ブラッシュ・ランブラー城館で起こったこと/去り行く乗合馬車
シャルロットは、驚愕に目を見開いたスターリング男爵の姿を見て、自分の推測が間違っていなかったことを悟った。
「な、何を言っている、貴様……この私を、そのような犯罪者と同一人として扱うとは……!」
動揺に声を震わせる男爵に、シャルロットはたたみかける。
「あなたの身に宿る『福音』がどのようなものかは、ある人から聞いて知っているわ。帆も人力もなしで、船を自由自在に動かせる能力だそうね?
そして、始末屋ヨシフという、あらゆる犯罪の証拠を始末することを仕事にしている犯罪者のことを聞いた時、ふと思ったの。きっとヨシフは、スターリング男爵のような超能力を持つ人物なんじゃないか、とね。
だってそうでしょう? 誰の手伝いも必要とせず、たったひとりで遠い沖へ船を出せる『福音使い』。そんな人物であれば、どんな証拠品でも、完璧に、二度と見つからないように始末できるわよね。岸から離れた海の底に、だぁれも手を届かせることのできない深海に、証拠品を放り込んでしまえば、それで済むのだもの。錘をつけて、浮き上がったりしないようにすれば、なお完璧……どう? とても安全で、簡単で、解決不可能な犯罪に思えない?」
口元だけを綻ばせる、蛇のような笑顔が、男爵に向けられる。彼が生唾を飲み込み、「しかし、それだけで」と言いかけたところで、シャルロットはかぶせるように言葉を続けた。
「ああ、もちろんそれだけで、あなたをヨシフと呼ぶわけではないわ。彼は証拠を始末する方法は、もっと違った能力を使ったものなのかも知れないし、それどころか『福音』を使わず、知恵と工夫だけでどうにかしているのかも知れない。ただ同じことができるからって、あなたをヨシフと呼ぶのは、確かに乱暴ね。
……でも、あなたはブルガリー・ヨハネスを、ブラッシュ・ランブラー城館から逃がすようなことをしているし……」
「何だと?」
「ヨハネスを、ブラッシュ・ランブラー城館から逃がしたのは、あなた。そうでなければ、ヨハネスの不自然な行動の理由が説明できない。
もし『聖水』を盗むことが目的だったら、一度ヴィッツ伯爵に届けてから、夜中に逃げ出すなんて不自然なことはしない。あらかじめ、本物の『聖水』をどこかに隠しておいて、偽の『聖水』を届ければいいんだもの。あとで『聖水』が偽物だと露見しても、どの時点で偽物にすり替わったのかわからなければ、ヨハネスは罪には問われない。たった一回試すだけなら、それほど危険な賭けでもなかったはずなの。もちろん、伯爵を殺す必要もまったくなかった。
では、帝国騎士団が家宅捜索に入り、これまでに行なっていた犯罪の証拠を掴まれたことを悟って、慌てて逃げ出したのか? それもおかしいわ。アンペルバールでの帝国騎士団の動きを、ノースクラヴィスにいたヨハネスが掴める道理なんてないし、帝国騎士団から協力を要請されていたヴィッツ伯爵にしても、充分に注意を払っていただろうから、相手に悟られるなんて不手際は犯さなかったはず。
では、何が起きたのか?
