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フェステが暗躍する  作者: アンバーハウス
シャルロット・フェステ登場
6/18

バイカルの平穏/歌声のない夜

 ――どこかの国。どこかの街。薄暗く静かな、どこかの部屋にて。

 シンシアラの構成員マルヴォーリオは、ノースクラヴィス衛士隊隊長シュミッツからの連絡を受けていた。

 もちろん、シュミッツ本人が彼のもとに出向いたわけではない。同じシンシアラに属する部下に伝言を預けて、それを届けさせたに過ぎない。

 報告書を持った衛士が部屋を訪問した時、マルヴォーリオは食事中だった。バジル・ソースを使った鯛のソテーをメインに据えた、豪華なフル・コースが、年季の入ったマホガニーのテーブルにずらりと並ぶ。もちろん、アイスペールに埋まったワインも一級品だ。スタイリストを気取る彼は、食事にも妥協しない。

 わずかにソースで汚れた口もとを、左手に持ったナプキンで拭いながら。マルヴォーリオは右手でつまんだ報告書に目を通す。

 一度、二度、三度と読み返し、内容を間違って理解していないか確認して――ようやく、彼は頷いた。

「オーケイ。謎は解けたと言うんだな? 事件の夜に、ブラッシュ・ランブラー城館で何が起きたのかも、ヨハネスが今、どこにいるのかも、全部説明できるようになった、と。

 同志フェステはどうしてる? ――ふむん、『聖水』を奪取しに行ったか。ま、そりゃそうだわな。もともとそういう指令だったわけだし。むしろ、俺たちシンシアラにとっちゃ、それ以外ははっきり言ってどうでもいいことだ。

 うん、殺人事件の始末をあんたの上司に任せて、ノースクラヴィスを去っていったのも、当たり前のことだよな。しかし――」

 言いかけて、言葉を止めて。微妙に難しい顔になって、マルヴォーリオはワインをグラスに注ぐ。王国産、五十年物の白。百合の花を思わせる独特の甘い香りが、ふわりと咲き誇る。

 それをひと口、ちびりと舐めて、彼は少しだけ表情を和ませる。本当に、ほんの少しだけ――百のうち、二か三ぐらいの割合を。

「あいつは、特別に純粋な『純水派シンシアラ』だからなぁ。ちょっと不安だ。報告はちょっとぐらい遅くてもいいんだから、落ち着いて、穏便にことを処理してくれりゃいいんだが。

 ……ん? どういうことかって? ああ、そうだな、お前さんはよく知らないんだったか。同志フェステのこと。

 あの女は酒好きで、だらしがなくて、ゆったりしてるからさ。はた目には、あんまり仕事熱心じゃないように見える。

 だが、実はシンシアラの中でも、ちょっと面倒くさいぐらいに、やる気に満ち溢れてるというか――率直な言い方をするなら――思想的にとんがってるっつーか、過激なタイプなんだよな。あいつは本気の本気で『聖杯』と『聖水』を、この世の何より大事にしているんだよ。

 ……うん、確かに、シンシアラであるからには、そのふたつを大事にするのは当然だ。でも、なぜ大事なのかって理由はあるはずだよな?

 教典をおさらいするような話になるがね。我々が『聖杯』と『聖水』を絶対視するのは、どういう根拠があってのことか? 『純水派シンシアラ』の教典によると、こうだ――それが、人命を守ってくれる秘宝だからだ。悪魔の脅威を取り除き、平和に生きる権利を授けてくれるものだからだ。

 理に適ってるだろ。命を守る神器を通して、俺たちは命の尊さを見てるんだ。

 でも、同志フェステは違う。あいつにとって、『聖杯』と『聖水』が大切なのは、『聖杯』と『聖水』が大切だからだ。そこに理屈なんかない。『福音』のように、価値が魂に刻まれてるって感じなんだ。本気で、『聖杯』と『聖水』より重要なものなんて、ないと思ってる。

