表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/16


 他者と異なるということ。


 それは当然のことのはずなのに、許されないことでもあった。


 太陽に照らされた世界では、そこにあるはずの月に目を向ける者など滅多にいない。月は暗い夜だけを生きていればいい。それが大半の人間の意見だった。それは、月に操られし者、ルナシーに対しても変わらない。ルナシーは呪われた存在、悪しき存在、許してはならない存在として扱われてきた。


 ゆえに、ルナシーは自身がルナシーであることを隠しながら生きていかなければならなかった。どんなことにも例外があるように、ルナシーを受け入れてくれる存在は確かにいる。しかしそれは例外に過ぎず、ルナシーを擁護する人間もまたルナシーと同様の扱いを受けることになる。そうして、ルナシーは日陰の存在であり続けてきた。


 シェイナ・グレイスもその日陰の存在の一人である。


 ルナシーは月の加護によって高い魔力、優れた能力を与えられる。しかし満月や新月の夜にその代償を払わなければならない。高い魔力を制御する能力を奪われ暴走してしまう者、人狼や吸血鬼に姿を変える者、魔力を失ってしまう者、その代償の内容は人によって異なる。シェイナの場合は、百年に一人現れるかどうかという特に珍しい例だった。


 普段から他のルナシーよりも高い魔力を持ち、新月や満月の夜には更にその力を増幅させる。しかし満月の夜に姿を変えるだけで、自我はきちんと保っているし魔力を暴走させてしまう事もない。そんな特別なルナシーであった。


 だが特別とはいえ、ルナシーはルナシー。ルナシーに対して理解のない人間にとっては関係のないことである。シェイナは家族には恵まれていたものの、ルナシーであることを知られて追い出されるように引っ越しを余儀なくされる事もあった。


 そんな生活がなんとか落ち着いたのは八年ほど前。シェイナがルナシーであることを知っても態度を変えず、友人として傍にいてくれる人間が二人も現れた。これはルナシーにとって奇跡に近いことである。そしてその二人のお陰で、シェイナは十二歳になる年からは全寮制の学校に入学し、五年生になる今まで、大きな問題も起こることなく過ごすことができている。


 しかし今になってシェイナはあることに悩まされていた。いや、悩むまでもなく答えは決まっていることなのだが、『もしも』をつい考えてしまうのだ。


「それにするの?」


 横から声を掛けられて、我に返る。そして手にしていたドレスを慌てて元の位置に戻した。


「ううん。見ていただけ。ルースはもう決めた?」


 そうシェイナが返すと、栗色の髪の少女も肩まであるくせ毛を揺らしながら否定した。


「これっていうのがないわね。他のお店に行く? それか、次の週末にロンドンまで行っても良いけど」


「ロンドンは無理よ。お兄ちゃんたちが許してくれない」


 ロンドン市内には店も多いし気に入るようなドレスがあるだろうが、過保護な兄たちはきっと反対するだろう。付き添いがいれば問題ないのだが、来週末、兄たちは校外実習の予定があると言っていた。それに第一、ドレスを買いに行くのだから女の子同士で出かけたい。


「あいつらも良い加減シスコンやめたらいいのにね。私たちだってもう五年生なんだから」


 呆れたようにそう言う親友にシェイナも苦笑する。兄たちはルナシーであるシェイナが自分たちの目の届かないところでトラブルに遭った場合を心配してくれていることも、ちゃんと理解はしている。だがやはり、彼らの過保護ぶりは行き過ぎていることが多い。


「まぁ良いわ。とりあえず次の店に行きましょう」


 ロンドンに行くかどうかはまた後で検討すれば良い。その提案にシェイナも賛成して、店を出ることにした。店のドアを開けるため取っ手を握ろうとしたら、反対側から扉が開かれる。邪魔にならないように身を避けると、二人連れが店に入ってきた。