答えはひとつ。ヨハネスに、逃げろと言った人間がいた。ヨハネスが捕まれば、彼の口から、犯罪者ヨシフとしての自分の正体が暴かれてしまうと考えた人物が、ヨハネスが捕まらないように手を打った」
「……………………」
「その人物は、ヴィッツ伯爵から、ヨハネスが逮捕されるということを聞いていた。伯爵は、帝国騎士団団長から、家宅捜索中にヨハネスが帰ってこないように、引き止めておいて欲しいという依頼を受けていた。
伯爵が、ひとりでその任務を行なっていたら、何の問題もなかったでしょうね。でも彼は、協力者を求めた。ある人物に事情を話し、一緒にヨハネスを引きとめてくれるよう、頼んでしまった。
その人物が、ヨハネスが捕まると都合の悪い人物であることなど知らずに」
「……………………」
「騎士団長の手紙には、ヨハネスはカード・ゲームが好きだから、彼をゲームに誘って引きとめるといい、と書かれていたわ。もちろん、騎士団長からヴィッツ伯爵への手紙よ。ならば、カードが好きだと言って、ヨハネスがゲームを始めるよう誘導するのは、伯爵の役目のはず。しかし、実際にカードの話題を持ち出したのは、伯爵ではなく……あなただった。そうよね、コンラード・スターリング男爵?」
「き、貴様はいったい、」
シャルロットは、まだ男爵の発言を許さない。
「なぜか? もちろん、あなたがヴィッツ伯爵から事情を聞いており、ヨハネスを引きとめるのに協力していたから。その後、夜遅くなって部屋に戻ってから、こっそりとあなたはヨハネスを訪ね、騎士団が家宅捜索に入ったこと、このままブラッシュ・ランブラー城館にいては捕まってしまうということを教え、朝が来る前に脱出させた。なぜか? もちろん、ヨハネスが捕まると、自分の正体がヨシフだと、バラされてしまうから。
伯爵側と、ヨハネス側の両方に通じていた人間がいて、ようやくこの事態は説明できる。裏で蠢いていた可能性があるのは……スターリング男爵。あなただけなの。
動機の偽装のために、『聖水』を持ってスターリング男爵領に逃げるように言い、送り出した。きっと彼は、ブラッシュ・ランブラー城館を出てから、ここにやってきたはず。匿われて生きているのか? それとも、とっくに始末されているのか? それは知らないけれど……」
「――は、話させんかっ、馬鹿もんが!」
一方的にまくし立てられてばかりいた男爵が、とうとう爆発した。
顔を真っ赤にして、サーベルを持った手でテーブルの天板をドンと叩いた。その衝撃で机の上のランタンが一瞬浮かび上がり、炎が揺らめいた。揺れる炎に照らされた、男爵の顔は――まるで、シワだらけのリンゴのように歪んでいた。
「さっきから黙って聞いておれば、当て推量だけで知った風な口をききおって! この私が、帝国臣民のために生涯を捧げてきたこの私が、犯罪者だなどとっ……しかも、あの人殺しのブルガリー・ヨハネスを助け、匿っているなどとっ……侮辱にもほどがあるっ!
息子のように可愛がっていたアウシュトンを殺した、あの男を、私が、私が、助けてやるなどと、そんなふざけたことが……!」
「ええ、確かにふざけているわね。あなたは、ヴィッツ伯爵を殺したヨハネスを助けなんてしなかった」
急に真逆のことを言い始めたシャルロットに、男爵は煮えたぎる怒りも忘れて、ぽかんと口を開けた。
しかし、その後の彼女の発言によって、彼はさらに大きく口を広げることになる。
「あなたが助けて逃がしたのは、伯爵を殺してないヨハネスよ。伯爵殺しは、スターリング男爵、あなたのしわざなんだから」
「なっ!?」
「今までの話の流れを聞いていたらわかると思うけど、この脱出劇で、ヴィッツ伯爵が死ななければならない理由はどこにもないの。もし、彼が殺される必要があったとしたら、それは何らかのイレギュラーが生じた結果よ。
そうね、たとえば。ヨハネスが馬に乗って出て行くところを、伯爵が目撃していたとするなら、どうかしら。
彼は、引きとめておくべき犯罪者が逃げつつあるのに気付いて、それを追おうとした。しかし、このタイミングでヨハネスが捕まってしまっては困るあなたは、伯爵の追跡を阻止しなくてはならなくなった。
