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「シェイナ、体調は大丈夫か? 無理せず、今日は休んでも良いんだぞ?」
倒れてしまった翌朝、談話室に姿を見せるなり、シェイナを待ち構えていた兄たちに体調を確認される。過呼吸を起こした挙句気絶するなんて最近ではなかったから、かなり心配を掛けてしまったらしい。体調を崩した翌日は、過保護に拍車がかかるというのはいつものことだが、今日はそれ以上だった。
昨日、気を失ってからのことは医務室に付き添ってくれていたエリックとマリアから聞いた。目が覚めた時マリアがいたことには驚かされたが、本気で心配してくれていたのだと分かると、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、シェイナが思っていたよりもずっと親しみやすく、仲良くなれたらと思ったくらいだ。
「大丈夫。今日の授業はずっとエリックかルースが一緒だし、無理はしないから」
そう答えると、兄たちは渋々ながらも頷き、今日は絶対に一人になるなと念を押してきた。
「でも、一緒にいる相手を指定はしていないのよね」
つまり、一緒にいる相手がキールでも良いということなのだと、朝食を終え、兄たちと別れて教室に入った後途端、ルースはいたずらを閃いたような顔をした。
「だめよ。昨日みたいなことになったりしたら……。これ以上迷惑はかけられない」
「それはキールに? それともエドとショーン?」
「……両方よ」
周囲に聞かれないように小声で話しながら席に着く。そしてこれで話はお終いとばかりにノートを開くと、ルースも黙る。しかし、すぐにシェイナのノートの余白部分に、見覚えのある筆跡が浮かんだ。
『心配かけた自覚があるなら、キールとちゃんと話すべきじゃないの? エドたちも、キールについてはシェイナの判断に任せるって言っているんだし、気にすることはないわよ。』
物体を移動させる魔法を応用し、紙に書いた文字を別の場所に移すという魔法は、シェイナが入学する前に兄たちが考えたものだった。あまり遠くに移動させることは出来ないが、はっきりと移動先が分かっているのなら、この学校の敷地内では有効だ。
『……昨日のお詫びと、お礼は言うわ。でも、あの事に関してはもう少し時間が欲しい。』
書いた文字を指でなぞった後、軽くノートを叩いてルースのノートに転送する。すると、すぐに新しい文字がシェイナのノートに浮かびあがった。
『やっぱり、怖い?』
『キールを信じたいとは思っているのよ。でも、今までのことを思うと、不安になるの。』
信じたいと思える、信用に足る筈の相手を信じきれない自分が嫌になる。
『まぁ、焦ることないわ。ゆっくり考えて決めたら良い。キールも答えを急かしたりはしないから。でも、シェイナが嫌じゃなければ、友達として親しくすることは許してやって。あの事は話さなくても良いから』
浮かび上がった意外な言葉に、シェイナは思わず隣にいるルースを見る。
「シェイナと仲良くしたいって気持ち、私にはよく分かるからね」
言って、ルースは軽く肩をすくめる。
ルースとエリックの二人と仲良くなる前のことを思い出す。そう言えば、二人ともかなりしつこかった。フェリックスの一件の直後だったため、シェイナも兄たちも、新しく交友関係を築くのを恐れていた時期だった。周囲にあまり歳の近い子どものいない、郊外の人口の少ない街を選んで引っ越したというのに、その『数少ない同い年の子ども』であるルースとエリックは、新しい友達を欲して毎日のようにグレイス家を訪ねてきた。そして二人は、シェイナがルナシーだと知ってからも、ずっと側にいてくれている。
「ありがとう」
二人がいなければ、兄たちが先にフィバースに進学してしまった後、自分はあれほど楽しくは過ごせなかっただろう。
キールともそうなれるだろうか? 秘密を共有し、近くにいることが当たり前の存在に。
そうなった日のことを想像してみる。それは、考えてみただけでも幸せなことだった。
