砂漠の啓示
(……ん? これは……水の音?)
ちゃぱ、ちゃぱという、水の跳ねる音で、エルドレッドは目を覚ました。
横になっていた体を起こす。ガンガンと、金属のハンマーで殴られるような痛みに襲われた。
(どうしたんだこれは。この痛みは? 頭の内側から殴られているようだ!
喉も渇く、まるで、酷い二日酔いをしているようだ……はっ!?)
そこで彼は思い出した。意識を失う前の状況を。
(そうだ、自分はロッテというご婦人と、飲み比べをしたんだった。まさか、彼女があんなにザルだとは思いもしなかったぞ……しかし、僕が眠っていたということは、彼女に負けたということか? まさか……)
頭の痛みに耐えながら、辺りを見回す。
酒場ではない。どうやら、自分はベッドに寝かされているようだ。あまり柔らかくない、平民向けのベッドだが。
そして、今いる部屋も、平民向けの質素な部屋だった。造り付けのタンス、絨毯も敷いていない木の床、やや黄ばんだ壁紙。カーテンのない窓からは、朝陽が差し込んでいる。
扉はふたつ。そのうちひとつから、水の音はしている。まるで、誰かが水浴びをしているような、そんな音だ。
――水浴び。
その言葉に思い至った時、エルドレッドは雷に撃たれたようなショックを受けた。
(『相手を潰した方は――潰された方を、お持ち帰りしてもいい、っていうのは、どう?』)
ロッテは、確かにそう言っていた。
そして、あの勝負で潰されたのは自分であり、潰したのはロッテなのだ。
(もしかして、彼女は――ルール通り、僕を自分の宿にお持ち帰りしたというのか!?)
自分の体をあらためる。服を脱がされた形跡や、情事の痕跡はない。もちろん、懐の財布を抜かれていたりもしていない。自分はただ、昨晩は寝ていただけだ。
ロッテが『お持ち帰りした』獲物を味わうのを、獲物が目を覚ますまで待っていたと言うのなら、今の状況はしっくり来る。
妖艶な、女豹のような本性を露わに迫ってくるロッテの姿を想像して、エルドレッドは思わず生唾を飲んだ。
(水浴を終えたロッテが、バスローブだけをまとった姿で、あの扉から出てくる――)
『あら、お目覚め? おはよう。昨日は楽しかったわね』
(その姿のまま、昨日のように、僕の隣りに座るロッテ。距離感も昨日の通り――)
『ふふ、約束通りあなたを持って帰っちゃった。でも、嫌とは言わないわよね? あの勝負、私が勝って、あなたが負けたんだもの』
(彼女の指が、僕の髪を梳く。そして、あごに手をかけ、僕の顔を上げさせるんだ――)
『味わっても……いいんでしょう? ね、いいのよね? あなたが勝った場合に、あなたが私にしようと思っていたようなことを……しても……?』
(僕はベッドに押し倒される。彼女の笑顔が、近付いてくる。灰色の目がじっと僕を見つめ、濡れた金色の髪が、朝陽に照らされて輝くんだ――)
『大丈夫、任せて。幸せにしてあげる……』
(そして彼女の手が、僕のズボンのベルトにかかって……ああっ、どうしよう、僕の男の矜持が……でも、ワクワクせざるを得ない。ちくしょう!)