一分一秒を争う事態だから、伯爵も説得されているような暇はなかった。必然的に、あなたの妨害は、力ずくのものになったはずだわ。その時点で、容赦なく殺してしまったか、それとも、追わないように説得しようとして、結果的にあなたとヨハネスがグルだと気付かれたから、やむなく殺したのか。どちらにせよ、伯爵が殺されたのは、ヨハネスが脱出したあと。殺したのは、ヨハネスではなかった」
「空想だ。一から十まで、貴様の頭の中だけの空想だ」
額に脂汗をにじませながら、男爵は搾り出すような声で反論する。
「馬鹿げておる。今の話、ひとつとして証拠がないではないか。ただの推論としても、けっして道筋立っているとは言えん……私が、アウシュトンを殺したとな? フン。無理があろう。なぜヨハネスが殺したとするのではいかんのだ? いや、むしろ、そう考えなければ説明がつかんだろうに。
もし私が、ヨハネスが逃げたあとでアウシュトンを殺したのだとすると、ブラッシュ・ランブラー城館の中に、必ず凶器が残っていなければならんではないか。しかし、衛士隊が必死に探しても、結局凶器と思しき刃物は発見されなんだ。これ即ち、私の無実を証明する証拠と言えるのではないかね? あの日、衛士隊が来て捜索を始めるまで、城館の外に出ることのなかった私には、凶器を始末することなどできなかったのだから。
となると当然、ヨハネスがアウシュトンを殺し、凶器を持って逃げた、という道筋こそが真実だ。それが正しい判断というものではないか?」
言いたいことを言い、額の汗を袖で拭って。ようやく平静を取り戻してきた男爵は、サーベルを油断なく構えた姿で、一歩、また一歩とシャルロットに近付く。
明らかな敵意を持った男爵の接近にも関わらず、シャルロットは言葉を続ける。
「ええ、そうね。でも、逆に言うと、もし城館内で凶器が発見されたら、それはヨハネスの無実の証明になりはしないかしら。彼ならば、城館を脱出する時に凶器を持ち出して、完全に隠滅してしまうことができたのだから。
あなたには持ち出せなかった。だから、処分することができなかった。その代わり、ある場所に隠して、衛士隊に発見されないようにしたの」
「はっはっはっ! まだ空想物語を続ける気かね。だが、いくら想像の羽根を羽ばたかせても、肝心の凶器が見つからないのでは意味がなかろう。
まさか見つかった、などとは言うまい! あれだけたくさんの衛士たちが、隅から隅まで探しつくしたのだ。それで見つからんということは、結局なかったということ――……」
「あったわ」
断ち切るような一言に、男爵の持つサーベルの先端がぶれた。
「凶器はあったの。……星空と砂漠の絵の中に。これが見つかったからこそ、私はあなたを犯人と断定したのよ? コンラード・スターリング――」
応、という気合いの声が飛び、サーベルが振り上げられた。
絨毯を蹴って跳んだスターリング男爵は、シャルロットめがけて、袈裟がけに刃を振り下ろした。その踏み込みは見事なもので、さすがのシャルロットでも一瞬反応が遅れたほどだ。
後ろにのけぞって一撃を避けたシャルロットだが、目測を誤り、胸元を浅く傷つけられてしまう。黒いドレスが、左肩から右のわき腹のあたりまで、斜めに大きく切り裂かれ、紫色の下着が露出する。鎖骨の下、両乳房の上あたりに、五センチほどの小さな切り傷ができ、血の玉が浮かんだ。
殺すつもりでの一撃。しかも、歴戦の軍人による、恐ろしく綺麗な一撃――普通の人間ならば、うまく避けられたとしても、腰を抜かしてしまいかねない『死』を目の当たりにして――しかしシャルロットは、心を揺らがせることはしなかった。
男爵の行動は、己の罪を認めたも同然だ。しかし、それはシャルロットが求めている答えではない。
故に、彼女は言葉を続ける。すでに屈したスターリング男爵に向けて。