昼休みに入りみんなが食堂へと急ぐ中、今日は兄たちが席を取ってくれているからと、ゆっくり片づけをしていると、教室にはシェイナとルースとエリック、そしてキールとウィリアム、普通科の生徒ではあるが、歴史の授業だったため合同で授業を受けていたマリアが残された。チャンスであると分かっているものの躊躇っていると、後押しするようにエリックが肘でつついてくる。それを受けて、シェイナは三人へ近づいた。
「……昨日は、いろいろとごめんね。あと、助けてくれてありがとう。もっと早くお礼を言うべきだったのに、ごめんなさい」
「いや、それより、もう大丈夫なのか?」
礼儀からそう訊いているのかもしれないが、キールの口調が兄たちのそれと同じように優しいものに感じられて、少しくすぐったい。
「ええ。念のため、お兄ちゃんたちに今日は一人で行動するなって言われているけど。でも、ルースとエリックがいるし、大丈夫」
「そっか。……なら、良かった」
「ありがとう」
緊張して、これ以上何を話せば良いのか分からず、幼馴染たちのもとへ戻ろうとすると、マリアに引き留められる。
「よかったら、ランチ一緒にどう? もちろん、ルースとエリックも」
まさか、マリアがそんなことを言ってくれるとは思っていなかった。仲良くなりたいとは昨日言われたけれど、行動に移してくれるとは。
「ありがとう。でも、ごめんなさい。今日はもうお兄ちゃんたちが先に行って席を取ってくれているの」
いつも確保するのは五人用のテーブルだから、椅子をどこかから持ってくるとしても、三人も追加するのは厳しい。
「でも、夕食なら。……お兄ちゃんたちに聞いてみないとだけど」
「いいの?」
「今日は絶対にお兄ちゃんたちと一緒じゃないとだめだから、大人数で騒がしくなっちゃうけど。それでも良ければ」
兄たちが実習で不在のとき以外、夕食を一緒に取らなかったことはないし、特に今日のようにシェイナの体調が万全とは言えない時は、必ず兄たちはシェイナがちゃんと食べられるかを確認するため、一緒に食事をとるようにしていた。
「もちろんよ! そうでしょ、キール?」
「あぁ、楽しみにしてる」
「騒がしいなんて、俺らもいつものことだしな」
心底安堵したように柔らかい表情をしながら、キールとウィリアムがマリアに賛同する。ルースとエリック以外に親しい友人はいないし、ましてや一緒に夕食などありえないことだった。まだ秘密を明かす勇気はないけれど、彼らと仲良くなれた時のことを想像すると、心の奥深くにあった冷たい暗闇に、陽だまりのような温もりが広がる気がした。
午後の授業で会ったときに、兄たちの許可が出たかどうかを伝えると約束して、シェイナたちは食堂へと向かった。
兄たちは渋々ながらも、キールらが夕食に同席するのを許してくれた。昨日、ルースが妹離れするよう強く言ったらしいから、それが効いたのかもしれない。だが、こんなことは初めてだったので正直驚かされた。
「シェイナ、放課後の予定は空けておけよ」
エドワードのことばに首を傾げると、ショーンがその理由を説明してくれる。
「今日の午後、デイルがこっちに来るって連絡があったんだ。ロイドも一緒に来るらしい」
「二人が? どうして?」
定期的に開催されている経営者会議には、シェリンガム家の本家当主であるデイルも出席しているが、それは二週間前だったはず。
「本家の面目を保つためだろ。今回みたいなふざけた真似をされて黙っていたら、ますます調子に乗りかねない」
最初は肝心なのだというショーンに、エドワードや他の二人も同意する。
確かに、ショーンの言う通りだろう。シェイナのためだけではなく、シェリンガム家のためにも。
「デイルが話し合いしてる間、ロイドがシェイナと話したいって言っているらしい。ちょうど放課後だし、なんか奢ってもらえ。体調が良いなら、校外に行っても良いから」
「でも、外出許可証がないわ」
当日の午前中までに寮長へ申請しなければならないので、今からだと間に合わない。
「ミレイラには言ってあるから問題ない」