そんな妄想を、扉の開く音が断ち切った。
エルドレッドは、少々の期待を込めた目で、そちらを振り返り――硬直した。
「よう、小僧! 目を覚ましたか!」
現れたのは、中年の大男だった。
顔中を縮れたヒゲで覆っていて、胸元や手足にも、体毛がびっしりと生えている。筋骨隆々とした巨体が黒々とした毛で包まれているので、その姿はまるで熊のようだ。
そんな男が、腰にタオルを巻いただけの半裸の姿で、エルドレッドの前に立っている。
「ど、ど、どどどどちらさまでしょう!?」
「おう、俺はベアマン・ジョーってんだ! 鳩撃ちを生業にしとる猟師さ! 昨日、酒場に行ったら、酔い潰れていたあんたを見つけてな! いつまで経っても起きてくれないと、バーテンが困り果てていたんで、見かねた俺が引き取って、この部屋に招待したってわけだ!」
思わずどもってしまったエルドレッドの問いに、ベアマンは豪快に答えた。
「安心しろ、金を取ったり、変なことはしとらん! 寝とる相手にそういうことをするのは、道理に反するからな! どうせ何かするなら、ちゃんと目覚めた相手に了解を取ってからだ! それが紳士ってもんだろう、なあ!」
「は、はあ、わ、わかります」
エルドレッドはわかっていなかった。つい反射的にしてしまったその返事に、ベアマンはにやりと笑い、エルドレッドのいるベッドに腰かけた。そして、その大きな熊のような手で、エルドレッドの肩に手を回す。
「いや、君が実に立派な紳士だったから、ついつい放っておけなかったのだ。最近の男はいかん。軟弱な奴が多過ぎる。やっぱりしっかり体を鍛えた青年でなければ、男とは呼べんと、そう思うのだ。その点、君はまさに男だ。一見着痩せして見えるが、全身にボリュームのある筋肉がついている。バランスも良い。俺の理想とするような肉体だ!」
肩に置かれた手に、力がこもる。ヒゲだらけのいかつい顔が、エルドレッドに近付く。
「俺ってやつはなぁ……いい男を見ると、どうも味わってみたくなっちまうんだ」
エルドレッドの心の中で、警報が鳴った。
「寝台に横になろうじゃないか、なぁ!」
言い聞かせるようなベアマンの言葉。この感覚。戦場で散々味わったものに似ている。
「寝ている間に襲わなかったことを、誠意と受け取って欲しい……安心しろ、幸せな気持ちにしてやるから! 服を脱ごうぜ、なぁ!」
「う、」
うおおおおおぉぉぉぉ――ッ!
裂帛の気合いとともに、エルドレッドはベアマンを振り払った。
窓に突進し、ガラスを突き破り、熊男の家から逃げ出した――何の迷いもない逃亡だった。
後ろは振り返らない。全体力を走ることに注ぎ込み、逃げに逃げた。『幸運探知』の『福音』もフルに使い、ベアマンに追いつかれないルートを探し、ノースクラヴィスの街を駆け抜けた。
(ちくしょう! もっと速く気付くべきだったんだ! 目覚めてすぐ気付くべきだったんだ! 僕が期待したような幸せな展開があるんなら、その情報が『福音』の作用で、目の前に浮かび上がるはずなのに! それが見えないって時点で、おかしいって気付くべきだったんだ!)
(ていうか、何なんだあのおっさん!? 怖い、怖過ぎるよ! 帝国騎士として、猟師ごときとやり合って勝てない、とは言わない! ただ、組み合ったら、勝利とか敗北とか、そういったわかりやすい決着じゃあなくて……もっと違う、死よりも恐ろしい何かが待っているような、そんな気がする!)
(逃げろ僕! 脚が破裂してもいい、一刻も早く、じいのいる宿屋に帰るんだ!)
