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 一晩経つといくらか気分も落ち着いて、完全にいつも通りと言う訳にはいかないものの、部屋に籠ることなく、自習室で課題に取り組んだり食堂でみんなと一緒に食事を摂ったりすることができるようになった。兄たちもその様子を見て安心したのか、午後からは過保護に行動に口を挟むことなく、各々が好きに日曜の午後を過ごしていた。


「体調悪いって聞いたけど、もう大丈夫なのか?」


 そうキールに声を掛けられたのは、幼馴染たちよりも一足先に課題を終えて、図書館に暇つぶし用の本を探しに行く途中だった。


「ありがとう。お兄ちゃんたちが大袈裟なだけで、もう大丈夫よ」


「本当に? そう言って、前にも無理していたことがあるじゃないか」


 二年も前の話を持ち出されて、思わず苦笑してしまう。だけど、彼があのときのことを覚えていてくれているのは嬉しかった。


「本当に大丈夫よ。随分と前のことなのに、よく覚えているのね」


「……覚えているさ。……大事な、日、だったから」


 キールにしては珍しく、たどたどしいというか、緊張しているような口調。だがそれよりも、彼が発したことばの内容に驚かされた。うぬぼれるな、とストップをかける自分が確かに存在しているのに、心の奥深くで淡い光が灯ろうとしているのを無視できない。


「……大事な日?」


「うん。ほら、……俺たちがまともに話したのって、あのときが初めてだったろ? だからさ……」


 口ごもりながらキールは目線を彷徨わせる。そして、意を決したように深緑色の瞳を真っ直ぐに向けてきた。


「大事な話があるんだ。場所を変えて。今、少し時間もらえないかな?」


 いつか自分だけに向けて欲しいと思っていた瞳に見つめられ、頷く以外の選択肢はシェイナにはなかった。


 キールに連れてこられたのは、植物学の教室だった。授業時間外は基本的に施錠されているのだが、キールは持っていた鍵を使って当たり前のように入っていく。


「植物の世話をするのを条件に、鍵を貰ったんだ」


 不思議そうにしていたのが伝わったのか、キールが説明しながら椅子を用意してくれる。緊張しながらも、シェイナはそこに座った。


 ちょっと待ってて、と言って教室の端にある先生の温室へとキールは向かう。その後ろ姿をぼんやりと眺めた。


 いつもの教室なのに、違う場所のような気がする。男の子の秘密基地に初めて入ったときのような、特別な高揚感と、おそらく誰も来ないであろう場所に、キールと二人きりでいることによる緊張感に支配されている。


 夢でも見ているのではないか。


 そう思い、こっそり左手の甲を抓ってみる。すると、ピリッとした痛みが走り、これが現実なのだと実感する。だけど、やはりまだふわふわとした感覚は消せない。


 そうこうしているうちにキールが戻ってきて、目の前に座る。そして、一輪の赤い薔薇をシェイナに差し出した。


「これを、シェイナに貰って欲しいんだ」


 丸みを帯びた花弁は、中心から外側に向けて色が淡くなっている。校内に薔薇はたくさん咲いているけれど、初めて見る種類だった。


 その薔薇を見つめながら、キールに聞こえてしまうのではないかというくらいに心臓が脈打った。


 この時期、フィバースの生徒にとって薔薇は特別な意味を持つ。パーティーのパートナーを申し込むとき、男子は女子に赤い薔薇を、女子は男子に白い薔薇を贈るのが習わしなのだ。男の子から赤い薔薇を貰うことは、上級生になってパーティーへの参加資格を得た女子にとっては、煌びやかなドレス以上に憧れの存在だった。


 そんな薔薇が今、目の前にある。いくらシェイナでも、彼が差し出した薔薇に特別な意味があることは分かった。しかし、だからこそ受け取れずに呆然とそれを見つめることしかできない。


「……エリックがいるから、受け取れない?」


 困ったような、悲しんでいるような、そんなキールの表情を見て、慌てて首を振って否定する。


「そうじゃないの。ただ、びっくりして……。それに、エリックはただの友達だし、関係ないわ」


 でも、と、意を決して続ける。


「その薔薇がパーティーのためのものなら、受け取れない。キールから薔薇を貰えるなんてすごく嬉しいし光栄だけど、私、パーティーには行かないの。ほら、日程が変わったでしょう? それで都合が悪くなっちゃって……」


