第4章 目覚め 1
かっ、かん、かつんと中庭に音が響く。
早朝、漠新弥ことバニーは、ジャンヌやセシルに稽古をつけてもらっていた。今は、ジャンヌを相手取り、木剣を打ち合わせている。
バニーとジャンヌは、丈の短い麻のチュニックにズボンを穿いていた。
二人が木剣を打ち合う様子を見ているセシルは、革ズボンにブーツを履き、薄花色をした丈の短いチュニックを金属のベルトで締めた、戦士風の格好をしていた。
周囲を山々に囲まれた屋敷がある高台を中心に広がった綺麗な町並みに、爽やかな陽射しが燦々と降り注いでいた。気持ちのいい空気が、周囲を満たしていた。そんな中、バニーは汗を流していた。
バニーが打ち込むと、的確にジャンヌは木剣で受け止める。ジャンヌは凜然とした美しい顔に真剣な表情を浮かべながらも、その構えには余裕があった。それとは正反対に、バニーはがむしゃらに木剣を振るう。
「バニー殿、今はともかく剣を振るうことに慣れてください」
セシルは、そうアドバイスを送る。
いかにも、バニーが木剣を振るう様は、素人であることが丸出しだった。
ジャンヌとセシルの意見は一致していた。ともかく、バニーは基本的な剣の扱いをできるようになることとその体力をつけることが、先決だった。
バニーは、一心不乱に木剣を振るう。
それを、ジャンヌは軽々と受け止めるか弾く。
本気でバニーは打ち込んでいるというのに、全く相手になっていない。まるきり、大人が子供をいなしているようなものだ。
こうして相手してみて、いかにジャンヌが強いのかよく分かる。いや、自分が弱すぎるのかと、バニーは自嘲した。
ジャンヌばかりでなく、先ほどまで相手をしてくれていたセシルにも、同様の有様だった。
一昨日の午後、レノアに稽古をつけられたときには、ともかく剣の動きを見るように言われた。ほんのさわりを教えられただけで、まともに打ち合っていない。だが、ちょっとした動きに洗練された技を感じさせるレノアも、ジャンヌやセシルと似たようなものだろうと、バニーは思った。
二人が朝早くバニーの相手をしているのは、昨夜バニーがレノアに頼み込んだからだ。午後からは、バニーをレノアが鍛えるため、朝はジャンヌとセシルが見ることとなった。
レノアは、従者としてバニーが最低限戦場で立ち回れればいいと考えているようだったが、バニーがやる気になったことは喜んでいた。
バニーは、レノアたちが凶悪な魔人の脅威に立ち向かっていることを知り、ジャンヌが活躍する姿を見て、このままの自分ではいけないと強く思った。
この世界に骨を埋めようとまでは思っていないが、帰る算段もない。戻れない可能性が、大きいのだ。
この世界にいる限り戦いからは逃れられない。なら、少しでも自分を鍛えるしかなかった。バニーは、ジャンヌのように異能を使えない。異界の勇者が発現できる能力であるが、凡人の自分には無理だとバニーは想う。
異能を抜きにしても、ジャンヌは優れた剣士だ。元の世界で英雄にして聖女だった彼女は、自力からして新弥とは大違いだ。
なあ、せめてまともに自分も戦えるようになりたいと思う。
ジャンヌやレノアやセシルといった少女たちが、あのような恐ろしい化け物――魔人と戦っているのだ。自分は男であるのに、なんて情けないのだろうと思えてくる。
戦いなどこれまで無縁だったバニーがいかに足掻こうと彼女らに追い付けないのかも知れないが、それでも足手まといになりたくなかった。レノアに従者をするように言われ馬鹿にしているのかと反発心を抱いていたが、このままではそれも務まりそうもなかった。
このフェルナージアという世界では、今のバニーに存在価値はなかった。
それが、バニーはとても嫌だった。
だから、少しでも強くなりたいと思う。
必死に木剣を打ち込んでいると、不意にジャンヌが仕掛けてきた。基本的にジャンヌやセシルは受けるだけだが、ときおり攻撃をしてくる。
身体ごとすっとスピードの乗った一撃が来る。
咄嗟に、バニーは木剣を立てた。
かん――音が鳴る。
「ちゃんと反応できてますね」
にこりと、ジャンヌは笑んだ。
「ど、どうにか」
笑う余裕のないバニーは、木剣を構え直す。
再び、ジャンヌへ無心に打ち込んでいく。
「バニー殿、全力で打ち込んでください」
セシルから、そう指示が飛んできた。
「はっ」
短い気合いの声を発し、バニーは木剣を突き入れる。
ジャンヌは、鋭く手元を閃かせた。鋭く木剣が振るわれる。
バニーには、全く見えなかった。
次の瞬間には、カランと遠くで音がした。
バニーの木剣が打ち上げられ手から離れ、地面に落ちたのだ。
「はぁはぁはぁ――」
上がった息を、バニーは整える。
汗が首筋から胸へと流れる。
目の前のジャンヌは、汗一つかいておらず息も乱していない。
