ある張り込みの風景
新章開始なのじゃー。
――耳をすませる。
ざあ、ざあ、ざあ、ざあと、大粒の雨が屋根を叩く音がする。とぽとぽ、とぽとぽと、雨樋の中を水が滑り落ちていく音がする。がたがた、がたがたと、窓をふさぐ鎧戸が風に撫でられて、くすぐったそうに震える音がする。
それらの音は、てんでばらばらなものであるはずなのに、全体のリズムは不思議と調和していた。まるで、息の合った楽団の演奏のようで、聴いていると緊張がほぐれ、気持ちが穏やかになる。
この心安らぐメロディは、六月の雨季特有のものだ。他の月では、まず同じものを聴くことはできない。夏の八月にも強い雨は降るが、それはあまりにも激しく、しかもあっという間に過ぎ去ってしまうので、とても演奏と呼べるものではなかった。一年を司る十二人の神の中では、ただひとり六月の神だけが、音楽の素養を持っているらしい。
「……おい、ボリス……寝るなって、ボリス。まだ八時だぜ……寝るには早過ぎるだろうがよ」
耳元で囁くように名前を呼ばれて、俺は目を開けた。
薄暗い、というよりは、ほぼ真っ暗闇に近い視界の中に、相棒であるセドリック・メイスンの顔が、ぼんやりと浮かんだ。ただでさえ小さな目を細めながら、無精ひげの生えたあごを突き出している。
仲間のことをこんな風に表現するのは、あまりいいことではないとは思うが――猿みたいな奴だなと、いつも思う。鼻の下が長く、額が狭い。赤ら顔で、焦げ茶色の髪はボリュームが多く、ふわふわと膨らんで見える。髪だけでなく、全身の毛が濃い体質らしく、俺の肩を揺すっている手も、指の甲まで念を入れたように毛むくじゃらだ。この調子だと、ズボンの下に短い尻尾が生えててもおかしくない。
「おい、ボリス……聞いてんのか? しゃきっとしろって。この時間の見張りは、おれとお前だけなんだからよ。お前がぐっすり寝ちまったら、誰が居眠りしたおれを起こしてくれるんだ?」
「ああ、そんなに揺すらなくてもいいよ、リック。ちゃんと起きてるって。……ていうか、その言いぐさからすると、お前も眠いんじゃないかよ」
ぐいっと背伸びをしながら、俺は言い返す。
「当たり前だろうがよ、ボリス。もう六時間も、ここでじっとしてるんだぜ? 本を読んでもいけないし、酒を飲んでもいけないし、ボード・ゲームだってしてちゃいけない。ただひたすら、この部屋の前の廊下を見張り続けてないといけないっていうんだからな……眠くならない方がおかしい、って話だろ」
「まあ、確かになぁ。だけど、それが俺たちの仕事なんだから、仕方ないさ。
ゴートの野郎がここにやって来た時に、うっかり見逃したりしたら目も当てられないからな。注意力が散漫になるようなヒマ潰しは、できる限り控えないと」
「おいおい、さっきまで目をつぶってた奴が、偉そうに言うなよな。見張り番はおれとお前、ふたりでワンセットなんだから。どっちも眠気をこらえて、気を張って起きてるべきなんだよ。
……ああ、まったく、くそったれのニコラス・ゴートめ! さっさと姿を見せてくれねえかなぁ……今、来てくれさえしたら、酒場で一杯やって、いい気分で帰れるのになぁ……」
リックのぼやきに、俺も同意するようにため息をつく。
三メートル四方程度の、窓と扉がひとつずつしかない、暗く狭い部屋の中。男ふたりで、いつ来るかもわからない人物を、ただひたすら待ち続けなくてはならないわびしさときたら、とても言葉で言い表すことはできない。
窓の外では、相変わらずざあざあと雨が降り続いていた。その音色は優しげで、俺たちの憂鬱を少しでも慰めようとしてくれているかのようだった。
■
俺とセドリックが、なぜこんな狭苦しい部屋に押し込められるはめになったのか。
すべての原因は間違いなく、ニコラス・ゴートという名の商人が、俺たちの住むフィアンチデルの街にやってきたことだろう。
フィアンチデルは、リルロッサ王国の南部に広がる大密林を切り拓いて造られた街だ。王都からは遠く離れており、人口も五千人に満たない田舎街だが、多種多様な薬草の特産地として知られている。
解熱作用のある草。血止めに使える花。胃腸の働きを活発にする木の皮。危険な伝染病の特効薬になる果実。苦痛を和らげる効果のあるキノコ。毛生え薬の材料になるコケ。他にもいろいろ――三百種類ほど。それらすべてが、フィアンチデル郊外の密林でのみ採取できるのだ。
当然、世界中の医者が、フィアンチデル産の薬草を欲しがる。フィアンチデルからの供給が止まれば、診療院で使われている薬の三十パーセントは作れなくなる、とさえ言われるほどだ。
なので、この街には普段から、薬種商人がうじゃうじゃと出入りしている。リルロッサ王国のみならず、ベルホルム帝国、ジャゼ共和国、ユカニム大教国からも、毎年何千何万という人々がやって来て、荷馬車に収まりきらないほどの薬草を仕入れていく。
ゴートも、そんな薬種商人のひとりだった。いや、正確に言うならば、彼はフィアンチデルの街に潜り込むために、薬種商人という肩書きを使っていた。