彼は一切油断せず走り続け、宿屋の入り口でじいやの顔を見た途端、気を失ってしまったという。
こうして――ノースクラヴィスの街は、エルドレッドにとって、(悪い意味で)永久に忘れられない思い出の地となった。
■
エルドレッドが必死に逃げ回っている頃、シャルロットはシュミッツ氏を伴って、ブラッシュ・ランブラー城館を訪ねていた。
「でも、よろしいのですか? シュミッツ隊長自ら、案内役をして下さるなんて……私はもちろん、助かりますけれど」
「なに、お気になさらんで下さい。今となっては、あの城館に一番詳しいのは私ですからな。紹介状を書いて、向こうの連中にあなたを任せるより、こちらの方がことを調べるには好都合でしょう。
我々も、少々行き詰まっていたところですし、現場百篇、事件の復習のつもりで、一緒に勉強させてもらいますよ」
口ひげをしごきながら言うシュミッツに、対面に座るシャルロットは頷く。
ブラッシュ・ランブラー城館に向かう馬車の中、ふたりのシンシアラの密談は、大体そのような内容だった。
灰色の岩以外に見るものがない山道を、ゴトゴトと揺られて行くと、やがて、正面に赤褐色の巨大な壁が現れた。まるで世界をこちらとあちらで隔てているような、広く、高い壁――ブラッシュ・ランブラー城館の城壁である。
真正面には、小屋ほどの大きさの馬車でも通過できそうな大門があり、そこは今、大きく開け放されていた。門の脇に立っていた兵士たち(衛士隊の制服を着ていないので、ヴィッツ伯爵の私兵と思われる)が近付いてきて、御者に何事かを問うた。警戒されているわけではなく、ただの形式的な手続きであったようで、二言三言交わしただけで、兵士は敬礼とともに馬車を城館の中に通してくれた。
弓の競技大会もできそうな広い庭を横切り、高い尖塔を持った美しい館の前に停車する。
屋根は、青みがかった光沢のある陶器で葺いているらしかった。真っ白な漆喰の壁には、上部が半円形になっている小さな窓がずらりと並んでいる。玄関を中心に、両翼が左右対称となっていて、まるで羽根を広げた鷺のようだとシャルロットは思った。真ん中に突き出している物見の尖塔は、さしずめ天を突くクチバシといったところか。
馬車を降りて、玄関ポーチの前に立っていた兵士に挨拶をして、館内に足を踏み入れる。
もちろん、前を行くのはシュミッツだ。シャルロットは、その右斜め後ろを、半歩ほど遅れてついていく。シンシアラの調査員としてでなく、部下の一人とすることで、シュミッツはシャルロットを自然に、この城館に入れさせたのだ。もちろん今回の城館訪問の名目も、現場の再調査ということになっている。
「まずは、どこをごらんになりますかな?」
潜めた声で、シュミッツは右斜め後ろの仲間に訊ねる。シャルロットも、唇がほとんど動かないほどの小声で返した。
「まずは、ヴィッツ伯爵の執務室を。手紙の類がまとめてあるようなら、ちょっと漁らせて頂きたいわ」
「了解しました。執務室は、二階の東側になりますな。行く途中には、現場のサロン・ルームもありますが」
「今はまだ構いません。もう、充分以上に調べられているでしょうし。
それに、まず手紙を確かめたいのです。アンペルバールの帝国騎士団団長から、鷹便で指令所が来ていたかどうか」
「騎士団長? マクアルパイン氏のことですかな。彼が何か?」
思いもよらぬ人物が話に出てきたので、シュミッツは目を瞬いた。
緋色の絨毯を敷いた廊下を進みながら、シャルロットは昨夜、酒場で仕入れた情報を相手に伝えた。階段を登り、城館の二階に着いた時には、シュミッツは事件のまったく違った側面を知った驚きに、ううむと唸り声をあげていた。
「とすると、あなたは――アウシュトン様がヨハネスを引き止めたのは、わざとそうしたのであって、ヨハネスが逃げ出したのは、水を盗もうとしたのを見つかったからではなく、わけあって引き止められたのだということに気付いたからだ――と、仰るのですな?」
「そういう解釈もできる、ということですわ。だからまず、騎士団長から届いたはずの手紙を見て、正確にどんな指示を伯爵が受け取っていたのか、それを知りたいと思いますの」