「……そう、なんだ」


「ごめんなさい。キールは楽しんできてね。キールと行きたがっている女の子はたくさんいるんだし」


 この薔薇だって、もっと相応しい女の子はたくさんいる。想像はしたくないが、シェイナがパートナーを断るということは、他の女の子がその位置につくということなのだ。


 キールが好意を持ってくれているというエリックのことばを、今は疑っていない。だけど、その好意がどの程度なのかは分からない。だから今焦って決断を下すのではなく、もう少し様子を見てからでも良いのではないかと思った。両想いなのだと分かった以上、チャンスを手放してしまうのは惜しい。だけど、勢いに任せてルナシーであることを告白できるかと言えば、それほど軽い問題でもないのだ。


 今回の申し出を断ったことで、キールの気持ちが他の女の子に向いてしまうのならば、嫌ではあるけれど、仕方がないし、一時の気まぐれだったのだと諦めもつく。


 心配を掛けてしまったし、ルースとエリック、そしてロイドにはこのことを報告しておこう。そう考えながらその場を立ち去ろうと腰を浮かすと、キールに引き留められた。普段の彼からは考えられない、切羽詰まった表情に、シェイナも困惑する。


「パーティーに行けないのは残念だけど、それでもいい。この薔薇を受け取ってもらえないかな? この薔薇は、シェイナ以外にはあげられない。……シェイナのために、育てた薔薇だから」


「私の、ため?」


「さっき廊下で話してたことの続きになるんだけど、三年のときのあの日は、俺にとって大事な日だ。はじめてシェイナと勉強以外のことをまともに話した。一年の頃からずっと願っていたことの一つが、叶った日だ」


 真剣な瞳に貫かれてしまったかのように、胸が苦しい。


これ以上彼の話を聞いてはいけない。なんとかしてここから立ち去らないと。そう思うのに、囚われて動けない。ただ呆然と、人形のようにかたまりながら彼のことばを聞くしかできない。


「昔は自分から何かをやりたいって思うこともあまりなくて、いつもウィルやマリアに付き合うだけだった。でも、フィバースに入ってシェイナに出会ってから変わった。シェイナといろんな話をしてみたい、仲良くなりたい、って。薔薇の研究を始めたのも、五年になったらパーティーに誘いたいと思ったからだ。誰にも負けないような、特別なことをしたかった」


 その薔薇がやっと咲いた。だからどうしても、この薔薇を受け取って欲しいのだとキールは乞うように言う。


「……どうしてそこまで……?」


「好きだから、じゃダメ?」


 正直、自分でもよく分からないのだとキールは苦笑する。


「シェイナのことは、入学する前から知ってた。母さんの妹……マリアの姉さんが、俺たちが入学する前の年までフィバースにいて、そのときからシェイナのお兄さんたちのことはよく聞かされていたんだ。一年生と二年生に面白い後輩がいる、って。その妹が俺たちと同じ学年だって教えられていて、少し興味があった」


 それでキールは入学式の日、一人で抜け出したシェイナの後を追ったのだという。


「お兄さんたちに可愛がられて、甘やかされているって聞いていたから、マリアみたいに我儘なタイプかと思っていたけど、実際は全然違っていて意外だった。それがきっかけでシェイナのことを目で追ううちに、いつの間にか特別になっていた」


 エリックとルースが羨ましかったこと、少しでも話す機会が欲しくて、勉強の質問をしていたということ、シェイナの兄たちに知られないようにウィリアムやマリアに協力してもらっていたということ。そんな話を聞きながら、嬉しいのに、苦しくなった。


 彼の瞳のせいだ。


 キールの気持ちはシェイナが考えていたような軽いものではなく、ずっと深く、真摯なものだった。だからこそ、そのことが恐ろしい。


 その場しのぎの返答など、許してはもらえないだろう。戸惑いから口にした虚構など、すぐに見抜かれてしまう。例え今回はなんとかなったとしても、逃げ続けることなどできない。シェイナ自身も、真剣に向き合わなくてはいけないのだということを、今になってようやっと理解した。


 彼に話すべきなのだろう。だけどもし、受け入れてもらえなかったら? 兄たちや幼馴染たちに迷惑をかけて、この学校にいられなくなってしまったら?


