本当にシェイナのことを好きなら、どんな姿になっても受け入れてくれる。あとねシェイナ、シェイナは自分がルナシーなせいでキール君の生活を変えてしまうと思っているのかもしれないけど、そんなことは関係ないわ。誰であれ、関わる人によって環境は変わるものだもの。それにキール君の周りの環境が変わったとしても、彼の本質が変わることはないわ」


「……どうしてそう思うの?」


「だって、ジョージもそうだったもの」


「お父さんが?」


 父はシェイナと同様目立つ容姿をしておらず、人柄は良くとても優しいが平凡なタイプだ。それに、父の家系は昔からルナシーが多く、一方母は結婚するまでルナシーのことをよく知らなかったと聞いている。だから、父と出会って環境がより大きく変わったのは、母の方だとずっと思っていた。


「ジョージとはフィバースで出会った話はしたわよね?」


「うん。ふたりもバリー寮だったんでしょう?」


 同級生で同じ寮で、それで親しくなってフィバースを卒業する少し前から付き合い始めたのだという話はずっと前に聞いたことがある。


「同じ寮だし、ジョージとは下級生の頃からよく話す機会もあって、仲の良い男友達の一人だったわ」


 だが父は、ただの友達以上に母のことを想っていた。


「五年生になったばかりの、ちょうどこの時期だったわ。ジョージにダンスパーティーのパートナーになって欲しいって言われたの」


「それで、どうしたの?」


 聞いたことのない両親のロマンス、そしてシェイナにとっては未だ実感の掴めぬパーティーの体験談に思わず身を乗り出すようにして続きを促す。


「断ったわ。ジョージはただの友達でしかなかったし、他に誘ってくれている人もいたから。それに、ジョージは面白くて良い人だったけど、髪はボサボサで太っていたし、憧れのパーティーへ一緒に行くパートナーとしては考えられなかったの」


「お父さん、太ってたの?」


 はっきりとした顔立ちの母に比べれば父は平凡そのものだが、背は高いし、中年太りの心配もない。三人の子どもに引き継がれた赤い髪は癖毛だが、短く切られ清潔さを常に保っている。だから、母の話すような姿が想像できなかった。


「私が八回パーティーの誘いを断った間に、変わってくれたのよ」


 八回というと、最後の一回を除いて全ての誘いを断ったことになる。


「自分のために変わろうとしてくれるのは嬉しかったし、素敵になっていく彼に惹かれもしたわ。でも当時は他に付き合っている人もいたし、それに、変わっていくにつれてジョージも他の女子から話しかけられるようになってね。見かけだけで態度を変えた子たちと同じようには思われたくなかったの」


「それなのに、どうして最後のパーティーだけ?」


「私にとっては大きな事件があったのよ」


 オリビアは紅茶を一口飲むと、懐かしむように遠くを見つめる。


「最初はいつものように断ったのよ。でも、パーティーの二週間前に廊下で下級生が喧嘩して、魔法を暴発させたの。私はたまたま通りがかってね、自治会員だったし仲裁に入ろうとしたときだった。巻き込まれて、顔に酷い怪我をしたわ」


 下級生たちは反省していたし、すぐに医務室へ運ばれ処置され、痕は残らないと診断された。だが、オリビアの心の傷は深かった。気落ちしているオリビアに対し、友人たちは腫れ物を扱うように接するし、恋人には別れを告げられた。ジョージにパートナーの誘いを断られた女子には、いい気味だと陰で罵られもしたという。


「でも、ジョージだけは変わらず側にいてくれたわ。『オリビアの顔はもちろん好きだし、君がその傷のせいで苦しむのなら、早く治って欲しい。だけど僕にとっては、外見がどうであれ君がオリビア・マクドナルドだってことが重要なんだ。僕が太っていた頃から友達でいてくれた君の心が好きなんだ』って」


 それからはジョージと常に行動を共にするようになり、オリビアは次第に明るさを取り戻した。顔の傷はジョージが治癒魔法の得意だったデイルの母を紹介してくれ、パーティーには綺麗に治ったのだそうだ。