後で許可証をミレイラから受け取ればいいと、なんてことのないようにエドワードに告げられて一安心する一方、ミレイラに申し訳ない気持ちが生まれる。以前からもそうであったが、今年度に入って彼女が寮長に就任してからというもの、融通を効かせてもらうことがかなり増えた。シェイナ自身もついつい彼女の厚意に甘えてしまっているのだが、兄はそれがただの親切心だと思っているのだろうか。
いや、敏い兄のことだから、薄々だとしても気が付いてはいるだろう。だがそう考えると、より一層申し訳ない。自分のことがなければ、もっと違うことになっていたのではないだろうか。そう思わずにはいられなかった。
「本当に大丈夫なのですか?」
本日何度目か分からない質問に、思わず苦笑してしまう。
「心配掛けてごめんなさい。本当にもう大丈夫です」
食欲も今こうしてケーキを頼めるほどに回復しているし、頭痛も眩暈もしない。そう説明すれば、ロイドは渋々ながらも納得したようだった。
「ジョージとオリビアもひどく心配していましたよ。気を失って倒れるなんて、何年か前に熱中症になったときだけではないですか」
両親の名前を出されたのと、本当は三年生のあの日にも一度倒れていることを話していなかったのを思い出したせいで、余計に申し訳なくなる。基本的に体調の不良を彼には隠さずに伝えているのだが、あの日のことだけは、「少し体調が悪かった」としか言っていなかったのだ。
「ごめんなさい。昨日はちょっと……混乱しちゃって。でも、だいぶ落ち着きました」
「私こそ、きつい言い方になってしまい申し訳ありません。責めている訳ではないのです」
「分かっています」
ロイドはいつも家族たちと同じように、ときにはそれ以上に、シェイナを気にかけてくれている。そしてシェイナ自身、兄たちに言えないことも彼には言うことができた。ルナシー同士だからなのかはよく分からない。しかし家族とも友人とも恋人とも異なる特別な絆が二人の間にはあった。良いことだと言いきれないのは分かっているが、ついいつもそれに頼ってしまう。
「そう言えば、珍しい人と一緒にいましたね」
「あぁ、彼女がマリアです。マリア・トーマス」
寮に荷物を置いてからロイドのもとへと向かう際、偶然鉢合わせたのだ。
「……トーマス。彼女に姉妹は?」
「お姉さんが三人。一番上のお姉さんはキールのお母さんです。それが何か?」
ロイドが他人に興味を示すとは珍しい。
「いえ、私がフィバースの学生だった頃、同級生にアンナ・トーマスという普通科の生徒がいたものですから」
何年も前のことではあるが、彼女は目立っていたし、同じ寮だったから覚えていたらしい。顔立ちも、マリアによく似ているのだとか。
「そう言えば、キールも言っていました。私たちと入れ違いで卒業したそうですけど、お兄ちゃんたちとは面識があるんですよね」
「変わったものが好きな人で、二人のことは特に気に入って目をかけていました。学校にいる間に関しては、彼女の方が私よりも二人と話していたかもしれませんね」
「……私、知りませんでした」
休暇で帰ってくると、兄たちはよく学校の話をしてくれていたけれど、アンナの話が出たことはなかった。キールとマリアがシェイナと同じ年に入学することも、キールの叔母がマリアであることも、兄たちはずっと前から知っていたのだ。そういえば、ルースとエリックもキールとマリアの続柄を知っていた。
「二人に悪気はないと思いますよ。弁護させていただくと、恐らくシェイナに言うのは恥ずかしかったのでしょう」
もやもやとした気持ちを見透かすように、ロイドは言う。
「……恥ずかしい?」
「あの二人はプライドが高いですから。シェイナの前では、ただ『かっこいいお兄ちゃん』でいたいのですよ。女性の先輩に可愛がられて、振り回されているのを知られたくなかったのでしょう」
確かに、兄たちのそんな姿は想像できない。ずっと年上の両親やデイルから子ども扱いを受けるのを見たことはあるけれど、この学校の中で『グレイス兄弟』を振り回すことのできる者などいなかった。
「でも、私はそんなこと気にしないのに……」
「男という者は愚かなのですよ」