 ――バケモノ! ルナシーなんか友達じゃない!


 友達だと信じていた。何があってもずっと一緒にいて、毎日遊んで、勉強して、そうして大人になっていくのだと。大人になっても毎日彼と一緒にいるのだと思い込んでいたのは、淡い恋心でもあったのかもしれない。


 そんな彼から突き付けられた『バケモノ』という言葉が頭の中に響き、いま再びシェイナの心を抉る。


 キールなら大丈夫だと、エリックやルースのように受け入れてくれると信じている。だけど、あの時のシェイナも、彼を信じていた。そして、その結果が『バケモノ』という言葉と共に放たれた拒絶だった。


 自分だけでなく、大切な兄たちまで心身ともに傷付けた。そっと、左のこめかみに触れる。


 未だに、傷痕は残ったままだ。


「……シェイナ?」


 キールを見ながら黙り込んでしまったシェイナを心配する声。


 はやく言わなければ。正直に。そう思うのに、喉の奥に何かが貼り付いているようで声が出ない。


 息が苦しい。


 何とかしなければと息を吸うが、一向に楽になる兆しはなくて、余計に苦しくなる一方だ。


 どうして自分はこうなのだろう。弱虫で、自分からは真実を告げることができない。悔しくて、涙が浮かぶのを感じながら、シェイナは意識を手放した。




*****




 意を決したような青い顔で何かを言おうとした途端、過呼吸を起こしたシェイナに驚きながらも、キールは急いで傾いた彼女の身体を支える。


「シェイナ!」


 大きめの声で呼びかけるも、荒く呼吸を繰り返すだけで反応がない。ゆっくりと彼女を椅子から床へと移動させ、少しでも楽な姿勢になるように試みる。しかしシェイナは背中を丸めて苦しそうに涙を浮かべながら荒く息をするだけだった。


 しばらくすると呼吸は落ち着いたが、それと同時にシェイナは意識を手放した。そのとき、誰かの名前を小さく漏らしていたけれど、聞き覚えのある名前ではなかった。自分が知らないだけで、シェイナにとっては大事な人なのだろうか。


 そう思うと心の奥に靄がかかったけれど、ハッとしてそれを振り払う。今はそんなことで悩んでいる場合ではないのだ。


 シェイナをこのままにしてはいけない。


 体を横にできる長椅子もないここで休ませるのは得策とは思えないし、昨日も体調を崩していたのだから医務室へと運ぶべきだろう。しかし、ウィリアムと違って体育の授業など最低限しか運動をしていないキールには、いくらそう遠くないとはいえ、意識を失ったシェイナを一人で運ぶ体力などなかった。魔法で浮かして運ぶということも考えたが、人間を浮かせながら移動するとなれば、寮の部屋に置きっぱなしになっている杖が必要だ。


 情けないと思いつつも、自分だけではどうしようもないと判断し、助けを呼ぶことにした。今日が日曜なのは、不幸中の幸いだった。


 フィバースでは、上級生として扱われる五年生になると、さまざまな特権を与えられる。パーティーへの参加もそうだが、一番生徒たちのなかで歓迎されている特権は、携帯電話の所有許可だ。とは言っても、基本的に寮でしか使用してはいけないし、教室への持ち込みも認められていない。けれども今日は日曜なので、その規則の範疇ではなかった。五年生になったばかりで持っていない生徒も多いし、キール自身特に必要としていなかったのだが、今回ばかりは半ば強引に携帯電話を買い与えてくれた両親に感謝すべきだろう。


 ウィリアムとマリアは、キールから連絡を受けるとすぐに来てくれた。おかげでなんとかシェイナを医務室まで運ぶことは出来なのだが、そこから先もキールにとっては問題があった。



 知らせを受けて駆け付けたシェイナの兄たちと、ルースとエリックだ。ルースとエリックはなんとなく事情を察していたのか、深く追及してこなかったが、過保護なシスコンで有名なグレイス兄弟はそうではなかった。


