第一話 弦売りの男
弘安の役が起きた年のことだった。侍たちは九州へ向かっており戦争の予感に皆が震えていた。
そんななか私たちは青墓から京までの道のりを歩き、巫女としての仕事をこなしていた。
「弦召し候へ」
京の町を歩いていると柿染めの衣に顔を白い布で覆った男が声をかけてきた。
つるめそだと母が教えてくれた。
「つるめそとは何でございましょうか」
「ああして弓の弦を売っているもののことです」
母はすこし困ったように答えた。他にも何か意味があるのだと私は悟った。
「誰が弦を買うのでしょう」
幼い私は疑問に思い母にそう尋ねる。
「お武家さまが買うだけでなく綿を打つために買う者もいるとのこと」
母は早口になりそう付け足した。
「綿を打つのですか」
「はい。彼らが糸を引くことで織物ができるのですよ」
なるほどと私はうなずいた。
「さあ浅黄行きますよ」
母は私の手を引き先へと進む。
「母さま浅黄も弦がほしいです」
無理矢理口にした一言に母は驚いた様子だった。
「私たちが買っても何にも使えませんよ」
「それでもほしいのです」
母にとっては都合の悪いことだったのか彼女は眉を寄せ思案していた。
「浅黄あちらの風車はいかが」
「ええっ」
それは綺麗にくるくると回り子供にとっては宝物のようなきらきらと輝く存在だった。だが私がほしいのはそんなものではない。
「仕方がないわね」
私の子供じみた返事に母は笑った。
「弦をひとつ頂戴」
「あい」
銅銭で代金を払いその弦が私に手渡される。
「ありがとう母さま」
私がにっこり笑うと母はやさしく頭を撫でてくれた。
「大事にするのよ」
「はい大切にします」
そうして私の手には男が売っていた弦が握られた。
それを大事に巾着にしまう。
なんだかふわふわした気分だった。一生の宝物を手にいれたような。
「それから母から一言あります」
「何でしょう」
私は首をかしげる。玉結びにした髪型がそれと同時に揺れる。
「母さまがいないところで何か困ったことがあったら……」
「母さまは今ここにいらっしゃいますよ」
「でもずっとそばにいられるわけではありません」
「そうなのですか」
母がいなくなる。それを考えるとじわりと眦に涙が浮かんだ。
「母さまがいなくなったらなんて考えるだけでも嫌です」
「だけど万が一と言うこともあります」
そう呟く姿にはどこか慈愛を感じさせるものがあった。
「そのときは彼らを頼りなさい」
「彼ら、というのは」
「先ほどのつるめそですよ」
あの顔を布で隠している男のことだろうか。
「でも浅黄なんだか彼らのことが怖いです」
先ほどまでは何とも感じていなかったがよくよく見れば顔ははっきりしないし衣服も赤い衣を身にまとっていて独特な格好をしている。
人を見た目で判断するのはよくないがどうしてもなにか不穏なものを感じ取ってしまうのだ。
「怖いというのが普通の感性よ。だから困ったときは彼らに頼るの」
「怖い人に頼るのですか」
「はいそうです。浅黄にはそれができますね」
矛盾したことを言われている気がしたが私は素直に母に従った。
「はい。わかりました。母さまがいないときになにか困ったことがあったら浅黄は彼らに頼ります」
「よくできましたね」
母はふふっと笑った。目尻にシワがより愛嬌のある表情になる。若い頃はさぞきれいだったのだろう。母に懸想する男もかつてはいたらしい。
それを断って彼女は独り身で私を産み育ててくれた。父の顔は知らない。だけどそれ以上に母がいつもそばにいてくれたから私は気にしたことはなかった。優しい母の愛情に私は満足していたのだった。
それから九年がたつ。弘安の役が終わり辺りは浪人で溢れ帰っていた。
戦争が終わり平和になったはいいが武家は没落していった。ここ京の町も例外ではない。
幕府が設置した六波羅は京の治安維持に乗り出していたがそれでも殺人や人さらいは減るものではなかった。
(でも仕方がないわよね)
うらぶれた雰囲気のする路地裏にはなるべくなら近づきたくなかった。
だがそこには私の目的とする相手がいた。
私はあのときと同じようにつるめそに声をかける。
「弦をひとつくださいな」
「あい」
男は無愛想にうなずくと銅銭を催促するように手のひらを差し出してきた。
「そしてもうひとつ。私の願いを聞いてくださいますか」
「なんだ」
男はぼそりと返事をする。辛うじて布に隠れていない部分からは眼光鋭い男の視線が向けられる。
「それならもうひとつ買ってくれ」
私は懐から銅銭をいくつか取り出す。
「これで足りるかしら」
「ああ十分だ」
男は深くうなずくと一人立ち上がる。
「犬神人と契約を交わすのははじめてか」
「犬神人って?」
「俺みたいに柿染めの衣に顔を白い布で隠している人間のことだよ」
生まれてはじめて知ることに私は戸惑った。
母はつるめそと言っていたけど彼らは犬神人を名乗っている。
それが母があのとき伝えてくれなかった秘密なのだろうか。
「まあいい。代金はあとから支払ってもらうからな」
男は鼻をならすと私の腕を引いていく。あのときの母とは違った武骨な手のひらだった。
「私の願い聞いてくれますか」
「ああ二度も言う必要はない」
男は低く笑った。
「なにかおかしいのでしょうか」
「お前みたいな年端もいかない女がこの俺に頼み事とは。相当困っているんだなと思ったらおかしくてな」
「どこが」
「お前は知らないだろうが俺は祇園に雇われた人間だ。困ったやつらなら色々見てきたがついにガキまで仕事を持ってくるとは。お前身分が高いのか」
「いえ母が歩き巫女をしていて」
「ああそれで合点がいった」
「痴情のもつれということだな」
「相手はお公家かお武家か。それにしても若いのに随分と……」
男がじろじろ見てくるので私は体を腕で守るようにする。
「あなたが考えているような下世話な話ではありません」
「ほうじゃあ次はなんだ。実は有名な貴族の隠し子だったとか」
「いえそれがわからないのです」
「わからないと言われたら話が進まないな」
母を亡くしてから三年。
歩き巫女をしていた彼女とは様々な場所に足を運んだ。青墓や橋本、そしてここ京。
母は優秀な巫女だったが私にはその力があるのかさえもわからない。巫女に必要な祝詞や呪術を習っただけで実際使ったことはほとんどない。
「まあいい。とりあえずお前がいる宿に向かうぞ」
男は強引に腕を引いてくる。
「何をするんですか」
「とりあえずお前には食事をおごってもらうぞ」
「この暑い中商売をやっていたら体力がなくなっちまう」
かくして私と犬神人との契約が始まろうとしていた。