『ダブル・ベッド』
「まずは大きめのタンブラーに、クラックド・アイスを入れて……そこにドライ・ジンを一オンス」
バー・カウンターの上で、いくつもの星が瞬く。
小さな銀河の正体は、よく磨かれたクリスタル・グラスであり、ダイヤモンドのような氷であり、ボトルからゆっくりと注がれていくジンの細い流れであった。薄いシェードをかぶせられたランタンの、低く抑えた明かりの中で、星々は時に鋭く、時に艶めかしい輝きを放つ。
「次に、赤ワインを一オンス。個人的には、古いものより若いものの方が合うと思うね。
あとは、ソーダ水をフル・アップ。マドラーで軽くステアして……くし形に切ったレモンを添えれば、できあがりだ」
淡いピンク色のカクテルが漆塗りの天板に置かれ、舞台に上がった女優のように、確たる存在感を示した。宝石のような透明感があり、レモンの皮のヴィヴッドなイエローとのコントラストも美しい。
その一杯を創造した手が、止まり木で待つ客に向かって、そっとグラスを押し出す。
差し出されたものを無言で受け取ったのは、グラスの中の女優とはまた違った雰囲気の美女だった。
肩にかかるぐらいの長さにそろえた、レモンよりもやや明るい金髪。まつげの長いアーモンド型の目に、濡れた灰色の瞳。高い鼻に、ふっくらとした桜色の唇。白くきめの細かい肌は、まるで上等な絹織物のようだ。
丈の長い純黒のナイト・ドレスを着ていて、その薄く柔らかな質感が、彼女のスタイルの良さを引き立てている。長い脚、腰のくびれ、そして豊かな胸元。それらの輪郭が、薄闇の中に立体感を持って浮かび上がる。アクセサリーは、鎖骨の間でVの字を描いている、細いプラチナの鎖に小さなルビーをあしらったネックレスだけだ。
もちろん、それで充分。彼女の場合は、派手に飾り立てなくても、それだけで充分に絵になった。
彼女の細くしなやかな指が、持ち上げたグラスを唇に運んだ。恋人におやすみのキスをするように、ドリンクをそっと口に含み、舌を湿らせる。
「……素敵な香り。とてもすっきりしているのに、深いところに蠱惑的な甘さが潜んでいるのね。まるで藤の花みたい。
酔うには少し――ううん、かなり弱いけれど――落ち着いた気持ちで話をしたい時には、ちょうどいいかも知れない。このお酒の名前はなんて言うの? 同志セラビム」
「『ダブル・ベッド』と名付けられているそうだよ、同志フェステ。ぼくの最近のお気に入りだ。
キミの言う通り、酔うにはかなり弱いから、チェスをしながらでもちびちび飲める」
シャルロット・フェステの問いに、セラビム子爵ルイス・マクロードは肩をすくめて答えた。
カウンターの中に立って、バーテンダーの真似事をしているこの人物は、社交界では薬草都市フィアンチデルの領主として以上に、カクテルの研究家として知られていた。千を越えるカクテルのレシピを記憶しており、自宅のサロン・ルームに、数十種類のリキュールを揃えた本格的なバーカウンターを作ってしまうほどの凝りようだ。
カクテルは見栄えも重要なので、形にもこだわっていた。クリスタル・グラスはジャゼ共和国の職人に特注した最高級品だし、マドラーやフルーツ・ナイフ、銀のシェイカーも質の良いものを使っている。コースターにナプキン、煙草や灰皿、ランプや壁に掛けられている絵なども、落ち着いた上品な趣味でまとめていた。
もちろん、彼自身のファッションもそうだ。つやのある革靴にストレートなスラックス・パンツを合わせ、袖まくりをした白いワイシャツの上に黒いシルクのベストを着込み、明るい臙脂色の蝶ネクタイを巻いた姿が、あまりに板についている。
銅に近い色をしたくせの強い巻き毛を、指先でくるくるといじりながら、彼はじっとシャルロットを見つめた。しかし、その焦げ茶色の瞳に、色っぽい雰囲気はない。三十一歳のこの若き子爵は、愛妻家でもあるのだ。黒アゲハのようにセクシーな美女に、官能的な名前のカクテルをサービスしていても、相手が妻でない限りは熱い気持ちなど抱かない。
シャルロットの側もそうだった。ルイス・マクロード・セラビムは、スマートで背の高い美男子である。それでも、彼女の心の湖に波は立たなかった。
両者の間にあるのは、甘く柔らかなアルコールの香りと、宗教的な誠意だけなのだ。
「ええと……それで、どこまで話したんだっけね? 同志フェステ」
「衛士隊の人たちが、ニコラス・ゴートの首吊り死体を発見したところまでよ」
「ああ、そうだそうだ、思い出した。そして、その現場にぼくの家から盗まれたものが見あたらないって、マリナーという衛士が気付いたんだったね。