そしてそのことに気が付いていないふりをして、甘えてあげるのが妹であるシェイナの役目なのだと、優しく言われる。
「それで、キール・ハーコートのことはどうされるのですか?」
「……昨日、キールに言おうと思ったんです。キールがすごく真剣で、結果がどうなろうと、はぐらかしたりしてはいけないと思ったから」
でも、できなかった。
「いざ口を開こうとしたら、フェリックスの声が聞こえた気がしたんです。『バケモノ』って。そしたら、怖くなったんです。キールのことを信じたいんですけど……」
まだ、その勇気を持てそうにはない。
「焦ることはありません。パーティーに行けないことが分かっているのなら、彼も無理に急かしたりはしないでしょう。とにかく今は、気を休めて体調を戻すことに専念してください」
これでも食べながら、と、ロイドは自分の隣の席に置いていた大きい紙袋を示す。
「オリビアから預かってきました」
「ありがとうございます。お母さん、今そっちにいるんですか?」
自宅から車で一時間ほどの距離にあるシェリンガム邸には、シェイナたちグレイス一家が過ごす部屋が確保されていた。シェイナがルナシーである故に昔は引っ越すことが多く、新しい家が見つかるまでに身を寄せることもあったし、満月の夜に滞在することも多々あったため、いつの間にか第二の我が家のようになっているのだ。
「昨日から、ジョージと一緒に来ています。キッチンを使わせて欲しいと言って」
シェリンガム邸はその広大な敷地と比例して、キッチンも広い。今回のように大量にお菓子を焼きたい時などは、母はよくシェリンガム邸のキッチンを借りていた。母の焼くお菓子は絶品だからと、デイルも快く貸出しを許可しているのだ。
「それにしても今回、ちょっと多くないですか?」
いつもはもう少し小さめの紙袋だったはずだ。
「新しい友達にも分けてあげるように、とのことです」
「……え?」
思わず目を見開きロイドを見つめる。彼はただ微笑んで、頷くだけだった。
胸が激しく脈打ち、その震えが喉を伝って口元にまでたどり着く。それを隠すように、キュッと口を閉じた。
「パーティーの夜は、うちにくると良い。彼にも言っておいたから」
なんならエリックとルースたちも連れてみんなで夜更かしをしても構わないから、と笑顔で言われて気が楽になった。あの部屋で過ごすことを考えると憂鬱で仕方がなかったのだ。
「今回のことは本当に申し訳なかった」
「デイルさんは悪くありません。私こそ、いつも助けてもらってばかりで」
「気にすることはない。それが我々の仕事だ」
頭を撫でる手から伝わる優しさが、温かい。
手に持っている紙袋に目を落とす。先ほどロイドから受け取ったそれには、たくさんのお菓子が詰め込まれている。
大丈夫。まだ頑張れる。
「では、また。何かあったら連絡してくれ」
「はい」
「くれぐれも無理はなさらないでくださいね」
「分かっています。お二人とも、今日はありがとうございました」
名残惜しそうにしつつも帰っていく二人の背中を、校門から見送る。ずっと家族のように自分を守り続けてくれているそれは大きく、安心感があった。
あんなに頼もしい人が、自分には付いてくれているのだ。改めてそう思と心強い。そして、それだけではない。
校舎の方に身体を向けると、そこには二人の兄たちが立っていた。駆け寄ると、ショーンが紙袋を持ってくれる。
「母さんからか?」
「うん」
「いつもより多くないか?」
「新しい友達にも分けるように、だって」
そう言えば、兄たちは目を見開いてお互いに顔を見合わせる。しかしすぐに表情を和らげた。その様子に、シェイナは思い切って質問をぶつける。
「……ねぇ、お兄ちゃんたちはどう思う? キールたちのこと」
ずっと秘密にしていたが、昨日の騒ぎのせいでシェイナの気持ちも知られてしまった。今日の夕食にキールたちが同席することを許してはくれたけれど、彼らの本心が気になっていた。
「……正直に言うと、ちょっと複雑だ」
エドワードのことばに、思わず足を止める。すると、苦笑しながら優しく頭を撫でてくれた。