 図書館へ向かったはずのシェイナが、日曜で授業もないのに、植物学室で倒れたのだ。キールが居合わせたのが偶然だと処理してくれるはずがない。


 過呼吸は極度のストレスで引き起こされることが多い。キールがその原因となったのではと疑われるのは自然の流れでもあった。


「で、シェイナに何した?」


 怒りを含んだ低い声で凄まれ、胃が痛くなる。冤罪で死刑囚となったような気分だ。


 さて、どうするべきか。素直に話してそれを信じてもらえたとしても、別の理由で裁かれるのは確実だ。二度とシェイナに近づけないように様をされるに違いない。ちらりと横目で隣にいるウィリアムに助けを求めるが、困りきって固まった顔で首を小さく振られるだけだった。


 エリックとマリアをシェイナの付き添いとして医務室に残し、グレイス兄弟とエリックの自室に連れてこられたのだが、この窮屈な感じは決して、三人部屋に五人が集合したからなどという理由だけが原因ではないだろう。さっきから、気を張っていないと眩暈を起こしそうだ。


「キールは別に悪くないと思うけど」


 危機を救ってくれたのは、意外にもルースだった。あのエドワードとショーン相手に呆れたような視線を向け、冷静に言い放つ。


「確かにきっかけにはなっただろうけど、直接の原因ではないわ。だってキール、シェイナに『好きだ』って言っただけなんでしょう? 告白しただけで過呼吸起こされるなんてないでしょ。もしそうだとしたら、どれだけ嫌われているのよ、って話じゃない」


 助けられているのか貶されているのかよく分からないフォローな上に、キールが言うかどうか迷っていたことをあっさりとばらされる。


「まて、なんでキールが告白したって知ってんの?」


「あれだけシェイナに視線向けまくってて、この時期に二人きりになろうとするとか告白に決まってるでしょうが」


 口を挟んだウィリアムを一瞥して言い放つルースを眺めつつ、今度はショーンがキールを問い詰める。


「ルース、知ってたなら何で言わなかった?」


「キールだし良いかな、って思ったから。シェイナだっていつまでもシスコンの相手している訳にはいかないでしょ」


 それに、とルースは続ける。


「何があったのかは知らないし、聞き出そうとも思わないけど、キールのおかげでシェイナは変わった。ちょうど二年くらい前かな。あんたと同じクラスになってしばらくした頃。何がきっかけなのか分からないけど、シェイナがそれまでより思ったことを言って、私たちを頼ってくれるようになった」


 そして、それと同時期にシェイナのキールに対する態度が変わったことに気が付いたのだという。


「気付いていたかもしれないけど、シェイナって前は、あんたが苦手だったのよ。あの子、目立つのが嫌いだから、できるだけ関わりたくなかったみたい」


 でも、ある時期を境に、好意的に接するようになった。それどころか、キールがどんな科目の質問をしてきても大丈夫なようにと、より一層勉強に励むようになったのだという。


 初めて知ったその事実に驚くと共に、僅かながらも光が灯るのが分かった。


「キールに賭けてみたいと思った。だから私もエリックも、今まで黙ってたの」


「その結果がこれか?」


「シェイナにプレッシャーを与えてしまったことは謝るわ。でも、まだ結果が出たとは思ってない」


 一触即発の雰囲気に、いつの間にか蚊帳の外に追いやられたキールとウィリアムはハラハラしながら、睨みあうルースとグレイス兄弟を見守る。


「あんたたちがシェイナに対して必要以上に過保護になるのは、単に妹が離れていくのが嫌だから?」


「……なにが言いたい?」


「あんたらにそのつもりがなかったとしても、シェイナを隔離してるように見えるってこと。自分たちに迷惑がかからないようにね」


「本気で言ってるのか?」


 ルースのことばに、グレイス兄弟は二人とも顔色を変える。ショーンに至っては、立ち上がってルースの胸ぐらを掴んだので、キールとウィリアムは慌てて仲裁に入った。


「本気よ。私だけじゃなくって、エリックもそう思ってる。あと、シェイナもね」


「……シェイナが?」


 ショーンの手が緩んだ隙に、ルースから引き離す。


「自分を想ってのことだ、ってシェイナも分かってる。でも、自分は迷惑を掛けるだけの存在じゃないか、って感じることもあるみたいよ」


 シャツの襟元を直しながら、ルースは立ち上がる。


「私たちはもう行くわね。今はこれ以上話し合うことなんてないから」


 険しく青い顔をした二人をそのままに、彼女はドアへと向かい、キールとウィリアムにも付いてくるよう目で示した。戸惑いつつも、グレイス兄弟に止められる様子もなかったため、キールたちはそれに従い、部屋を出た。