 あいつ、人の命と『聖水』の一滴を比べたら、当然のように『聖水』の方が重いって答えるんだよ。これ、比喩じゃねえぞ。実際にそう言いやがったのを聞いたことがあるんだよ。

 蜂のような女さ。それも、強い信念を持った働き蜂だ。『聖水』を手に入れろと言われたなら、蜜を求めるように、一生懸命に探す。腕は立つし、頭も回るし、人当たりもいいから、使い勝手はいいんだが……正直ちょっと、扱いに困る局面はある。ちょっとしたことで『やり過ぎ』ちまう思想の持ち主だからな。

 ……何事もなく、あいつの手に『聖水』の入った容器がおさまればいいな、と思うよ。邪魔は絶対、入って欲しくない。

 もし何かが邪魔なら、あいつはためらいなく排除するぜ。何しろ、蜂だからな。刺すための鋭い針を持ってる。『聖杯』と『聖水』が第一って信念が無駄に強いから、それ以外のものに容赦なんてしない。

 人殺しだって、厭わない。

 ……嘘じゃないぜ?

 聖なるもののために暗躍するフェステの前に立ち塞がって、無事でいられる奴なんていないんだ」

 ちび、ちび、ちび、と、舐めるようにワインをすすって。最後に、きゅっと一気に飲み干す。

 ほんのひと時、和みかけていた表情は、再びしかめられつつあった。

「……お前さんも一杯、どうだい? 事件が『問題なく』解決するように祈って、さ。

 そう、最後まできれいに終わってくれりゃ、一番いいんだよ。悪魔だろうが犯罪者だろうが、結局のところ、トラブルを起こす奴が一番の悪なんだからさ、へっ!」

 テーブルの上のグラスはふたつに増え、両方に百合の香りが満たされた。

 涼しく、過ごしやすい秋の日。シャルロットからの『最終報告』が届く前日の、静かな夜――。



 バイカルという村がある。それはベルホルム帝国北東の端、スターリング男爵領を構成する三つの集落のひとつであり、半島状の土地のちょうど先端に位置していた。

 住人のほとんどが漁師とその家族で、主にイワシやマグロを獲ることで日々の糧を得ている。逆に言うと、それ以外に産業らしい産業がない、とても地味な漁村だ。

 そう言うと、いかにも寂れた田舎を想像するかも知れないが、実はこのバイカル、意外と豊かな土地であった。

 まず、街道がしっかり整備されているので、水揚げされた魚を馬車で領の外へ、新鮮なうちに運ぶことができる。これによって、バイカルの漁師たちは他の漁村――スターリング領外の漁村――の人たちより、やや多くの収入を得ることができていた。

 次に、税金が安い。他の貴族領より、税率が一割か二割は低かった。だから平民も貯金をする余裕があったし、船や網を修理するのにも困らないし、最新鋭の機材なども、あまり苦労せず買うことができた。

 そして何より、医療が充実していた。スターリング男爵の創設した民療院は、ほぼ無料に近い低額の治療費で領民の健康を守っていた。男爵自身が予算を出し、それによって医師の報酬、薬代等がまかなわれているからこそ、可能になったシステムだった。医療費が安いおかげで、領民は病気や怪我をしてもすぐに治療することができ、平均寿命も他の領地と比べ、五年は高くなっているという。

 首都から遠過ぎるために、人がどんどん入ってくるということはない。しかし、一度バイカルで暮らし始めた者は、よほどのひねくれ者でない限りこの村を気に入り、根を下ろす。

 スターリング衛士隊バイカル村派出所に勤務する、若き衛士モーリス・フロウも、二年前にこの村にやってきて、すっかり気に入ってしまった者のひとりだ。

 もともと彼は、アンペルバールの衛士隊本部に勤めていたエリート衛士だった。しかし、ある事件を捜査中に大きなミスをしでかし、左遷同然にこの村に飛ばされたのだ。

 都会暮らしに慣れていた着任当時のモーリスは、こんな田舎はさっさと出ていってやると息巻いていたのだが――美味しい魚料理、きれいな空気、雄大な海の景色――そして、充実した環境で幸せに暮らしてきた村民たちの、穏やかな気風に触れ、いつの間にやらこの村での暮らしを、楽しいと思うようになってしまった。