いやはや、その報せを受けた時は、厄介なことになったと思ったよ。だってそうだろう? ゴートの死体のそばに、盗まれた宝物がないとなると、奴はまた別なところに宝を隠してからくたばったということになる。
衛士隊の連中がいくら優秀でも、さすがに死体を相手に、宝をどこにやったかと問い詰めることはできないからねぇ。さらに言うと、ゴートは自分の隠れ家の情報はメモに書き残していたくせに、宝の隠し場所を示すようなものは、何も残してくれてないんだそうだ。
ゴートの死から七日が経ったが、衛士隊はまだ盗品を発見できずにいる。手がかりが完全に失われてしまったんだから、行き詰まるのも仕方がないとは思うがね……。同志フェステ、何かつまむものはいるかい?」
「チーズがあるなら、頂きたいわ」
「了解」
ルイスは小さく頷くと、カクテルを作った時と同じ慣れた手つきで、リクエストされたものを用意しにかかった。
もちろん、ただチーズの塊をどさっと差し出すわけではない。塩味のクラッカーに、ブルー・チーズのペーストと薄切りにしたリンゴを乗せて、ほんのちょっとハチミツをかける。これだけで、お酒をいくらでもおかわりできる上等なカナッペのできあがりだ。
ひと口で食べられるそれを四つ作り、横長い長方形の皿に並べる。一分もかからずに完成したそれをシャルロットに渡しながら、ルイスは話を再開した。
「まあ、ゆっくり食べながら聞いてくれよ、同志フェステ。
ぼくだって、途方もない仕事に取り組まなければならなくなった衛士隊の人たちには同情しているんだ。ヒントも何もなしに、フィアンチデルの街のどこかに隠された盗品を見つけなければならないなんて、月のない真夜中のジャングルを、地図もコンパスもなしで歩かされるようなものだからね。
でも、だからといって、彼らに適当なところで切り上げてくれ、とは言えないんだ。ぼくとしては、盗まれたものは何としても盗り返さなくちゃいけない。
――ああ、いや、誤解しないでくれ。別に、金貨や宝石を惜しんでいるわけじゃないんだ。たかだか五千万エインぽっちの損失は、ぼくにとっては小銭入れを落としたぐらいの感覚でしかないからね。戻ってこないなら戻ってこないで、別に構いやしない。
でも、五千万エインの宝と一緒に盗まれた書類だけは、どうしても惜しい。たった五枚の薄っぺらな紙切れだが、コレを取り戻すためなら、ぼくはあと二、三億エイン出したって惜しくはないよ。同志フェステ……キミも絶対に、そう思ってくれるはずだ……同じ『純水派』であるならば、ね……」
念を押すように、低く抑えた声でそう囁いて、ルイスはカウンターの隅をちらりと見やった。そこには、翡翠でできた小さなバッジが二枚、川縁で休んでいるミドリガメのように、そっと置かれていた。
片方はルイスのものであり、もう片方はシャルロットのものだ。その特徴的な装飾品は、『純水派』と呼ばれる組織のシンボルであり、ふたりはその構成員であった。
『純水派』。それは人類社会に最も広く浸透している宗教団体、ユカニム教のいち派閥である。その特徴は、天使ユカニムのもたらした恵みである『聖杯』と『聖水』を、本来の用途である悪魔退治にのみ利用するべきだと、強く――きわめて強固に――主張しているという点だ。
彼らの思想は限定的であり、妥協を許さない。『聖杯』や『聖水』は、文字通り神聖なものであるのだから、国の権威を示す象徴として利用したり、金銭的な利益を発生させるための商品として扱うことは、許されない冒涜であると彼らは考える。
社会的・金銭的・倫理的なメリット、デメリットを、『純水派』は重視しない。場合によっては――『聖杯』と『聖水』を守るためならば――自分たちの不利益を甘んじて受け入れるし、非合法な手段に打って出ることもある。
それは、世界的に見ると尖った考え方だ。穏健で融通の利くユカニム教徒の中には、彼らを狂信者と呼ぶ者もいる。
それはあながち、間違った評価でもない。しかし、好意的な見方をするならば、彼ら以上にストイックに信仰に取り組んでいる者たちもいない。そして、『純水派』は、そのことを誇りに思い、自らの生きがいにしている場合がほとんどだった。
シャルロットの灰色の瞳が、流れるようにルイスの横顔に注がれる。指先は出されたばかりのカナッペをつまんでいたが、それを食べる前に、唇は質問を投げかけていた。
「その、二億とか三億エインに匹敵する書類というのは、どういうものなの?