「……あ」


 よく知っているその姿に、思わず声を漏らしてしまう。


「あら、シェイナたちもドレスを見に来たの?」


 にこやかに微笑んで金髪碧眼の美少女が訊ねてくる。


「うん。マリアも?」


 できるだけ彼女の隣にいる黒髪の少年を視界に入れないようにして答える。普通に、と平常心を心がけてはいるものの、鼓動がわずかに速くなっていることは嫌でも感じられた。


「ええ、あとキールの服もね」


 自然に口にされた名前に、胸がキュッと苦しくなる。そして、彼の隣に立つ彼女が羨ましくて、眩しかった。自分には決して、手の届かない場所。


「そう……じゃあ、私たちはこれで……」


 マリアは所属している学科が違うし、元々親しいわけでもない。これ以上話すこともないので、早々にこの場を立ち去りたかった。しかし、予想外の人物に引き留められる。


「……シェイナ」


 騒がしい店内では聞き逃してしまいそうなほどの声。だが、彼の声を聞き逃すはずがない。


「なに?」


 鼓動がうるさい。しかしそれを必死に無視する。


「や、その……シェイナは、行く相手決まっているのか?」


 なぜそんな質問を?

 そう不思議に思いながらも、彼に向き直る。


「……まだだけど、でも、多分エリックと行くわ」


 それだけ答えると、今度こそルースとともに店を出た。無愛想な態度をとってしまったと反省する一方、彼を前にしてこれ以上平常心ではいられなかった。心臓がうるさい。彼はどうしてあんな質問をしたのだろうか。もしかして、と都合のいいことを考えてしまう。そんな訳がないのに。あの質問はただの気まぐれだろう。そうに決まっている。だって、彼にはマリアがいるのだから。自分なんかを、まともに相手にするはずがない。


 そう自分で結論付けて落ち込んでいると、隣から話しかけられる。


「本当にエリックと行くの?」


 呆れたような顔をしたルースは、シェイナの気持ちも全部見透かしているのだろう。


「エリックだけじゃなくてお兄ちゃんたちも一緒にみんなで行こう、って前に話していたじゃない。お兄ちゃんたちとエリックと、ルースと私。五人で行こうよ」


 正式なパートナーがいなくとも、いつものメンバーでならきっと楽しめる。それで良いじゃないか。ダンスパーティーとはいえ、元々はただの親睦会だ。


 シェイナたちの通うフィバース総合学院は、魔力を持つ者が所属する魔法科と、持たない者が所属する普通科に分かれている。合同で行われる授業もあるが、五年生からは分かれて行動することが多くなるので、年に三回、親睦会として上級生のみが参加できるダンスパーティーが開かれるのだ。招待状は五年生以上の生徒全員に配られる。そして生徒は、その招待状をパートナーに選んだ相手と交換するのがしきたりとなっている。男子は赤い薔薇を女子は白い薔薇を添えて。


 情熱には尊敬を。「あなたを愛します」という心に「私はあなたにふさわしい」という想いを。


 正直、そこまで考えてパートナーを選んでいる者はかなり少ない。しかし憧れを捨てきれずにいる者も少なくなかった。シェイナもその一人だ。だけど、現実がそう甘いものでないということも知っていた。


「ま、私はそれでいいけどさ。キールは良いの?」


「……どういう意味?」


「さっき、キールはアンタを誘おうとしていたように見えた、って意味」


 思いがけない親友のことばに、思わず唖然としてしまう。


「冗談やめて。そんなことあるはずがないじゃない」


「どうして? キール本人でもないのに言い切れる?」


「言い切れるわ。マリアのドレスを一緒に買いに行くだなんて、マリアがパートナーに決まっているじゃない」


「二人は付き合っていない。親戚で、幼馴染ってだけ」


 どうしてか、今日はやけにルースが食い下がってくる。


「……ルース、なんだか変よ? それに、幼馴染だから一緒にドレスを買いに行くっていうのなら、どうしてウィリアムはいないの? 彼もマリアの幼馴染なのに。それが答えなのよ」


 そこまで言うと、やっとルースも反論し辛くなったようで、会話が中断した。そのまま、互いに無言で次の店に向かう。しかし、楽しくドレスを選ぶなんて気分にはなれそうにはなかった。