奴が本当に薬を扱う商売をしたことがあるかどうかは、俺にはわからない。だが少なくとも、フィアンチデルに入って数日の間は、それらしくふるまってはいたようだ。薬草の加工場を見学し、朝、夕に開かれる薬種市場を回り、実際にいくらかの薬草を購ったりもしていた。
そう、はた目にはごく真面目で、信頼できる商人のように見せかけていた。直接顔を合わせ、話をしたことのある人たちは、ゴートの態度や外見に、一切の不審を覚えなかったという。
フィアンチデルの街を治める領主であり、大手薬種問屋の主でもある、ルイス・マクロード・セラビム子爵も、ゴートを信用してしまった素朴な田舎者たちのひとりだ。
ゴートは子爵に接近し、フィアンチデル産の薬草の質がいいことを褒め称えたり、ジャゼ共和国産の珍しい菓子や工芸品を贈るなどして、徐々に懇意になっていった。子爵は愛想のいいこの商人を気に入っていたようで、夕食の席に招待することもしばしばあったようだ。
しかし、結局のところ、ゴートの見せた紳士としての顔は、上辺だけのものだった。もちろん、商売上の優位を勝ち取るために、媚びを売っていたのでもない。彼が子爵に取り入ったのは、たったひと晩の『大仕事』のためだったのだ。
事件が起きたのは、六月七日の午前一時十五分前後。肌にまとわりつくような霧雨の降る、暗い深夜のことだった。
時刻がここまで正確にわかっているのは、犯行現場に偶然居合わせた目撃者がいたからだ。
それは、普段よりほんのちょっと夜更かしをした、三人の猟師たちだった。彼らは別に大金持ちというわけではなかったが、その日はたまたま、とびきり大きなイノシシを仕留めることができたため、懐が暖かかった。臨時収入の使い方なんてのは人それぞれだが、堅実に貯金するよりも、ぱーっと散財した方が男らしい、と考えるような連中も少なくはない。この猟師たちもそういったポリシーの持ち主だったので、膨らんだ財布を片手に馴染みの酒場にくり出すと、じっくりと腰を落ち着けて、美味い酒を飲みまくった。
彼らが酒場を出て帰路についたのが、日をまたいだ午前一時のこと。その頃には、街はすっかり寝静まっていた。普段は賑やかな大通りも閑散とし、人っ子ひとりいない。三人それぞれがランタンを手に持っていたので、かろうじて足元は見ることができたが、それでも、周囲から覆い被さってくるような静寂は防ぎようがない。まるで、人類すべてが死に絶えて、その場にいる三人しかこの世に残っていないのではないか――などと疑ってしまうような、おそろしく寂しげなありさまだったという。
そんな彼らが、酔ってふらつく体をお互いに支え合いながら、セラビム子爵邸の横を通りかかった時だ。何やら真っ黒い大きな影が、煉瓦塀をぬるりと乗り越えて、姿を現した。
得体の知れない怪物の出現に、猟師たちは息を飲んだ。すわ化け物か、妖魔幽霊の類いかと身構えたが、ランタンの明かりをかざしてよく見ると、そういった超自然のものにしては、どうも様子がおかしい。
その怪物には、頭があり、手足があり、胴体があり、いかにもヒトらしい形をしていた。背中には、雑嚢のような大きな荷物を背負っている。猫のように軽やかで、しなやかな動きをしていたが、塀から飛び降りて道路に着地した時には、ざしっ、と重そうな音を立てていた。
そいつは、呆然と立ち尽くす猟師たちの方を見て、はっと息を飲んでいた。薄暗い中でも、目を見開くのが、口を「あっ」の形に開くのが、はっきりと見えた。怪物ではない、紛れもなく人の顔であった。重さがあり、実体がある、生きた人間――。
酔いで頭の働きが鈍った猟師たちであっても、さすがにここまで来れば、怪物の正体に思い至ろうというものだ。真夜中に、大荷物を背負って、金持ちの家の塀を乗り越えて出てくる人間。そんな条件に当てはまるのは、泥棒以外に考えられなかった。
「おい、貴様!」と、猟師のひとりが鋭い声で呼びかける。泥棒は、ほんの一瞬ためらうように身じろぎしたが、すぐに踵を返して、駆け出そうとした。
しかし、目の前にいる曲者の逃亡をやすやすと許す猟師たちではない。山野を駆け回って鍛えた足腰で、泥棒のあとを追いかける。真夜中のフィアンチデルの街を舞台に、男四人の追いかけっこが始まった。
結果だけを言うならば、軍配は泥棒の方に上がった。彼はあらかじめ、逃走ルートを決めてあったらしく、細く入り組んだ路地裏を、縫うように迷いなく駆け抜け、見事に追っ手たちを振り切ったのだ。
しかし、追いかけた猟師たちも、まるで良いところがなかったわけではない。三人の中でも特に足の速い者が、一時は泥棒の背負う雑嚢に手をかけることに成功していた。
残念ながら、掴んだのは縫いつけの弱い側面のポケット部分だったらしく、引っ張った際にそこだけがちぎれ、泥棒本体は取り逃がすことになってしまったのだが、その引きちぎられたポケットから、一冊の手帳がこぼれ落ちた。