「凶器は、絵の中に隠されていた。約二ミリほどしか厚みのない、薄い薄い刃のナイフ。柄を外せば、全体が薄い一枚の金属の板になる。それをあなたは、何も絵が描かれていないカンバスに、ニカワで貼りつけ、その上から油絵の具を厚く塗って、埋め隠してしまったの。
上手い隠し場所だったと思うわ。絵は平面の芸術だから、そこに物を隠せるような厚みがあるなんて、誰も思わないし……裏には、ヴィッツ伯爵の作だというサインも書かれていた。偽物でしょうけど、まさか故人の作品を削って、絵の具の下に何かないか調べる人もいるわけがないしね。
あの星空と砂漠の絵は、あなたが描いたもの。あなたが絵をたしなむということは、この村の住人から聞いているわ。即興で、たった六時間程度で描いたにしては、なかなかの出来だったと思う。静かで、孤独で、物悲しい、良い絵……でも、ヴィッツ伯爵の作品に紛れ込ませるなら、作風も合わせておかなかったのは、失敗だったわね。あのアトリエにあった他の作品は、躍動感のある大胆なタッチだったのに、凶器の入っていた絵だけは、静かで繊細なイメージを持ってた。
問題の絵は、すでに絵の具を削って、中の凶器を確認してあるわ。私がじゃなく、ノースクラヴィスの衛士隊隊長が。柄の部分は見つからないけど、それが木でできていたとしたら、普通に厨房の窯で焼いてしまったかしら。まあ、短剣本体の方があれば証拠としては充分だから、柄なんてどうでもいいのだけれど……どちらにせよ、暴れても無駄に体力を消耗するだけよ? すでに衛士隊も騎士団も、あなたのしわざだということは気付いている。遅くても明日の朝までには、誰かがあなたを捕らえにやってくるわ」
「貴様には……貴様にはわかるまい、この枯れた土地を治める領主の気持ちなどっ……! 支えるべき人民のため、犯罪に手を出さざるを得なかった男の気持ちなどっ!」
怒りと絶望に目をぎらつかせながら、スターリング男爵は吠えた。
「父上から爵位を継いだ時、この地はまさに死にかけの土地だった! 荒地が多く、農業には向かない! 仕事といえば魚を獲ることだけ、それすら街道が整備されていないため、領地の外に売りに出て、金を稼いでくるということができず、身内で分け合うしかなかった! 住人は中年や老人ばかり、医者もおらんから、生まれてくるより死んでいく方が多い。働き盛りがどんどん減っていくから、税金もほとんど取れぬ! 税金が取れぬから、状況を改善するための事業も起こせない! 緩やかに死滅していくしかない土地、それがこのスターリング男爵領だった!」
叫ぶ男爵の振るった横一文字の斬撃が、シャルロットの首を狙う。しかしこれは、蝶のように滑らかに避け、ことなきを得る。
「そんな時に思いついたのが、始末屋ヨシフという副業だった! 悪事を露見させぬためなら、いくらでも金を出すという連中が、この帝国にはゴロゴロしておる! 私は奴らの持て余している証拠品を始末する代わりに、金を取った……領地の運営を楽にするには、充分な額の金をだ!
そう、お前の言った通りよ! 預かった証拠品を船に積んで、私ひとりで沖に出て始末する! 漁師たちは【レレトの真紅島】にたむろする悪魔を警戒しているから、あまり深い海の底をさらったりするような漁はしない。遺棄するポイントにさえ気を配れば、一度沈めたものは絶対に、二度と出てこない!
たったそれだけで……一回ごとに、この領地の半年分の税収に匹敵する金が手に入った! 実に割りのいい仕事だった! そしてその金で、私はこの領地を変えた! 街道を整備し、民療院を建て、暮らしやすい場所に変えたのだ!
今、我が領地の人々は、みんな幸せに暮らしている! 人口も増え、税収も増えてきた! すべて、すべて私が犯罪に手を出してでも、金を稼いできたおかげだ! 社会的に見れば悪事だろう――だが、それでも私は、自分のしてきたことが間違いだとは思わんっ!
あのようなクズの強請り屋の、ヨハネスなどにまとわりつかれたり……息子のように育ててきたアウシュトンを殺さねばならん羽目に陥ったり……そのような、そのようなつらい報いを受けなければならぬような、けっして許されぬ大悪事ではないはずだ!