この話の流れで、『聖杯』とも『聖水』とも無関係だなんて言ったら、私は今すぐにでも帰るつもりだけど」
「ああ……もちろん、ぼくたちにとって親兄弟よりも大切なものに、大きく関わってくるものだとも。
具体的な説明をしよう。その書類というのは、ユカニム大教国の教皇庁から流れてきたものでね。かの国の第一級機密に属する情報だ。
ぼくの信頼する諜報員が、三年という年月をかけて手に入れてくれた。ひと言で言うと、名簿だよ……この千年間の間に、教皇から『聖水』を、あるいは『聖水』によって祝福された武器を与えられた人物たちの名前を並べた、貴重な名簿……」
「……………………」
ルイスの耳に、クラッカーを噛む「サクッ」という音が届く。それは、「先を続けて」という言葉と同じ意味を持っていた。
「『聖杯』によって生み出される『聖水』は貴重なものだ。だからこそ、教皇庁はその使い道を、何千年も前からずっと、正確に記録し続けている。
今年は何リットルの『聖水』を作り、何という名前の将軍が指揮する何という軍団に、どれだけの量を渡し、何本の剣を祝福させたか。祝福された剣を携えた兵士たちが、海を越えて悪魔討伐に赴けば、どれだけの戦果を得たか、あるいはどれだけの損害を出したか、何匹の悪魔を倒し、何本の剣を失ったか……そういったことを、実に細かく書き記して、文書として保存しているんだ。
でも、そういうちゃんとした仕事をしてくれているからこそ、見えてくる不都合もある。
たとえば、そうだね……ある年に、悪魔討伐に向かう予定のA伯爵に対して、教皇様が一リットルの『聖水』を贈ったとしよう。A伯爵はその『聖水』を使って、配下の兵士たちの武器を祝福し、悪魔への対策をしっかりととのえる。
だが、遠征に行く直前に、A伯爵が急死してしまったら、どうなるだろう?
あとを継いだ伯爵の息子はまだ幼く、軍団を指揮して悪魔と戦うなんてことは、どだい無理だとしたら? 家臣の中にも、伯爵の代わりにリーダーをやれそうな頼りがいのある者がいないとしたら? これでは、いくら祝福された武器を持っていても、強力な悪魔の軍団に押し勝てるとは思えない。遠征計画は中止になり、伯爵の軍団は解散となる。
その場合、『聖水』によって祝福された武器はどう扱われるか? 答えは、お蔵入りさ。普段の仕事……たとえば、山賊討伐だとかで使うには、少々もったいなさ過ぎるからね。またいつか、自分たちに悪魔討伐の任務が与えられる日まで、個々の兵隊が大切に保管するわけだ。
他にも、こんな場合もあるな。祝福された武器を持って、悪魔討伐軍に参加し、見事な成果を出した勇士がいたとする。
しかし、そんな彼も、歳を重ねればいつかは引退の日を迎えるものだ。老いて体が衰え、戦えなくなり、悪魔討伐にも行けなくなる。しかし、彼の愛用する剣は、大切に手入れされていたためにまだまだ現役で使える。
かの勇士は、引退にあたってそんな相棒をどうするか? 騎士を志す息子や、有望な後輩に譲って、引き続き悪魔討伐のために役立ててくれ、と言うこともあるだろう。だが、自分の青春の象徴として、壁にでも飾って一生眺めて暮らす……という選択をする場合もある。
なあ、わかるだろ同志フェステ。ぼくが言いたいのは、つまり――この世の中には、『聖水』の祝福を受けていながら、様々な事情で使われずにいる聖なる武器が、山ほど眠っているってことなんだ。
ぼくらが『純水派』であるからには……その教義に、信念に、忠実に従うなら……そういった眠れる武器を、実際の悪魔討伐で使ってもらうために掘り起こすのは、一種の義務というか、使命と言ってもいいんじゃないか?」
ぐっ、とカウンターの上に身を乗り出して、その瞳を信仰の炎でぎらぎらと輝かせて、ルイス・マクロード・セラビムは訴える。
対するシャルロット・フェステは静かなものだ。深く濃厚な味わいのカナッペを存分に楽しむと、さっぱりとした『ダブル・ベッド』もうひと口すすって、「ふぅ」と色っぽいため息をつく。
だが、別に彼女は、ルイスの言葉を聞き流しているわけではない。シャルロットはシャルロットで、凪いだ湖のような心の底で、彼の主張を真剣に検討していた。
実際、使われていない聖なる武器が存在するという事実は、『純水派』にとっては心の痛むものだった。それらを回収し、悪魔討伐軍の手に渡して、再び振るってもらえるとしたら――なるほど、それは実にやりがいのある仕事になるだろう。
「わかったわ、同志セラビム。
つまり、ニコラス・ゴートが盗んでいったその書類には、そんな眠れる『聖剣』を所持している人たちの名前が、ずらりと並んでいるってことなのね?
