聞き取り/ブラッシュ・ランブラー城館で起こったかもしれないこと
この作品中で使用される度量衡は、イメージしやすいように我々が普段使いにしているものと同じものを採用している。
この世界での一キロメートルは、我々の世界の一キロメートルと同じである。メートル、センチメートル、ミリメートルも同様とする。
乗合馬車で駅から駅へ、八時間を乗り継いで。シャルロットがヴィッツ伯爵領最大の街、ノースクラヴィスに到着したのは、夕方の四時を回った頃だった。
馬車を降りたシャルロットが最初にしたのは、山のてっぺんから降りてくる風に帽子を飛ばされないよう、右手でしっかり押さえることだった。赤い羽根飾りのついた、つば広のこの帽子を、彼女はそこそこ気に入っていたので、できれば失いたくはなかった。柔らかくて丈の長い、黒いワンピース・ドレスのすそも風ではためいていたが、こちらはさほど気にしていない。帽子と違い、この程度の風で飛ばされるものではないからだ。
ノースクラヴィスは盆地の街で、周りには灰色の巨人が身を寄せ合ったような、不毛の岩山がいくつも連なっており、そのうち最も高い山の頂に、殺人現場であるブラッシュ・ランブラー城館があった。遠目から見ても、高い城壁と尖塔を備えた、立派な建物だということがわかる。シャルロットは、主を失ったこの城館もいずれ訪ねてみるつもりだったが、まずは事件を捜査しているシュミッツ氏に会うため、街の衛士隊詰所へ向かうことにした。
ブラッシュ・ランブラー城館を出たブルガリー・ヨハネスがどこに行ったのか。それを知るためには、彼の起こした事件を知る必要があると考えたのだ。
右手で帽子を押さえ、左手に荷物である黒革のトランク・ケースを下げて、彼女はノースクラヴィスのメイン・ストリートに足を踏み入れた。
弱肉強食のお国柄で、地域によって貧富の差が激しいベルホルム帝国の中では、まず都会といっていい街並みだった。赤レンガのモザイクが敷き詰められた道路は広く、両側にさまざまな種類の商店が並んでいる。そして、そのどれもがきれいな建物だった。石壁にヒビが入っていたり、店先の幌が破れていたりする店がひとつもない。さらに、道路の両端に等間隔に並んでいる街路樹は、植木屋が定期的に手入れしているのだろう、どれも同じ形に刈り揃えられていた。
(この街は、とても栄えている。それに、治安もかなりいいみたい……きっと普段なら、人通りも多いのね……でも、今は別、か)
シャルロットは、ただの観光客のように辺りを見回しながら、そう思った。
そう、確かにもうすぐ夕方ではあるが、それでもまだ太陽は沈んでいないのだ。なのに、どの店もみんな戸を閉ざして、貝のように黙り込んでいた。大通りを歩く人もひどく少なく、たまに見かける人も、妙に暗い表情をしている。
荷物を置くために入った宿屋(さすがにここは、休業などできなかったようだ)のフロントでは、主人であろう老人が、首から下げた小さなペンダントのようなものを握り締めて、一心不乱に祈りの言葉を唱え続けていた。
シャルロットは、老人の握っているペンダントが何であるのか、何となく想像がついた。あれはユカニム教の信者が持つ、聖杯をかたどった真鍮のペンダントだ。そして彼は、自らの信仰にのっとって、死者を悼むための言葉を唱えているのだった。
(ああ、そうか。この街は今、喪に服しているのね……ヴィッツ伯爵アウシュトンのために)
殺された領主は、この街の人たちにとっては尊敬すべき人物だったようだ。だから、その死が住民たちに浸透した今、人々はこうして、深く深く沈み込んでいるのだろう。
とにかく老人に声をかけ、一泊の予定で部屋を借りた。宿帳に書いた名前はシャルロット・コルデー、職業は画家。
荷物を預けてから、衛士隊詰所までの道を聞くと、変な顔をされた。それも仕方ない、よその街を訪れて最初に衛士に会いたがる画家など、そうそういるものではないのだから。
衛士隊詰所は、宿屋から歩いて五分もかからない場所にあり、雰囲気もまた近いものだった。腕に喪章をつけた門番に、シュミッツ氏を訪ねてきたことを伝えると、すぐに応接室へと通された。
一応は芸術家でもあるシャルロットの目から見ても、趣味のいい部屋だった。男社会である衛士隊の応接室とくれば、だいたいが実用的であり、遠慮なく言ってしまえば大雑把なものが多い。なのにこの部屋には、優雅さと座り心地の良さを重視した、柔らかい革張りのソファがあったし、テーブルにも真っ白なレースのクロスがかかっていた。部屋の隅には、葉の青々した観葉植物がさりげなく置いてあるし、なにより素晴らしいことには、壁に絵がかかっていた。それも二枚だ!