 朝は陽の昇る前に起き、イチゴジャムを入れた麦粥を食って、見回りに出かける。茶色に白いブチのある愛馬に跨って、かっぽかっぽと海沿いの街道をひと巡り。

 昼になったらなじみの食堂で、フィッシュペーストを挟んだライ麦パンか、貝とアンチョビをたっぷり使ったパスタを食べる。それが済んだら、腹ごなしに自分の脚で、街の中を見て回る。

 道端に落ちている牡蠣の殻を蹴飛ばしてみたり、漁師の家の軒先から干し魚を盗もうとしている猫を追い払ってみたり、くだらないことをして時間を潰し、日が沈む頃に家に帰るのだ。

 犯罪事件らしい犯罪事件など、この村ではモーリスの着任以来、一件も起きていない。せいぜい、酔っ払った漁師たちのケンカを止めに入るくらいで、衛士の武器であるサーベルを抜くのは、手入れをする時だけという状態だ。

 こういう平和な暮らしが、これからもずっと続くのだろう。ずっと、というのがどれくらいかは想像もつかないが、少なくとも自分が歳を取って、穏やかに最期を迎える時までは、バイカルの村はこのままであって欲しい。

 それはモーリス・フロウの望みであり、バイカル村の住民全員の願いでもあった。

「きょーおもおらが村は大過なしぃ、っとぉー」

 ざざん、ざざんという波の音と、馬のひづめが石畳を踏む音とを伴奏に、モーリスは即興の歌を口ずさむ。

 太陽が西の荒野に沈む頃のこと、海岸沿いの街道を通って、彼はいつも通りに帰宅しようとしていた。夕陽のある西側の空は、まだ濃いオレンジ色を残しているが、海に面した東側は、群青と黒の下地に星の瞬く、澄んだ夜空に成り代わりつつあった。この村にやってきて以来、毎日のように目にしてきた風景だ。

 この時間には、バイカルの住人のほとんどは家に帰ってしまっているため、街道には誰もいないのが常だ。星空と夕陽をいっぺんに楽しめて、しかもその景色を独り占めできるこの帰路が、彼は好きだった。

 強いてわがままを言うなら、海の方に夕陽が沈み、荒野の方に星空が現れてくれた方が、モーリスの美的感覚としては好ましかったのだが、さすがに天体の運行に物申すことはできない。いつも通りに、あるがままを楽しむ――いつも通り、誰もいないこの景色を――。

「む?」

 ところが、この日に限って誰かいた。街道脇の原っぱに麻のシートを敷いて、何者かが座り込んでいる。

 直感的にそれがバイカルの人間でないと悟ったモーリスは、背後からゆっくりとその人物に近付いてみた。どうやら、その人影は女であるらしかった――金髪で、黒いドレスを着た、若い女だ。左手で布か紙を張った板のようなものを抱えており、反対の手でその表面にペンを走らせている。絵を描いているのか。しかし、こんな時間に?

「もし、そこの人」

 恐る恐る、モーリスは声をかける。すると、ペンを動かしていた女の手がぴたりと止まり、そっと流し目をするように、彼女は振り返った。

「何か?」

 と、女は、どことなく甘みのある声で問い返してきた。その灰色の瞳は、じっと馬上のモーリスを見上げている。

 女の艶っぽい仕草とその美しさに、モーリスはわずかに動揺した。田舎の素朴な女ではない、明らかにこれは都会の女だった。

「失礼、特に何か咎め立てをするのではありません。もう暗くなるので、絵の続きは明日お描きになった方がいいですよ」

「ああ……仰る通りですわね。もうこんな空の色。

 どうも、気に入った風景を見つけるといけませんわ。描き写すのにすっかり集中しちゃって、周りが見えなくなってしまいますの」

 女は苦笑しながら、絵に薄布を乗せ、台の板を半分に折って閉じた。手に持っていたペン――彼女がこちらを振り向いた時に気付いたが、それは細い木炭だった――と一緒に、そばに置いてあった黒いトランクにしまい込む。トランクのフタを開けた時に中が見えたが、絵筆や絵の具のビンがどっさり入っていた。