盗賊にとっては、一銭の価値もない。でも、私たち『純水派』にとっては、天使様のお言葉に匹敵するような、何にもまして手に入れたい情報……ええ、確かにそれは、何億エインにも代え難い書類だわ」
「キミならきっと、そう言ってくれるだろうと思っていたよ。極端な話、ぼくはカネであの書類を買い直せるなら、財産を全部差し出してもいいとさえ思っている。
だが、現実的には、そんなことはできない。書類がどこにあるかも、誰が持っているかも……いや、そもそも、誰かの手の内にあるかどうかもわからないからだ。
そこで、だよ! 同志フェステ。キミに、ひとつ仕事を頼みたいんだ。さすがにここまで言えば、何をしてもらいたいかは察してもらえるだろうが」
「盗まれた書類を見つけて、取り戻してくれと。そういうこと?」
「そういうこと。ニコラス・ゴートが死んだせいで、盗品のありかを示す手がかりはぷっつりと途絶えてしまっている。事件の最初から捜査している衛士隊の人たちも、今じゃほとんど諦めムードだそうだ。放っておけば、盗まれたものは何も戻ってこないまま、迷宮入りということになってしまうだろうな。
そんな状況を、キミにブレイク・スルーしてもらいたいんだ。調査員としてのシャルロット・フェステの手腕は、アンペルバールの同志マルヴォーリオ・イリリから聞いている。キミならば、もしかしたら、衛士隊とはまた違った方向からゴートの犯行を研究し、奴の秘密の宝物庫を探り当てることができるかも知れない」
「あまり、大き過ぎる期待はされたくないけれど……でも、引き受けさせてもらうわ。
王は城に、神父は教会に、農夫は畑に。尊きものも卑しきものも、いかなるものもそれがあるべき場所におさめるべし。古い教典に、そんな言葉があったわよね。なればこそ――その書類はあなたの手の中に、というのが正しいはずだわ。天使ユカニムの御名において、ね」
言いながら、シャルロットはからになったグラスを、音もなくカウンターの上に置いた。
汗をかいたそのグラスの向こうから、ルイスはシャルロットに微笑みかける。その表情が示すのは、共感と安堵の気持ちだった。
「感謝するよ、同志フェステ。無理だとか、成功の見込みがないとか、そういったことを言われるんじゃないかって、少し心配してたんだ。
ぜひ、ぼくの手の中にあるべきものを戻してみせてくれ。この仕事が上手くいったなら、充分な報酬を支払うことを約束しよう」
「そういうのは必要ないわよ、同志セラビム……私たちは『純水派』ですもの。天使様に奉仕するにあたって、見返りのことを考えたりするべきではないでしょう?