「この人は何があっても、変わらず側にいてくれるって思ったわ」


 照れ臭そうに微笑む母は、十八歳のままだった。


「そんなことがあったなんて知らなかった」


 恋人時代の思い出話は何度かあるが、付き合ったきっかけはいつも『同じ寮で自然と仲良くなった』としか教えてもらっていなかった。


「随分楽しそうだな」


 リビングのドアが開き、父が部屋に入ってくる。話に夢中になっていたせいか、父が帰宅したことに気が付かなかった。


「おかえりなさい」


「あぁ、ただいま。シェイナもおかえり」


 思ったよりも元気そうで安心した、と優しく頭を撫でられる。


「ただいま。急に帰ってきてごめんね」


「嬉しいサプライズは大歓迎だよ。かわいい娘には毎週でも帰ってきて欲しいくらいさ。年頃の女の子によくあるように、親父嫌い病になられると悲しいけれど。隣のアルバートが嘆いていたけれど、ルースは遂にその病気に罹ったらしいね?」


 友人に起きた悲劇を目の当たりにして、次はシェイナの番ではないかと半ば本気で父は心配しているらしい。


「大丈夫よ。それにルースはおじさんとドレスを買いに行くのが嫌だっただけで、他の場所なら何も問題はないわ」


 あまり悪くは言いたくないが、アルバートはルースの服の好みを理解していないのだ。趣味は悪くないのだが、一人娘に夢を見すぎている節がある。


「シェイナの言う通りよ。娘と揉めずに買い物に行きたいなら、『良いんじゃないか』以外のことばを父親は言うべきじゃないわ」


 散々この話を聞かされたのだろう、呆れたように母は眉を下げる。


「なら今度は食事に連れて行くようアドバイスしてみよう」


「それがいいわ。ところで、お腹は空いてない? 夕飯はデイルのところで食べてきたんだろうけど、よければパウンドケーキがあるわよ」


「是非いただくよ」


 キッチンの方へと向かう母に代わり、父が隣に腰かける。デイルのところでは夕飯を食べる時間もあったし、たいした問題があった訳でもないと聞いていたが、それでも金曜日の夜ともなれば少し疲れが溜まっているらしい。疲れているとき父は、お菓子や甘いミルクティーを欲しがるのが常だった。


「ロイドさんは?」


「問題ないよ。シェイナに会えないのを残念がっていたけどね。相談ならば自分が乗るのに、って拗ねていたから、明日シェイナをロンドンまで送る任務はロイドが受け持つことになった」


「今夜は新月だもの。ロイドさんはゆっくり休まなきゃ」


 彼は新月の夜、魔力を失う。普段当たり前のように体を流れているエネルギーが無くなってしまえば、ロイドといえど相当な負担がかかる。そんな時に、自分の相談相手などさせる気にはなれなかった。


「そんなに気を使う必要はないと思うけどね。父さんが屋敷を出る頃も、デイルに休暇を貰ったのを良いことに、トレーニングルームに引きこもっていたよ。それで体調が優れないとか言うようなら、自業自得さ」


「……ロイドさんが? トレーニングしてたの?」


「新月の夜こそ鍛えるのに良いらしいよ。高地トレーニングのようなものだとか」


 アイツはオリンピック選手でも目指しているのか、と呆れたように言う父には同意せざるを得ない。シェイナ自身、月食の日に魔力を失うという症状が現れるのでよく分かるのだが、起き上がるのも辛いあの状態でトレーニングなど不可能だ。


「そういう訳だから、ロイドの心配は不要だよ。それより、随分と楽しそうだったけど何の話をしていたんだい?」


「お父さんとお母さんが初めて一緒にパーティーへ行ったときのことよ」


 素敵な話なのに、どうして今まで話してくれなかったのかと問えば、父は気まずそうに目線を逸らす。


「フィバースで過ごした七年のうち、最後の一か月を除いてお母さんは他の人の恋人だったからね」


 もちろん嫌な思い出ばかりではないが、それでも良い気分にならないこともあるからと語る父は、先ほどの母と同じ目をしていた。


「お父さんは、身内にルナシーがいることを気にしなかったの?」


 数年前に亡くなってしまったが、シェイナの祖母レスリーもルナシーだったし、フランスにいる父の従兄チャールズもルナシーだ。そのことを、オリビアやその家族に打ち明けることに抵抗はなかったのだろうか。


