幸運な巡り合い/エルドレッド・マクアルパイン登場
その夜、シャルロットが彼と出会ったのは、完全な偶然の産物だった。
しかし、相手にとっては必ずしも偶然ではなかった。彼は、出会いのほんの少し前の時点で、シャルロットがそこにいることを知っていたし、知っていたからこそ、望んで彼女に会いに足を運んだからだ。
彼は、そういう能力を持っていた。名前は、エルドレッド・マクアルパイン。帝国騎士団団長を務める、誇り高き青年貴族である。
「じいよ、気が変わった。今夜は、このノースクラヴィスに留まるとしよう」
「は?」
ノースクラヴィスのメインストリート、酒場を示す看板の下で――エルドレッドの突然の言葉に、後ろを歩いていた老僕は、疑問符付きの一音を発した。
その胡乱な返事に満足しなかったエルドレッドは、カラメルを思わせる明るい茶髪をかき上げながら、妙に芝居がかった口調で、背後の老僕に向けて繰り返した。
「今夜は、この街に留まると言ったのさ。確かにもう、ブラッシュ・ランブラー城館における調査は終わった。この街の衛士隊長からも、詳細な捜査資料の写しを受け取った……もはや、この街で得られるものは何もない。だから、速やかに帝都に戻り、今後の行動を騎士団の皆と話し合わねばならないというのは道理だ。
だけど、まだこの街の人々と、言葉を交わしていないのを思い出したんだ。市井の噂というのは、情報として意外と馬鹿にできないものだ。特に、酒場で交わされるような忌憚ない会話はな。
だから、ひとつ酒場に入って、人々の話に耳を傾けてみようと思うんだ。なに、ほんの数時間、日が変わるぐらいまでにしておくさ。それで何か面白い話が聞ければ儲けもの、ただの駄弁りしか聞けなくとも、特に損はすまい。むしろ、一晩休息を取って、英気を養うことができる。ここしばらく、働き通しだったからな、ここいらで一度休息を取るのも、悪くないと思わないか、なあじい?」
情報収集と休息を兼ねた、スケジュールの繰り下げ。要するにエルドレッドの提案とは、そういうものだった。
高度なメリット・デメリット計算をした結果の判断に聞こえるが、実際はそうではないことに老僕は気付いた。彼は、主人の言葉に含まれた、わずかな言いわけ臭さを敏感に嗅ぎ取っていたのだ。
「坊ちゃま……また何か、幸運を見つけられましたな?」
その言葉に、エルドレッドの肩がぴくりと震え、エメラルドのような濃い緑色の瞳は、スーッと気まずげに逸らされた。
「坊ちゃまがお生まれになる前から、マクアルパイン家にお仕えしております、この私ですぞ。変に誤魔化さずとも、仰せの通りにいたしますとも。
宿に部屋を取っておきましょう。遅くなるようでしたら、私は勝手に休ませて頂きますから、どうぞごゆっくり酒場で英気を養って下さいませ。ただしくれぐれも、羽目を外し過ぎませぬよう……」
「あ、ああ、わかっているとも! うむ、今夜は特別に、僕より先に床に就くことを許そう。まったく、お前のような気のきくしもべを持てて、僕は幸せだ!」
まだ幼さの残る顔いっぱいに喜びをあふれさせて、エルドレッドは老僕の肩を叩いた。実際、彼はこの老人のことを高く買っていた。しつけに厳しく、口うるさい時もあるが、基本的にこの若い主人に甘いのだ。
それに、エルドレッドの扱う『福音』についても知っているから、彼が突然脈絡のない行動を取ろうとしても、深く聞かずにサポートに回れる機転も持ち合わせている。
エルドレッドの持つ『福音』の能力。それは『幸運を探知できる』というものであった。
自分を中心としたある一定の範囲の中で、確実に巡り合うことのできる幸運な出来事を、詳しい解説付きで知ることができるのだ。
たとえば、地面に宝物が埋まっている場所に、エルドレッドが近付いたとする。すると、彼の目の前に【十一時方向、距離七メートル、制限時間なし。土を一メートル掘ることで金貨百三十二枚を取得できる】という感じに、幸運の詳細な情報が浮かび上がる。方向、距離、時間制限、幸運の説明がセットになっており、その内容は絶対に正しい。
エルドレッドはこの力を、一手先を読むことが生死を決める戦場において活用し、数々の危難を乗り越えてきた。【五時方向、距離三メートル、制限時間五秒。岩陰に隠れることで生きて帰れる】といった具合だ。彼の指揮する軍団は生還率が非常に高いと、国内外で高く評価されている。この『福音』こそが、エルドレッドを若くして帝国騎士団団長の地位に押し上げた――と言っても過言ではない。
しかも、それは戦闘中でしか使えない能力というわけではない。
未来が見えるということは、日常生活でも大いに役立つのだ。