その代わり、書類を追うために、いろいろとわがままを聞いてもらいたいとは思うけれど」
「おっと、確かに! ぼくとしたことが、つまらない失言をしてしまったようだ。
それで? わがままというのは、いったいどんなものかな。ぼくで叶えられることなら、何でも言ってくれ。協力は惜しまない」
「ええ。まずは、衛士隊の持っている情報を、自由に引き出せる身分を頂戴。今までに明らかになっている情報だけでなく、これから入手する情報も、私のところに流れてくるようにできるとありがたいわね」
「ああ、それなら、付き合いのある法律事務所を紹介するつもりでいたよ。
セラビム家の財産管理を任されている弁護士という肩書きを持っていれば、今回の窃盗事件について調査しても不自然ではないし、衛士隊も協力してくれるだろう」
「オーケイ、上等よ。他には……」
シャルロットがルイスへの要望を口に出し、ルイスがそれに応じる。そんなやり取りが、三回、四回と繰り返される。
その間に、グラスもまたふたりの間を何度か往復していた。ルイスがカクテルを作り、シャルロットが味わう。
密談の内容は色気のないものだったが、事務的で無味乾燥なものでもなかった。彼らには彼らなりの友情があり、相手との会話を楽しむ余裕も持っていた。派手さも明るさも、刺激も必要ではない。枯れさびた庵の中で天使像と向かい合うような、静謐な気配を仲間と共有することこそが、宗教家たちの心の慰めであった。
セラビム邸の夜は緩やかに、秘密めいた雰囲気をたたえて更けていく。もしかするとそこには、ニコラス・ゴートが忍び込んだ夜よりも、深く暗い闇がわだかまっていたかも知れなかった。
■
シャルロットが行動を開始したのは、セラビム邸で秘密の相談をした翌朝のことだった。
ルイスにご馳走してもらったお酒の影響は、少しも残っていない。もともと、大した量を飲んだわけでもないので(『ダブル・ベッド』を二杯と、ギムレットを二杯、ドライ・マティーニをタンブラーで二杯、ミント・ジュレップ、ラム・トニック、スクリュードライバー、ロングアイランド・アイスティー、胡椒を振ったブラッディ・マリーを一杯ずつだ)、夜明け前に二時間ほど仮眠を取っただけで、酒精の気配は体内から消え去っていた。
その上で服を着替えれば、気分もまたすっかり仕事用に切り替わる。この日は、薄手のプルオーバーの上にカーディガンを羽織り、ロングのフレア・スカートを合わせることにした。
悩みどころがあるとすれば、それは色の組み合わせだ。大人しい色を選びつつ、野暮ったくならないようにしなければならない。基本はブラック、グレー、ホワイトだが、今回はプルオーバーをブラック、カーディガンをダークグレー、スカートを思い切って、白に近い明るいグレーにしてみた。
ウエストのラインが、すっきりとスマートに見える組み合わせだ。モノトーンなので、髪の明るい金色とも相性がいい。じっくりと鏡を眺めて、納得のいくコーディネートになったかどうかを確認してから、シャルロットはフィアンチデルの街に繰り出した。
彼女はまず、ルイスから紹介された弁護士を訪ねることにした。カッター・ブランコ・アンド・ヴェリー法律事務所所長のエレファン・カッター氏は、七十五歳のベテラン法律家で、セラビム子爵家の財産管理を、ルイスの祖父の代から任されているという。
そんな人物であるから、現子爵ルイスの紹介状を持ってやってきたシャルロットにも、非常に丁寧に応対してくれた。
「ミズ・フェステじゃったね。あんたのご注文のものは、どれも三十分以内に用意できるよ。
もちろん、あとになってから、また別に何かが必要になったりしたら、遠慮なくワシに言うてくれ。あんたが満足できるように取りはからってくれと、ルイス様に念を押されとるでな」
「深く感謝いたしますわ、ミスター・カッター」
事務所の応接室で、シャルロットはカッター弁護士と向かい合っていた。彼女の灰色の目に映っているのは、鶴のように痩せこけた白髪白髯の老人だが、その身に秘めたバイタリティは二十歳の若者にも負けないだろうと、彼女は評価した。
事実、カッターの動きは、まったく老いを感じさせないほどにきびきびとしていた。重厚な鉄刀木のテーブルの上に羊皮紙を広げ、大鷲の羽根ペンで流れるように文章を書きつけていく。まるでハツカネズミが走るような速さでペン先を滑らせているのに、文字はシャルロットの側から見ても(つまり逆さまに見ても)、普通に読めるぐらいきれいで、整っていた。