「正直に言うと、不安はあったよ。今よりももっとルナシーに対する偏見が強い時代だったしね。でもオリビアなら大丈夫だと信じていた。それにお祖母ちゃんもチャールズも、大切な家族だからね、二人の存在は恥ずべきものではないと思っていた」


 父の大きな手が肩に置かれ、その胸に引き寄せられる。


「シェイナも父さんの誇りだ。だから、自分を恥じることだけしないでくれ」


「……うん。ありがとう」


 シェイナが物心つく前に祖父母が亡くなったこともあり、母方の親戚とは付き合いがないのだが、ルナシーと無縁だった彼らも自分たちの存在を受け入れてくれたのだと思うと、胸にこびりついていた不安が少し剥がれたように思えた。




*****




 久しぶりのロンドンは、両親とロイドからのお小遣いを元手に心行くまで満喫できた。次のパーティーのために、という名目でシェイナもルースも気に入るドレスを買うことができたし、ミレイラが案内してくれたおかげで、兄たちやロイドとは入ることができなくて知らなかった雑貨屋やカフェにも足を運ぶことができた。


「ミレイラ先輩、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、楽しかったわ。それに、元気が戻ったみたいで安心した」


 学校の前でバスを降りて校門をくぐると、たった一日不在にしただけなのに、すごく懐かしい感じがする。


「心配かけてしまって、すみませんでした」


 ルースが言うには、昨日は兄たちもかなりシェイナのことを心配して落ち着きがなかったらしい。そんな彼らの心配に反して、本人は穏やかに過ごしていたのだから、メールだけではなく電話を入れておけばよかったと申し訳なくなった。


「拗ねてたわよ。メールに気づいて電話をかけてみたら通話中で、相手はロイドかと思っていたのに、実はキールだったってのが今朝分かって。今日はいつもよりキールに対する風当たりが冷たいから、フォローしときなよ?」


「分かったわ」


 後で謝りのメールを入れたのだが、それだけでは不足だったらしい。


「シェイナちゃんも大変ね。手のかかる兄弟がいて」


「でも、大事なお兄ちゃんですから」


 確かに男の子に関することではやり過ぎな面も多いけれど、いつだってシェイナのことを一番に考えてくれている。


「ま、嫌になったら私も手を貸すからいつでも言って」


 ワトソン先生に用があるというミレイラとは寮に入ったところで分かれ、自室へと向かう。実家へ持ち帰った分の荷物については、ロイドがシェイナを送ったついでに寮へ持ってきてエリックに預けてくれていたのだが、それでもドレスや靴を買ったとなると、複数の紙袋を持つことになってしまった。


 部屋に戻り、買ってきた品をクローゼットに仕舞う。


 今回は無理だが、次の機会にこれらを使うことができると思えば、やはり気持ちが高揚する。そしてその時、隣にいて欲しいと思う相手は変わらない。


 彼は、受け入れてくれるだろうか?


 この一週間で、キールとは随分話すようになった。キールだけではなく、ウィリアムとマリアとも。特にマリアは、話してみるとそれまでに抱いていたイメージと全く違っていて、親しみやすく仲良くなりたいという気持ちは強くなるばかりだ。ルース以外親しく話せる女の子はいなかったこともあり、彼女と話すのはとても楽しかった。


 彼らとも親しくなりたい。そのためには、自ら一歩を踏み出さなければならない。


 一週間、もどかしい思いをさせていたのにも関わらず、彼らは無理に話を進めたりせずに、ただシェイナを尊重して待ってくれた。結果がどうなろうとも、その誠実さと優しさに報いる必要がある。

どのタイミングで話すにしろ、覚悟を決めなくてはならない。


 深く息を吐いて、クローゼットの扉を閉めた。


「終わったの?」


「うん。ルースは?」


「もうちょっとかかりそうだから、先に行ってて」


 買った量は少しルースの方が多い程度なのだが、洋服やアクセサリーに関しては収納の仕方にこだわりがあるらしく、シェイナよりも時間がかかるのはいつものことだった。


「分かった。談話室にいるね」


 スムーズに買い物が済んだこともあり、予定よりも早く帰って来ることができたため、夕飯までにはまだ時間がある。兄たちはまだ実習から戻っていないようだが、母が再び持たせてくれたお菓子をつまみながらお茶でも飲もう。そう決めて、エリックが部屋に運んでくれていた荷物の中からお菓子の入った袋を取り出し、廊下へと出た。