ほんの数十秒前に眼前に浮かんだ、未来の幸運を指し示すヴィジョンを思い出す。それは、エルドレッドにとって、富や名誉より優先すべき、重要な知らせであった。
その内容は――。
【三時方向、距離五メートル。制限時間三時間三十一分。美女とお酒を飲みながら楽しくおしゃべりできる】
というものである。
エルドレッド・マクアルパインは、誇り高き青年貴族であり、強く勇気ある帝国騎士団団長だった。しかし同時に、美しい女性との出会いと交際をことのほか好む、積極的なオトコノコでもあったのだ。伯爵殺しの裏切り者を探すという公務の最中でも、その性質は抑え切れなかったらしい。
老僕と別れたエルドレッドは、酒場のドアを押して、中に入った。
来客を知らせるドアベルの音が、ひと気のないがらんとした店内に、空しく響いた。四人がけのテーブルが三つ、ふたりがけの小テーブルが、同じく三つ。そのいずれにも、客の姿はない。
エルドレッドの視線は、右手側にあるカウンター席に注がれた。とまり木のひとつに、彼の求める小鳥がとまっていた。
肩にかかる程度の金色の髪は、まるで朝陽に煌めく清流のよう。白い肌、そしてばら色の頬。野暮ったい少女にはない色気と、夜の女にはない品の良さを兼ね備えたそのかんばせ。特に、その唇が印象的だった。小さな、しかしふくよかな、濡れた唇。まるで桃の果肉のように、己の口に触れさせた時の甘味が想像できる。
真っ黒で丈の長い、光沢のないドレスも、一見地味なようで、彼女の魅力を引き立てていた。豊かな胸の膨らみ、腰の細さ、そして脚の長さを、シルエットだけで表現している。
美しいひとである。可愛らしく、セクシーでもあるが、それ以上に美しい。
エルドレッドは、女性から四つ離れたとまり木に腰を下ろした。そして、さりげなく目当ての女性を眺める。その横顔は、絵にして飾っておきたいほどに素敵だった。
「何になさいましょう、旦那」
陰気な顔をした、白髪頭のバーテンダーが、エルドレッドに声をかけてきた。芸術鑑賞の時間を邪魔された気分だったが、酒場に入って酒を頼まぬわけにもいかない。適当に注文しようとして――その瞬間、天啓が彼の頭に降りてきた。
「オン・ザ・ロックを。彼女にも、同じものを渡してくれ」
(そうさ、酒場で女性に声をかけるなら、一杯おごるのが一番だろう?)
バーテンダーは頷き、ふたつのウイスキー・グラスを用意した。大きめに砕いた氷を入れ、ゆっくりとウイスキーを注ぎ込む。そうしてできたひとつをエルドレッドの前に、そしてもうひとつを、女性の前に滑らせる。
注文していないものが出てきたのを訝しく思ったのだろう、女性は顔を上げた。そこへバーテンダーが、小さく何かをささやく。きっとお決まりのセリフだろう――「あちらの紳士からの贈り物です」といったところか。
エルドレッドは背筋を正した。そして最も男らしく、華麗に見えるように計算した動きで、グラスを口に運んだ。
狙いすましたその瞬間、女性はエルドレッドの方を向いた。灰色の瞳が、一秒、二秒、三秒と、まるでエルドレッドの姿を目に焼きつけようとしているかのように、じっと見つめていた。
相手の興味の視線を感じて、しかしエルドレッドはすぐに反応したりはしない。しばし待ち、自分の姿が相手の心にしみ込んだのを見計らって、絶妙のタイミングで視線を返す。そして、ふたりの視線がぴったりと交差したところで、微笑みを捧げるのだ。
そうなれば、相手はもう鏡に映った自分も同然である。視線に視線を返した。ならばこちらが微笑めば、彼女も微笑みを返してくれる。エルドレッドのところに返ってきた微笑みは、まるで黄薔薇のように艶やかだった。
小鳥は、とまり木を飛び立った。エルドレッドの贈ったグラスを手に。
そして、再びとまった。エルドレッドの、すぐ隣の席へ。
「こんばんは。いい夜ね」
「こんばんは。そうだね、とてもいい夜だ。とても綺麗な月が出ているからね」
「あら。ここからじゃ、外に出ないと月は見えないんじゃない?」
女性は、よろい戸の閉まった窓の方を見た。確かにこの酒場の中からでは、月どころか、外の星空さえ見えない。
だがエルドレッドは、小さく首を横に振って、落ち着いた様子で言った。もちろん、女性の美しい灰色の目を、しっかりと見つめて。
「いいや、見えるよ。僕の目の前に、綺麗な月がある。空に浮かぶ青白い天体より、ずっとずっと綺麗な、黄金に輝く月がね」
「あら。騎士様かと思ったのだけど……詩人さんだったのね」
くすくすと、口元を隠して笑う。控えめで、上品な仕草。
「騎士にでも、詩人にでも、男なら何にだってなれるものさ。きみが望むなら、たぶん、道化や、恋人にも」