泥棒が、その手帳を失ったことに気付いたかどうかはわからない。だが、その手帳は間違いなく猟師の手に残り、のちのち、泥棒の行方を追うための重要な手がかりとなった。
泥棒を見失った猟師たちは、それ以上の追跡を諦めて、衛士隊詰所に駆け込み、ことの顛末を説明した。
この深夜の通報に、フィアンチデル衛士隊はすぐさま対応した。まず、泥棒が出てきたというセラビム子爵邸を訪ね、ぐっすり寝ていた家人を叩き起こし、事情を説明した。
寝ぼけ眼のセラビム子爵に、邸内を確認してもらったところ、案の定盗難の被害に遭っていることが発覚した。子爵の執務室が荒らされ、金目のものがごっそりと持ち去られていたのだ。
盗られたのは、金貨や宝石、無記名株券などで、そのすべてをひっくるめた金銭的価値は、五千万エインをゆうに超えているという。金貨だけでも四百枚――二千万エイン分だ。窃盗事件の被害としては、かなり大規模なものである。
それだけの盗みをやってのけた泥棒は、よほど運の良い奴だったのだろうか? いや、もちろんそんなことはない。
そもそも、セラビム邸は貴族の屋敷なのである。一般のご家庭などとは比べものにならないぐらい、セキュリティはちゃんとしていたのだ。夜の間も、警備兵が敷地内を巡回していたし、窓や扉には、内側から二重の閂がかけてあった。さらに言えば、現金や貴重品の類いは、すべて頑丈な鋼鉄製の金庫におさめられていたのだ。
にもかかわらず、敵はそのすべての関門を、やすやすと突破していった。
警備兵の交代する時間を狙うことで、人目を避け。細く薄いノコギリのような道具を、窓の隙間から差し込んで、閂を切り壊し。鋼鉄製の金庫は、なんと鉛で作った合い鍵を差し込むことで、ロックを解除していた。
どれもこれも、一朝一夕でできる工夫ではない。警備兵のスケジュールを調べるだけでも、相当に踏み込んだ調査をしなければならないし、窓に傷をつけずに閂だけを切った道具も、そこら辺の道具屋では手に入れることのできないカスタム・メイドのものだ。極めつけは、金庫の鍵穴に差しっぱなしのまま残されていた、鉛製の合い鍵。こんなものを作るには、どうしても、オリジナルの金庫の鍵に触れる機会を得なくてはならない。このオリジナル・キーは、セラビム子爵が肌身離さず持ち歩いていたので、流しの泥棒なんかでは、まず触れるどころか、見ることもできないはずなのだ。
いったいどうやって、泥棒はそのような不可能を可能にしたのか?
その答えは、意外とすぐ明らかになった。犯行の目撃者である猟師たちが、泥棒の顔をはっきりと見ていたからだ。
彼らの証言を参考にして、絵心のある衛士が泥棒の似顔絵を作成した。髪型はどうだったか。輪郭はどんな形だったか。目は丸いか、細いか。鼻は高いか、低いか。アザやホクロなど、特徴的な要素を持ってはいなかったか。細部まで入念に聞き込み、何枚もの試作を繰り返して、まるで本物の顔をそのまま焼きつけたかのような、写実的な肖像を作り上げてくれたのだ。
歳の頃は、二十代半ばほど。クリームかオイルで形を整えたと思われる、くせのないオールバックの金髪。面長のすっきりとした顔立ち。やや垂れ気味の、アーモンド型の目。筋の通った高い鼻に、薄い唇。ちょっと気取った感じはするが、なかなかの男前だ。
羊皮紙に紫色のインクで描き込まれたその肖像は、さっそく関係者たちの間で回覧されることになった。その一番手は、もちろん被害者であるセラビム子爵だったが、彼はその絵をひと目見た瞬間、激烈な反応を示してくれた。
「ああっ、これは間違いない! 薬種商人のニコラス・ゴートだ!」
彼だけでなく、セラビム家に仕える老執事やメイドたちも、その似顔絵を見せられると、まったく同じ名前を口にした。しばらく前から屋敷に出入りしている、若き商人。礼儀正しく、話し上手で、人を楽しませる術に長けた、好感の持てる種類の男。
そんな彼が盗みをはたらくなんて、とても信じられない――と、ゴートを知る者たちはみんな、口を揃えて言ったものだ。
だが、しかし、このニコラス・ゴートが泥棒だとすると、盗みの手際の良さも説明がついた。
子爵の話によると、ゴートはしばしば、セラビム邸に出入りしていたようだ。食事や酒をともにしたり、カード・ゲームやビリヤードなどの遊戯で盛り上がることもあったという。
その出入りの際に、屋敷の間取りや警備体制を調べることは難しくなかっただろう。スリとしての腕前があれば、お酒に酔ったセラビム子爵の懐から、そっと鍵束を抜き取り、粘土か何かで型を取って、また戻しておく――なんて芸当も可能だったはずだ。
つまり、ゴートは何ヵ月もかけて子爵に取り入り、盗みのための下準備をしていたのだ。
そんなことをする奴が、専業の薬種商人であったりするわけがない。もちろん、無計画で衝動的な、駆け出しの泥棒でもない。ニコラス・ゴートの正体は、相当に手慣れた、プロの盗賊なのだ。