ヴィッツ伯爵の執務室は、いかにも軍人の好みそうなインテリアに溢れていた。引き出しの多い、実用性に溢れた書き物机。兵法書や偉大な軍人の伝記に溢れた書棚。床には大きな虎革のラグが敷いてあり、壁には美しいサーベルや、よく磨かれた盾がいくつもかけられている。まるで、いつ戦が起きても、ぱっと武器を取って駆け出せるようにしてあるみたいな雰囲気だった。
手紙などがしまわれているとしたら、まず間違いなく机の引き出しだろう。案の定、封の開けられた羊皮紙の束が、引き出しの中からごっそりと発掘された。
その中から、鷹便で運べるほどに小さく、かつ新しそうなものを選んで、内容をチェックしていく。あまり数がなかったので、シュミッツに手伝ってもらう必要すらなかった。あっという間に見つかったそれには、マクアルパイン家の封印がついたままになっており、内容についても、シャルロットがエルディに教えてもらったものと、大差はなかった。
その内容を以下に引用する。
《ホンジツ コウテイノチョクシ セイスイヲモチテ ソチラヲタズネル
ソノオトコ ぶるがりー よはねすヲ ソチラニヒキトメテオイテ モライタイ
カレハ ジュウダイナハンザイジケンノ ヨウギシャデアリ カレノルスチュウニ カタクソウサクヲ オコナウ
スクナクトモ ヒトバン トマラセ あんぺるばーるニ カエサヌヨウ
よはねすハ かーど・げーむヲ オオイニコノムトイウ ショウブニサソイ ネッチュウサセルノガ オソラク モットモコウカテキナ サクセント グコウスル
イノチニカカワルヨウナ ニンムデハ ナイガ シッパイノナイヨウ クレグレモ ヨロシクタノム えるどれっど まくあるぱいん》
読み終えると、シャルロットは憂鬱そうなため息をついた。
(『命に関わるような任務ではないが』ね。書いた本人も思わなかったでしょうね。勇猛果敢で鳴らしたヴィッツ伯爵が、まさか戦場じゃなく、命に関わらないような任務で命を落とすだなんて)
シャルロットに続いて手紙を読んだシュミッツも、同じ感想を持ったものか、沈痛な面持ちで小さくかぶりを振った。
手紙をたたみ直し、引き出しに戻すと、ふたりは執務室を出た。その手紙自体は証拠品でも何でもないので、わざわざ持ち出す必要などはなかった。ただ、シャルロットが内容を確認するために、引っ張り出しただけである。
かくして内容の確認はなされたわけだが、それによって、彼女は再び思考の渦に身を投じることを余儀なくされた。
(マクアルパインの命令自体は、何の問題もない。エルディの言っていた通り……でも、あの一文は気にかかる……シュミッツさんの話してくれた内容と、微妙に一致しないあの一文……。
もしも、ヴィッツ伯爵が私の思った通りの行動を取ったとしたら……そしてそれが、伯爵の命取りとなったとしたら……)
自分の頬に指先を触れさせたまま、中空に視線を彷徨わせる。ブラッシュ・ランブラー城館の廊下を、ゆっくりと歩きながら。
その隣では、シュミッツが腕組みをして、困ったような唸り声を出していた。
「こうなると、ヨハネスが『聖水』の価値に目がくらんで、それを持ち逃げしようとした、という可能性よりは、やはり追っ手の迫ったことを知って、先手を打って逃げ出した、という可能性の方が高いように思われてきましたな。
しかし問題は、どちらが真相であったにしろ、結局ヨハネスの居場所はわからない、ということです。始末屋ヨシフ、という大物犯罪者が、もしかしたら奴を匿っているかも、という想像は可能ですが、そのヨシフ自体、どこの何者なのかわからないのでは、ね!
せめて、何かの手掛かりをヨハネスが残していてくれれば。奴の家の金庫に、ヨシフの正体を示す情報が欠片でも残されていれば、あるいは……」
「――もちろん、それがあるに越したことはないでしょうが……」
ぴた、と歩みを止めて、シャルロットは呟く。何の予告もなく立ち止まったものだから、シュミッツは二、三歩先行したのち、振り返らなくてはならなかった。
「私としては、『何がヨハネスに、あの夜の逃亡を決意させたのか?』が気になりますわ。『聖水』の価値に目がくらんだとなれば、わざわざブラッシュ・ランブラー城館にたどり着く必要もありません。『聖水』を届けずに雲隠れする……あるいは道の途中で、別の容器に『聖水』を移し替えて隠し、もともとの容器にはただの水でも入れて、ヴィッツ伯爵に届ければいいんです。そうすれば、しばらくの間は誰も『聖水』の盗難に気付かなかったでしょうに。