少し悔しくバニーは想う。
「剣の稽古はこれくらいにしましょう。レノア様から、バニー殿やジャンヌ殿に魔術を見せて欲しいと言われましたので、休憩がてら見ていてください」
そう言うと、セシルはすっと木剣を持ち上げた。
薄紅色の唇に、その言葉を乗せた。
「風の斬刃」
一言そう口にすると、差し出された木剣が緑色の光を発する。
ヒュッと風が鳴ったように、バニーの耳には聞こえた。
すると、離れた木の枝が、鋭利な刃物に切り裂かれたように地面に落ちた。
「今のが、魔術……」
ぽかんとバニーは呟く。
まるきりファンタジー小説か映画に登場する、魔法そのものだった。
「レノア殿も不思議な技を使われますが、それが魔術なのですね」
ジャンヌも、興味深そうにそう口にする。
「レノア様が使われるのは聖技といい、信仰心によって超常の力を得ます。対してわたくしが使用する魔術は、己の中にある魔力を用います。種族により適性があり、エルフの血を引くわたくしは比較的簡単に使用できます」
簡単に、セシルが説明をしてくれた。
「信仰の力で」
不思議そうな顔を、ジャンヌはした。
元の世界では、敬虔なキリスト教徒だったジャンヌであるので、信仰によってそのような直接的に力が顕れることがしっくりこないのだろう。
「本当に異世界だよな」
バニーは、未だ冗談のようにそのような力を感じている部分がある。
だが、この世界では現実に聖技や魔術といったものが存在するのだ。
「今のは中級技です。さて魔術はこれくらいにして、乗馬をやりましょうか」
にこやかな笑みを細やかに整った美貌に、セシルは浮かべた。
「は、はい」
少し引き攣った顔をしたが、それでもバニーは表情にやる気を漲らせた。
バニーは、へとへとになるまで絞られた。
「お疲れ様です、バニー」
苦笑を浮かべ、ジャンヌはバニーを見下ろしていた。
朝の鍛錬が終わり、馬を厩舎に戻しに行ったセシルとは別れた。
今は、オブジェのような形をした地下水が湧き出す屋外の手洗い場に、バニーはへたり込んでいた。
大きな四角い大理石に水を貯め、上に円形をした大きな緑色をした瑪瑙が据え付けられている。シュティーミル伯爵家の屋敷に、ちょっとしたアクセントを与えていた。
貯水のための大理石の壁面に、バニーは背を預けている。
剣の稽古に引き続き、乗馬の練習だ。
平和な日本に暮らし、中学時代やっていテニス部も去年の夏休みで辞めてから碌に身体を動かしていなかったバニーは、かなり堪えた。
暫く、動けそうにもなかった。
案外、ジャンヌもセシルも容赦がないと、バニーは思う。
涼しい顔をしているジャンヌを、少し怨めしげに見てしまう。
ともかくこの二人は、習うより慣れろで身体を酷使させてくる。レノアの鍛錬が、いかに楽だったか分かる。少なくとも、レノアは理屈を教えてくれた。
尤も二人にとってはこのくらい身体を動かすことは、当たり前なことなのかも知れないが。
元の世界で科学が発展した時代に生きていたバニーは、かなり楽をしてきた。中世の環境で生きてきたジャンヌやセシルとは、自ずと身体の鍛えられ方が違う。
「い、いえ。僕なんかに付き合ってもらって、ありがとうございました」
口に出しては、そうバニーは礼を言う。
まだ、汗が止まらない。呼吸も乱れていた。
身体の節々が痛む。特に乗馬の訓練で馬を股で挟み込んでいたため、太股の内側が熱を持ったようにじんじんとしていた。
「バニーは、元の世界では貴族か商家だったのですか?」
バニーの様子を観察しながら、ジャンヌはそう尋ねた。
「どうしてそう思うんですか?」
「あまり身体を動かして労働をしたことがない方のように、見えますから。そのような方は、貴族か金持ちの商人だけです」
別に責めているわけではなく、ジャンヌは思ったことを口にしたようだ。
「僕の国には、貴族とかは存在しません」
苦笑しつつ、バニーは答えた。
中世に生きていたジャンヌの感覚からすれば、バニーのように身体をあまり動かしていないように見える者は、貴族や商人くらいなのだろう。それだけ、自分が軟弱に見えるということかと、情けなくなく。
「僕の時代は科学が発展していますから、ある程度人がすることを肩代わりしてくれるんですよ。別に、僕の家が貴族だとか大商人だとかじゃありません。僕の国では戦いもありませんでしたから、一般人は戦闘とは全く無縁なんです」
このフェルナージアという異世界にやって来て、中世といっていい風景を眼下の町に眺めていたバニーは、人々の生活は馬があるくらいで全て人の手で行われていることを知った。井戸で汲んだ水を、バケツで家に運んでいたりだとか。それを子供がやっていることもあったり、日本に暮らしていたバニーとは自ずと鍛えられ方が違うのだ。
「戦いがないのですか?」