もちろん、盗みを終えて屋敷から脱出しようとした時に、通りすがりの猟師たちに見とがめられて、慌てて逃げ出すはめになったというのは、プロとしては不格好に思えるが――これは運が悪かった、としか言いようがないだろう。本来ならば、ゴートが逃走のために選んだ裏路地は、夜中には誰も通らないような寂しい場所だったのだ。たまたま臨時収入を得て、たまたま遅くまで飲んでいた連中が、たまたまその場所を通りかかるなんて、どう頑張っても予測できなかったに違いない。
そう。盗賊ニコラス・ゴートは運が悪く、彼を捕まえる立場にいる衛士隊は、運が良かった。
フィアンチデルは、街全体を高い石壁で囲んだ惣構えの造りになっている。人の出入りができるのは、北側にある大門と、南側にある小門からだけで、その二門も朝の七時から夕方の六時までの間しか、通行を許可していない。
この壁と門は、森に住む猛獣などから街を守るための防衛装置であるが、いざ街の中で犯罪事件が起きた時には、その犯人を逃がさないための巨大な檻としても機能する。
その日の午前五時には――つまり、事件発生から四時間もしないうちに――大門と小門の出入りを司る門番隊にゴートの情報が送られ、緊急捕縛対象として登録された。もし、ゴートが無警戒に門を通って街から出ようとしたら、門番たちに寄ってたかって取り押さえられ、衛士隊に引き渡されるというはめに陥るだろう。
フィアンチデルのぐるりを囲む石壁は、攻城櫓でも使わないと乗り越えることができないような高いものだし、破損も抜け道もない。唯一出入りできる門には見張りが立ち、獲物が罠に飛び込んでくるのを待ち構えている。
ゴートは、こうして進退窮まった。手に縄こそかかっていないが、フィアンチデルの街に閉じ込められ、どうやっても脱出できない状況に追い込まれたのだ。
もし、彼が猟師たちと鉢合わせしていなければ、セラビム邸の盗難事件の犯人は、そう簡単には特定できなかっただろう。いや、それどころか、昼まで待っても、事件自体が発覚していたか怪しい。貴族というのはゆっくり仕事をする生き物なので、よっぽど急ぎの用事でもない限り、午前中から執務室の机に向かうなんてことはしないのだから。
当然、衛士隊の調査も遅れただろう。門番隊も、ゴートのことを警戒せず、街から出ようとする彼を、簡単な身分確認だけで通しただろう。無害そうな顔をした盗賊は、財宝を詰め込んだ荷物を背負って、フィアンチデルの街から遠ざかっていき、その姿を完全にくらましてしまったはずだ。
そうならなかったのは、本当にゴートの運の悪さゆえ――あるいは、天使様のお導きによるものだろうか。
どちらにせよ、幸運の流れは完全に、ゴートを捕まえる側に味方していた。この時点でも、衛士隊にとっては充分に都合良くことが進んでいたのに、さらに逃走中のゴートの居場所を特定する情報まで、自然と転がり込んできてくれたのだ。
それは、手帳という形で衛士隊に提供された。まだ覚えておられる方もきっと多いだろう――猟師のひとりが、逃げるゴートを追いかけた時に、雑嚢のポケットと一緒に掴み取った、あの手帳である。
もちろんのことだが、衛士たちはその手帳の中身をあらためた。手のひらサイズの羊皮紙を数十枚、糸で綴じてあるだけの安っぽいものだが、何しろ犯人の遺留品である。犯罪計画の詳細だとか、拠点の位置だとかが書かれていれば、捜査の重要な手がかりになるだろう。
しかし、ここで問題が生じた。表紙を一枚めくった先に書かれていたのは、意味のわからない数字の羅列で、とても文章と呼べるものではなかったのだ。
ニコラス・ゴートは、運こそかなり悪かったが、計画の細かさと用心深さは大したものだった。彼は、その手帳が自分以外の者の目に触れた時のために、必要な情報をすべて、暗号を用いて記していたのだ。
衛士たちは、この厄介な工夫に歯噛みしたが、すぐに考え方をポジティブな方向に修正した。暗号にしてまで読まれたくないのだから、そこに書かれているのはゴートにとって、重要であり致命的な情報でなくてはならない。解読すれば、どのような形にせよ、奴の急所を突くことにつながるはずだった。
まあ、そうは言っても、衛士隊員なんてのは基本的に、頭より腕っぷしで勝負する連中ばかりである。暗号なんて小難しいものを解けるインテリは、なかなかいない。
フィアンチデル衛士隊でも、かろうじて暗号学の教養を持っていたのは、部長衛士であるライオネル・クラウン氏ただひとりだった。そのため、彼は誰の助けも期待できない孤独な状況で、数十ページにも及ぶ暗号文の解読に取り組まねばならなくなったのだ。
それでも、優秀な人間というのはやはり良い仕事をするものである。彼はわずか三日という短い期間で、ゴート暗号を一文も残さず解き明かしてみせた。
複数の数字をひとつの単語に対応させた、キーワードを必要としないタイプの暗号だったので、法則がわかれば一気に解けた――というのがクラウン部長の説明だったのだが、正直意味はわからない。おそらくだが、そもそも部長の説明を理解しようとした衛士など、ひとりもいなかったのではないだろうか。必要なのは暗号の内容であり、暗号の解き方ではなかったのだから。