「絵描きさんですか? この街は景色が綺麗ですから、モチーフにするものには困らないでしょうね」

 ふとした世間話のつもりで、モーリスは言った。女はシートを畳みながら、愛想良く頷く。

「ええ、旅をしながら風景画を。この村の海は素敵ですわね。特に、あの岬の突端に建っているお屋敷。あれと海の組み合わせは惚れ込みました。

 とても立派なお屋敷ですけれど、あれはどちらのご貴族様の……?」

「ああ、あれですか」

 モーリスは女の視線の先の、白い石造りの屋敷を見て、誇らしげな気分になって説明した。

「あれは、この地を治められているスターリング男爵様のお屋敷ですよ。領民のために骨折りを惜しまない、大変立派な方です。

 本当なら、もっとアンペルバールに近いクレムリンの街に邸宅を構えられるべきなんでしょうが、この村の素朴さがお気に召したとかで、男爵位をお継ぎになった時から、あそこで暮らしてらっしゃるそうです。

 余暇には絵画をたしなまれるそうで、ときおり海岸でイーゼルを立てておられるところを見ますから、もしかしたらあなたともお話が合うかも知れませんね」

「ふぅ、ん……絵画をなさるのですか――スターリング男爵は……」

 女の目がすっと細くなる。

 彼女は畳んだシートを小脇に抱え、トランクを持ち上げると、モーリスに軽く会釈をして去っていった。

 その後ろ姿を見送り、モーリスも自宅に向けて馬を歩みを再開させた。旅の画家に逢った以外は、いつも通りの夕方だった。

 やがて、陽は完全に荒野の彼方に沈み去り――暗闇と星空が、バイカルを包み込んだ。



「……………………」

 見回りの衛士と別れたシャルロットは、街の方に戻る道を歩き続け――途中で方向を変え、再び海沿いの街道に取って返した。

 星空の下を音もなく歩く。彼女の歩みの向かう先は、岬の突端にそびえる白亜の館。スターリング男爵の邸宅だった。

 彼女は、少し離れた場所からその館を観察する。建物を取り囲む塀のようなものはない――しかし、見張りの兵士が、ランタンを片手にうろついているのが見える。

 ――兵士だけではない。犬も何匹か、放し飼いになっているようだ。黒くて大きく、獰猛そうな顔つきをしている。これと兵士に同時に襲い掛かられては、賊もたまったものではあるまい。侵入者除けとしては、充分過ぎるプレッシャーを放っている。

(でもまあ……どちらか片方なら、何とかなるかしら)

 そんな風に考えながら、シャルロットは岬に充分近付いたところで街道を外れ、そばの林の中に潜り込んだ。

 館を取り巻く地形は、三つあった。ひとつは、街道から館の玄関に繋がる、見通しのいい正規のルート。ふたつめは、崖とその向こうの海。そして最後に、建物の横手から裏側にかけて広がる林である。

 シャルロットは木々の間にしゃがみ込んで、持っていたトランクを開けた。

 そして、星明かりだけを頼りに、必要なものを取り出す。

 まずは、ごく普通の絵筆。その柄の部分を、きりきりとネジのように回す。すると、穂先の部分が外れ、中から銀色に輝く鋭い刃が現れた。

 一本、二本、三本。同じように、絵筆の穂先を外していくと、最終的に十本の小型ナイフが、シャルロットの手の中に残った。

 次に、十二色の絵の具ビン。その内、黒の絵の具だけ、二本用意されていた。――片方の黒のビンの中身を、もう片方のビンに、そっと混ぜていく。すると、ほんの少しだけ刺激臭が漂って、ビンの中の液体は透明になった。