安物の絵でないことは、シャルロットにはひと目でわかった。一枚は静物画。真っ赤なバラの花束を活けた花瓶を、暗く、重く、しかし官能的な色づかいで描いた一品だ。これは絵の具のひび割れ具合、退色の具合からして、五十年以上昔に描かれたものだろう。
そして、もう一枚は新しい肖像画。波打つ黒髪と、オリーブ色の肌を持つ、精悍な顔つきをした男性を描いたものだ。年齢は二十代半ばぐらいだろうか。高い鼻、きりりと結んだ唇。力強い茶色の瞳が、鑑賞者を射抜くように、正面を鋭く見据えている。
金モール付きの、緋色の上着を着込んでいるから、おそらく帝国騎士だろう。それでいて、画家に肖像画を描かせる程度に地位のある人物で、なおかつ、ここがヴィッツ伯爵領であることを考えると。
「アウシュトン・ヴィッツの肖像、かしらね」
額縁に手をかけて、裏面をのぞいてみる。するとやはり、書いてあった――『アウシュトン・ヴィッツ伯爵肖像。魔街【トーリアの塩要塞】解放を記念して。ガイアナ・A・サウス作』。『××年××月、ノースクラヴィス衛士隊隊長シュミッツ氏に贈る。我が魂が、街を守る勇者たちを励まさんことを願う』。
(ここの衛士隊にとっての、一種の守り神ってわけね。でも、絵に描かれた守り神様が死んじゃっても、ご利益は期待できるのかしら?)
そんなことを考えながら、シャルロットは絵を元に戻した。
ソファに腰かけて、出された紅茶を飲みながら待っていると、ひとりの紳士が部屋を訪れた。
五十代半ば頃の、銀色の髪をぴっちりと後ろに撫でつけた、大柄な男性だった。眉が太く、瞳は澄んだ緑色。鷲のくちばしのように高い鼻を持ち、その下に小さな口ひげを生やしている。帝国の紋章が刺繍された赤い上着と、黒のズボンを上品に着こなし、腰にはサーベルを下げていた。もちろん、腕には黒い喪章をつけている。
「シャルロット・コルデー様ですな? ノースクラヴィスへようこそ。私が、おたずねのシュミッツです。カール・ロベルト・クリスチアン・ウォルフガング・シュミッツ。この街の衛士隊隊長をしております。どうぞよろしく」
シュミッツは、深いバリトンの声でそう挨拶すると、紳士らしく微笑して右手を差し出した。シャルロットも淑女らしく微笑みを返して、差し出された手を握り返した。ごつごつした大きなシュミッツの手は、シャルロットの小さな手を握り潰さない程度の力加減を、充分にわきまえていた。
「さて、私に何かお訊きになりたいことがある、とのことでしたが……人々の安全を守る衛士ともなると、けっして口に出せないこともございましてな。どの程度お役に立てるやら……」
シュミッツはシャルロットの対面に座り、そのような言い方で話を切り出した。確かに普通の場合ならば、この隊長は口に出してはならない情報に関しては、上下の歯が噛み合うところから外には、絶対に出さないだけの厳しさを持っているのだろう。
だが、場合によっては違うということを、彼は暗に示していた。上着のポケットから、翡翠色のバッジを取り出すと、そっと机の上に置いたのだ。
「ええ、存じておりますわ。しかし今回ばかりは、何ひとつ包み隠さずに話して頂きたいの。同じものを信じる者同士……垣根は要らない。そうではありませんこと?」
シャルロットも、手の中に持っていた自分のバッジを、ティー・カップの横に置いた。
それで、互いの身元確認は完了した。ここからは『シンシアラ』シャルロット・フェステと、『シンシアラ』カール・シュミッツの会談になる。
「……して、何をお知りになりたい? やはり、例の人殺しの、追跡情報ですかな」
向かい合って座る女が仲間だということを確認できたためか、シュミッツは打ち解けた様子で、シャルロットに訊ねた。
「そうですわね。ヨハネスの足取りで、何かわかったことがあればぜひ。それと、事件の概要について、わかっている限りのことを教えて下さいな。
ブラッシュ・ランブラー城館で何が起きたのか? どのような事情で、事件が起きたのか? 事件の前後で、どんなことが起きていて、何がわかっていて何がわかっていないのか? あなたの調べた限りのことを、私に与えて欲しいのです。可能ですか、同志シュミッツ」
「ふむ」
シュミッツはソファの背に体重を預け、その家具にぎしりと悲鳴を上げさせた。
「少し長くなりますぞ。それでも?」
「ええ。どうせ、今日はこの街に泊まるつもりですから」
それならば、と頷いて、シュミッツは話し始めた。
■
――これは、話を聞くことのできた関係者から得られた情報を元に、私、カール・シュミッツが組み上げたプロットです。細かいところでは曖昧な部分もありますが、大筋において事実とまったく同じであろうと、信じて語るものであります。
まず、ヨハネスがブラッシュ・ランブラー城館を訪れた経緯からお話ししましょう。
きっかけは、我らの街の主、ヴィッツ伯爵アウシュトン様が、皇帝からスターリング男爵領沖の魔街攻略を命じられたことにあります。
あなたは、スターリング男爵領をご存知ですか? ――ええ、その通り。ベルホルム帝国の北東の端にある、小さな半島状の土地です。
この土地の海岸から、およそ五十海里ほど沖に出た場所に、魔街【レレトの真紅島】が浮かんでおります。南北に四百キロメートルはあろうかという、巨大な浮き島型の魔街です。その名の通り、全体が鮮やかな紅色の珊瑚でできていて、ヒトデやタコ、海蛇、甲殻類といった、水棲タイプの悪魔たちの棲み家となっておるのです。