 先ほど通った時には誰もいなかった談話室は、やはり閑散としている。自室と同じ階にあり、簡易キッチンが設備されているこの談話室をシェイナたちは気に入って使っているが、他の生徒たちにはビリヤード台やダーツセット、テレビゲームなどがある下の階の娯楽室の方が人気なのだ。


 手に持っていた紙袋をソファーの前のローテーブルに置き、簡易キッチンへと向かう。電気ケトルに水を足してスイッチを入れ、ポットやカップ、茶葉を用意していると、テーブルの端に置いてある大判の薄い本が目に入った。


 夜空に星が踊る様イメージして、軽やかに銀色の文字が刻まれている表紙には見覚えがあった。思わず手を取って、タイトルを確認する。



【彼方へと   作曲:アナスタシア・バリー】


 やはり見間違いではなかったらしい。そこにははっきりと、馴染のある名前が印字されていた。こんな場所でアナスタシアの曲の楽譜を目にすることになるとは思っていなかったため、手が僅かに震え、喉の奥が渇くのを感じる。


「シェイナ? 帰っていたのか?」


 振り返ると、キールがキッチンに入ってきたところだった。そして、シェイナの手にある本を目にとめると、安堵した表情を浮かべる。


「良かった、やっぱりここにあったか」


「これ、キールのだったの?」


 手渡しながら、思わず訊ねる。マリアはピアノをやっているが、キールは音楽があまり得意でなかったはずだ。芸術の授業だって、楽器演奏が苦手だからと美術を選択していた。


「マリアに買ってきたんだ。見つけたら買うようにずっと言われててさ」


 談話室にいれば渡せるだろうと思って持ってきたものの、飲み物を入れたり部屋に本を取りに戻ったりしていて、置き忘れていることに先ほど気が付いたらしい。紛失したとなれば殺されるところだったと、キールは苦笑いを浮かべる。


「これ、絶版なのによく売っていたね」


「古本屋でたまたま見つけたんだ。この人、シェイナも知っているのか? マリアから聞いたくらいであんまり詳しくないんだけど、そんなに有名?」


「私も音楽のことは詳しくないんだけど、昔お世話になった人なの。この曲も、よく弾いてもらった」


 ロイドの母である彼女は、ルナシーであることから頻繁にシェリンガム邸に来ていた。まるで二人目の母のような存在で、アナスタシアの奏でる音色に包まれていると、不思議と安心した。母が言うには、赤ん坊の頃、シェイナは彼女のピアノを聴くとすぐに泣き止んでいたらしい。


「マリアが聞いたら羨ましがるだろうな」


「そんなにファンなの?」


 確かに彼女は人気のある有名なピアニスト兼作曲家だったが、今ではその評価は真逆のものとなっている。数年前に亡くなってからというもの、誰もその存在を語ろうとはしない。


「小さい頃、コンサートで彼女の演奏を聴いてからずっとファンだよ。亡くなったときはすごくショックを受けていたけど、いつかコンクールとか発表会で、アナスタシア・バリーの曲を弾きたいんだってさ。少しでも彼女の実力に近づいて、少しでも多くの人に彼女の曲を知って欲しいって」



 だから絶版となった上に、インターネット上にも存在しない彼女の楽曲の譜面を探し続けているそうだ。葬り去られたはずの存在を、知ってくれている人がいる。それも、大切に心に留めた状態で。


「……でも、アナさんの曲は、人前で演奏すべきではないわ」


「どうして?」


「マリアとは違って、彼女の存在を忘れてしまいたい人がほとんどだからよ。だから楽譜も出回らなくなったし、コンクールや演奏会で弾かれることもない。みんな、なかったことにしたいのよ」