もし、騎士団とヴィッツ伯爵の企みに気付いて逃げ出したのだとしても、なぜヨハネスがその企みに気付けたのでしょう? 伯爵は、きっとヨハネスに自分の真意を悟らせないよう、注意に注意を重ねた上で、ヨハネスを接待していたはずです。危険を察知できる方が、理屈に合わないと思います」
「ふむ。言われてみれば、どちらにしろ不自然な感じがしますな」
「ええ。ひとつ、もしかしたらこうだったんじゃないか、という思いつきはあるのですけれど……」
その思い付きを、シャルロットはシュミッツに確かめてみようと思ったが、その前に別なものに注意を奪われてしまった。
すん、と小さく鼻を鳴らす。どこからか、普段嗅ぎ慣れている匂いが漂ってきたのだ。甘いような、土っぽいような、油っぽいような。シャルロット・フェステとしての彼女ではなく、シャルロット・コルデーとしての彼女が、それに反応していた。
「絵の具の匂い……?」
表の顔が画家である彼女にとって、それは自分の部屋の匂いも同然だった。それと同時に、外出先でこの匂いを嗅ぐということは、『お仲間』が近くにいるということか、『お仲間の作品』が近くにある、ということを指していた。
シャルロットの言葉に反応して、シュミッツが微笑む。
「ああ、それはすぐそこに、アウシュトン様のアトリエがあるからですよ。ほら、そこの大きな扉の部屋です。伯爵の作品も、多く残っておりますが……どうです、ちょっと気分転換に、鑑賞していきませんか」
「ぜひ」
この瞬間ばかりは、シャルロットも調査のことは忘れていた。瞳を輝かせて、ふらふらとシュミッツについてそのアトリエに入っていく。彼女が犬であれば、ぱたぱたと尻尾を振っていただろう。
アトリエは、先ほどの執務室に比べるとずっと質素で、それでいて、やっぱり実務的な部屋だった。正面の壁には窓があるらしく、レースのカーテンがかけられ、それを透過してきた淡い光が、部屋全体をまろやかに照らしていた。木のタイルが敷き詰められた床に敷物はなく、絵の具のぽつぽつとした汚れが目立った。
右手の壁は一面が棚になっていて、木像や絵の具のビン、水入れ、パレット、筆立てなどがずらずらと並んでいた。いずれも使い込まれた道具であり、持ち主が創作に熱心に取り組んでいたことがわかる。
そして、左手の壁に視線を向けた時、シャルロットは眼球の動きを停止させた。そこに、アウシュトン・ヴィッツ伯爵の手になる油絵が、所狭しと飾られていたからだ。
趣味で絵筆を取っていたという故人は、しかし職業芸術家を目指せる程度の才能は有していたようだった。少なくとも、シャルロットはそう評価した。風景画、肖像画、静物画、木炭のクロッキィに油絵、水彩画など、手法もテーマも広範囲に渡りながら、それでも全作品に、力強い筆使いと、躍動感のある構図という一定した個性が備わっていた。
馬に乗った全身鎧の騎士が、角に炎をまとった大鹿の悪魔に、振り上げた剣を叩きつける瞬間のスピード感。口を開けた麻袋から、今にも転がり出てきそうなジャガイモの重量感。おそらくは、ノースクラヴィスの街から見上げた風景であろう、灰色の山の頂上にどっしりと君臨する、ブラッシュ・ランブラー城館の威圧感。
上手い絵、でもあり、良い絵でもあった。この世にある風景を、あるがままにカンバスに写し取っただけのものではない、それらは確かに『作品』であり、『創作物』であり、『芸術品』として昇華させられていた。これらの作品を見て初めて、シャルロットは作者であるヴィッツ伯爵の死を残念に思った。
「アウシュトン様は、アンペルバールに住むサウスという画家と親交があったそうで、彼に絵の基本を学んだそうです。
ご存知ですか、ガイアナ・サウスという肖像画家を? 宮廷に出入りする大貴族たちの間では、彼に肖像を描かせるのがステータスとなっていると言いますが」
「ええ、ベルホルム帝国屈指の芸術家ですわね。確か、衛士隊詰所に飾ってあったヴィッツ伯爵の肖像も……?」
シャルロットの返事に、シュミッツは嬉しそうに頷く。