彼我の距離は、人にとってはかなり遠いが、魔物にしてみればそれほどでもない、といった感じですかな。月に一度か二度、この魔街から小規模な軍団が押し寄せて、海辺の街に攻撃を仕掛けてくるのです。スターリングの地を守る男爵は、自らも船に乗って、悪魔の軍団と戦っておられるそうですが、それでもぎりぎり負けない、といったところで踏ん張るのが限界でありました。
そんな内情を知った皇帝陛下が、武名の高いアウシュトン様に、加勢を命じられたのでございます。
スターリング男爵の私兵団に、ヴィッツ雷撃兵団を合わせた軍勢で、一気に魔物たちを殲滅。そして【レレトの真紅島】を支配する爵位級魔族を討伐し、魔街を滅ぼす。そうすればスターリング男爵の領地は安全になり、船を出せる海域が広がって、漁業で生計を立てている民も助かる。勝率が高く、国にとっての利益も大きい、素晴らしい計画でした。
その出兵計画について相談するため、スターリング男爵とアウシュトン様の会談の場が設けられることになったのです。場所はあの、山の上のブラッシュ・ランブラー城館でした。
五日前の早朝に、まず、スターリング男爵領から、スターリング男爵コンラード様がお見えになりました。
コンラード・スターリング男爵がどのようなお方か、ご存知でしょうか? ――ええ、ご存じないのも仕方がありません。あの方が帝国騎士団を引退して、もう五年になりますのでね。今年で六十八歳になるというのに、まるで五十半ばにしか見えないような、壮健な御仁ですよ。枯れ木のように細身だが、背すじはぴんと伸びていてね。にんじん色の豊かな髪と、あなたのような灰色の目をお持ちでした。
騎士団引退前は、教官として新米騎士たちに剣術を指導しておられたとか。かつてのアウシュトン様も、コンラード様の生徒だったことがあるそうで、ふたりの会談に紅茶をサービスしたメイドの話では、その話し合いは事務的なものではなく、むしろ、長らく会っていなかった父と息子の団らんのようであった――とのことです。
そして、帝都アンペルバールより、皇帝より勅命を受けた伝令役、ブルガリー・ヨハネスがやってきたのです。
彼が現れたのは、男爵が訪れた数時間後、正午少し前のことだったそうです。帝国騎士団の、ややサイズの小さい制服を着ていて、荷物は腰に下げたレイピアと雑嚢、そして『聖水』を入れた水晶のボトルだけでした。
ああ、そうだ、それとあとひとつ、皇帝からの命令書も携えておりました。アウシュトン様とコンラード様に対し、タッグを組んで【レレトの真紅島】を攻略せよ、という、すでに出ていた命令を正式にしたもので、彼らに対する、やや形式的な激励の言葉も添えられていました。
アウシュトン様は、ヨハネスから命令書と『聖水』を預かり、それでヨハネスの仕事は終わりました。いえ、終わったはず、だったのです。このまま彼が帝都へ帰還していれば、きっと何事もなかっただろうと、私は信じております。
きっかけは、コンラード様の言葉でした。「ヨハネス君も長旅でお疲れだろうから、少し休憩して、我々の紅茶に付き合っていってはどうかね?」――はい、コンラード様、及び控えていたメイドに確認を取りました。男爵は、これとまったく同じ、あるいは同じ意味の言葉を使ったそうです。以降も、関係者の発言をなぞる場合は、確認が取れたものだけを使います。
コンラード様の提案に、アウシュトン様も賛成しました。時間が、昼食の少し前だったのも、ヨハネスを引き止める要因として作用しました。アウシュトン様は料理人に、三人分のランチを用意せよと命じ、ヨハネスは――少なくとも見かけ上は――恐縮しながら、伯爵、男爵とともに、食事を楽しむことになりました。
食事が終わると、紅茶とともにデザートが出てきますな。三人は、つまんで食べられるミンス・パイを片手に、話を弾ませておりました。話の内容ですか? そうですな、帝都での噂話だとか、自分たちそれぞれの武勇伝自慢だとか、そのような他愛もないことだったそうです。
あとは趣味の話も出たようです。アウシュトン様は絵画をたしなまれ、城館の一室にアトリエを作り、そこで創作をなさるのが休日の楽しみだったとか。コンラード様は、カードを使った様々な遊戯に興味を持っていると仰ったそうです。この発言にヨハネスが、自分もカードは大好きだと返した結果、三人はサロン・ルームへ場を移し、カード・ゲームで勝負することになりました。
それから、ざっと四時間、陽が傾く頃まで、彼らはカードに興じていました。
物事に熱中し過ぎると、時間が経つのを忘れると言いますが、彼らはそれを実際に確認してしまったのですな。気がつけば、もう夕方。ヨハネスは日帰りする予定だったのに、帝都に帰るには、今からでは遅過ぎる。
仕方がないので、ヨハネスは昼食とともに、夕食及び一夜の寝床も、アウシュトン様の世話になることになったのです(ちなみに、コンラード様はもともと一泊していかれる予定だったそうで、彼もまたヨハネス同様、ブラッシュ・ランブラー城館に宿泊しました)。
で、やはり男というのは、遊戯のことになると、ついつい夢中になってしまうものらしく、夕食を摂ったあとで、またしてもカード・ゲームを始めたんですな。今度はウイスキーをお供にしてね。
具体的に何時まで続けていたのか、正確にはわかりません。唯一証言のできるコンラード様が、したたかに酔ってしまわれて、記憶が鮮明でなかったのです。確実なのは、最後にはコンラード様が割り当てられた客室に戻って、朝までぐっすりおやすみになったということです。
おっと、いけない。この夜起きたことで、もうひとつ確実なことがありました。深夜に、ヨハネスが城館を去っていった、ということです。