「シェイナの思っているような意味じゃないから、それは心配するな。昨日から俺たちも良く考えてみて、悪い奴らじゃないだろうってことは分かっている。でも、シェイナと同じように、俺たちにも勇気が必要なんだ」
「……どういうこと?」
いつだって頼もしい存在である兄たちが勇気を求めることがあるとは信じ難かった。シェイナの正体が広まることを警戒しているのかと思ったけれど、そうではないという。よく分からずに首を傾げていると、ショーンが困ったように小さく笑む。
「俺たちは、シェイナにはずっと小さい妹でいて欲しいんだよ」
兄たちだけを頼り、いつも後ろを付いて回っていた頃のままで、ずっと一緒にいられたら、と。
「でもそういう訳にはいかないってことも分かっている。なら、シェイナが思うままにやりたいことをして欲しい。自分の存在を恥じたりせずに」
俺たちの自慢の妹なんだから。そう言われ、治まっていたはずの震えが、胸の奥で蘇るのを感じる。
「……お兄ちゃん」
「俺たちだけのシェイナじゃなくなるのは寂しいけど、それくらい我慢するさ」
肩にまわされたエドワードの腕が優しくて、つい甘えるように寄りかかってしまう。するとショーンがずるいと抗議をはじめ、シェイナは数日振りに声を上げて笑った。
寮に戻り談話室に入ると、窓際のソファに座っていたウィリアムとマリアがこちらに気が付き、目が合った。声を掛けるべきなのだろうけど、他にも僅かながら人が居たため躊躇っていると、ショーンから紙袋を渡される。
「俺らは先に戻ってる」
軽くシェイナの頭を撫でてから男子部屋へと続く廊下へ向かう愛たちの背中を呆然と見つめる。そして、手元にある紙袋に目を落とし、深呼吸する。
どうせ夕飯の時間になれば、嫌でも周囲の目に入ってしまうのだ。彼らを誘ったときは深く考えていなかったが、腹を括るしかない。
「ちょっと、いい?」
シェイナが二人に話しかけると、周囲の視線がこちらに向いたような気がした。しかし、それに気が付いていない振りをして、手にしていた紙袋の中身を二人に見せる。
「私のお母さんの手作りなんだけど、たくさんあるから、よかったらどうかと思って。味は保障するわ。すごく美味しいの」
二人は驚いた様子ではあったが、すぐににこやかな表情を浮かべた。
「いいの?」
「もちろん。私たちだけじゃ食べきれないもの。それに、昨日は助けてもらったし。キールの分も、好きなものを選んで」
意外にもマリアよりもウィリアムの方が甘党らしく、嬉々として紙袋の中身をテーブルに並べ始めた。クッキー、チョコチップ入りのパウンドケーキ、スコーン、ベイクウェルタルト、ヴィクトリアサンドケーキ、バッテンバーグケーキ、ナッツ入りタフィーと慣れ親しんだお菓子たちは、食べやすいよう丁寧に小分けされている。
「これ全部手作り?」
「ええ。たまに送ってきてくれるの」
「シェイナの母ちゃんすっげーな!」
プロのようだと称賛されて、なんだかくすぐったい。ウィリアムの目の輝きようからからして、お世辞で言っているのではないことが伝わるから余計に。今すぐに一つで良いから食べたいと言うウィリアムが、夕飯前だからとマリアに叱られている様子は見ていておかしくて、つい笑ってしまう。
「ごめんなさい」
「や、元気になったみたいでよかったよ」
「ええ、安心したわ」
よそよそしさのない二人の態度が有難い。思い切って、空いていたスペースに腰を下ろす。
「……キールは?」
「あぁ、あの子ならまた薔薇の世話でもしているんじゃないかしら」
その返答に、選択する話題を誤ってしまったと後悔する。すると、それを察したのかマリアが苦笑した。
「ごめんなさい、悪気はないのよ?」
「ううん。マリアが謝ることじゃないわ」
ことをややこしくしてしまったのは自分だ。キールの気持ちに素直に答えることも、その理由を告げることも出来ずにいる。キールと親しい二人にとってはもどかしい状況だろう。
「私が言うのも変かもしれないけど、キールのことはあまり気にしないで。めげてないみたいだし。まぁ、鬱陶しいようならやめさせるけど」