 ドアが閉まると、思わず深く息を吐いてしまった。この三十分ほどで、数年は寿命が縮まった気がする。


「しっかし、ルースのおかげで助かったよ。俺たちだけじゃ生きて帰って来られなかった」


 談話室に着くと、ウィリアムが気持ちを代弁してくれた。日曜の午後はみんな遊びに行くか、課題に追われているかなので、談話室に他の者はいなかった。


「アイツらにはいつかちゃんと言ってやろうと思っていたのよ。今回のは想定外だったけど、良いきっかけになったわ」


 清々した、とでも言いたげに伸びをして、ルースはソファに深く腰かけたので、キールたちもそれに続く。


「……俺はこれからどうなるんだ?」


「シェイナ次第じゃない?」


 シェイナがキールを望めばグレイス兄弟も邪魔はしてこないだろうしし、シェイナが今回のことをきっかけにキールを拒絶すればそれまで。


 自惚れかもしれないが、先ほどの話を聞く限りでは、望みはあるように思える。しかし、薔薇を渡した時のシェイナを思い出すと、それと相反する気持ちもあった。


 期待と、拒絶と戸惑いに揺れていた瞳が頭から離れない。


「……フェリックスって誰か知ってるか?」


 思い切って尋ねてみると、ルースは少し驚いたような顔をしてから、顔を顰めた。


「どうしてその名前を?」


「シェイナが倒れた時、呼んでた」


 小さい声だったけど、救いを求めるようにはっきりとその名を口にしていた。


「……そう。じゃあやっぱり、シェイナが今回倒れたのは、彼のことを思い出したからなのね」


「そのフェリックスって奴と、何かあったのか?」


 聞き覚えのない名前に、ウィリアムも興味を示したらしく、わずかに身をのり出す。


「シェイナがうちの近所に越してくる前のことだから、私も話を聞いただけで、全部を知っている訳ではないんだけどね。エドとショーンがシェイナに対して、今みたいに異常に過保護になったのは彼がきっかけみたいよ」


「それってもしかして、シェイナを虐めてた相手か?」


「その話、誰から……?」


 何故知っているのかと言いたげな目を向けられ、三年生のあの日にシェイナから聞いた話を伝える。するとルースはどうした訳か、安堵したように表情を和らげた。


「そっか。そこまで話してたのね」


 だとすれば、思っていたよりも状況は悪くないかもしれない。そう言って彼女は続ける。


「フェリックスは、シェイナが七歳くらいのとき隣に住んでいた男の子よ。すごく仲が良くて、毎日一緒に遊んでいたんですって」


 そして、シェイナの淡い初恋の相手でもあった。家族の次に彼を信頼していたし、自分の日常から彼がいなくなるなど、考えたりもしなかった。


 しかし、それが裏切られる日が来てしまった。


「あることがきっかけで、シェイナが他の子たちにリンチされたの。そのとき、フェリックスも一緒になってシェイナに物を投げた」


 そして、投げられた物の中にあったはさみがシェイナの頭部に命中した。


「あの子の左側のこめかみに、今も傷痕が残っているわ。女の子だし、なんとか消そうとしたけど、その傷だけは無理だったの」


 会ったこともない、おそらくこれからも会うこともない相手に、今までに感じたことのない怒りが沸く。


 魔法を使えば、ほとんどの傷は痕を残さない。だけど、強い負の感情を込めて与えられた場合、傷痕は簡単に消すことはできない。痛みを感じなくなったとしても、決して忘れられない。苦しみはいつまでも主張し続ける。


