第二十一話 中宮3
その晩私は女孺がいる寝所を抜け出し中宮さまのいる弘徽殿に忍び込む。
幸い部屋つきの女房は夢かうつつか居眠りをしていた。
「失礼致します」
小声で中に入ると中宮さまが薄絹の衣をまとい敷布の上で待っていた。
「まあ本当に来てくれたのね」
彼女は手を合わせると嬉しそうに微笑む。
「今日は楽しみで全然眠れなかったわ。でも本当に来てくれて嬉しいわ」
興奮ぎみの口調で私を歓迎してくれたはいいが。
「中宮さま声を小さく」
「あらそうだったわね」
こほんと咳払いをして中宮さまは改めて小声で話しかける。
「それで私の計画ですとここ弘徽殿を抜け出して紫宸殿に忍び込む予定です」
「紫宸殿ですか」
紫宸殿は重大行事が執り行われる場所だ。
本来は大極殿で行われたものが火事によって焼失し今は紫宸殿で行われるのが通例とされる。
「しっ。あまり大声を出さないで」
今度は私が窘められた。
「では忍び込むだけですよ」
実のところ私も紫宸殿には行ったことがなかった。
でも位置は知っているので案内することは可能だ。
「夜中の内裏ってこんなにも静かなのね」
辺りはしんとして物音ひとつしなかった。
静謐とした空間に私たちの足音だけが響く。
とたとたと歩いていると突然奥から人の話し声が聞こえる。
宿直のものだろう。
「ふわあ。しかし宿直って暇だな」
「ここのところ大事件は起きていないしここは安全だからな」
のんきな会話が聞こえる。宿直のものたちは暇をもて余しているようだった。
「おいお前ら退屈なのはわかるが決して寝るなよ」
一番偉い宿直のものが叱咤するがあまり効果は無さそうだった。
「まずはここを掻い潜らないと行けないわね」
灯りを片手になるべく足音がたたないように部屋の前を通る。
これが意外と難しかった。
「誰だっ」
まずい宿直のものに見つかったか。
仕方がないので近くにあった空き部屋に隠れる。
そこは書類が保管されているところだった。
「よかった見つからなくて」
私が安堵すると中宮さまはふふっと笑った。
「なんだか子供の頃に戻ったようで楽しいわ」
「私は見つからないか気が気でなりません」
楽しそうな中宮さまと冷や汗を流しながらも紫宸殿に向かう。
ここは大事な儀式が行われる場所だからもののけの類いはいないだろう。
だが万が一ということもある。
夜盗が忍び込むことも考えると安心してもいられなかった。
「伊勢、紫宸殿まであとどれくらいかしら」
「あともう少しですよ」
普段歩きなれていない中宮さまをを連れて散歩ともなるといつもよりゆっくりと歩く他なかった。
彼女のほっそりとした足では紫宸殿まではかなりの時間がかかる。
「でもこんなに楽しいのは久々ね」
小さな声で中宮さまは話す。
「いつもは部屋にこもりきりだから新鮮でいいわ」
彼女はいつも弘徽殿にこもりきりな上に女房たちが常に目を光らせている。
身分の高い人たちにはそれなりの悩みがあるのだろう。
「ごらん。星がきれいよ」
彼女に言われ私も空を見上げる。
「なんだかいつもより輝いて見えるわ」
「そうですね。夜空がきれいです」
「ふふっ伊勢も喜んでくれて嬉しいわ」
しばらく星を眺めていた。
私は星に詳しくなかったがそれでも見つめているだけでじんわりと来るものがある。
ただただ美しいのだ。
俗世の憂いも忘れてどこか遠くにあるあの星に手を伸ばしたくなる。
どんなに必死に手を伸ばしても届かないところにあると分かっていてもあの美しさに惹かれるものがある。
「伊勢、私たちってこの星空に似ていないかしら」
「たとえひとりぼっちでもきれいに輝く星たちに」
彼女は心のうちに孤独を抱えているのだろうか。
考えてみればそうだ。
親元を離れて今は後宮暮らし。
身分の高さゆえか自由に移動することもままならない。