「なら、一夜の友人にも?」
「もちろん」
その言葉に、満足したように女性は頷き、オン・ザ・ロックに口をつけた。
「ちょうど、ひとりで飲むのもつまらないと思っていたところなの。ご迷惑でなければ、話し相手になって下さる、ミスター?」
「喜んで。僕のことは、気楽にエルディと呼んでくれ」
「私はロッテよ。よろしくね、エルディ」
この瞬間、エルドレッドは心の中でガッツポーズをキメた。美しい大魚を釣り上げた気分だった。これは楽しい夜になるぞと、胸を躍らせていた。
一方、彼の一夜の友人になったロッテ――シャルロット・フェステも、心の中で笑っていた。それはもう、ニヤリと。ニコリではなく、ニヤリと。
もし人の心を視覚的に捉えられる『福音使い』がいたなら、粘つく糸で蝶を捕まえた大蜘蛛の姿を、シャルロットの中に見ただろう。だが、そんな力を持たないエルドレッドは、彼女の本性に気付かなかった。
少なくとも今と、これから数時間の未来さえ幸せであれば、彼は満足だったのだ。
■
(まさか、こんなところで帝国騎士団の人間から、情報を引き出す機会に恵まれるなんてね)
シャルロットは、体を暖めてくれる冷たい液体でノドを潤しながら、エルディと名乗った帝国騎士団団長、エルドレッド・マクアルパインを見つめていた。
彼女がこの酒場を訪れたのは、ほんの偶然からだった。宿の主人に、酒を飲めるところはないかと訊ねたら、この場所を紹介されたのだ。
本来ならば、酒場の主人も喪に服して、店を閉めているつもりだったらしいのだが、仲のいい宿屋の主人の紹介だったことと、観光客に退屈な思いをさせるのはノースクラヴィスの為ならずという思いと、喪の休業で収入が途切れて少し経済的に厳しかったので、ほんのちょっとぐらい小遣い稼ぎをしても、伯爵の魂も怒りはすまいという小市民的な感情によって、店を開けてもらえることになったのだ。
そうして約一時間、ウイスキーのダブルを三杯、ブランデーをグラスで四杯、ビター・オレンジのリキュールソーダ、砕いた氷と潰したミントをたっぷり入れたラム、ブルーベリーを発酵させたブルーワインを各一杯ずつ楽しみ、酒場の経営を潤わせていた。
もう二、三杯飲んだらほろ酔いになれるかしら、と思っていた頃に、彼女の前にエルディが現れた。
ひと目で、これが帝国騎士だとわかった。だって着ているのが、帝国騎士団の制服だったから。赤地に金の刺繍、胸元には赤い宝石をあしらった上着。黒くて光沢のある、上等な生地のズボン。臙脂色のマントをまとい、腰にはレイピアを下げている。とてもわかりやすい。
ついでに、彼がただの帝国騎士ではないということも想像がついた。先刻シュミッツから聞いた話――帝国騎士団の団長が今日、直々にノースクラヴィスを訪ねてきたと――つまり、この街にいる帝国騎士団の人間は、帝国騎士団団長であってもおかしくないわけだ。
そして、目の前の男は『エルディ』と名乗っている。
帝国騎士団は、帝国を代表する軍団であり、そこのトップに位置する者たちは帝国を代表するエリートだ。つまり、国際的な有名人だ。
シンシアラという、国境を越えた情報機関に所属するシャルロットでなくても、ベルホルム帝国騎士団の団長が、エルドレッド・マクアルパインという若き貴族であるということぐらいは知っている。茶髪で、エメラルド色の目を持つ美男子であるということも、知れ渡っている。ゆえに、シャルロットがエルディ=エルドレッドなんだろうなぁとうすうす察したとしても、何も不思議ではない。
もしこれが、普通のナンパであれば、シャルロットも特に裏もなく、相手との会話を楽しんだだろう。だが、貴重な情報源が、塩コショウを振ってレモンを添えた上で、皿に乗せられてやってきたならば、その幸運に感謝しつつ、美味しく頂かねばならない。今、この瞬間、彼女は酒場の客のロッテであり、シンシアラのシャルロット・フェステであり、しかし画家のシャルロット・コルデーではなかった。
「私、ここに観光に来たのよ。友達が、とても活気があっていい街だって言うから。でも、来た時期がまずかったわ。まさか、ご領主様の喪と重なるなんて、思いもしなかったから」
言いながらシャルロットは、ちびりちびりと、少しずつ舐めるように、オン・ザ・ロックを味わう。普段なら、この程度の酒はひと口でいってしまうのだが、それが男受けしない飲み方だということぐらいは心得ているのだ。
「そうだろうね。亡くなったヴィッツ伯は、騎士団でも勇猛果敢な男として知られていたが、まさかこんなに早く天に召されるとは……運命とは、わからないものだ。