驚いたような顔を、ジャンヌはした。
「少なくとも、僕が生まれてからは戦いはありませんでした」
バニーが生きてきた間、日本が戦争に巻き込まれることはなかった。
「それは、とても素晴らしいことですね」
凜然とした美貌を、ジャンヌは輝かした。
「まぁ、色々と問題はありますけど」
一口で素晴らしいとは言えないと思いながら、過酷な生き方をしなければならない時代や国を思えば、否定はできない。
ジャンヌと話しているうちに、大分呼吸が落ち着いてきた。
女の子のジャンヌは平気なのに、男の自分が情けないとバニーは思ってしまう。
背中を預けていた手洗い場から、身体を起こす。
いつまでもへばってはいられない。
顔でも洗ってすっきりしようと、バニーは思った。
滾々と湧き出る地下水はとても澄んでいて、美味しそうだった。
喉が渇いていたので、手で救い一口飲んだ。
すっと、バニーの身体に吸い込まれていき、疲労を和らがせる。
地下水は冷たく、気持ちよかった。
手桶に水を満たし、バニーは頭からかぶった。
大分、すっきりした。
だらだら流れていた汗も、大分引いてきた。
そのとき、バニーの様子を見計らっていたのか、ジャンヌが話しかけてきた。
「バニーは、あちらの世界でわたしよりもあとの時代に生きていたと言っていました。わたしは知りたい。イングランドとの戦いはどうなったのか……そして、わたしはどうなったのか」
ジャンヌは、物憂げな表情を凜然とした美貌に浮かべ、そう尋ねてきた。緑色の瞳は、悲しげに曇っていた。
「……それは……」
バニーは、まっすぐジャンヌを見詰めた。
咄嗟に、どう言っていいのか分からなかった。
ジャンヌの生涯を思うと、バニーはもの悲しい気持ちになる。
「バニー」
そう呼びかけるジャンヌの目は、真剣味を帯びていた。
ジャンヌが聞きたいのは、真実なのだと分かる。
バニーも黙っているわけにはいかない。
「ジャンヌの活躍でフランスは滅びることなく、イングランドに勝利しました」
慎重に言葉を選びながら、バニーは話した。
「僕の時代でジャンヌは、その名を知らない者がいない聖女です」
言えない――。
ジャンヌがどのような最後を迎えたのか。
バニーは、奥歯をギュッと噛み締めた。
目の前の少女は、レノアがフェルナージアに召喚しなければ、残酷な運命に絡め取られていたのだ。
火刑に処せられ、その身を焼かれていた。その上、復活を恐れた教会によって、灰になるまで燃やし尽くされた。その灰は、セーヌ川に流される徹底ぶりだった。遺体を聖遺物などにされないために。
ジャンヌが火刑に処せられた二五年後、復権裁判によって聖人の一人とされるまで名誉はなかったのだ。
「バニーは、優しいのですね」
儚げに、ジャンヌは微笑んだ。
まるでこの場からいなくなってしまいそうなほど、透明な笑み。
「わたしは、どのように死んでいったのか分かっています。この世界に来る直前、わたしは火刑台にいたのです」
ジャンヌの美貌は、悲しげに曇った。
その表情は、全てを悟っているようだった。
「…………」
それを見て、バニーは何も言えなかった。
少なくとも、自分の口からジャンヌの最後を確定付けるようなことは、言いたくなかった。
だから、こう言った。
「僕の知る未来は違っているのかも知れない。だって、ジャンヌは火刑台からこの世界に来たんだから。これが、ジャンヌ・ダルクに待ち受けていた未来だと僕は思います」
決して、ジャンヌは死んでいない。
現にこうしてバニーの目の前にいるのだ。生きて。
潤んだ緑色の瞳を、バニーはじっと見詰めた。
「ふふ。やっぱり、バニーは優しいですね」
にこりと、ジャンヌは笑った。
その様は、春の陽射しが零れるようだった。
眩しく、バニーの目に映った。
「事実です」
力を込めて、バニーはそう言った。
そう、ジャンヌは生きてこのフェルナージアにいる。未来がどうのこうのなど、バニーには知ったことではなかった。今の現実が大切なのだと、強くバニーは思う。
だから、自分もこの世界にいる限りは、精一杯生きていこうと決意を新たにした。
「バニーがそう言うのでしたら、そう思うことにします」
薄らと赤みを帯びたジャンヌの美貌は、とても美しかった。
「現にジャンヌはここにいるんですから、事実ですよ」
「ふふ」
バニーの言葉に、ジャンヌはくすぐったそうに笑った。
「でも、バニーに誤魔化されたような気がします」
ジャンヌは、顔を寄せバニーの瞳を覗き込んできた。
悪戯っぽい表情を浮かべている。
「そ、そんなことはありませんよ」
少々、バニーは慌てた。
ジャンヌの身体が近づいたことと、見透かされているような雰囲気に。
「そろそろ、屋敷に戻りましょう。朝食ができているはずです」
そう言うと、さっとジャンヌはバニーから身体を離した。