* * * * *



 こんなことを言うのはなんだが、シェイナは自分の現状に満足していた。たしかに、ルナシーでなかったら、と思うことはある。しかし、それでも自分は恵まれているということを自覚していた。


 ルナシーは忌み嫌われる存在。自分の家族からさえも疎まれ、蔑まれる者もいる。ルナシー故に与えられた力を制御できず、自ら命を絶つ者さえも。


 しかし、シェイナには自分を愛し守ってくれる家族も、理解し支えてくれる友人もいる。満月や新月の夜も、姿を変えはするが自我を失うことはない。ルナシーの中でも最も高い能力を持ち、そしてそれを操る術も心得ていた。


 もちろん、いくら特別な能力を持っていても、ルナシーであることに変わりはない。差別を受けたり、蔑まれたりしたことも、辛い思いをしたこともある。しかし、助けてくれる人間が必ずそばにいた。そしてここ七年ほどは、特に大きな問題もなく、穏やかに過ごせている。このままの状態が続けばいい。それ以外のことをシェイナは望んでいなかったし、より良い環境を得たいという積極性も持っていなかった。日常生活だけでなく、学業や自分の将来など、あらゆることに対しても。


 だから、シェイナにとって彼の存在は眩しかった。


 積極性はないにしても、元々真面目で勤勉な性格であったシェイナは、ルナシー故の能力の高さもあり、我武者羅な努力をしなくとも成績は常にトップだった。そんなシェイナに続いて常に次席をキープしていたのが、キール・ハーコートだ。


 容姿端麗で、少し長めの黒髪も野暮ったくはなく、清潔感がある。運動は少し苦手なようだが、頭がよく、紳士的。深い緑の瞳はいつも穏やかで、だけど授業中は真剣。当然のことながら、彼は先生からの評価はもちろん、女子生徒からの評価もかなり高かった。


 だが、シェイナは当初、彼のことが苦手だった。


 赤毛で地味な自分とはあまりにも違いすぎるし、何よりも、入学式の日に一人で泣いているところを見られたのが恥ずかしかった。


 学院に入学した日、シェイナは兄や友人たちと過ごせることに喜びを感じる一方で、不安に押し潰されそうになっていた。


 もし、この学院内で自分がルナシーだということを知られたら?


 フィバースの初代校長であるキャロライン・フィバースはルナシーだったと言われている。故に彼女の子孫であり現校長のレイチェル・フィバースもルナシーに理解があり、シェイナのことも受け入れてくれている。しかし、だからといってすべての職員・生徒がそうだとは限らない。世間でルナシーは疎まれ続け、危険視する者もいる。生徒の中にルナシーがいると知ったら、強く抗議してくる保護者もいるはずだ。だから、シェイナがルナシーであることは一部を除いて職員にさえ知らされておらず、行動にも気を付けなければならなかった。


 説明を受けたとき、申し訳なさそうに校長は謝罪してくれた。ルナシーもそうでない人間も、魔力を持つ者も持たない者も、自由に平等に学ぶことができる場を。それがキャロラインの理念であったのに、と。そんな彼女を責めることなどできなかった。


 七年間、いや、せめて二番目の兄であるショーンが卒業するまでの六年間、なんとか乗り切るしかない。


 今まで、そんなにも長い期間一つの場所に留まれたことはなかった。普通の生活を、という両親の希望もあり、ルナシーとその関係者だけの場所で安全に暮らさないかという知人の誘いを断って暮らしてきた。現実は厳しく、何度も引っ越した。


 でもそれは、兄たちがこの学校に入るまでのことだ。ここでは七年間、水準の高い本格的な教育を受ける。転校など簡単にはできない。今までのようにはいかないのだ。それが、ひどくプレッシャーだった。


 夕食の時間に新入生歓迎会が行われ、みんな楽しそうにしていたが、シェイナはそんな気分にはなれなかった。兄たちの目を盗み、静かなテラスに出る。すると、自然に涙が出てきた。不安に潰されそうで、苦しみの分だけ涙が出てくる。