僕の運命も、明日にはどう変わるかわからない。今日だってまさか、こんな静かな街で、きみのような美しい妖精に出会えるとは思ってなかったからね」
「あなたは、観光ではなさそうね? プライベートでも、騎士団の制服を着ている人なんて見たことないもの。
伯爵のお葬式に出てきたのかしら? それとも、それ以外のお仕事?」
エルディの褒め言葉を軽く流して、彼自身のことに話題を移すシャルロット。
その問いかけに、エルディは少しだけ目を逸らして、グラスに口をつけた。なるべく正直に話さずに済ませたい時の、男の子の仕草だ。
「ん、葬儀には昨日出てきた。武人らしく、控えめだが厳かな式だったよ。だけど、その時の様子なんか話しても、美味しい酒は飲めないだろうな」
「あ……ごめんなさいね。私ってば、無神経なこと聞いちゃったわ。普段なら、もうちょっと話題を選ぶのに。
やっぱり、調子が狂ってるんだわ。楽しむつもりの旅行が、なんだかしんみりしちゃったから。街全体が、悲壮感で息が詰まりそうになってるんだもの。
伯爵様が、寿命で安らかに逝かれたというのなら、ここまで極端なこともなかったんでしょうけど……理不尽な暴力で命を奪われた、なんて悲劇が起こったとなると、こうなっちゃうのも仕方がないのかもね。
まったく、せっかく新しい友達と出会えた夜なのに。伯爵殺しの犯人を恨まずにはいられないわ」
憂い顔と、小さなため息。それは女性をか弱く見せる、空気の魔法だ。
その魔法にかけられたエルディは、か弱き乙女に元気を与えるべく、自信に満ちた声でこう言った。
「なに、安心したまえ。遠くないうちに、犯人は捕まるさ。
我々、帝国騎士団の人間も、鵜の目鷹の目で敵を追っているんだ。犯人の名前も顔もわかっているから、遠からずシッポを掴んでみせる。そうなれば、この街もまた以前の活気を取り戻すだろう」
「まあ! 犯人がわかっているだなんて。もうそこまで調べが進んでいるの? すごいわ!
騎士団の人って、強くて勇気があるだけじゃなく、頭脳も優れているのね」
感心したように驚いてみせ――尊敬の眼差しで、エルディを見つめる。
重い空気が軽くなりかけたのを、彼が感じてくれたなら、シャルロットとしては万々歳だ。相手に笑ってもらえる話題さえわかれば、人はその話題に集中して話そうとするものだから。
「なに、綿密で迅速な捜査の賜物さ。こちらの街の衛士隊の方々も、よく調べてくれていたから、双方の情報を合わせて、事件の大まかな輪郭はすぐに明らかになった。
犯人は、もともと我々帝国騎士団が目をつけていた大悪党でね。これまでにも、影で悪事を重ねていた男だ。証拠がなかったから、今まで手を出せずにいたんだが……今度こそはそうはいかない。必ず、我々の手で……!」
「大悪党? 悪事を重ねていたって、どういうことなの?」
シャルロットは思わず聞き返した。ブルガリー・ヨハネスは、皇帝から『聖水』の使いを任されるほどの、優れた伝令役だったはずだ。
少なくとも、伯爵殺害以前の前科については、まだ誰からも聞いていない。
エルディは小さく頷くと、シャルロットの耳元に唇を寄せて、そっと潜めた声で話し出した。
「これはここだけの話なのだがね。この事件は一般には、犯人の男が伯爵を殺し、ある『宝物』を奪って逃げたという、単純な強殺事件であるように言われている。だが、我々の調べたところによると、そこにさらに裏がありそうなのだよ。
仮に犯人を『Y』と呼ぼう。Yは、宮廷から直々に仕事を任されるほどに信用されていた人物なんだが、その実務能力と顔の広さを利用して、近頃ではよくない副業に手を染めていた、という疑いがあるんだ。
他者との交流が盛んで、信用も勝ち得ている人間は、自然と人の『秘密』を手に入れる機会が多くなる。愚痴や噂話を聞かされたり、本人から打ち明けられたりしてね。そして、その秘密を利用した副業というと、何が思い浮かぶかな? そう……脅迫さ」
その言葉に、シャルロットは今回の事件を構成するピースが、またひとつ増えたことを感じた。
「昔から、疑惑はあった。Yがある貴族を脅迫して、金品をせしめているという匿名の手紙が来たことがあるし、ある商人の小間使いから、Yが主人に金を要求しているのを聞いた、と訴えられたこともある。
しかしどちらも証拠がない。匿名の手紙の方は、手紙の送り主も脅迫されている貴族の名もわからないし、商人の方は、商人自身がその話を否定した。これでは、騎士団としてもYに手の出しようがない。
しかし先日、とある子爵夫人が、遺書を残して入水するという事件が起きた。その遺書には、彼女がとある若い舞台役者に送った恋文を、Yに横取りされて、それをタネに脅迫されていたという旨がしたためてあったんだ。