「最後にハンコをペタンと捺して、と……ほい、できあがりじゃ。
あとは、あんたがこの空欄部分に名前を書き込めば、それでうちの事務所への就職が成立したことになる」
「名前を書くのは……ここと、ここと、ここですね?」
「そうそう。全部で三ヵ所。わかっておるじゃろうが、本名は使わん方がよかろうな」
シャルロットは頷き、空欄に『シャーリーン・リブラー』という名を書き込んだ。調査官としての彼女が持っている、いくつかの偽名のうちのひとつだ。
当然、カッターもその名を確かめる。これから先、彼がシャルロットのことを、『ミズ・フェステ』と呼ぶことは永遠にないだろう。その名前が書き込まれた瞬間から、彼にとって目の前にいるのは部下の『シャーリーン・リブラー』であり、そうであるようにふるまわねばならない。すべては、セラビム子爵の意に沿うように、というわけだ。
「よろしい、ミズ・リブラー。うちの事務所でのあんたの肩書きは、ワシの秘書ということにしておこう。ワシからの直接の指示で、例の窃盗事件について調べていると言えば、衛士隊の連中もむげには扱えぬはずじゃ。
……ところで、じゃ。あんたはこれから、カッター・ブランコ・アンド・ヴェリー法律事務所の一員として活動してもらうわけじゃが、リルロッサ王国の法については、どの程度勉強しておるかね?」
「基本的なことは押さえてあるつもりです。独学ですが」
「ふむ……窃盗罪を犯した場合、科せられる刑罰は?」
「十年以下の懲役。あるいは五十万エイン以下の罰金です」
「リルロッサ王国法律院発行の刑法書では、業務上横領罪については第何条に記されておる?」
「横領の項目が、第三十八章だったから……業務上横領罪は、二百五十三条です」
「一。ある商人から資産運用を任された弁護士が、倒産寸前の会社の株を、利益が見込めないとわかっていながら商人のカネで購入し、商人から託された資産を無為に浪費した。
二。ある軍人が、王から敵地に潜入して情報を収集せよとの命令を受けた。軍人はそれを引き受けたが、敵地に向かう途中で怖じ気づき、命令を実行することなく逃亡した。王は当てにしていた情報を得られず、結果として敵に砦をひとつ開け渡す羽目になった。
三。ある資産家が、新しく購入した土地に屋敷を建てることになった。彼は地学者を雇って、その土地が屋敷を建てるのに適しているか調査させたが、この人物は土地をろくに調べもせず、安全だと報告して調査費用を受け取った。その後、屋敷の建築中に、土地そのものに関する致命的な問題が発見され、工事は中止に追い込まれた。
以上の三つのエピソードで、弁護士と軍人と地学者は、それぞれ何という罪で裁かれることになるかね?」
「リルロッサ王国に限って言えば……すべて、背任罪に当たると思います」
「ある男が、遺言書を書かずに亡くなった。彼の遺族には、母親と、弟と、奥さんと、息子と娘がいる。この中で、死んだ男の遺産を相続できるのは誰で、受け取れる金額は全体のどれくらいになる?」
「奥さんが全体の二分の一、息子と娘が四分の一ずつですね。母親と弟には、この場合は相続権がありません」
「ふむ。では、死んだ男には愛人がおり、その愛人との間にも子供がいた場合は? この愛人の子は、死んだ男の実子として認知されているものとするが」
「奥さんに二分の一。これは変わらずで、息子と娘、そして愛人の子で、残りの二分の一を山分けします。三人とも、全体の六分の一ずつを受け取る計算ですね」
「リルロッサ王国内の、貴族裁判所のある地名をすべて言えるかね?」
「王都ラオーラ、ケルビムリー、オルフォックス、キージャム、デンマンシャー、クリースト、ベロ、ナスカレン、ワックスフィールド、グリーンフィンガー、ハオリ、ケントビュー、カニリック、アンノロック、サウス=トラン……以上、十五ヵ所です」
「現在のラオーラ貴族裁判所で、裁判長を務めている者の名は?」
「アントニオ・ヴァルヴァリッケ・ロマン卿」
「……うむ。とりあえず、問題はなさそうじゃな。
あんまり知識が足りないようなら、何日かつきっきりで勉強させにゃならんと思っておったんじゃが、この様子なら必要あるまい」
すべての問題に正解したシャルロットを見つめて、カッターは安心したように大きく息を吐いた。そして、先ほどの書類とは別に、手のひらほどの大きさの木の板を懐から取り出すと、そこにまたさらさらと何かを書き込んで――それをそっと、テーブルの上に置いた。