血を分けた妹は亀山殿に嫁ぎ会いたくてもなかなか会えない。
「中宮さまは一人ではありませんよ」
私がいるじゃないですかと笑いかける。すると中宮さまは顔を綻ばせてこちらを見つめる。
「そうね。私にはあなたもいるし世話をしてくれる女房もいる。家族にはなかなか会えないけれど帝だっていらっしゃるものね」
思い詰めたものが一気になくなったみたいに無邪気な笑みを浮かべていた。
「さて紫宸殿に着いたわね」
話ながら歩いていたせいかたどり着くのは思ったよりも早く感じられた。
「この様子だともののけはいなそうね」
せっかく肝試しに来たのにと小さく笑う。
「まだ油断はできませんよ」
おそらく紫宸殿は清められた空間だからもののけの類いは出ないだろうが万が一ということもある。
それに人が忍び込んだらと思うと気を抜けない。
「まあ伊勢は慎重なのね。せっかく抜け出したのだから楽しまないと」
「中宮さま目的が変わっています」
もののけが見たいとおっしゃっていたではありませんかと付け足すと彼女は悪戯っぽく笑った。
「自由っていいわね」
開放的になったのかとてとてと中宮さまは駆け出す。
「待ってください」
その先になにか違和感を覚えたのだった。
灯りは私が持っている。そして便りになるのは月の光だけ。
敵がやってきたとしたらまずい。
「東海神、西海神、南海神、北海神、四海の大神……」
呪符を構えて詠唱を始める。
「待てっ」
男の低い声がする。野盗か。
「おい、浅黄っ」
どうして相手が自分の名前を知っているのだろうと疑問に抱く。
しかしよくよく考えればそれは当然で。見知った顔がこちらの口を塞ぐ。
「成王……」
「しっ。彼女に気がつかれる」
成王丸はヒソヒソ声で注意する。幸か不幸か中宮さまは闇のなかで迷ってしまったらしい。
「伊勢、どこかしら。私迷ってしまったみたいなの」
「今、参ります」
私も急いで彼女の方へと近寄る。
だが不運にも成王丸の影が見えたようで。
「きゃあっ。何者かがいるわ」
「ちっ」
成王丸は私に合図を送る。
どうやら退治しろということらしい。
「仕方ないですね」
「伊勢、もののけの退治ができるのかしら」
期待に満ちた瞳で見つめられると成王丸に申し訳がなかったが退魔の呪術を詠唱することにした。
「東海神、西海神、南海神、北海神、四海の大神、千鬼を退け災禍を打ち祓いたまえ。急急如律令」
呪符を投げつけると成王丸が痛たいと呟くのが聞こえた。
「これでもののけを追い払うことができたのね」
「はい」
正確にはもののけではなくただの人間だったが。
だが二人を守るためにももののけということにしておいた方が都合がいい。
(ごめんなさい成王丸)
呪符を投げつけられた成王丸は哀れっぽい声をあげてからそそくさと出ていった。
犬神人だけあってさすがの身のこなしで中宮さまは気がつかなかったようだ。
だが傷つけてしまったのは気の毒だった。
「ありがとう伊勢、あなたがいなかったら私が襲われているところだったわ」
「いえ」
彼女のなかで私の株が上がったのはよいことだがどことなく後ろめたい。
後で成王丸に謝っておこう。
そう決心するのであった。
「では中宮さまもうこれ以上は危険なので早く帰りましょう」
「そうね。あなたのお陰でどうにか乗り切ることができたし」
素直な性格らしく中宮さまはうなずくと私たちはもときた道を引き返した。
もうこのときには夜が更けていて急いで戻ることにした。
忍び足で戻ると部屋つきの女房はまだ夢の中でひとまずほっとした。
「ではまた明日」
中宮さまが布団に入ったことを確認すると私は女孺の寝所に戻った。
それにしてもはらはらする肝試しだった。
冬の風は冷たいが緊張で火照った体を冷ますのにはちょうどよかった。