この事件を、騎士団は重く見た。夫である子爵も、この件をぜひ追及して欲しいと頼んできた。このような悪党が野放しになっていては、妻のような死に方をする者がまだまだ出るかも知れぬ、と言ってね。僕も同感だった。
しかし、証拠らしいものは、今は子爵夫人の遺書しかない。そこで我々は一計を案じたんだ。Yが、このノースクラヴィスを仕事で訪ねるという話を聞いたから、その留守中にYの邸宅を家捜しし、脅迫行為の決定的な証拠をつかんでやろうと考えたのさ。
もちろん、高等法院の許可は取ってあった。奴が帝都を出発したのを確かめて、奴の家に押し入り、屋敷中をひっくり返さんばかりに探し回った。
時間はかかったが、地下の隠し金庫の中から、たっぷりと証拠を見つけたよ。貴族、裕福な平民、さらには聖職者まで……実に三十人近い人々の弱みを集めた書類の束をね。
脅迫のタネは、不倫の証拠だったり、犯罪の証拠だったり、まあいろいろさ。さらには、脅し取ったお金の山も、一緒に見つかった。
Yを百年以上監獄に押し込んでおける材料が、一気に手に入ったわけだ。あとは、Yが帝都に帰ってくるのを、手ぐすね引いて待てばいい……はず、だったんだが……」
「逃げちゃったのね? Yは。そんな絶妙のタイミングで。伯爵を殺すという、新たな罪を犯して」
「その通り。まったく、この街の衛士隊から連絡を受けた時は、大いに驚いたよ。
もしかしたら、奴はこちらの動きに気付いていたのかも知れない。だから、この街を訪れる仕事の機会を利用して、姿をくらませたんじゃないだろうか。
僕たちに協力してくれた伯爵の命を奪い、逃亡資金として『宝』を奪って……」
「協力? ヴィッツ伯爵が、あなたたち騎士団に?」
シャルロットが首を傾げると、エルディははっとしたように自分の口を押さえた。
その態度に、何かあると感じるのはさほど難しいことではない。シャルロットはあえて、エルディを問い詰めなかった。しかし、彼の目を正面から見つめた。じーっと、目を逸らされるのにもかまわず、ひたすらに見つめ続けた。
その視線の重圧に耐えかねたエルディは、ついに口を割った。ただし、先ほどよりさらに声を潜め、シャルロットにこう確認した上でのことである。
「……ロッテ。君は、情報ギルドとは関わりがないだろうね? ベルホルム・タイムズや、アンペルバール・デイリーとかに勤めている友達がいたりもしない?
いや、数日中には公開される予定の情報ではあるんだが、僕という一個人が勝手に発表していいような話でもないからね。友人としての君の口の固さに、期待してもいいだろうか?」
「安心して、エルディ。情報屋さんは便利だけど、あいにく私とは縁がないの。
今夜あなたと話したことは、誰にも内緒。胸の奥に、鍵をかけてしまっておくわ。それでいいでしょう?」
自分の豊かな胸の膨らみを指差して言うシャルロットと、ついついその指の先を見てしまう素直なエルディ。
互いの了解が成ったので、エルディは頷いて話を続けた。
「Yがアンペルバールを発つ前に、僕たち騎士団は鷹便を使って、ヴィッツ伯爵に協力を依頼していたのさ。アンペルバールのY宅捜索に充分な時間をかけたいから、そちらでYを引き止めておいてくれってね。
実際、伯爵は上手くやってくれたらしい。昼食をご馳走したり、カード・ゲームに誘ったりして、奴を帰さなかった。ついには、ブラッシュ・ランブラー城館に宿泊させることまで了解させた。
おかげで、アンペルバールにいた僕たちは、巧妙に隠されていたYの金庫を探し出すことができたんだが……」
エルディの話を、シャルロットは頭の中で整理する。伯爵がY=ヨハネスを引き止めたのが、意図的なものだったとすると、その時の伯爵の様子が、ヨハネスには不審に思えたのかも知れない。
だとすると、ヨハネスが夜中に突然城館を去ったことにも説明がつく。朝まで城館にいては、自分を捕まえようとする騎士団の手が、アンペルバールからやって来てしまうと思ったのだろう。
彼が『聖水』を奪ったのは、脅迫罪の発覚を察した時に、逃亡資金を用意できる状態ではなく、手に入る金目のものがそれしかなかったため。伯爵を殺したのは、逃げようとしたところを見咎められ、捕まりそうになったのでやっつけた、といったところだろうか。
エルディもまた同じ考えであるらしく、憂鬱そうにグラスを傾けていた。
彼は騎士、戦いによる死の中に、多く身を投じてきた人間である。命を落とした仲間を悼みはするが、その悲しみを長く持続させることはない。不人情とは言うなかれ、戦場において、死は日常だ。仲間の死を悲しみ続けていては、戦い続けることなどできない。死者を埋葬し、祈りを捧げると、悲しみの代わりに英霊への敬意を胸に抱いて、次の戦場に向かうのである。