 完成したのは、ごく少量で人を死に至らしめる神経毒だった。ふたつの黒のビンの中身は、それぞれ無害な黒色の液体に過ぎないのだが、お互いを混ぜ合わせることで、反応を起こし、凶悪な毒物となるのだ。

 ナイフの刃を、完成した毒薬に軽く浸す。毒を吸ったナイフは、スカートのポケットに刃先を入れてしまっておく。シャルロットの着ているドレスのポケットには、薄くて軽い革製の鞘がいくつも縫い込んである。そこに差しておけば、危険な毒付きナイフも安全に持ち歩けるというわけだ。

 全ての準備を終え、トランクを閉めると、それを繁みの中に隠し、立ち上がる。

 シャルロットは、半ば闇に溶け込みながら、木々の向こうに見えるスターリング男爵邸に目を向け、その方向に向かって歩き出した。

 かさ、かさ、という、落ち葉を踏みしめる音を連れて。ぱき、ぱき、という、枯れ枝を踏み折る音を、先触れとして送りながら。

「……でも、今夜は誰も歌わない」

 そう呟いた瞬間――彼女を中心に、何かが広がった。



 まず最初に、番犬ピロシキ号がその人物の接近に気付いた。

 嗅いだことのない匂い。正規のルートを通らず、林の中から接近してくる、不審な人間。彼は、そういう人物に対して攻撃を加えるように、厳しく訓練されていた。

 バウワウと激しく吠え立てながら、彼は不審者のもとへ駆けていく。その鳴き声は、威嚇でもあり、見回りの兵士たちに不審者の存在を知らせる合図でもあった。

 がさがさと、地面を踏みしめる音も隠そうとせずに近付いてくる愚かな侵入者。

 それは黒いドレスを着た、金髪の女だった。ピロシキ号はその姿を認めると、牙を剥き、黒い疾風となって飛びかかっていった――。



 スターリング男爵邸の警備兵、ジョエル・スナックは、左手に下げたランタンをプラプラ振りながら、隣を歩く同僚に声をかけた。

「なあ、見回り交代の時間まで、あと何分だ?」

 問われたヒューポイント・フラナガンは、懐中時計をちらと見て、首を横に振る。

「何分じゃねえ、あと三時間はあらぁ。お前さん、その質問は見回りを始めてから、もう五回目だぞ。次はせめて二時間経ってから聞いてくれや」

「バカ、何時間経ったかわかるんなら、時間なぞ聞かねえよ。……ああ、しっかし退屈だなぁ。毎日毎日、何時間も屋敷の周りを回るだけの仕事なんて。たまには変化のひとつも欲しいもんだ」

「そりゃお前さん、この村に来てから半年も経たねえからよ。都会の時間間隔が抜けてねえんだな。もう何年もこの仕事続けてりゃ、意外と悪くないってわかってくるぜ。日々こともなし、平和ってのは結構なことじゃねぇか」

「そうかも知れねぇけどよ。こんな夜中に、話し相手があんたみてぇな爺さんだけってのも寂しいもんだぜ。

 ああ、せめて虫でも鳴かねえかなぁ。スズムシとかクツワムシとかさ、ああいうのの合唱を聴いてると、心も落ち着くし時間も気にならねぇんだが」

「時期が違わぁ。あと半年は待たねえとなぁ」

 ヒューポイントの言葉に、ジョエルはため息を漏らす。

 静かな、いつも通りの夜だった。



(なんなんだ、何者なんだこいつは!)