 忌まわしい存在が、自分たちの世界にいたことを。


「……シェイナもそう?」


 非難する様子もなく、シェイナの答えをすでに知っているかのような口調。この間もそきうだった。彼の前では、自分を偽ることができない。


「……私は、これ以上アナさんのことを批判されたくないの」


 彼女との大切な思い出を、誰にも穢されずに仕舞っていたい。


「あの噂って本当なのか? その……、彼女がルナシーだったって」


 キールの質問に、シェイナは周囲に誰もいないことを確認すると、談話室へと続くキッチンのドアを閉める。防音の魔法も使いたかったが、普通科の生徒も使う共有スペースでは魔法の使用が禁止されているため諦めるしかない。


「本当よ。ルナシーだと分かったとたん、みんな態度を変えた。自分たちがルナシーを称賛していたという事実を認めたくなかったのね。そして、アナさんは音楽界から追放された挙句、ファンだった人が自宅に侵入してきて襲われたの。満月の夜だったわ」


 ひどい怪我だったものの、きちんと治療を受ければ助かる見込みは十分にあった。しかし彼女がルナシーであることから、病院は受け入れてくれなかった。もちろん、ロイドから連絡を受けたデイルがすぐに仲間と駆け付けたけれど、シェリンガム邸から彼女の自宅までは距離があった。


「……アナさんは翌日、亡くなったわ」


 出動を躊躇った警察も、救急隊も、世間から非難されることはなかった。悪いのはルナシーであったアナスタシアなのだから。


「そんな……。ルナシーってだけなのに、酷すぎる。薬を飲んでいれば、人を襲うこともないんだろ?」


「偏見を持っている人にそんなことは関係ないの。音楽界から追放されたのも、珍しい話ではないわ。ルナシーは皆、何かしら高い能力を持っている。ドーピングと同じようにとられるの」


 だから、スポーツ選手として活躍しているルナシーはいない。芸能の方向へ進む者は少なからずいるが、それでもルナシーであることは必ず隠している。


「でも、確かに彼女が高い技術を持っていたのはルナシーだからなのかもしれないけど、努力もしていたはずだろ? それにマリアが言ってた。彼女の演奏が素晴らしいのは、技術はもちろんだけど、心が込められているからだって。曲を通して伝えようとしていることが分かるから、彼女のファンになった、って」


 もし彼女がルナシー故にピアニストだったのだとしたら、それは技術のせいではなく、彼女の経験のせいだ。


 彼の瞳を見れば、その言葉に偽りがないのが分かる。喉の奥が震え、それが唇に伝わる。震えを止めようと、唇をキュッと結ぶと、今度は涙が溢れてきた。


「え、あ、シェイナ? ごめん、変なこと言った?」


 いきなりのことに慌てた様子で、近くにあったティッシュを手に取って涙を拭いてくれる。エドワードたちに見つかったらどうしようかと、考えたりしているのだろうか。そんな想像をしてみるとなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまう。


「ごめん、嬉しくって、つい」


 彼ならば、と期待はしていた。だけど、あまりにも都合が良すぎて、夢を見ているのではないだろうかと思ってしまう。分かってくれる人がいて、それがキール・ハーコートだった。こんな奇跡が起きるとは。


「話さなきゃならないことがあるの」


 このタイミングは卑怯かもしれないが、これ以上は隠していられない。


 大きく息を吸い込む。向かい合ったキールが緊張を察し、手を握ってくれたことで自分が震えていたことに気がついた。


 手から伝わる温もりに、気持ちが落ち着く。


「……私、ルナシーなの」


 ギュッと、繋いだ手に力が入る。この手を放したくない。


 恐る恐るキールの様子をうかがうと、苦しそうに顔を歪めていた。何を言えば良いのか迷っているのだろう、口を堅く閉じて、考え込んでいるようだった。


「……何か言って? 何でも良いから」


 沈黙に耐え切れずにそう言えば、キールは先ほどのシェイナ同様に大きく息をする。


「……こういう時、なんて言うべきなのか分からない」


 でも、と彼は続ける。


「とりあえず、抱きしめても良い?」


 答えるよりも速く、手が解かれ、代わりに腕の中に閉じ込められる。突然のことに戸惑う一方、受け入れてもらえたのだということが分かって、一気に体から力が抜けた。止まったはずの涙が、また溢れてくる。