証言者は、ブラッシュ・ランブラー城館の庭園を巡回していた、ヴィッツ家の警備兵二名。時間は、日が変わってすぐの深夜零時頃。夜間巡回の当番を交代した直後だったそうです。
彼らが言うには、馬屋の方で不審な物音がしたので駆けつけてみると、客人――もちろん、ブルガリー・ヨハネスです――が、自分の馬を引き出し、雑嚢を鞍に取り付けていたのだそうです。マントを羽織り、腰にはレイピアと革製の水筒を下げていて、いかにも遠出をするための格好であったといいます。
何をしているのか訊ねると、外せない用事があったのを思い出したので、今からでも帝都に帰らねばならない、と答えたそうです。さらに続けて、ヴィッツ伯爵の許可は取ってあるので、すぐに門を開けてくれ、と、そう頼まれたといいます。
警備兵たちは、ヨハネスのこの望みを叶えてやりました。ええ、彼らも少しは妙に思ったそうですが、まさか身元のはっきりしている帝国騎士の男が、大それた悪事をはたらいて逃げようとしている、とまでは気付くことができず、門を開け、ヨハネスを送り出してしまったのです。
馬のいななきとともに、ヨハネスは闇の中へ消えていき、ブラッシュ・ランブラー城館の門は再び閉じられました。
そして、夜明けまでの長い時間が過ぎ――朝陽が顔を出し、ヨハネスが城館にいたという臭いすらも消えかけた頃、サロン・ルームで、アウシュトン様の刺殺された遺体が発見されたのです。
時間は朝六時。発見者は、サロン・ルームの掃除を任されていたメイドたちです。掃除用具を持ってサロンに入ると、血まみれになったアウシュトン様が、カーペットの上にうつ伏せに倒れていたそうです。
私も直に検分しましたが、酷いものでした。傷口は、背中に三つ。左の肩甲骨の内側にひとつと、その十センチほど下にひとつ。そこからさらに、背骨を挟んで右側にもうひとつ。三つとも深い刺し傷で、どれかひとつだけだったとしても、死は免れなかったでしょう。
あっという間に、城館は蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。執事が、早朝の巡回をしていた警備兵たち(深夜に回っていた連中とはまた別です)に変事を知らせ、三人の警備兵が私のところに通報してきました。
私は医者を伴い、城館に駆けつけましたが、アウシュトン様を蘇生させることは叶いませんでした。医師が言うには、遺体は死後六時間近く経っていたそうで、死への旅立ちを見送るには、やって来るのが遅過ぎたというわけです。
しかし、アウシュトン様を旅立たせた者を探り出すのは、難しくないように思えました。なぜなら、ブラッシュ・ランブラー城館は、何重もの防壁によって囲まれた『閉ざされた輪』であり、外部から何者かが入り込んで伯爵を害したとは、到底考えられなかったからです。
ここで、ブラッシュ・ランブラー城館の構造について説明させて下さい。まず一番内側に、アウシュトン様が暮らしておられた屋敷があります。これが城館の本体ではありますが、見張り用の高い尖塔がある以外は、普通の貴族様のお屋敷と変わりありません。二階建てで、部屋数は三十五。書庫や執務室、食堂、礼拝堂、サロンなどがあり、城としての防衛力より、どちらかといえば美しさ、生活する上での快適さを重視した建築物です。
その周りに、鍛冶小屋や馬小屋、井戸小屋などが配された庭があり、ここを二十四時間、警備兵が交代で巡回しています。
さらにその周りをぐるりと、巨大な煉瓦造りの城壁が、隙間なく取り囲んでいるのです。この城壁は、高さが十三メートルもあり、羽根を持たぬ人間には到底乗り越えることはできません。もし、よじ登ろうとする者がいたとしても、城壁の上には一定の間隔で見張り台が設けられており、ここにいる警備兵(これも交代制で、二十四時間見張っております)によってすぐに発見され、捕らえられてしまうでしょう。
それだけのセキュリティによって、ブラッシュ・ランブラー城館は、外部の脅威から守られていたのです。にもかかわらず、アウシュトン様は殺害されたのです。
城壁をよじ登った者はあったか? いいえ。見張り台にいた警備兵たちは、何者も侵入しなかったと、断言しております。
庭を巡回していた者たちも、知らぬ者がうろついているのは見ていないし、屋敷自体にも、窓が破られていたり、扉の閂が切られていたりというような、外部からの侵入者を示す痕跡を発見できませんでした。
そして何より、アウシュトン様の死に様が重要です。彼は、サロンの真ん中で、背中から刺されていました。つまり、背を見せても危険を感じない相手にやられたのです。
おわかりですね? つまりこれは、内部の者の犯行なのです。事件の夜、ブラッシュ・ランブラー城館にいた、アウシュトン様と顔見知りの何者かが、彼を殺したのです。
私は、事件当夜に城館の敷地内にいた、全ての人間を厳しく尋問しました。メイド、執事、料理人、馬丁、警備兵――もちろん、スターリング男爵コンラード様も例外にはしませんでした。彼は、起きてきたところにアウシュトン様の死を聞かされ、大層ショックを受けられたようでした。「息子を亡くしたも同然だ!」と叫んで、むせび泣いておられましたからね。
しかし、さすがはもと帝国騎士でした。捜査に協力を惜しまぬと言い、我々の質問にも、嫌がらず答えて下さいました。
こういう立派なお方は、本当に稀です。貴族という人々は――しかも爵位持ちとなると――犯罪事件と関わるのを、非常に疎まれるものですから。私の同業者の話では、昔、スキャンダルになることを恐れて、衛士や事件関係者に金を送り、関わった事件自体をもみ消そうとした子爵がいたそうです。まったく、貴族という括りの中にも、天と地があるものですな。