 番犬ボルシチ号は、焦りとともに吠え立てた。

 ゆっくりと、草葉を踏みしめながら近付いてくる黒い影。その手には、薄くて小さな銀色の輝きがある。

 今、仲間のサラートオリヴィエ号が、その人影に襲いかかっていった。激しく地面を蹴り、矢のような速さでノド笛に喰らいつこうとする。

 しかし、影は迫り来る番犬の牙を、ほんの数十センチ上体を傾けるだけで避け、すれ違いざまに、サラートオリヴィエ号の首に銀色の輝きを走らせた。

 星明かりの下で、ばっ、と赤黒い飛沫が飛び散り、サラートオリヴィエ号は着地して数秒ももたずに、絶命した。

 このような一方的な攻防が、何度も繰り返されている。影の通ってきた後ろには、首や脇腹を引き裂かれた犬たちが、ごろごろと転がっていた。

 数頭同時に襲いかかっても、結果は同じ。敵の実力は、番犬ごときではまるで相手にならないほどに高い。それは、ボルシチ号にもよくわかっていた。だが、よく訓練された彼は、任務を放棄するということはできない。

(くそ、人間たちよ早く来てくれ! 俺たちはこんなに吠えているぞ! ここに不審な人間が、いや、明らかな敵がいるんだ!

 援軍をよこしてくれ! 早く! こういう敵を、屋敷に近付けないための俺たちだろう!?)

 屋敷の灯りが見える方に向かって、ボルシチ号はひたすら吠え立てる。黒い闇に溶け込んだ敵は、そんな彼にゆっくり歩み寄っていく――。



「酒とか飲みてぇなぁ。強めのジャガイモ酒をクイッとさぁ。そうして陽気に歌えば、この鬱々とした見回りも、ちったぁ楽しくなるんじゃねえかな、爺さん?」

「我慢しな、ジョエル。見回りが終わったら付き合ってやっからよ。仕事時間ぐれぇは真面目にやるもんだぞ」

 ジョエルはもう一度ため息をついて、足元の小石を蹴り飛ばした。

 静かな夜の空気の中で、小石の転がっていく音は、やけに大きく聞こえた。



 シチー号がやられた。オクローシカ号がやられた。セリャンカ号が、ラッソーリニク号が、ウハー号が、コトレータ号が、シャシリク号が、フォルシュマーク号が、みんなみんな、血を流して倒れ込んだ。

 もう、残っているのはボルシチ号ただ一頭だ。いまだ虚空に吠え続ける彼に、黒いドレスの敵はひた、ひたと近付いてくる。

(なぜだ、なぜ屋敷の人間たちは来ない? 居眠りでもしているのか? こっちはこんなに呼び続けているのに!)

 じゃり、と、至近で音がした。約二メートルの距離まで、敵は接近している。

 ボルシチ号は吠え立てるのをやめ、正面から敵を睨みつけた。相手も、不気味な灰色の目で、彼を見下ろした。

 ううう、と低い呻き声を上げて、ボルシチ号は身をかがめた。攻撃の準備、飛びかかる直前の挙動だ。もはや応援は期待できない。完全な、一対一の勝負だ。

 バネがはじけるような加速で、ボルシチ号は跳んだ。鋭い牙、尖った爪の両方で殺しにかかる。遠慮も手加減も一切ない、全力の一撃。

 しかし、相手はそれに反応した。伸ばした二本の前足の間をすれ違うようにして、敵の右腕が突き出された。その手には、仲間たちを殺し尽くしてきた小さなナイフが握られており、その先端がボルシチ号の左目に深く、深く突き刺さった。

 鋭い刃は、刹那のうちにボルシチ号の脳髄を破壊し、即死させた――ただ、肉体の生理的な反応だろうか、細く長い、悲しげな悲鳴だけをノドから搾り出して、ボルシチ号は逝った。



 夜空にきらりと、流れ星が光った。ジョエルは、何の感慨もなくそれを見上げて、ぽつりと呟いた。

「……静かだなぁ……」



 コンラード・スターリング男爵は、自身の書斎で手紙を書いていた。

 彼は、床から天井まで達する、壁一枚をまるまる埋める本棚を背に、大きなマホガニーの執務机に着いていた。髪は、やや白の混じったにんじん色で、ふわふわした綿毛のように、頭頂部から後頭部までを覆っている。広く秀でた額にはシワが寄り、その下の小さな目には、金縁の丸眼鏡をかけていた。枯れ木のように細い老人だが、その全身には、歳を感じさせない活力のようなものがあった。