 泣いたことはきっと、後で兄や幼馴染たちに悟られてしまう。それを避けたいと思いながらも、止めることはできなかった。ならばせめて、ここですっきりさせて、少しでも晴れやかな気持ちでみんなのところに戻ろう、そう思った時だった。


 背後から足音がして、慌ててハンカチで涙を拭う。まだ兄たちに見つかることはないだろう、と思っていたがどうやら甘かったらしい。何と説明しようか、と考えながらも観念して振り返れば、そこにいたのは兄でも幼馴染でもなかった。


予想外のことに、思考が止まる。


 男子にしては少し長めの、質の良い黒髪をした生徒。胸元の羽根ペンを模した銀色のバッジから察するに、同級生らしい。シェイナが泣いているとは思わなかったのだろう、深い緑の瞳は困惑し揺れていた。しかし、立ち去ろうとはしない。


 居心地が悪くて、シェイナは先にこの場を立ち去ろうとするもそれは叶わなかった。屋内へと続く扉へ向かうため彼とすれ違った際、腕を捕まれたのだ。


「……っ! なに?」


「……や、その……ごめん。泣いているのが、気になって」


 彼もよく考えず行動してしまったらしく、戸惑っているのが伝わってきた。しかしシェイナには彼と話している余裕などない。気まずいし、それに兄たちが、シェイナがいないことに気が付いて騒ぎ出す前に、顔を洗って会場に戻らなければ。


「……なんでもないわ。私、もう戻るから」


 そっけない口調になってしまったのは致し方ない。彼の手を振り払い、今度こそシェイナはその場を立ち去った。


 彼の名を知ったのは、その翌日だった。同じ魔法科の新入生で、成績はシェイナに次いで次席。整った顔立ちに、物腰も穏やかということで、彼、キール・ハーコートはすでに魔法科普通科問わずに女子生徒の注目を集めていた。そんな彼の存在はシェイナにとってあまりに眩しく、また、縁がないものだったし関わりたくなかった。多くの人に疎まれる存在であるシェイナは、彼に劣等感を抱かずにはいられなかったのだ。


 幸いなことにクラスが違っていたので、直接関わることもなく、彼の存在を避けて生活することができた。互いに活動が盛んなスポーツクラブに入らず、入学時の成績が良かったため寮の配属は同じになってしまったけれど、寮では兄たちと常に一緒であったため、問題はなかった。


 しかし、それは三年生になったときに終わる。初級の魔法を学び終えたら、成績順にクラスが分けられる。当然、次席の彼とは同じクラスになった。シェイナは今まで通り、自身の幼馴染であるルースやエリックたちと過ごし、彼とはできるだけ関わらないようにした。しかし、彼はそれを許してくれなかった。いったいどういう意図があるのかは分からないが、彼はよくシェイナに授業の内容を質問しにきた。次席の彼に教えられるのはシェイナしかクラスにはいないのだから致し方ないことなのだろうが、シェイナにとっては苦痛だった。


 彼は、良い成績を残そうと努力している。だが、自分はどうだ。たいした努力はしていない。優れた成績を残せるのは、ルナシーだから。一生懸命に努力している彼とは違うのだ。そのことが酷く恥ずかしかった。


 勉強のこと以外で彼と話したのは、三年生になってしばらくしてのこと。


 その日、シェイナは朝から体調が悪かった。体調不良などと知られたら、過保護な兄たちはきっと騒ぎ出す。しかし、兄たちは実習で不在だし、幼馴染たちもなにやら忙しそうだったのでいつものように一緒にいなかったから隠すのは簡単だった。でもだからといって寮にいればいつ同室のルースが戻ってくるか分からないので、シェイナは人気の少ない図書館の資料室で過ごすことにした。ここで本でも読みながら休んでいれば、少しは楽になるだろう。そう思って、何冊か本を読んだり、転寝をしたりしていると夕食の時間になっていた。


 そろそろ兄たちが実習から戻ってくる。いい加減に自分も寮に戻らなければ、そう思って立ち上がったが、不意に視界が歪む。身体を支えるため慌てて机に手を伸ばすが間に合わず、そのままシェイナの身体は床に叩きつけられた。