「受け取んなさい。この紫檀製のカードは、王都での一級司法試験に合格したことを証明するものじゃ。偽造品ではあるが、本物と同じ素材で、本物と同じ規格で彫られ、法務大臣の代理人を務めたこともあるワシがサインしたものじゃから、公の場でも問題なく通用する。
弁護士免許の代わりでもあるから、なくしたりせんように。誰かから身分を提示するように言われたら、これを見せるがよかろう」
そのカードを手に取り、シャルロットはしげしげと眺めた。厚さは一センチほどで、よく磨かれているためにハチミツのような光沢がある。表側には、弁護士の象徴である天秤の模様が大きく浮き彫りにされていて、裏側には、『リルロッサ王国一級司法試験合格証明書』という文字がしっかりと焼きつけられていた。そして、その下には、『シャーリーン・リブラー殿』という宛名と、『認定者:法務大臣代理、サー・エレファン・カッター』のサイン。どこまでも型通りで、疑える要素は何もない。
「そのカードさえ携帯しておれば、問題なく弁護士としてふるまえるはずじゃ。あとはそう……服装をそれらしくしておいた方がいいのう。
そのロングスカートやカーディガンは、あんたによく似合っておるが、弁護士らしくはない。フォーマルなスーツはお持ちかな?」
その指摘に、シャルロットはあらためて自らの装いを見直した。シンプルなわりには、エレガントにまとめることができたと思っている――だが確かに、弁護士のコスチュームとしては適当とはいえない。ほんの少しの無念さとともに、彼女は首を横に振った。
「いえ。このあと、適当な洋服屋さんで購おうと思います」
「それがええじゃろう。しかし、洋服屋か……このフィアンチデルの街でなら、杜松の木通りにあるロビンの仕立屋がおすすめじゃな。あそこは主に既製品の販売をしておるが、王都のオーダーメイド・ブランドに負けないぐらい質のいいものを置いとる」
「それはいいことを聞きました。何から何まで、本当にありがとうございます」
紫檀のカードで口元を隠すようにして、品良く微笑むシャルロット。それに応じるように、カッターもわずかに口角を上げてみせる。
「これからさっそく、仕事に取りかかるのかね?」
「そう、ですね。スーツに着替えたら、その足で衛士隊詰所に向かうつもりです」
「なかなか忙しないことじゃ。だが、まあ、何でも早め早めに取りかかるのは、いい仕事をする上で必須の条件ではあるな」
カッターは、ちらりと壁掛けのぜんまい時計に目をやった。
シャルロットが彼を訪ねてきてから、そろそろ三十分が経とうとしている。逆の言い方をすると、このふたりの面会時間はたったそれだけに過ぎないということだ。
にもかかわらず、カッターは最後に、こんな言葉をシャルロットに投げかけた。
「あんたのお仕事が上手く片付いたら、適当に時間を作って、またここに顔を出しなさい。できるかね?」
「はい、そういたします。この弁護士免許は、すべてが終わったらあなたに返却するべきでしょうから」
「うむ、それもあるがね。そこの棚に、五十年もののとびきり上等なブランデーがあるんじゃよ。
とある縁で手に入れて以来、誰と飲もうか悩んでおったんじゃが、あんたと酌み交わすなら悪くなさそうじゃ」
「あら……」
老弁護士の誘いに、シャルロットは思わず目をぱちぱちと瞬かせた。
彼女はカッターのことを、年齢のわりに精力的な印象のある人物だと感じていた。その評価はどうやら正しかったようだが、まさかビジネス以外の部分まで若者顔負けであるとは、さすがに思わなかったのだ。
しかしそれは、シャルロットにとってはまったく悪印象ではなかった。彼女は言葉より先に、意味ありげな流し目を彼に返した。
ほんの一瞬の仕草であったが、カッターにとってそのまなざしは、あごの下を指先でくすぐられるような、甘く魅惑的なものに感じられた。
「わかりました。では、遠からず、あらためてゆっくりと、お礼にうかがいますわ」
シャルロットは簡単にそう応えて、席を立つ。カッターも、「楽しみにしておるよ」とだけ言って、彼女を事務所の外まで送った。
それは他人が見れば、社交辞令の域を出ないような、熱のないやり取りに思われたかも知れない。
しかし、彼らは大人である。詩人が短い詩歌の中に、豊かな情感を込めることができるように、彼らは彼らで短い挨拶の中に、相手への敬意や親しみを織り込んでいた。そして、それを受け取る時も、慎み深くすることを良しとする。
繰り返して言う――彼らは、大人なのだ。
当然、その付き合い方もまた、大人らしくしとやかなものが似合うというわけだ。