騎士の死を悲しむのは、ノースクラヴィスの人たちのような、戦場に立たない人たちの仕事なのだ。
しかし、ヴィッツ伯爵の死は、いわゆる名誉の戦死ではない。帝国騎士団からの命令に従った結果である。
一番憎むべきは、伯爵を殺した犯人だろう。しかし、犯人を引き止める仕事をさせなければ、伯爵が死ぬこともなかったはずだ。余計なことをやらせたばかりに――それを思うと、エルドレッドの心には、死者への敬意の他に、後味の悪さが浮かんでくるのである。
そんなエルディの気持ちを察したシャルロットは、彼の肩にそっと手を乗せて、慰めるようにささやいた。
「となると、エルディはなおのこと、伯爵様の仇を討つために頑張らないといけないわね。
Yを早く捕まえて、処刑台に送り込んで、伯爵様の墓前にご報告するの。それが成ってこそ、伯爵様も騎士団の仕事に一役買った甲斐があるというものだわ。そうでしょう?」
「……ああ、もちろんさ。正義は必ず勝つ。そして正義は、常にベルホルム帝国の名の下にあるんだ」
「そう、そうよね。世界に冠たるベルホルム。そのベルホルムが誇る帝国騎士団のひとりが、あなたなのよ、エルディ。だったら、常に獅子のように雄々しくいなくちゃ……」
母のように優しく、妻のように甘く、シャルロットはエルディを元気付ける。その指先は、男のたくましい肩を、なぞるように撫でていた。
ぐっ、と男らしく、オン・ザ・ロックを飲み干し、エルディはバーテンダーに二杯目を要求する。
「ああ、そうだとも。僕は頑張らなくっちゃあな……ありがとう、ロッテ。今夜、この酒場に立ち寄ったのは、本当に正解だったようだ。帝国騎士団員のあり方は、君の言ったようなものでなくてはならない。
うん、そうだ、伯爵の仕事を無駄にしないよう、頑張らなくちゃ。Yは必ず、捕まえる。
Yを捕まえることで、奴が脅迫していた犯罪者も捕まえることもできるんだ。悪を討つことこそ、この世の正義……伯爵のため、ベルホルムのため、僕は戦うぞっ!」
力強く叫ぶエルディ。使命感が、彼の心に刺さった罪悪感というトゲを引き抜いた瞬間だった。
そんな彼の様子を、シャルロットは微笑ましく眺めていたが、ふと、思いついたようにこう訊ねた。
「ねえ、Yを捕まえれば、Yが脅迫していた犯罪者も捕まえることができるって言ってたけど……それはどういう意味なの?
Yの金庫の中から、脅迫の材料を見つけ出したのよね? もしそれに、脅迫されていた犯罪者の、悪事の証拠も含まれていたのなら、Yがいなくても、その証拠品だけで、脅されていた犯罪者を有罪にすることができるんじゃないのかしら?」
「ああ、確かにYの金庫には、犯罪の証拠も山と入っていた。盗品売買のリストだとか、脱税のために改ざんされた帳簿だとかいったものがね。だから、ほとんどの奴については、そのまま監獄送りにできる。
だが、一名だけ……特に大物の犯罪者に関する証拠品だけが、その中に入っていなかったんだ。その人物から金を受け取った、という、領収書が入っているだけでね。
しかも、その領収書に記載されている名前は、犯罪者としてのいわゆる『通り名』に過ぎないものだったんだ。おそらくYは、その犯罪者の正体を知っていただけだったんだろう。そしてその犯罪者は、証拠などなくても、本名を公表されて、自分に疑いの目が向くこと自体を恐れて、Yに金を払っていたんだ。
だから、その人物を捕まえるには、先にYを捕らえて、その正体を聞き出さねばどうしようもないのさ。Yの頭の中にしか、脅迫されていた犯罪者の本当の名は刻み込まれていないんだからね。
Yを手掛かりにして、その隠された犯罪者を突きとめることができれば、それは大いにベルホルム帝国のためになる。長くこの国の暗部に君臨し続けてきた相手なんだ……この機会、絶対に逃せないというのが、僕ら帝国騎士団の総意なのさ」
シャルロットは思う――どうやら、話がだんだん大きくなってきたようだ。
単純な伯爵殺害『聖水』盗難事件かと思いきや、帝国騎士団の捜査活動が絡んでおり、さらにベルホルム犯罪界の大物が関わってくるとなると。
ブルガリー・ヨハネスへ続く糸は、どんどん長く、複雑に枝分かれしていくように思われる。ただひとりの敵を、無心に追い続けていけばいい、というわけにはいかないらしい。
ならば。できるだけ正しい糸を手繰れるように、情報を得られるだけ得ておかなくては。
「恐ろしい話ね。悪者の親分みたいな人まで、この伯爵殺しに関わっているかもしれないの?