 ぼんやりとする。


 誰かが必死に自分の名前を呼んでいるのが聞こえる。兄たちや幼馴染たちとは違う声。でも、どこかで聞いた覚えがある。


 一体誰なんだろうか。


 妙な夢だ、と思いながら声の主の正体を考えていると、身体が揺さぶられるのを感じた。自分の名を呼ぶ声が大きくなる。相手は酷く焦っている様子だった。返事をしようにも声が出ないし、身体を動かすこともできない。どうしようかと考えているうちに、次第に身体を揺さぶっていた手が、今度はシェイナの肩を叩きはじめる。心なしか、呼びかける声も大きくなってくる。


 これは誰の声だろうか。知っている人物の声を片端から思い出してみる。すると、何人目かで心当たりのある人物に行き当たった。いや、しかしそんなまさか。


 とにかく確かめなければ。重たい瞼を懸命に持ち上げる。


「シェイナ!」


 大きな声で名を呼ばれ、意識がはっきりしてくる。どうやら自分は床に倒れているらしい。頭を声のした方に向ける。頭がぼんやりしていて、視界もはっきりしないが、相手が誰なのかは認識できた。


「……キール?」


 まさか本当に彼だったとは。しかし、どうして。


 状況を確かめるべく身体を起こそうとするも、酷い頭痛に襲われ、眩暈で力が抜ける。しかし再び床に叩きつけられる前に、キールがとっさに支えてくれた。


「頭を打っているかもしれないし、無理に動かない方が良い」


 そう言いながら、シェイナの身体を壁にもたれかけさせる。


「気分は?」


「……少し頭痛がするのと、……まだちょっとぼんやりしてる。でも、気持ちが悪いとか、そういったのはないわ」


 シェイナがそう答えると、彼は安心したように息を吐いた。


 彼が調べもののために資料室を訪れたら大きな音がして、何かと思って音のした方を覗いてみると、シェイナが倒れていたらしい。何度呼びかけても返事がなく、かなり焦ったと彼は力が抜けた表情で語った。


「ごめんなさい。でもキールがいてくれてよかった」


 ありがとう、と言うと彼は照れたようにはにかみ、無事で良かった、と返す。


「今日はゆっくり休んだ方が良い。すぐに保健医の先生を呼んでくるから、少し待ってて」


 そう言って立ち去ろうとする彼を、シェイナは慌てて引き留める。急に動いたせいでまた眩暈を起こしてしまったが、再びキールが支えてくれた。


「少し休んだら大丈夫だから、先生は呼ばないで」


「でも……、じゃあせめてお兄さんたち……って今日は校外実習か。なら、ルースかエリックを呼んでくる」


「いいから、誰も呼ばないで」


 倒れただなんて知られたら、大騒ぎになる。この間の夏休みに熱中症で倒れて以来、兄たちは今まで以上にシェイナの体調にひどく敏感になっていた。それに今回の体調不良の原因は分かっている。校外学習やら課題の提出締切やらで忙しかったのに加え、昨夜は満月だった。満月の夜はルナシーの能力の影響で脳が興奮するらしく、眠ることができない。いつもはそれに備えてできる限り事前に休息をとり、体調を整えているのだが、今回は万全ではなかった。そして、この結果。兄たちが知ったらどうなることか。無駄に心配をかけるわけにはいかない。


「……分かった。その代わり、落ち着くまではここで休んで」


「……ありがとう」


 キールに支えられながら起き上がり、資料室の奥にある長椅子に横になる。頭がくらくらしていたのが、少しましになった気がする。キールはというと、長椅子の近くにあった椅子に腰かけていた。どうやら、付き添ってくれるらしい。気恥ずかしいと思う気持ちはあったものの、また倒れるといった事態が起きた場合のことを考えるとありがたかった。