 まるで呪いだ。


 シェイナは、キールが彼と同じように裏切ると思ったのだろうか。たまに話すくらいで、親しいわけでもないのだから、無理もない。そう理解してはいるけれど、やるせない。


 だが、まだ可能性はある。


「ルースたちは、どうやってシェイナと仲良くなったんだ?」


 フェリックスの一件の後、他者への警戒心を強めたグレイス兄弟と、引きこもりがちになったというシェイナ。傷付いた三人から、信頼を勝ち得た者が目の前にいる。羨ましくもあるが、その存在は希望でもあった。


「失礼すぎて気に障るけど、エドとショーンが言うには、私たちがあまりに馬鹿で人の話を聞かないから、らしいわ」


「……は?」


 思わずウィリアムと同時に聞き返す。


「シェイナたちが越してくるまで、近所にはエリックしか歳の近い子はいなかったから、どうしても仲良くなりたかったの。シェイナの両親は、シェイナたちが人間不信になるのを防ぎたかったみたいで、私たちがいきなり訪ねて行っても、温かく迎えてくれたわ」


 そうしているうちに、少しずつ打ち解けていった。


「時間はかかったけど、最後にはエドとショーンも根負けしたみたいね。それに二人も、自分たちがフィバースにいる間、シェイナの側にいられる人間が欲しいとは思ってはいたのよ」


 兄たちという監視なしにシェイナと遊べるようになったのは、ちょうどエドワードがフィバースに入る少し前のことだったらしい。


「アイツらは頑固だけど、なんだかんだで折れなきゃいけないところは分かってる。だからキールが本気で、シェイナを裏切ったりしないってことが伝われば、悪いようにはならないわ。ま、さっきも言ったように、最後に決めるのはシェイナだけど」


 付け足すように、そう釘を刺される。


 シェイナは自分を選んでくれるだろうか。


 見込みはあると言われても、確証はない。だけど、諦めたくはなかった。




*****




(……参ったわね)


 エリックとシェイナを二人きりにさせないように、と思って医務室に残ることを主張したものの、シェイナはなかなか目覚めそうにないし、エリックと話すこともない。それが理由という訳ではないのだが、一時間ほど経った今、ここにいることが辛くなってきた。


「シェイナは俺が看ているから、もう行っていいぞ」


 キールたちの話も終わった頃だろうからと、こちらを見ることもなくエリックは言う。


「それに、俺にはシェイナとどうこうしようって気持ちはないから、お前たちが心配しているようなことにはならない」


 ずっとシェイナを優しく見つめていながらそんなことを口にする彼に腹が立った。それに、マリアがここに残っているのは、確かにエリックが言う通りの理由もあるが、それだけではないのだ。


「いいえ、シェイナが起きるまで居るわ。彼女に話したいことがあるの」


「……何を?」


「キールが原因でこんなことになったのなら、放っておけないもの。それに、前からシェイナとはちゃんと話してみたかったの」


 もしもシェイナが許すのならば、仲良くなりたいと思っていた。



「最初は、地味で目立たない子だと思っただけだったわ。平凡で、真面目で、控えめで。キールの好きそうなタイプだとは思ったけど、それだけだった」


 でも、時間が経つに連れて、シェイナに興味を持つようになった。マリアだけでない、ウィリアムも、さらに言えば自分とキールの家族もだ。


「私、昔はキールが苦手だったの。甥っ子だし、家も隣で、家族として育ってきたから嫌いではなかったけど。キールって変に賢いから、自分にはどの程度のことならできるか、ってことがすぐに分かるみたい。だから必要以上の努力はしないし、妙に冷めていて、一緒にいてもつまらなかったの」


 だけど、それが変わった。


「シェイナを好きになった途端、新種の薔薇を育てるなんて成功するかも分からないことに必死になって、何度失敗しても諦めなくて、そんなキール見たことなかった。私は、今のキールが好きよ。だから、シェイナには感謝しているの」