「鬱陶しいだなんて、そんな……」
ただ、勿体ない。昨日、本人から経緯は聞いたけれど、それでも自分にそれだけの価値があるとは思えなかった。
「シェイナがキールのことをどう思っているのかはよく知らないけどさ、アイツ、そんな大層なヤツじゃないよ」
「え?」
「確かに、顔も頭も良いし、性格も悪くはないけど、優柔不断なヘタレのくせに、こだわりだけは強くて我儘だし。だからシェイナがキールを選ばなかったとしても、俺たちにとっては何も不思議じゃない」
ま、残念ではあるけど。そう付け足して、ウィリアムはクッキーの包装を開けて一つ口へ運ぶ。すぐさまマリアが非難の声を上げたが、すぐに諦めたようにため息を吐いた。
「ウィルの言う通りよ。シェイナがどういう決断をしようと、私たちは気にしないわ。でも、できればこれを機に友達になって欲しいの」
せっかく同じ寮なのに、今まで滅多に話すことがなくて寂しかったのだと言われ、申し訳なる。確かに、自分たちの存在は異質だろう。
ずっと、誰かと親しくなることを恐れていた。
だけどもし、望んでも良いのだとしたら。そして、彼女が受け入れてくれるのならば。
夢みたいなことだけれど、それが叶えばどんなに素敵だろうと、想像せずにはいられなかった。
フィバース総合学院は全寮制であり、入学時の成績や課外活動への参加具合などから、五つの寮に配属が分けられる。元々は一つしか寮はなかったのだが、生徒数の増加に伴い増設されたのだ。
スポーツに盛んに取り組みたい者は、運動場や体育館の近くの寮に配属されるし、入学時の成績が上位だった者は、図書館や教室棟に近く、最も古いバリー寮に配属される。バリー寮に所属するのは各学年約四十名、全校生徒のおよそ五分の一だ。さらに食堂も複数あるため、キールたちと同じテーブルにいても、昼間のカフェテリアよりはマシだろうと思っていたが、その考えは甘かったらしい。兄たちがいるため話しかけてくる者はいなかったが、寮を管理するハウスマスターである植物学のワトソン先生一家を含め、その場にいる全ての人たちの注目を集めていることは容易に分かった。明日には、きっと学校中の噂になっているだろう。
「ごめん。こんなに注目されるとは思ってなくて……」
夕食後、二人で話がしたいというシェイナの申し出に、三十分だけならと兄たちからの許可が出た。個人の部屋以外で二人きりになれる場所など、寮の中ではなかなかないのだが、エドワードがミレイラに話を通してくれて面談室の一つを貸してもらえた。面談室は特殊な魔法がかけられていて、外からの音は聞こえるけれど、内側の音は漏れないようになっている。それに、寮長室や会議室が集まるフロアにあるここならば、廊下で他の生徒に出くわす心配もない。
「謝らないで。キールが悪い訳じゃないんだし」
「でも、目立つことは嫌いだろ?」
居心地を悪くさせるのは本意ではないと、キールの眉が下がる。
「そうだけど、相手が違う人たちでも、きっと同じことにはなっていたと思うわ。今まで、あまりに閉鎖的だったから。キールこそ、嫌じゃなかった?」
「まさか! そりゃ緊張はしたけど、嫌な訳がない。ずっと夢見ていたことに一歩近づけたんだから」
迷惑でなければこれからも同じテーブルで食事をしたりしたいと、照れ臭そうにキールは付け加える。自分の願望が事実を歪めて見せているだけなのかもしれないけれど、彼が偽りなくシェイナに好意を寄せてくれているのだということが伝わってくる。
「……迷惑じゃないわ。でも、これからもそうするかどうかを決める前に、昨日の返事をきちんとするべきよね」
あんなことになってしまったせいでうやむやになってしまったうえ、未だに決断できたわけではない。でも、今の時点で話せることまで話さずに状況に甘えていることは、彼に失礼だし卑怯だ。
「昨日も言ったけれど、キールの気持ちは嬉しいし、光栄よ。気持ちに応えたいとも思うわ。……でも!」
深い緑の瞳に一瞬、期待の光が宿ったのを見て、声のボリュームを上げる。そして、はっきりと続けた。
「今の私には、まだできそうにない」