 オレンジ色の炎が、そんな老男爵を照らしている。灯りとなるランタンは三つ。机の上にあって、コンラードの手元を照らしているものと、部屋の入り口の上にかけられたもの、そして、天井から下げられた、部屋全体にぼんやりとした光を投げるものの三つだ。

 コンラードは手紙を書き終えると、吸い取り粉でインクを乾かし、丁寧にたたんで、封印をほどこした。ひと仕事終えた彼は、作業用の眼鏡を外し、椅子の背に体重を預けて、軽く背伸びをした。

 と、そこで、部屋のすみに潜む何かに、彼は気付いた。

 ランタンの灯りが届き切らない、薄暗がりの中。窓際あたりに蠢く、黒いもの。

 最初は、カーテンかと思った。しかし、そうではない。確かな厚みを持っている。

 コンラードは不審に思い、ランタンを持ち上げ、その灯りをかざしてみた。すると、そこに浮かび上がったのは、見覚えのない女だった。

 肩までの長さの、ややくせのある金髪。彼のことを冷たく見据える、灰色の目。真っ黒なロングドレスは、まるで喪服のようだ。

 どことなく不吉な雰囲気を備えた、ぞっとするほど美しい女が、彼の部屋に立っていた。

「何奴」

 コンラードは短く訊ねた。そしてその直後、女のすぐそばの窓が、無残に叩き割られていることに気付き、これが侵入者以外の何者でもないということを確信した。

「誰か! 誰かある! 不届き者ぞ、出ませい、出ませい!」

 鋭く強く、屋敷全体に轟かんばかりの大声を張り上げた。同時に机の引き出しを開き、護身用のサーベルを取り出すことも忘れない。年老いても、コンラードは突然の危険に素早く対応できる軍人だった。

 サーベルを抜き放ち、切っ先を女に向ける。そしてそのまま、味方の兵士たちを待つ――が、一分経っても、二分経っても、誰もやってこない。いや、それ以上におかしいことに、彼は気付いた。物音が一切、しない。召使たちの行動する音、見回りの兵士たちの話し声、そういった生活音が、普段なら無意識のうちに耳に入っている。が、それがない。まるで、屋敷にいる全ての生物が、死滅してしまったかのようだ。

「……無駄。叫んでも、誰も来ないわ」

 女が、鈴のなるような声で言った。

 それも、ガラスでできた鈴だ。透明感のある、しかし冷たい声。

「私が、そういう風にしたの。あなたとの話を邪魔されたくないから。あなたがどんなに叫ぼうと、この部屋の外には、一切声が漏れない。外からの音も、この部屋には一切入ってこない。助けを呼ぼうとするのは、無駄」

「――『福音使い』かっ!」

 女の物言いで、コンラードはその異常の正体に気付いた。世界の理を超える力を、天使ユカニムによって与えられた者たち。

 人によって千差万別なその能力の中には、『音』に関係する能力だって、きっとあるに違いない。そして、彼の目の前にいるのは、そういう『福音使い』なのだ。

 彼女はいつの間にか、この部屋にいた。おそらくは、派手な音を立てて、窓をぶち壊して入ってきたのだ。それに気付かせない能力というと――やはり、『周囲の音を消すか、遮断する能力』なのだろう。

「でも、安心して。私は、あなたと話をしに来ただけ。あなたが、私の満足のいく答えを聞かせてくれさえすれば……危害は加えないし……あなたの秘密を暴露したり、といったような、無意味な真似もするつもりはないわ」

「話をしに来ただと? 貴様、何を言っている? ええい、図々しい盗人めが、聞く耳など持たぬ。そこになおれ、我がサーベルの錆としてくれる――」

 机を回り込んで、サーベルで女に切りかかろうとしたコンラード。しかし、彼のその足は、女が次に発した一言で、ぴたりと止まってしまった。

「『聖水』をどこにやったの、スターリング男爵……いいえ、始末屋ヨシフ?」

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