「ごめんね、キールも用事があったのに」


 わざわざ資料室に来たということは、課題か何かで調べるものがあったからだろう。自分のせいで随分と時間をとらせてしまった。


「ただ趣味のことでちょっと調べものしようと思っていただけだから、気にしないで」


「……趣味?」


 趣味でこんな資料室にあるような小難しい本を使うのか。そう首を傾げていると、彼は少し気恥ずかしそうに教えてくれた。


「薔薇をさ、育てているんだ」


「……薔薇?」


「そう、自分だけの新しい薔薇を咲かせてみたくて、植物学のワトソン先生に教えてもらいながら研究しているんだ」


 そう語る彼の目は、今まで見たことがないほどに輝いていた。本当に研究が好きなのだな、と伝わってくる。


「でも、どうして薔薇なの?」


 植物ならば、他にもあるだろうに。


「一年生の時の植物学の授業、覚えてる? この学校に薔薇がたくさん植えてある理由を先生が教えてくれたときのこと」


「ええ、覚えているわ」


 初代校長のキャロラインと、初代理事長のデイル・シェリンガムの愛の証。薔薇は色や大きさが異なれば、その花が持つ意味も異なる。二人はたくさんの種類の薔薇を揃え、互いの気持ちを育んでいった。また、薔薇は品種改良されたモノも多い。そして品種改良の末につくられた薔薇には、製作者の想いを込めた名前が付けられる。ただ敷地内に咲いているだけの薔薇にも、多くの物語が隠されているのだ。その話を聞いたとき、シェイナはおとぎ話の世界がそこにある気がしたのを今でも覚えている。そしてなんと、彼も同じことを思ったのだそうだ。


「男のくせに、って思われるかもしれない。でも、つくってみたいんだ。俺にしかつくれない、特別な薔薇を。自分にしかできないことをしてみたいと思ったんだ」


 そして彼は、薔薇の品種改良を成功させた実績もあるワトソン先生に頼み込んで、一年生の頃から研究を続けているらしい。


「……かっこいいな」


 思わず、そう口からもれた。


「私にはそうやって熱中できるものが何もないから、憧れる」


 これは素直な感想だ。以前から彼のまっすぐで努力家なところは、自分にはないもので眩しいと思っていた。そしてそれ故に苦手意識を持って見てしまっていたのだが、彼の話を聞いた今、素直に彼のように自分もなりたいと感じた。


「……そんな風にかっこいいとか言われるの、はじめてだから照れるな」


 嬉しそうにはにかみながら少し俯く彼は、普段の落ち着いた印象とは違っていて新鮮だった。大人っぽいイメージを持っていたのだが、同級生なんだな、と思う。


「みんないつも言っているわ。キールはかっこいい、って」


「それはさ、……自分で言うのはどうかとも思うけど、俺の表面だけを見た話だろう? 内面的なことを家族や先生以外に褒められたのははじめてだ」


 外見や成績、表面的なものしか見てもらえない。悪い扱いを受けているわけではないので文句は言えないが、うんざりしてしまうときもあると彼は苦笑した。


「だから、シェイナがかっこいい、って言ってくれたのが本当に嬉しいんだ」


「でも、マリアやウィリアムがいるじゃない」


 いつも彼と一緒にいる二人ならば、自分なんかよりもずっと、彼が望む言葉をくれるはずだ。シェイナが知りえない彼の姿を、何でも知っているに違いない。


「あいつらは俺を褒めたりなんてしないよ。まぁ、薔薇の研究するようになってからは、少しはマシな人間になった、って言ってもらえたけど。それだけ」


「……意外に手厳しいのね」


 ウィリアムはともかく、マリアはおっとりしていて優しいイメージがあったのでいまいち想像がつかない。


「普段は猫被っているからな。それに昔から知っている分、あいつらにとって俺は情けないイメージの方が強いんだよ。とくにマリアは親戚同士で家族みたいに育ってきたから、勝手に俺のことを弟みたいに思っているし」


「でも、そういうのっていいね」


 今こうしてキールと話しているのは、シェイナにとって奇跡に近いことだ。でも、マリアやウィリアムにとってはそれが日常なのだ。


「シェイナにだって、ルースやエリックがいるじゃないか。お兄さんたちも。俺からしたら、羨ましいよ」


「え?」


「絶対に邪魔者が入ることのできない強い絆があるって、見ていて分かる。みんながすごくシェイナを大事にしているし、シェイナもみんなを大事にしている。特別なんだな、ってずっと思ってた」