さて、そうして尋問を進めていくと、深夜に城館を出て行った人間の存在が明らかになりました。警備兵たちと会話し、門を開けさせ、堂々と去っていったブルガリー・ヨハネスです。
彼の出発が、深夜零時。事件発覚が朝の六時で、遺体は死後六時間前後が経過していた。もしヨハネスが殺人を犯し、すぐさま脱出をはかったのだとすると、時間的なつじつまは合いそうです。
しかし、安易にそう思い込むわけにはいきません。ヨハネスは、警備員に語った通りに、急ぎの用事で城館を辞去しただけかも知れないのですから。彼以外の、城館内に残っていた人々の中に、真犯人がいるかも知れないのですから。
なので私は、最初、『ブルガリー・ヨハネス犯人説』と『城館内部の別の人物犯人説』を、同じぐらいの重みで考え、同時に捜査しました。ある部下にヨハネスが帝都に帰ったかどうかを照会させ、他の部下たちには、城館にいた人々の持ち物を調べさせました。
前者については、まあ、ヨハネスが犯人であろうと、あるまいと、話を聞かねばならないので、必要な仕事だというのはおわかりでしょうね。
後者については、犯行に使われた凶器を誰かが所持していないか、それを確かめたかったのです。そう、犯行現場からは、凶器は発見されませんでした。犯人は、アウシュトン様を刺した刃物を持ち去っていたのです。
だから、城館内にいる誰かが犯人だとすれば、その者は凶器を所持している可能性があると、私は考えたのです。
この捜索には、私の部下のほぼ全員を使いました。なにしろ、ブラッシュ・ランブラー城館の敷地は広大ですから。個人の私物は全てひっくり返し、全ての部屋の全ての収納を開けさせ、書庫にある本も、本棚から全部引き抜いて調べ、しまいには、食料庫のタマネギ袋の中まで探させました。
結果は、成果ナシです。ブラッシュ・ランブラー城館のどこにも、凶器と思しき刃物は見当たりませんでした。もちろん、警備兵もいたので、サーベルや短剣は数多くあったのですが、凶器の特徴と一致するものはひとつもなかったのです。
凶器の特徴ですか? やっ、これは失礼しました。こんな重要なことを話し忘れていたとは!
さよう、遺体の傷口から判明した凶器の形状は、なかなか特殊なものでした。先の尖った真っ直ぐな両刃で、刃の長さは、短くとも二十センチ以上。幅は四センチほどで、厚みは非常に薄く、およそ二ミリといったところです。剃刀のようによく磨がれた、おそらくは鋼の短剣であろうと思われます。
懐にでも、袖の中にでも、簡単に隠せる品です。しかし、隠すことはできたとしても、消滅させることのできるようなものでもありません。それが発見されないとなると、これは外部に持ち出されたとしか、考えようがないわけです。そして、誰かが持ち出したとしたら、それが可能なのは、ブルガリー・ヨハネス以外あり得ぬと、そういうことになるわけですな。
そして、帝都にやった部下も、鷹便で調査結果を返してきました。そこに書かれていたのは『ヨハネスが帰還した事実なし』という言葉です。さらに、これはあとで聞き込みをした結果わかったことですが、ヨハネスと思しき人物の乗った馬が、帝都とは反対方向へ駆けていくのを、鳩撃ちに出ようとした猟師が目撃しています。夜明け前、午前四時頃のことです。
以上のことから私は、アウシュトン様殺害の容疑者をヨハネスに絞り、彼の追跡に力を注ぎました。また、アウシュトン様の執務室に置かれていた、『聖水』で満たされているはずのボトルが、完全に空っぽになっているという大事件を発見して(同じシンシアラなら、わかって頂けるでしょう。『聖水』が失われたという事実は、私の気を一瞬遠くさせましたよ)、ヨハネスが水を盗んだのだということに気付きました。そして、アウシュトン様殺害の動機は、おそらく水を盗み取ろうとした瞬間を目撃されたことなのだろう、と悟ったのです。
私は、すぐさまアンペルバールのカーン画廊に、鷹便を飛ばしました。ベルホルム帝国において、このノースクラヴィスから最も近いシンシアラの拠点が、そこでしたからな。
そうです、この重大犯罪を、シンシアラという組織全体で扱うべきだと考え、通報したのは、この私なのです。
あなた様がいらっしゃるまでに、私はこの判断が正しかったと、心から思うようになりました。ブルガリー・ヨハネス、奴は、ただの人殺しの盗人以上の、何かの秘密を持っているようだと感じるようになったからです。
奴は逃げ、我々は追い始めました。奴はひとりで、我々は大勢です。帝国衛士隊は、犯罪と戦う組織ですから、帝国の国境に非常線を張ることができるぐらいには、長さのある腕も持っている。
しかし、それなのに奴は捕まっておらぬのです。午前四時の、猟師の目撃を最後に、足跡は尽きてしまいました。まるでこの世からいなくなったかのように、ブルガリー・ヨハネスは我々の前から、忽然と姿を消してしまったのです――。
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「つまるところ、ヨハネスの行き先については、今現在まったく有力な情報を発見できていない、というのが、正直なところですな」
長い物語を、その一言で締めくくって、シュミッツは残念そうに肩をすくめた。
シャルロットは、しばらく無言だった。ぬるくなった紅茶を一口含み、ティー・カップをソーサーに戻してから、ようやく口を開いた。
「ヨハネスがどこに向かうかの、予測は立ちませんか? たとえば、彼の家族、友人、騎士団の同僚などが、何かヒントになるようなことを聞かされているかも……」