さて、その肝心の解読文だが、こちらは誰にでも理解できる内容であり、なおかつ予想通りに有用であった。
暗号によって記されていたのは、すべて盗みを計画する上で必要な情報だった。
たとえば、セラビム家を始めとしたいくつかの貴族家に関するレポート。
家族構成、個人個人の趣味嗜好、就寝時間や外出時間などの行動様式。さらには、屋敷の構造や警備体制の詳細までもが、実に細かく調べ上げてあった。
他にも、宝石や美術品を扱う闇商人への連絡方法だとか、金融ギルドの隠し口座の番号だとか、これまでに使った偽名や肩書きのメモだとかが、ずらずらと並んでいた――どうやら、我らが親愛なるニコラス・ゴート氏は、世界中で活躍している大物犯罪者であったらしい。ベルホルムではフランシス・シープと呼ばれ、ジャゼではロバート・フィリップス・キッドか、ケーネス・カシミアンと名乗り、さらにユカニム大教国では、ヴァンクロフト・アルパ、ルナール・ラッヴァ、マーカス・ラクレット、チャールズ・ゴーダなど、十二種類もの名前を使い分けていた。そのうち、ラクレットとゴーダは、国際指名手配中の結婚詐欺師の名前として、よく知られているものだ。ここまで徹底的な悪党だと、もはや呆れを通り越して賞賛の気持ちすら湧いてくる。
だが、それはこの際どうでもいい。フィアンチデル衛士隊にとって重要なのは、あくまでフィアンチデルの街で起きた窃盗事件であり、ゴートが外国で起こした何十もの犯罪ではない。
一番求められていたのは、今現在のゴートの潜伏先だった。猟師に顔を見られてしまった彼は、当然のことだが、ゴートの名前で借りていたホテルの部屋には戻らなかった。
フィアンチデル全体をぐるりと囲む石壁があるから、街の外に出たということは考えられない。しかし、それでも彼は、まだ本当に捕まってはいないのだ。五千人の人々がひしめくフィアンチデルのどこかに潜み、ほとぼりが冷めるのを――あるいは、衛士隊や門番隊の気が緩むのを待っている。
仮に、ゴートがひげや髪を伸ばしたり、太ったり痩せたりして、出回っている似顔絵とはまったく違う容姿になってしまったら、どうなるだろう? 実際にゴートを見たことがない門番隊の連中は、奴の変身を見破り、逮捕することができるだろうか?
そんなことは、まず不可能と考えていいだろう。
フィアンチデルという限られた空間は、衛士隊の味方だ。しかし、時間はきっとゴートの味方をする。だからこそ、なるべく早いうちに、奴の潜伏先を見つけ、強襲をかけなくてはならない。
彼の手帳の暗号に、犯行が露見した際の緊急的な避難場所は、果たして記されていただろうか? 答えは――あった。正確には、それらしい住所の記述が、だが。
それは、フィアンチデルの東の端にある、古いアパートメントの一室だった。
いや、アパートメントとして登録されてはいるが、もう廃墟と呼んだ方がいいほどのボロボロな建物だった。いかにもリルロッサらしい二階建ての木造建築で、遠目から見ると古色と重厚感があって悪くなさそうだが、近付いてみると屋根がところどころ剥がれていたり、壁板に小さな穴がいくつも空いていて、白アリが出入りしていたりする。あまりにもひどい。
そんなありさまだから、住人は一人もいない。土地建物の持ち主はいるようだが、この滅びかけのアパートをどうにかしようという気持ちはまったくないようだ。改装して再び人が住めるようにしようだとか、逆に解体して更地にするとか、そういった金のかかる行動を取ることが嫌なんだそうだ。きっとこのオーナーは、自然が建物を風化させて、フィアンチデルの外と同じような森に変わってしまうまで、ほったらかしにしておくつもりなのだろう。
そんな、誰にもかえりみられない建物だから、犯罪者の隠れ家としてはうってつけだった。非常にボロく汚いが、雨風をしのぐことはできるのだ。内部をある程度掃除して、食糧や寝具などを持ち込めば、一、二ヵ月ぐらいは余裕で引きこもっていられる。
ゴートがそのアパートメントに潜んでいるというのは、ほぼ間違いのないことだった。衛士隊長の号令のもと、クラウン部長衛士とその優秀な部下がふたり、ゴート逮捕のために差し向けられた――この、クラウン部長に従ったふたりの衛士こそ、この俺、ボリス・マリナーと、相棒のセドリック・メイスンである。
手帳の情報によると、ゴートが使用しているのは、アパートメントの二階部分、それも入り口から一番遠い部屋であるらしい。俺としては、ゴートに余計な抵抗をさせないように、その部屋を電撃的に襲って制圧したかったのだが、その案にはクラウン部長が反対した。
それというのも、ゴートの手帳の中に、非常に暗示的な一文が発見されていたからだ。
クラウン部長がいうには、なんと、そのゴートの隠れ家は、ただの避難場所ではなく、彼の共犯者との合流場所としても利用されているらしい。
つまり、『ニコラス・ゴート』という盗賊は、ひとりではないのだ。我々衛士隊に顔がバレている、金髪のニコラス・ゴート以外にも、まったく正体のわからないもうひとりがいる。