 自分ではあまり意識しなくなってきたが、確かに彼の言うとおりだ。ルースもエリックも、兄のエドワードとショーンも、シェイナをいつも大事にしてくれている。ルナシーだからということで、二度と傷付かないように。しかし、周囲からそういう風に見られているとは思わなかった。


「そうね、特別。お兄ちゃんたちは、いつも私を守ってくれる。だから私は、安心していられるの」


「でも、頼りきってはいないよな」


「……え?」


 思わず、上体を起こして彼を見る。彼も、深い緑の瞳をまっすぐシェイナに向けていた。


「気を悪くさせたらごめん。でもなんかシェイナって、いつも一人で無理している感じがする。今日もだし、入学式のときも……」


 周りには助けてくれる人たちがいるのに。


 そう問いかけてくる彼の眼差しは真剣で、適当に誤魔化すなんてことはできそうにはなかった。


「……情けなくて、恥ずかしいからよ」


「恥ずかしい?」


「みんな、私のことを考えて、私のことを大事にしてくれている。昔、虐められたことがあって、それから余計にお兄ちゃんたちは過保護になったわ。私が怪我をしないように、体調を崩さないように、傷つかないように、いろんなことをしてくれる。でも、私は何も返せていない。いつも巻き込んでばかり。対等になりたいのに、なれなくて、せめてできるだけ弱いところを見せたくないって思うの」


 しかし、だからといって兄たちのように強くなれる訳でもない。こっそり我慢して、弱さを隠すことしかできない。そんなことをしても、すぐに見破られてしまうと分かっているけれど、それをやめることはできなかった。


「入学式の日は、これからこの学校でちゃんとやっていけるのか不安だったのよ。お兄ちゃんたちに、また迷惑ばっかりかけてしまわないか、って」


 自分のせいで、兄たちや親友たちがやりたいことを我慢してしまわないか、傷付いてしまったりしないか、それがたまらなく心配だった。


「……詳しい事情はよく知らないけど、そこまで気にしなくてもいいんじゃないか?」


「え?」


「だって、先輩たちの方がいろんなことを先に勉強しているんだから、困ったことがあったら頼りにするのが当然だし、敵わないことがあるのだって仕方がない。妹なんだし、甘えていたら良いんだよ。先輩たちもきっと、シェイナを甘やかしたいと思っているだろうし。その代わり、いつか……、例えば大人になったときとか、先輩たちが助けを求めてきたときに支えてあげたり、先輩たちにしてもらって嬉しかったことを誰かにしてあげたりしたら良いと思う。俺たちは、ずっとそうしている」


 今まで、そんな風に考えたことなどなかった。自分は迷惑をかける存在でしかないし、これからもそうなのだとずっと思ってきたシェイナにとって、彼の言葉は衝撃的だった。


「……私がお兄ちゃんたちの役に立つ日なんてくるかな?」


「くるさ、いつか必ず」


 自信たっぷりにそう言い切る彼に、心が軽くなる。彼の言うことを信じてみたい。


「例えば?」


「そうだな……。例えば、上のお兄さんは五年生だろ? もうすぐ今年最初のダンスパーティーがあるから、誰か気になっている人を誘いたいと思うかもしれない。でもどうやって誘えば良いのか、どんな薔薇を贈れば良いのか分からない。そしたらシェイナの出番だ」


 彼の話を聞きながら、その場面を想像する。


「そんな日がきたら、全力で応援するわ!」


 思わず意気込んでこたえると同時に、気持ちが軽くなった。


「やっぱり、キールはすごいね」


 改めてそう言えばそんなことないと謙遜されるが、やはり彼はすごいと思う。同い年なのに考え方が大人と言うか、芯がしっかりしていて、物事をいろんな視点から見ることができる人なのだろう。見習わなければ、と素直に思う。そして同時に、いつの間にか彼に対する苦手意識は薄れ、近づきたい、という気持ちが生まれてきた事実をシェイナは無視することができなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