そして今日は貴様だ、女! 天使の定めた運命が、私を罰そうというのなら、それに徹底的に抗ってくれる。貴様が何者かはわからぬが、生かしてはおけん! すでに始末したブルガリー・ヨハネス同様、魔街のそばの、光すら届かぬ深海の底に葬ってくれるわ!」
ビュン、と振り抜かれるサーベルの一閃は、今度は壁紙を傷つけた。素早く横に避けたシャルロットは、男爵の激し様とは逆に、冷たい、氷のような目をしていた。
「そう……やっぱり、死んでいたのね、ヨハネスは。
でも、そんなことはどうでもいいわ。あれを捕まえる必要があるのは、衛士隊や帝国騎士団の人たちだもの。
私が聞きたいのは、あくまで、最初にした質問よ。『聖水』は、どこにやったの? ヨハネスに盗み出させたんでしょう? 逃げる理由を偽装するための、無意味な窃盗だったんでしょうけど、彼は間違いなく水を持って、ここに来たはず。ヨハネスを殺して……『聖水』は、どうしたの?」
「はん? 『聖水』だとっ!?」
やたらめったらにサーベルを振り回しながら、男爵は吐き捨てるように答える。
「あんなもん、ヨハネスの命と一緒に海に還してやったわ! 確かに、ヨハネスが逃げる動機付けに必要なものではあったがな! もし再び世間に出れば、必ずアシがつく! どこで、誰によって発見されたか? 売り買いした者があれば、誰の手から手へ、いくらで渡ったのか? 優秀な衛士であれば、簡単にたどってくるだろう! そして、その起点は、どうごまかしてもこの私ということになる!
いくら売れば金になろうとはいえ、あんな危険なもの、この私が、無事に存在させておくわけがなかろうが!」
その言葉に、シャルロットの表情に変化が現れた。
「……そう。始末したのね、『聖水』を」
目を細め、灰色の瞳の奥に、小さな感情の炎を灯した。青白い、殺意の炎だ。
右腕が、スカートのポケットに伸びる。長い脚に沿うようにして、ナイフを一本抜いた。
「わかっているのかしら、スターリング男爵……その言葉の意味が?
私のような人間の前で『聖水』を捨てた、などと発言することが? それを『純水派』がどう受け取るか? それが、少しでもわかっているのかしら?」
「! シンシアラ……なるほど、何者かと思っていたが、その手の者か!
だが、誰であるにせよ、私のするべきことは変わらんよ!」
強く踏み込み、闘牛のような勢いでシャルロットに切りかかる男爵。
その刃を紙一重でかわしながら、後ろに飛び、男爵との距離を取っていくシャルロット。
「逃がすと、思うてかっ!」
気合いとともに叫び、更なる追撃を行なおうとした男爵の目の前で――シャルロットの体が、独楽のように回った。
びゅん、と素早く回転して、その右腕が鞭のようにしなり、そこから放たれた銀色の閃光が、男爵に向けて一直線に飛んだ。
あごの下を殴られたような衝撃を感じて、男爵は大きくのけぞった。激痛と、突然の息苦しさが、一瞬遅れてやってくる。ノドに何か違和感がある――サーベルを持っていない方の手で触れて、その正体に気付いた。
何か固いものが、ノドから垂直に生えている。ぬるりとした血の感触が、口の中に溢れた。この固い、棒状のものは、生えているのではない。ノドの皮膚に突き刺さっているのだ。鋭いものが皮膚を破り、気管を貫通している。これは――。
「す、スローイング……ナイ、フ……!」
その濁った呟きが、スターリング男爵コンラードの、最期の言葉だった。ナイフに塗られた神経毒が、血流に乗って数秒で彼の全身を侵し、その生命活動を停止せしめる。
彼はサーベルを取り落とし、二、三歩たたらを踏むと、そのまま後ろ向きに、どうと倒れ込み――それっきり、ぴくりとも動かなくなった。