「話してくれて、ありがとう」


 互いの心音が、煩いほどに感じられる。しかしそれによって、夢ではないのだと実感させられた。

「この前も言ったけど、シェイナの全部が好きだ。この気持ちは変わらない」


 泣いている顔なんて見られたくないのに、そっと両頬に手を添えられ、顔を上げさせられる。


「……シェイナは?」


 涙が止まらなくて、キールがシェイナの頬に手を添えたまま、親指で優しく拭ってくれる。


 嗚呼、もう駄目だ。自分の気持ちを偽ることなどできない。


「……好き。図書館で助けてもらった日から」


 あの時からずっと。そう続けようとした唇は、彼によって塞がれた。彼の睫毛が触れるのではないかという距離に、キスされているのだと認識する。驚く一方で、心の中の足りなかった部分が満たされていく。その感覚がたまらなく幸せで、心地良かった。


 目を閉じて、彼の背に手を回そうとしたところでノックの音が響き、慌てて距離をとる。


「シェイナいるの?」


 ルースの声であったことに少し安堵しつつ、涙が止まりきっていないうえに火照っている顔を手で仰ぐ。キールは背を向けていたけれど、耳が赤くなっているのがこちらからでもはっきり分かる。先ほどのことが現実だったのだと思い知らされて、さらに頬が熱くなりそうだったけれど、あまりルースを待たせるわけにもいかず、キッチンのドアを開けた。


「……ごめん、ちょっと部屋に忘れ物したから取りに行ってくるね。お湯はもうすぐ沸くから、先に始めといて」


 シェイナの顔を見たルースはやはり驚いたようで、目を見開いて軽く息を呑んだけれど、キッチンの奥にいたキールの様子に何か悟ったようで、追及せずに行かせてくれた。


 小走りで部屋へと戻り、ドアを閉める。指でそっと触れた唇に、まだ感覚が残っている。


(……夢じゃない)


 そう認識すると同時に、一気に体から力が抜け、ドアに背を預けたまま床へと吸い寄せられるようにしてしゃがみ込んだ。





*****





「シェイナを泣かせた犯人として、エドたちに突き出すべきかしら?」


 沸騰しているのを確認し、シェイナが用意していたポットにお湯を注ぎながらルースが話しかけてくる。


「……別にいじめた訳じゃない」


「分かってる。冗談よ」


 だけど、と、電気ケトルを元の位置に戻して彼女は続ける。


「キスしたのがバレたら確実に殺されるから、気を付けた方がいいわ」


「キスなんて……!」


「してない? じゃあ元からシェイナと同じ色のリップを使っているのね」


 そう言われ慌てて唇を拭うと、ルースがニヤリと笑って、嵌められたのだと気が付く。


「うまくいったみたいで良かった」


「ありがとう」


「でも、これからが大変よ。あの子と付き合うなら、覚悟しておかないと」


 確かに、自分はルナシーに関する実情をほとんど知らない。それは先ほどのシェイナとの会話でも思い知らされたばかりだ。アナスタシア・バリーの件をきっかけに調べたりはしていたけれど、それだけでは足りないし、当事者意識もなかった。


「自分の無力さを痛感させられることが、何度もあると思うわ。それに、あのシスコン共の相手もしないといけないから、キールは私たち以上に大変ね」


「あの二人については、この一週間で思い知らされたよ」


 基本的にシェイナの意思を優先させる態度をとっているものの、シェイナのいない場所では何度冷たい目線を向けられたか分からない。事情を知らないキールを警戒していたのもあるだろうが、存在が気に入らないと、二人の顔にはっきりと書いてあった。


「キスのことはシェイナに免じて黙っていてあげる。でもあんたに許されているのは、例え付き合ったとしても会話することだけよ。あのシスコン兄弟の基準からするとね」


「……冗談だろ?」


「贈り物は大丈夫だと思うわ。あと、クリスマスには手を繋げるかもしれないわね。キスは大晦日であろうと厳しいわよ」


 ま、頑張れ。


 軽く言われたその一言が、重く感じられる。だけど、確かに一歩踏み出したのだと思うと、妙に晴れやかな気分だった。




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