 彼女の何がそうさせたのかは分からない。でも、あのキールを変えるほどの魅力があるには違いない。シェイナと仲良くなって、自分もそれを知りたいと思った。


「……そうか」


 エリックはそれだけ言うと、カーテンで区切られた個室から出て行ってしまった。


 聞くだけ聞いておいて、素っ気ない態度で会話を終わらせた彼に少し苛立つ。キールもウィリアムもそうだが、男の子との会話はどうしてこうなることが多いのだろう。こちらの気を引くためにどうでも良い話を延々としてくる者たちよりは遥かにマシではあるが、釈然としなかった。


 まぁ、彼がシェイナを残したままいなくなるとは思えないから、何か用事があって少し席を外しただけなのだろう。きっとすぐに戻ってくるはずだ。


 だがそれにしても、シェイナと二人きりになることを許されたということは、ちょっとは認められたのだろうか。そんなことを考えていると、エリックはマグカップを手に戻ってきた。熱いお茶でも入っているのか、湯気が立っている。


「ほら」


 そう言って、カップを差し出される。


「……私に?」


 カップは一つしかなく、わざわざマリアのためだけに淹れてきてくれたというのか。


 驚きつつもカップを受け取ると、ハーブティーがたっぷりと入っていた。ミントと柑橘類がベースなのだろうか、爽やかな香りがする。


「これ飲んだら少しは楽になるはずだけど、無理はするな」


「……気づいていたの?」


 確かに、医務室に来てから気分が優れなかった。乗り物に酔った時のように、胃や胸の辺りが少しむかむかしている。だけど我慢できる程度だし、悟られないようにしていたつもりだった。


「普段から我慢してばっかりの奴と一緒にいるからな。見ていれば分かる」


 そう言いながら、未だ目を覚まさないシェイナに向けられた眼差しは優しく、温かい。


「……だからさっき、行っていいって言ったの?」


 彼に抱いていた苛立ちがおさまっていく。


「ただ俺の邪魔をしたいだけなら、無理する必要もないと思ったからな」


 それに、と彼は続ける。


「今、お前の体調が悪いのはシェイナの近くに居るせいだ」


「……え?」


「過呼吸で倒れるほど、シェイナの精神状態は乱れている。俺たちは精神が乱れると、魔力をコントロールする力も乱れるんだ。とは言っても、ほとんどは微々たるもので、周りに影響することもないんだけどな。でも、シェイナは違う。シェイナの持つ魔力は、俺やキールよりも、七年生で首席のエドよりも、ずっと大きい。もちろん普段はちゃんとコントロールしてるし、精神状態が不安定だからといって魔力を暴走させることもない。だけど、マリアみたいに耐性の弱い人間には、僅かに影響を与えることがたまにある」


 確かに、マリアは昔から魔力に対する耐性が弱かった。一緒に生活している家族に、魔法を使える者がいなかったからかもしれない。一番上の姉クレアと結婚した義兄、キールの父でもあるジェイクと、二番目の姉ヘティの夫であるダニエルには魔力があるけれど、トーマス家では魔力を持つ者が生まれることはかなり稀だった。


 でも、だからといって魔力を持つ人間を恐れたことはない。羨んでしまうことはあるけれど、彼らを嫌悪したことはなかった。だけど、全ての人間が自分と同じ考えを持っているわけでないことも知っている。


「……シェイナはきっと、苦労したんでしょうね」


 シェイナを守るようにグレイス兄弟やエリックたちが必死になるのも、そのせいなのかもしれない。今ではフィバースで魔法の使い方を習っているし、シェイナは学年首位の優秀な成績だけど、小さい頃はいろいろとあったはずだ。


「シェイナを怖いと思うか?」


「いいえ。こんなことで体調が優れなくなる自分を情けないとは思うけど、シェイナを怖いとは思わない。それに、魔力の有無やその大きさだけが原因で、隔たりができてしまうことの方が怖いわ」


 それに、そんなことはフィバースの理念に反する。両親の所得も、性別も、魔力の有無も関係なく、全ての者が共に勉学に励めるようにと創られたのがこの学校だ。今度のパーティーだって、普通科と魔法科の交流が一番の目的だ。


「……真面目だな」


「馬鹿だと思う?」


「や、マリアを馬鹿だというなら、俺とルースも相当だ」


 苦笑するように、しかし朗らかな表情で彼は言う。


「マリアが友達になったら、シェイナは喜ぶだろうな」



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