この問いかけに、しかしシュミッツは首を横に振る。
「帝都にやった部下に、徹底的に聞き込みをさせました。まず、ヨハネスに家族はおりません。五年前に母を、三年前に父を亡くして、今は天涯孤独の身です。騎士団の同僚たちにも、奴の立ち寄りそうなところはないかと訊ねてみましたが、これも駄目ですな。伝令役としてベルホルムのあちこちを駆け回っていたヨハネスには、この国のだいたいの場所に土地勘があるのです。どんな大都市でも、どんな寂れた田舎街でも、奴は容易に身を潜めてみせるでしょう。
帝都にあるヨハネスの邸宅も捜索したかったのですが、こちらは私の部下より先に、騎士団が踏み込んでいましたよ。昨日、アウシュトン様の葬儀に、騎士団長殿がお見えになりましてね。そのあと、街の宿屋のお泊りになったようで、今朝早く、こちらの詰所にもお寄りになったのです。その際、向こうのことについて、いくつか教えて頂きました。
まあもちろん、こちらの捜査状況も、細かいところまで引き出されましたがね。彼は昼過ぎから、ブラッシュ・ランブラー城館の現場視察にも向かわれたようですし、向こうさんでもこの事件については、かなり重く受け止めているようですよ。
ああ、騎士団の方の成果でしたな? 彼らは、ヨハネスの日記や帳簿の類を押収したそうですが、奴の行き先につながるような情報は得られなかったそうです。騎士団長は正直そうな男のように見えましたから、これは信用して構いますまい。
ノースクラヴィスには、ヨハネスと親しくしていた者はおりませんし、第三者から情報が得られるとは、ちょっと期待できませんな」
「文字通り、足跡も残さず、闇の中に消えられたというわけですのね」
シャルロットの言葉に、シュミッツは疲れた表情で頷く。
「奴は、殺人とほぼ同時に城館を脱出した。『聖水』を持って。そして、凶器を城館の外に持ち出せるのも、彼だけときている。あらゆる状況が、ブルガリー・ヨハネスが犯人だと指し示している。それなのに、我々に与えられた何ひとつとして、奴の行く先は指し示しちゃくれんのです。
国境に似顔絵が回っている以上、奴が一歩とてベルホルムの外に出ることはあり得ませんが、国内で『聖水』を売り払い、名前を変えて山奥の小村にでも隠棲されてしまっては、探し出すのは厄介になります。いくら衛士隊の手が長いと言っても、国内全部をローラーするのは不可能ですからな」
「ヨハネス以外の、ブラッシュ・ランブラー城館におられた方々の容疑については、ほぼ晴れたと見てかまいませんでしょうね。彼らは、今、どうしておられるのでしょう? スターリング男爵や、城館に勤めている使用人や警備兵たちは……?」
「コンラード様については、昨日、スターリング男爵領にお戻りになりました。アウシュトン様の葬儀と埋葬を見届けて……。
城館の使用人、警備兵たちは、今も変わらず城館におりますよ。主人がいなくなっても、城を律儀に守り続けています。
来週には、新しいヴィッツ伯爵が赴任してこられる予定ですので、彼らはその新伯爵にお仕えすることになるでしょう」
「新ヴィッツ伯爵? そうでした、その問題がありましたわね。誰が、アウシュトン様の後継になりますの?」
「アウシュトン様の弟君です。ポール様というお名前で、今は帝都で塩ギルドの運営に携わっておられるそうです」
「彼が……ポール氏がもし、事件の日、こっそりブラッシュ・ランブラー城館を訪れたとしたら……警備兵たちは、彼を通したことを黙っていると思いますか?」
シャルロットは、そっと、深刻そうに訊ねた。しかし、シュミッツは逆に苦笑を漏らして、明るい声でこう返した。
「伯爵位を得るために、ポール様が兄君を暗殺したと? いえいえ、幸運なことにそれは杞憂ですよ。ポール様には、事件当夜、間違いなく帝都にいたという不在証明があるのです。部下に裏付けを取らせましたからね、彼に関しては、疑う必要はございませんとも」
「……と、仰るからには、あなたも一度はポール氏を疑いなすったのね。そうでしょ、シュミッツさん」
と言って、わざとらしく微笑むシャルロット。カウンターを喰らった形になったシュミッツは、これはやられたと膝を叩いた。
「まあ、アウシュトン様が死んで得をする、数少ない人間でしたからな。あくまで、念のためです。今では、ヨハネスこそが唯一間違いのない犯人だと信じておりますよ。ポール氏にアリバイがなかった場合でも、結局、ブラッシュ・ランブラー城館から凶器を持ち出せたのが、ヨハネスしかいないということに変わりはないのですからな」
「凶器……ああそうそう、凶器の件で思い出しましたわ」
ポン、と手を打ち、シャルロットは笑顔で訊ねた。
「ブラッシュ・ランブラー城館に、『福音使い』はおりませんの?」
シュミッツは、眉の端を下げて困ったような顔をした。『福音使い』、それは犯罪捜査をややこしいものにすることがある、非常に面倒なファクターであったからだ。
「教会で洗礼を受けた子供たちの中で、天使ユカニム様に選ばれた者だけが使用できるようになる、世界の理を超える力。魂に刻まれた天の言葉が、物理力となって作用し、人間の四本の手足だけでは起こし得ない奇跡をもたらす。
心のあり方がひとりひとり違っているように、人の行使できる『福音』も、ひとりひとり違っていて、それはまさに千差万別。雷を発生させる者もいれば、風より早く駆けられるようになる者もいる。軍事の面でも、日常生活でも、非常に便利な超能力、それが『福音』です。