聞いた話じゃ、伯爵殺しはあくまでYの個人的な仕事みたいだけど。その脅されていた犯罪者というのが、Yを匿う、なんてこともしてるかも知れないわね。
で、その脅された犯罪者……ん、ずっと脅された犯罪者って呼び方じゃ、長ったらしくてしょうがないわね。何て呼ばれてる人物なの?
大物なら、もしかしたら私みたいな一般人でも、名前ぐらい知ってる人だったりして、ね?」
さりげなく聞くと、エルディは特に気にもせず、あっさりと教えてくれた。
「いや、さすがに知らないと思うな。騎士団や衛士隊は、長く追っている怪人なんだが……そいつは俗に『始末屋ヨシフ』と呼ばれている。
こいつ自身は、人を殺すわけでも、盗みを働くわけでもない。ただ、他人の犯罪の証拠を『始末する』ことによって、報酬を得ているんだ。殺人事件の死体だったり、凶器だったり、犯罪者にとってこの世に存在してもらっては困るモノを、二度と発見できないように消し去ってしまう。
どういう方法を使っているのかは知らないが、ヨシフのところに持ち込まれた品物で、再び陽の目を見たものはひとつとしてない。こいつのおかげで、どれだけの数の事件が、証拠不十分で迷宮入りになったことか」
(証拠品を――消す、ね)
始末屋ヨシフなる大物犯罪者の特徴に、シャルロットはふと伯爵殺害事件の状況を思い出した。
あの現場からも、いろいろ消えていた。ブルガリー・ヨハネス。『聖水』。そして、伯爵殺害の凶器――。
(まさか、ね)
ブルガリー・ヨハネスは消されたのではない。勝手に消えたのだ。『聖水』はヨハネスが持っていった。凶器の刃物も同様に。それらは、ヨシフのしわざではない――たぶん、きっと。
だが、逃げたヨハネスが頼るとしたら、このヨシフという怪人はうってつけだ、と思われる。脅迫によって言うことを聞かせられる人物であり、金庫の書類から騎士団に素性がばれていない人物であり、なおかつ、犯罪界に精通している人物。自分を匿わせることも、逃走のための路銀を要求することも、もしかしたら、外国へ脱出するための手段を用意させることも、充分に期待できる。
いや、むしろ、今現在、ヨハネスが唯一頼ることのできる相手が、犯罪者ヨシフであるはずなのだ。
(そうだとしたら)
騎士団は、ヨシフを追うためにヨハネスを追っている。しかし、逆に考えれば、ヨシフの尻尾を掴めば、ヨハネスの尻尾も掴めるのではないだろうか?
シャルロットは考えながら、グラスに口をつける。しかし、舌にぴりりと来る甘美な雫は落ちてこない。いつの間にやら、彼女はエルディのおごりであるオン・ザ・ロックを飲み干していたのだ。
仕方なく、バーテンダーに次の一杯を注文する。よく見ればエルディのグラスも空になりかけていたので、ついでに新しいものを注文してあげた。今度は自分のおごり、という言葉を添えてだ。
すると、慌てたのがエルディである。彼にも男の矜持というものがあった。格好をつけて女性に酒をおごって、おごり返されては台無しだ。
「いや、いやいや待ってくれロッテ! ここは君の分も、僕に払わせてくれないか。この楽しい時間を過ごさせてもらっている対価としてはささやかだが、酒代ぐらいは出しておきたいんだ!」
「あら? でも……私、けっこう飲むのよ? あなたまだ一杯しか飲んでないのに、それじゃ不公平だわ」
「そんなことは気にしなくていいさ。君が思っているよりも、僕の財布は膨らんでいるかもしれないだろう?」
実際、酒場の払いとしては充分なお金を、彼は持ち歩いていた。しかし、それでもシャルロットは困った顔だ。なにしろ、エルディに会うまでにけっこう飲んでしまっているのだ。このままだとエルディ:ロッテ=1:40ぐらいの内訳の酒代を、彼に払わせてしまうことになりかねない。
(それに、楽しい時間の対価というなら、私も支払うべきなのよね……それに値するだけの興味深い情報を、いっぱいもらっちゃったし……あ、そうだ)
シャルロットはちょっと気の利いた解決策を思いつき、ニッと笑った。
「それじゃ、こうしない? お互いにお酒をおごり合って、最終的に相手を潰した方が全額を払うの。いい? 潰れた方じゃなくて、潰した方が払うのよ? どう、このゲーム」