シャルロットは、ナイフを投擲した姿勢のまま、倒れた男爵に数十秒ほど注意を向けていたが、彼が完全に絶命したと確信すると、肩の力を抜いた。
「……この服」
もはや、自分以外誰もいない部屋の中で、シャルロットは呟く。
「マライアさんに言ったら、縫い直してもらえるかしら」
大きな裂け目のついた、ドレスの胸元を見下ろし、憂鬱そうなため息をついた。
そして、呼吸をやめた男爵のノドからナイフを引き抜くと、ついている血をカーテンで軽く拭い、部屋を出ていった。来た時と同じで、壊した窓から。自分の周り数十センチに、音を遮断する領域を作り出して、まったく無音のまま、夜闇の中へ消え去った。
後にはただ、沈黙が残るのみ。
死と、静寂と、揺らめくランタンの灯りが、残るのみ――。
■
翌朝。アンペルバールからスターリング男爵領へ向かう国道を、帝国騎士団の馬車が駆け抜けていた。
それに乗っているのは、騎士団長エルドレッド・マクアルパインと、彼の忠実な老僕。そして、数人の屈強な帝国騎士たちだった。
「しかし、本当に間違いないのですか。あのスターリング男爵が、今回のヴィッツ伯爵殺しに関与しているなどと……」
老僕が、不安そうに主人に聞いた。
主であるエルドレッドは、エメラルド色の目に確かな自信をみなぎらせて、頷いた。
「間違いない。伯爵がヨハネスを引きとめるために、スターリング男爵に協力を求めたと考えねば、ヨハネスの行動に説明がつかないからな。
ヴィッツ伯爵は、スターリング男爵のことを父親のように尊敬していた。おそらく、僕の依頼について何もかも打ち明けてしまったのだろう。ヨハネスと男爵とが、結託しているとも知らずに。
まったく、最初から気付くべきだったんだ。伯爵ほどの男が、ヨハネスのような小物に、演技を見破られるわけがないからな。奴にこちらの計画がバレるとしたら、それは内通者に教えてもらうしかない。そして、その内通者になり得るのは、伯爵からの信用が厚く、ヨハネスを引きとめる芝居に参加を望まれるような人物……ヴィッツの部下や、召使などではない……コンラード・スターリング男爵しか、あり得ないんだ。
それに、衛士隊隊長シュミッツ氏の発見した、絵の中の凶器という物的証拠もある。男爵の犯罪は、もはや疑いようがないよ。あとは彼を捕らえて、ヨハネスの居所を聞き出せば、万事解決だ!」
「なるほど、さようですな……よくぞそこまで思いつかれました。坊ちゃまは、やはり利発でいらっしゃる」
「お世辞はよせ。僕だって、一昨日の晩に酒場に寄らなきゃ、思いつかなかったことだ。あの『友達』の呟きがなければ、僕はまだ、ヨハネスが国境の検問に引っかかるのを、待ち続けていたかも知れない」
「お友達、ですかな?」
「ああ、友達だ。お互いを深く知る前に、夜が終わってしまったがね。またいつか、どこかで会いたいものだ……。ん?」
エルドレッドは、窓の外を横切った影に、首を傾げた。
窓を小さく開けて、後ろを見返すと、スターリング男爵領から来たものであろう、客をたくさん乗せた乗合馬車が、アンペルバールの方向へ走り去っていくのが見えた。
「どうなさいました、坊ちゃま?」
「いや……さっき言った『友達』が、乗っていたような気がしたんだ。一瞬だったから、気のせいかも知れないけれど……」
お互い、真逆の方向に走り続けている馬車は、その距離をどんどん離していく。
エルドレッドの目に映る乗合馬車のお尻は、やがて小さな点となり、丘の向こうへ消えていった。
〈了〉
これにて最初の事件はおしまいなのじゃー。読んでくれた皆々様、どうもありがとうございまする。
そして……書き溜めも、今回で尽きた……(´・ω・`)
これからは書きながら、ゆったり更新していくのじゃよー。