『福音』を使いこなし、奇跡を自在に操る人々は『福音使い』と呼ばれ、特に軍や騎士団に重用されていると聞きます。
もしも、誰にも見つからずに城館に出入りできたり、凶器を遠くに移動させたりできる『福音使い』が、この事件に関係していたりしたら……」
「厄介です。考えるのもうんざりするほど、厄介な問題です。『福音使い』というのは」
シュミッツはため息をつき、自分の口ひげをしごくように触った。
「戦争においては、非常に大切にされるべき鬼札たちです。その力は、使いようによっては一騎当千にもなる。
しかしこと犯罪事件にあっては……これはもう、完全犯罪を量産する死神のようなものですよ。ひとたび物理法則を超越されてしまえば、それだけでまっとうな捜査は追いつけなくなってしまうのですからね。
今のところ、優れた『福音使い』たちはほとんどが軍属で、充分に恵まれた待遇を受けているために、奇跡を利用したけちな犯罪などに手を染めたりしないのが救いですが、ときおりどこにも所属していない、しかし非常に強力な『福音使い』もいたりする。今回の事件には、そういうイレギュラーには関わっていて欲しくありませんな。
というよりも、『福音使い』自体、もうこの世に必要ないのでは、とさえ思うのです。悪魔の侵攻が緩やかになった今の時代、人の限界を超えた力を持つ者は、社会に混乱をもたらすだけではないでしょうか。
ひとたびその気になれば、誰も暴けない完全犯罪を成し遂げる。人の国同士の戦争が起これば、主戦力として借り出される。もはや悪魔にとってより、人にとって害になることの方が多い。これはどう考えても、もともと天使様が望まれたような、悪魔に対する切り札としての本分を見失っております。
その存在が、現在の世界のあり方に合っていないのです。『聖杯』や『聖水』は、これからも存在価値を失わないでしょうが、『福音使い』は、少々、ね」
過去に『福音使い』関連で、面倒ごとに巻き込まれたことでもあるのだろうか、シュミッツの意見は、彼の人柄にそぐわぬ辛辣さだった。
眉をしかめた彼の言葉を聞きながら、シャルロットはつい、くすくすと笑ってしまった。
「ミスター・シュミッツ。申しわけないですが、もうしばらくこの世にしがみつかせて下さいな。今の人間社会にとってはちょっとした邪魔者かも知れませんけれど、私、まだ死んでもいいなと思うほど、長生きしていませんの」
クリームのように滑らかに発せられた、シャルロットの言葉。
それを聞いたシュミッツは、一瞬、ぽかんと口を開け――ついで、悪戯を見つかった子供のように、赤面した。
「や、こ、こ、これは失礼。知らぬこととはいえ、ずいぶんと配慮に欠けることを申しました」
動揺を隠せないまま、頭を垂れるシュミッツの前で、シャルロットは変わらず、笑っていた。
「いいえ、お気になさらず。人間誰しも、好き嫌いはあるものですわ。それに、あなたの仰ったこと、特に間違っているとも思いません。私も『福音使い』より、『聖杯』や『聖水』を重視するシンシアラですもの。
ね、それより話を進めましょう? この事件に『福音』の能力が関わっている気配は……?」
「は、はっ。そ、そうですな。事件当時、不審な『福音使い』は、ブラッシュ・ランブラー城館にはやって来ませんでした。少なくとも、私が調べた限りでは、ユカニム教会に登録されている『福音使い』が、ノースクラヴィスを訪れた形跡はありません。
例外は、もともと城館にいた『福音使い』ですが、そのいずれもが、持ち得る奇跡をどう使ったとしても、アウシュトン様殺害に関与できたとは思えないのです」
「その人たちの名前と、それぞれの能力を聞かせて頂けます?」
食い下がるシャルロットに、シュミッツは軽く虚空を見上げた。そして、自分の記憶を掘り下げ、問いに対する答えを取り出してきた。
「事件当時、ブラッシュ・ランブラー城館に滞在していた『福音使い』は三人です。
まず、警備兵長のサルナン・ガッソー。彼は暗闇でも、昼間のように目が見えるという能力を使います。彼は、正門から出て行くヨハネスの姿を、城壁の見張り台から見ていましたが、乗っているのが栗毛の馬ということや、彼の履いている靴が黒だったということまで、ちゃんと見分けられたそうです。
次に、料理人のエマ・イプレンゲ。彼女は、身の回りにある食べ物を腐らなくできる能力を行使できるそうです。ノースクラヴィスは海から遠い土地ですが、彼女を使いに出せば、海の魚を新鮮なままこの街に持って来てもらえるわけです。
最後のひとりは、スターリング男爵コンラード様です。彼の力は、いやはや、やはり軍で活躍しておられただけあって、大したものですよ。なんと、ご自身が乗っている船を、帆に風を受けることもなく、人夫に漕がせることもなく、自由自在に動かすことのできる能力なのだそうです。彼は百人以上の兵を乗せた軍用重装甲船を、まるで鯨にでも引かせているかのごとき速さで、何時間でも進ませることができるといいます。
どれもこれも、とんでもない能力ですが……いかがです。この中でひとつでも、今回の事件に関わっていそうだと思われる力はありますかな」
「いいえ。こればっかりは、見当外れだったようですわ」
今度は、シャルロットがため息をつく番だった。しかし、シュミッツは相手のその様子に、わずかな違和感を感じていた。シャルロットのその姿は、落胆しているようにも見え、しかし同時に、ほっとしているようにも見えるという、複雑なものだったからだ。
シュミッツの不思議そうな視線を感じたのか、シャルロットは取りつくろうように笑顔を浮かべ、こう言った。