衛士隊としては、もちろんそのふたりを、両方とも捕まえてしまいたい。片方だけでも取り逃がしたら、後々に面倒を残すことになる。
一番いいのは、ふたりが同じ場所にいる時を狙って襲いかかることだ。ひとりひとり、別々の場所で、別々の機会に捕まえるというのは、片方の顔がわかっていない状況ではちょっと難しい。
だから、合流場所であるアパートメントに、ふたりの犯罪者が揃うまで、手を出さずに監視するべきだ――というのが、クラウン部長の意見だった。
たとえば、隠れ家に人がひとりしかいないなら、もうひとりが合流してくるまで泳がせておけばいい。アパートメントには住人がおらず、空き部屋だらけなので、その部屋のひとつに待機していれば、人の出入りを確かめるのも容易であろう。
俺もリックも、部長の作戦に賛成した。難しいことは何もないように思えたし、ふたりの犯罪者を捕まえることができれば、単純に手柄も二倍になる。そして、その手柄は、そのまま俺の給料に反映されるはずだ――国際指名手配犯と、その共犯者を捕まえたとなれば、ボーナスにかなり色がつくだろう。
そんな感じで話がまとまり、俺たちのニコラス・ゴート捕縛作戦は、彼の隠れ家の様子をこっそりうかがうことから始まった。
まず、アパートメント全体を、外から確かめてみる。
――とりあえず、人の気配はなし。誰かいれば、足音や衣ずれ、話し声といった、ありふれた生活音が少しは感じ取れるものだが、まったく聞き取れなかった。
続いて、アパートメントの中に入り、二階の一番奥の部屋をのぞいてみる。
実際にその部屋を訪ねたのは、クラウン部長と俺だけだ。リックには、見張り番として外に残ってもらった。誰かがこっそりアパートメントから出ようとしたり、逆に入っていこうとしたら、彼に捕まえてもらうというわけだ。
慎重に気配を殺しながら、問題の部屋に近付こうとしたのだが――これはすぐに無理だとわかった。アパートメントの廊下の床板が薄く、しかもかなり歪んで張られているようで、どれだけ気を付けて歩いても、大きな足音がしてしまうのだ。
俺たちが一歩踏み出すごとに、ぎし、ぎし、みしり、みしり、と、廊下が悲鳴を上げる。貴族の家の床板を同じような造りにすれば、きっと最高の泥棒よけになるだろう。
もし、これでゴートがアパートメントの中にいたら、俺たちの存在にあっという間に気付いたはずだ。奴を泳がせて、仲間と合流するのを待ってから捕らえるという計画も、ちょっと難しくなってくる。
だが、衛士隊の幸運はまだ続いていた――たどり着いた二階奥の部屋には、誰もいなかった。ふたりでもない、ひとりでもない、ゼロ人がそこにいたのだ。ゴートの姿は、影も形もなかった。
といっても、俺たちは無駄足を踏んだわけではない。なぜなら、そこには確かに生活の痕跡があったからだ。
床に広げられた毛布。真新しいリンゴの芯やパンくず。中身が半分ほど減っているワインボトル。もみ消された葉巻。マッチの燃えかす。壁には、上等なジャケットと帽子がかけてあった。誰かがここで寝起きし、食事を摂り、煙草を吸っていたのだ。おそらくは、ほんの数時間前に。
その部屋を調べ、遺留品を観察した俺とクラウン部長は頷き合った。ゴートは間違いなく、ここで暮らしている。
今、姿が見えないのは、一時的に外出しているだけだ。上着と帽子が残されていることが、その証拠である。
おおかた、食糧でも買いに行っているのだろう。待っていれば、奴は遠からず戻ってくる。
そう。戻ってくる可能性が、非常に高い。
ならば、最初の予定通り、泳がせて監視するのがいいだろう。今なら、アパートメントの中の別の部屋に潜むことができる。同じ建物の中の、ごく近い距離に見張りを置くことができれば、仕事は格段に楽になる。
――そんなわけで、相談の結果、俺とリックのふたりが、監視要員として建物の中で待機することになった。
今日の、午後二時少し前のことだ。
そして、六時間後の現在――午後八時。
ニコラス・ゴートは、まだ帰ってくる気配がない。
■
「暇だ」
「暇だなぁ」
何十分かに一度か二度、俺とリックはそんな短い言葉を交わす。
懐からジャゼ製のぜんまい式懐中時計を取り出し、小さな針の動きを確かめる。文字盤に夜光キノコの塗料を薄く塗ってあるので、暗闇の中でもなんとか時間を把握することができた。
すでに午後九時を回っていたが、状況に変化はない。雨は止まないし、周りは真っ暗だし、ニコラス・ゴートは帰ってこない。奴は今頃、どこで何をしているのだろう。
単純な買い物でないのは明らかだ。街の外にも出られない男が、七時間もかけてパンやハムを選ぶわけがない。事故にでも遭って、路地裏でぶっ倒れてたりするんだろうか? 腹の具合を悪くして、医者に担ぎ込まれでもしたんだろうか? あるいは――この可能性はあまり考えたくはないが――俺たち衛士隊が見張りについたことに気付いて、別の場所に移ったのだろうか?