「左様です。あれの製作中、サウス氏はブラッシュ・ランブラー城館に滞在なされましてな。その間に手ほどきを受けたとのことです。
私はあまり絵に詳しくはありませんが、やはりこれらの絵には、詰所にある肖像画を思わせる特徴が、つまりサウス氏の影響が見て取れますな。絵の具を大胆に、厚く塗るやり方とか、明と暗のコントラストの強さとか。サウス氏は実に印象的な作品を描く画家でしたから、アウシュトン様の作品も師匠と同じ方向性を示していても、不思議ではないでしょう。
ただ、あくまで個人的な意見を言わせてもらうと、私は絶妙なデフォルメで動きを強調している伯爵の絵の方が、やや好ましく思われますがね」
意外と芸術に対して意見を持っているらしい衛士隊隊長の言葉を、上の空で聞きながら、シャルロットは絵画を楽しんでいた。
その表情は、とても満足そうだった。しかし、ある作品に目を留めた瞬間、それは困惑に変わった。
彼女の心に引っかかったのは、壁にかけられていたものではなく、イーゼルの上に立てられていた作品であった。砂漠の風景を描いた一枚の油絵で、絵の具の乾き方が新しく、いまだ生乾きのような香りを放っている。つい最近完成したか、あるいは描きかけで中絶した作品であろう。
不思議な印象の絵だった。画面の上半分が星の瞬く夜闇で、下半分がぼんやりと青白く光る、なめらかな砂丘の連なりという構図。どこか物寂しい、時の止まってしまったような雰囲気を醸し出している。
わりとラフに描かれているし、他の作品と比べると、とても地味だ。少なくとも、他の作品にあるような動きやパワーが感じられない。
もちろん、これはこれで悪い作品ではない。静かで、冷たい感じがして、幻想的な雰囲気が好みの人なら、これを他のものより高く評価するかも知れない。
しかし、アウシュトン・ヴィッツの作品として飾られるとしたら、違和感が拭えない。他との整合性に欠けているのだ。
もしかして、ヴィッツ伯爵は新しい作風に挑もうとしていたのかしら、と、シャルロットは思ったが――。
(それにしては……あら?)
彼女はあることに気付き、その絵をそっと持ち上げた。
裏を見る。そこには、やや角張った文字で、『アウシュトン・ヴィッツ作』と書かれていた。完成年月日は書かれていない。
他の作品も取り外して、裏を見てみる。そこには、砂漠の絵のサインよりは滑らかな字で、『アウシュトン・ヴィッツ作、××年××月完成』と書いてある。他の作品たちも、だいたいはそのような風に書かれていた。砂漠の絵だけが、テンプレートから外れている。いや、もちろん、まだ描きかけだから、完成年月日が記されていないだけかも知れないが――だとしたら、サインもまだであってしかるべきではないか?
「……シュミッツさん。お訊ねしますが……凶器を捜索した時、この部屋も調べましたか?」
その問いに、シュミッツは自信を持って頷いた。
「間違いなく。部下たちにはひと部屋探し終わるたびに、私に報告を入れさせましたからな。
この部屋も、隅々まで探させました。棚に置いてあるものは全部除けて調べましたし、絵も壁から外して、裏側に貼りつけていないか確かめさせました。筆立ての中や、パレットナイフに混ざっていないことも確認済みです」
「そうですか。だとすると……」
砂漠の絵を持ったまま、シャルロットは窓際まで移動した。
レースのカーテンを開ける。途端に、朝の強い日差しがアトリエの中に溢れた。シュミッツは、眩しさに思わず目を背けたほどだ。
シャルロットは目を細めながら、貫くような光のシャワーの中で、持っていた絵を見つめた。
その姿は、まるで祭壇に祈りを捧げる巫女のように、荘厳であった。
シャルロットが信仰しているのは天使ユカニムであり、『聖杯』であり『聖水』だったが、『陽の光』というものも、同様に神聖な力を持つと見なされることが多い。ならばそれが、謎という邪悪な闇を祓ったとして、何の不思議があろうか。
「こ、これは……」
眩しさをこらえながら、逆光となったシャルロットの影に目を向けたシュミッツも、それに気付いた。
シャルロットは笑った。絵を高々と掲げ持ちながら。
この瞬間、『真実』という名の啓示を、彼女は受け取ったのだ。