「ごめんなさい、ちょっと気が抜けてしまいました。城館に残っていた人たちの操る『福音』の内容によっては、もしかしたらヨハネス以外にも、容疑者を想定せねばならなかったかも知れないんですもの。
ええ、どうやらその心配は、ほとんどなくなったみたい……ほとんど」
「ということは」
目を丸くして、シュミッツはシャルロットに訊ねた。
「あなたは、殺人犯人をヨハネスに限定していなかったんですか。あれだけ明確に、状況が揃っているのに」
「ええ、まあ――はっきり言うと、そうですね。シンシアラ調査員を始めてからついた、一種のクセなんですの」
シャルロットは、自分の前にある紅茶のカップと、シュミッツの前にある紅茶のカップを交互に指差して、言う。
「二つのカップは、どちらも紅茶が入っていて、どちらも同じ種類のカップですわ。では、今私たちが席を立って、部屋から出て行ったとして、あとから部屋に入ってきた人は、どちらが私の飲んだカップで、どちらがあなたの飲んだカップか、判別できるかしら?」
まるで、幼い子供になぞなぞを出しているような口調。その奇妙に優しい言葉に、シュミッツは戸惑ったが、しかし犯罪捜査のプロとして、一応の答えを出してみせる。
「あなたのカップの縁には、口紅の跡が残っていますな。それに、添えてあるレモンが搾ってある。同僚に聞けば、私がレモンも砂糖もミルクも使わず、ストレートで飲むのを好んでいるということがわかるでしょう。
私の部下ならば、少なくとも以上の二点から、そちらのカップがあなたのものだと、すぐに言ってのけるでしょう」
この答えに、シャルロットは頷いた。
「ええ、そうなるでしょう。――では、ここにふたつの、水の入ったグラスがあったとして、どちらが普通の水で、どちらが『聖水』か。どうやったら、当てられると思いますか?」
この問いには、シュミッツもたじろいだ。『聖水』は、基本的に見た目も性質も、普通の水と変わりがないということは、常識だからだ。違いはただひとつ、『聖水』は、武器に聖なる祝福を与えることができるという、ただそれだけ。
無言のシュミッツに、シャルロットは答える。
「シンシアラとして、この判断だけはけっして誤ることができません。だから、私は、この問題を提示されたなら……調べるでしょう。水の出自を遡り、誰に運ばれたか、どこからやってきたか、誰によって容器に入れられたか、証言をした人たちは、みな正直か。
きっと、あなたもいざ調べろと言われたら、そうするでしょう。調べ歩き、情報を得て、その情報が、正しいかどうか確認する。あなた方が、普段やっていることと同じですわ。ただ……水は、私に口を聞いてくれないから。得た答えが正しいか、間違っているか、保証してくれないから。だから、人が確かだと言うことをちょっとだけ、信じにくいだけ」
「今回の事件でも、それと同じように疑って、ことに当たっておられる? 情報をできるだけ疑って、可能な限り、確かめておられる、と?」
「そういうことですわ。だからちょっとばかり、人から見るとじれったく感じられるかも知れませんけれど……あら、もうこんな時間」
壁にかかっていたねじ巻き時計に目をやって、シャルロットは控えめに驚いてみせた。
ふたりが話し始めてから、もうかなりの時間が経っていた。それに加えて、シャルロットがやってきた時間がそもそも遅かったというのもある。今の時間は、すでに普通のご家庭なら夕食を始めていてもいい頃合だった。
これ以上遅くなるのは、仕事の話とはいえあまり褒められたものではない。シャルロットはシュミッツに礼を言って、立ち上がった。
「今日はありがとうございました、大いにためになりましたわ。事件についてのほとんどの情報は、これで手に入ったと思います」
「なんの、これくらい。少しでもお役に立てられたなら光栄です。
参考までにお聞きしたいのですが、これからはどうなさるおつもりですか? もしご入用であれば、手空きの部下を二、三人お貸しするぐらいのことは可能ですが」
詰所の玄関までシャルロットを送りながら、シュミッツはそんな提案をした。実際、人探しという仕事は、人数が多ければ多いほど有利である。おそらくは焼け石に水だろうが、複数人で手分けして捜索をすれば、少しでもこの貴婦人の苦労を減らせるかも知れないと、衛士隊長の紳士は考えたのだ。
しかし、シャルロットはこの厚意を、首を横に振って辞退した。
「ありがたいお話ですが、せっかくの精鋭をお貸し頂いても、私ごときでは上手く動かせそうにありませんわ。その代わりと言っては何ですが、紹介状を一枚書いては頂けませんかしら?
今夜はこの街の宿屋に泊まって、明日の朝一番でブラッシュ・ランブラー城館を訪ねてみようと思いますの。かの場所で、いくつか確かめたいことがありまして」
「これはまた! さらに確かめると言われる? いやはや、あなたほど用心深い方には、私はいまだかつてお目にかかったことがありませんよ」
「性分ですから。……それで、いかがでしょう?」
「承知しました、明日の朝、九時でよろしいですかな。それまでに用意しておきましょう。それ以降に、ここを再び訪ねて頂ければ」
「ありがとうございます、シュミッツ隊長。あなたに天使ユカニム様の祝福がありますように」
シュミッツと別れたシャルロットは、衛士隊詰所の門を出て、宿屋に戻る道を歩いていった。
さめざめとした青い月の下、喪に服すノースクラヴィスの夜は、昼間よりむしろ明るく見えた。家々の窓から漏れるランプや暖炉の淡い光が、街全体に三次元の点描画を描いていて、そこに確かに人の営みのあることを、シャルロットに教えていた。