このアパートメントを完全に放棄して、二度と戻ってこないつもりでいるなら、俺たちは完全に無駄な時間を過ごしていることになる。さすがにそんなことはない、と信じたいものだが、実際はどうだかわからない。
あまりにも変化がなさ過ぎて、そんな暗い疑いさえ頭の中に浮かび始めていた頃だった。――ぎしっ、と、廊下の薄い床板が踏みしめられる音を、俺の耳が拾った。
「……おい、ボリス」
「ああ。リック、静かにしてろよ……とうとう、おいでなすったかも知れん」
リックも同じ音を聞いたようで、注意を促すように脇腹を小突いてくる。俺は小声で返事をしながら、扉の向こうにある廊下へと意識を集中させた。
研ぎ澄ませるのは、聴覚だ。このオンボロアパートの中で、人の存在を正確に感じ取るには、目よりも耳を頼りにした方がいい。
廊下は暗いので、ランタンの明かりでも用意しないと、一メートル先さえ見えないのだ。もちろん、そんなものを灯したら、罠にかけるべき相手からもこちらが見えてしまう。
だが、音を手がかりにすれば、こちらは自分たちの存在を知らせることなく、一方的に相手の様子をうかがうことができる。
先ほども言ったが、このアパートの廊下は、床板が薄く、歪んでいる。誰かがやってきてその上を踏めば、必ず大きな音がするので、その動向が手に取るようにわかる。待ち伏せるこちらは、まったく動く必要がないので、何の音も出ない。よって、気付かれることがない――非常に有利だ。
――ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ。
規則的な音が、右側から徐々に近付いてくる。
俺たちのいる部屋の前の廊下は、右から左に向かって伸びている。扉を開けて右に行くと、一階へ降りる階段がある。左に行くと、ゴートが隠れ家にしている突き当たりの部屋にたどり着く。
もちろん、俺たちは扉を開けない。俺たちの存在を知らないニコラス・ゴートが、外出から帰ってきたのかも知れないからだ。足音を聞いて、左の突き当たりの部屋に行くかどうかだけを確かめればいい。
ところが、足音の主は、俺たちが想像もしなかった行動に出た。
なんと、俺たちのいる部屋の前で止まり、こん、こん、と、扉をノックしてきたではないか。
どういうことだ? それは、扉の向こう側に人がいることを確信している叩き方だった。まさか本当に、俺たちが見張っていることが、ゴートにバレていたのか――?
そう怪しんでいると、とうとうノックだけではなく、呼びかける声が扉の向こうからもたらされた。
「マリナー、メイスン……いるな? 私だ……」
独特の深みがある、いい声だった。俺にとっては非常に聞き慣れたものだし、リックにとってもそうだろう。警戒する必要がないとわかり、俺は肩から力を抜いた。
扉をそっと押し開ける。ほんのわずか、二十センチほどの隙間を作って、部屋の外の様子を見やった。廊下があるべきその空間は、イカが墨でもぶちまけたように真っ暗闇だ。しかし、長い時間を薄暗い中で過ごしていた俺には、そこに立っている人物の姿が薄ぼんやりと見えた。
ライオネル・クラウン部長衛士。
四十過ぎのベテラン衛士で、俺たちの直接の上司である。
その容貌は、厳ついのひと言だ――四角く大きな顔の輪郭。髪はところどころに白の混ざった鉄色で、頭頂部を立てるように短く刈り込んである。目付きは鋭く、その上に乗った眉毛は、油絵に使う筆で描いたように太い。鼻は大ぶりなイチジクそっくりの形をしていて、顔の真ん中でその存在感を惜しみなく放っている。それとは逆に唇は薄く、横一文字にきりりと結ばれていた。
体格も、顔立ちに釣り合った立派なものだ。百九十五センチの長身で、肩幅も広く、全体的にがっしりとしている。リックが猿なら、部長は熊にたとえるべきだろう。少なくとも、素手で取っ組み合いになったら、俺はこの人に敵う気がしない。
つまりは、味方でいる限り、非常に頼りになる人物だというわけだ。
「何かありましたか、部長? よそでゴートが取っ捕まったとか、そんな知らせじゃないでしょうね」
低く潜めた声で、俺は軽口を叩く。クラウン部長は、俺にとっては上司にあたる人ではあるが、かなりさっぱりとした性格の持ち主なので、これくらいの親しみを込めて話しかけた方が、お互いに気楽だった。
だが、その言葉づかいに反して、俺の精神は慎重になっていた。部長はアパートの外を巡回して、怪しい者が近付いてこないかどうか、見張る役目に就いていたはずである。中に入ってきて、俺たちに話しかけてくるというのは、明らかな異常事態なのだ。それがいい意味でか、悪い意味でかは、まだわからないが。
「いや、違う。ちと、見回りの最中に、気になるものを見てしまってな……」
やや言葉を濁しながら、部長は視線を横に向けていた。彼が見ているのは、廊下の奥――ゴートの隠れ家となっている部屋の方向だ。
「お前たちにひとつ、確認したいんだが。この部屋の前を、私より先に横切った者はいたか? 階段の方から、奥の部屋に向かって、歩いていった者は?」
「いませんよ。それは間違いありません……なあ、リック?」
「ああ。ボリスの言う通りですぜ、部長。太陽が東から昇るってぐらい確かです。
ここの廊下の具合なら、あんたもよくわかってるでしょう? 誰か通ったら、たとえそれが肉も内臓もない骸骨お化けでも、床が悲鳴を上げますよ」