「……まだ?」
「自分の中で決心がついたら、必ず話すって約束する。でも今は、どうしてもいろんなことを考えてしまうの」
自分のせいで、たくさんの人たちに迷惑をかけてきた。そしてシェイナ自身、幾度も傷付いてきた。その経験を、簡単に過去のものとして切り離すことは出来ない。
「もしも、全部を知った後でもキールの気持ちが変わらなければ、そのときは……あの薔薇を、貰っても良い?」
厚かましく、自分の勝手ばかりだとは分かっている。だけど、他にどうすることが正解なのかが分からなかった。
「気持ちが変わった場合は……気を使わず正直に言って欲しい。ううん、態度で示すだけでも良いわ」
「……分かった」
何か言いたそうではあったけれど、渋々とキールはシェイナのことばに頷いてくれる。自分よりも、シェイナが納得できるように気を使ってくれるあたり、自分なんかよりもずっと大人だ。
「……俺からも、頼みがあるんだけど」
「なに?」
「さっき言ったことと同じだけど、それまでの間も、友達として近くに居させて欲しいんだ。一緒に教室移動したり、今日みたいに一緒に食事したりさ」
真っ直ぐと自分を見つめてくる瞳に、息をのむ。
喉の奥がキュッとして、息が止まりそうな気持ちなのに、心臓の動きは矛盾して激しくなる一方だ。
「……キールは、それでいいの?」
唇に合わせて、絞り出した声も震える。
すべてを知れば、シェイナのことを視界に入れるのすら嫌になってしまうかもしれない。それなのに、キールの申し出はあまりにもシェイナにとって都合が良すぎる。
だけどキールは、平然と、しかし真剣な表情で続ける。
「何がそんなにコンプレックスなのかは知らないし、無理に聞き出すつもりもない。でも、これだけは知っておいて欲しい。そのコンプレックスがあって、今のシェイナがあるなら、それも俺にとって大事なシェイナの一部だ」
そう告げる彼の眼をシェイナは知っている。
両親、エドワード、ショーン、エリック、ルース、デイル、そしてロイド。シェイナを受け入れ、支えてくれている人たちの顔が思い浮かぶ。キールもきっと、真実を知っても彼らと同じように接してくれると直感した。
家族や友人に何を言われても、例え諍いになったとしても、シェイナを選んでくれる。でも、だからこそ軽率に打ち明けてはならないこともシェイナは理解していた。
「……ありがとう」
今はそれしか言えない。だが確かに、希望があるのだと知ることはできた。小さな灯かもしれないが、暗闇の中で足元を照らすには十分だ。
部屋のドアがノックされ、ミレイラが許された時間の終わりを告げる。それに応えてドアを開けると、エドワードが彼女と並んで立っていた。
「心配だ、って言ってね。一緒に寮長室で待っていたのよ。でも、杞憂だったみたいね」
事情を話していないにも関わらず、ミレイラは姉のように優しく笑む。一方のエドワードはというと、バツが悪そうにキールから目を逸らし、シェイナの頭を軽く撫でる。
「エリックたちが母さんのケーキを食べるって準備をしてるから、早く行くぞ」
そう言って、兄は背を向けるとさっさと廊下を進んで行ってしまう。呆然とその姿を見ていると、ミレイラがくすくすと笑いだした。
「妹離れは難しいみたいね」
「え?」
「キール君、見込みがあるってことよ。さ、私たちも行きましょう」
面談室を貸す代わりに、ミレイラもお菓子を分けてもらう約束をしていたらしい。面談室の消灯と施錠を済ませ、談話室に向かおうとすると、キールだけは戸惑ったように立ち尽くしたままだった。
「どうしたの?」
「……や、俺も行って良いのかな、って」
どうやら、エドワードとショーンは余程恐ろしい存在らしい。キールだけでなく他の者たちにとってもそうなのだろうということを思うと、自分にも原因があるとはいえ複雑な気持ちになる。
「良いのよ。来るなって言われてないでしょ?」
それがエドワードなりの歩み寄り方なのだとミレイラが言うと、シェイナも思わず吹き出してしまう。
「行こう?」
もう一度そう誘えば、今度は彼も安堵したように頷いた。