「む。それは……なるほど、悪くないアイデアだね」
エルディはその提案に頷いた。その条件であれば、自分が勝ってしまえば何の問題もない。
自分は帝国軍人で、体を充分に鍛えているし、酒も飲み慣れている。付き合い上、粗野な大男たちと飲み比べをすることもあるのだ。こんな細い可憐な女性に、潰し合いで負けるはずがない。
うまいことを考えたものだ、とエルディも感心した。これならば自然に彼は男の矜持を守れるし、ロッテはゲームに負けたという言いわけの下、罪悪感を感じることなくエルディに金を出させることができる。
しかし、これで充分問題を解決できるゲームに、あえてひとつ余計な悪戯を仕掛けるのが、シャルロットという女の質の悪いところだった。
「でも、このルールじゃ、勝った側がちょっとかわいそうよね。お友達だもの、やっぱり貸し借りなしのフィフティ・フィフティでいたいわ。だから、もうひとつルールを追加しようと思うの」
「もうひとつ?」
「ええ。相手を潰した方は、相手の分もお金を払うけど、」
ここでシャルロットは、エルディの方に身を寄せて――ぴた、と肩と肩を触れ合わせた。
女性が男性に異性を意識させる時、激しい露出や過度の接触は必要がない。ほんのちょっと、手の平ぐらいの面積が軽く触れ合うだけでも、その部分は熱を持ち、情は通じ合うものだ。
「――潰れた方を『お持ち帰り』してもいい……っていうのは、どう……?」
濡れた声とともに、酒精の火を宿したような熱い吐息が、エルディの耳をくすぐる。
今日は幸運の日だと、エルディは確信した。喪に沈む街で抱くには不謹慎なほどの興奮が、彼の心臓を高鳴らせる。
(これはもしや、ヴィッツ伯爵の霊魂が導いたことなのかも知れない。この静かな酒場で、街の外から来たふたりが惹かれ合うには、何かしらの超自然的な理由がなくてはならない。
ああ、許せ、アウシュトン・ヴィッツ。今夜のこの街を、僕は忘れられぬ思い出にするだろう……そして、彼女と引き合わせてくれた君に感謝を捧げよう……いつか僕が天に召される日には、僕を君の親友として迎えてくれ!)
シャルロットが注文した品が出てくる前に、エルディも酒を注文する。もちろん、シャルロットにおごるための一杯をだ。
オン・ザ・ロックである必要はない。もっと酒精の強い酒を。強烈で、素早く、女性の心をとろけさせてしまう一杯を――。
■
決着は三時間でついた。
カウンターに突っ伏し、ぐうぐうと寝息を立てるエルディを見下ろして、シャルロットはバーボンのトリプルを飲み干した。
頬は桜色に染まり、ほろ酔い加減。目もとろりと潤んで、口元には優しい笑み。たくさん飲んで、大満足の様子だ。
そろそろ締めにしようと、最後にさっぱりとしたイチゴのサワーを注文する。頼まれたバーテンダーは、まるで怪物でも見るような目だ。まあ確かに、そう見られるだけのことをシャルロットはしていた。わりと早い段階で飲み比べの相手を潰してしまい、そのあとも平気な顔で注文を続け、結果としてわずか数時間のうちに、きつめの蒸留酒をボトルで何本も空けてしまう女などどこにいる?
「ん、それじゃ、そろそろお勘定、ね……この人の分とも合わせてくれない?」
「かまいませんがね、お嬢様。かなりの金額になりますぜ。ええと……金貨で七枚でさぁ。
あの宿屋の主人の紹介ですから、ツケも一応は受け付けておりますが」
恐る恐る言うバーテンダーに、シャルロットは持っていた皮袋から金貨を十枚取り出すと、カウンターの上に置いた。
「その人の世話代も込み、よ。取っておいて」
それだけ言うと、さっととまり木から降りて、しっかりとした足取りで出口へと向かった。
「それにしても……ヴィッツ伯爵。どうして、気付かれるようなヘマをしたのかしら。
それに、敵を引き止める役目を、ひとりでしようとしたの……? それとも……」
まるで自分に問いかけるようなその独り言を、バーテンダーはよく聞き取れなかった。
しかし、夢現の中で聞いていた者がいた。カウンターに突っ伏し、起きているのと寝ているのとの境の状態にいたエルドレッド・マクアルパインである。
夢の中のカナリヤのさえずりは、彼の脳に深くしみ込んでいき、それを大きな疑問として、彼はやがて目覚めることになる――。