「ああ。私もそれは、よく理解しているよ。ということは、つまり、奥の部屋には今、誰もいない。いるはずがない……そういうことだな?」
念を押すような部長の問い掛けに、俺とリックは揃って頷く。
「俺たちふたりが、廊下を歩く人間の足音を聞き逃すことはあり得ません。そこは信用してもらいましょう。
……なぜ、そんなことを聞くんです?」
「いや、気のせいかも知れないんだが、な。
外を見回っていて、ふとゴートの部屋の窓を見たら……真っ暗な部屋の中で、何かが動いたような気がしたんだ」
冷たさと重みを含んだその声に、俺は思わず息を飲んだ。
怪談話をしているかのような緊張感が生まれ、その場の空気を支配する。クラウン部長が言ったのは、まず現実にはあり得ないことで、もしあり得たとしたなら、それは超常的な現象の発生を証明するものだった。
「あの部屋には、人っ子ひとりいるはずがない。何度でも俺は、自信を持って言いますよ」
「ああ、そうだろうさ、マリナー。私だって、お前たちがサボったなどと思っているわけではない。
しかし、少しでも疑いがあるなら、確かめなくてはならない。『どうせ気のせいだろう』で済ませて、取り返しのつかない事態に陥るということは、この仕事ではよくあることだ。……私は今からもう一度、あの部屋の中を調べてくるつもりでいる」
「同行しましょうか?」
「いや、それには及ばん。引き続きこの場所で、警戒に当たってくれ。誰かがあの部屋にいないか、ちょっと覗いてくるだけだ……すぐに済む……」
その言葉に俺は頷き、扉をゆっくりと閉めた。
ぎし、ぎし、ぎし、ぎしと、扉の前から足音が、左に向かって遠ざかっていく。その音を聞きながら、俺とリックは顔を見合わせ、肩をすくめた。
「どう思う、リック? 本当に奥の部屋に、俺たちの気付かないうちに、誰かが入り込んでると思うか?」
「いやぁ、あり得ねえだろ。そんな気配は微塵もなかったんだぜ。
でもなぁ、クラウン部長が見たって言うんだもんなぁ。その点でちょっと不安になるよな。あの人が見間違いとか、するとは思えねぇし」
俺も、その意見には賛成だった。俺たちは誰も見逃していない――だが、部長が見たと言ったのを疑う気にもなれない。あの人はフィアンチデル衛士隊の中でも、とりわけ優れた判断力と観察眼を持っている人物だ。街路樹を暴漢と間違えて、喧嘩を売るような酔っ払いとはわけが違う。彼がゴートの部屋に動くものを見たというのなら、確かに何か動くものが、部屋の中に存在していたということだろう。
しかし――しかし、そんなものが実在しているなら――それはいったい、何だ?
ニコラス・ゴートではない。奴が帰ってきているとは考えられない。ならば――?
それから五分ほどして、ぎし、ぎし、ぎしと、奥の部屋から俺たちのいる部屋の前へ、左から右へと、またしても足音が近付いてきた。
今度は警戒する必要などなかった。クラウン部長の引き返してくる音だと、想像がついたからだ。
案の定、それは部長の大きな足の立てる音だった。再び扉がノックされたので、俺は先ほどと同じように、少しだけ扉を押し開いて、訪問者に応じた。数分ぶりに見た部長の顔からは、冷たい緊迫感が消えていて、代わりに苦笑に近いものが張りついていた。
「……どうでした、部長? 部屋の様子は」
「問題なし、だ。まあ、動くものは確かにいたが、ゴートとは何の関係もない、無害な奴だったよ。ほら、これだ」
そう言ってクラウン部長は、腕に抱いていた茶色い塊を、俺に見えやすい位置に持ち上げてくれた。
それは、茶トラ模様の可愛らしい猫だった。目は閉じていて、ぷしゅー、ぷしゅーと、呑気そうな寝息を立てている。
「こいつが窓のそばで居眠りしてた。窓の隙間かどこか知らんが、この小さな体を生かして潜り込んだらしいな。外がこの大雨じゃ、雨宿りもしたくなろうさ」
「何とまあ、そんなことでしたか。でも、何か不備があったわけじゃなくてよかったですよ」
「ああ。というわけだから、引き続きこの場で張り込みを続けてくれ」
「了解です。それで、お騒がせなその猫ちゃんはどうするんで?」
「こいつは……まあ、外に放り出すというのもあと味が悪いからな。雨のあたらない軒下でも見つけて、置いてくることにするよ」
「肉とかミルクとか、エサは必要ですかね?」
「今のところはいいだろう。こんなにスヤスヤ寝てるんだ、腹を空かせているってわけでもなかろうさ」
俺の冗談に、同じく冗談で返して、クラウン部長は去っていった。足音が、右方向へ遠ざかっていき、やがて消える。
人ひとりが部屋の前を往復した事実を、俺とリックには耳という器官で完璧に把握できた。部長は図らずも、その感知方法の確かさを、身をもって教えてくれたことになる。
足音を聞くというやり方は、部長みたいに大柄で、体重のある人間にしか通用しないわけではない。小柄な人間でも、痩せた人間でも、人として常識的な重量を持ってさえいれば、前の廊下を通ればすぐにわかる。
何度でも繰り返すが、前の廊下を誰かが通れば、音ですぐにわかるのだ。リックの言葉を借りるなら、これは太陽が東から昇るってぐらい確かなことだ。俺たちにはその自信があった。
それからまたしばらくは、心癒やす雨音だけしか聞こえなかった。退屈で退屈で、あくびを噛み殺すことが最大の娯楽と呼べるような灰色の時間が、ゆるりゆるりと過ぎていく。
だが、午後十時に差し掛かろうとした頃に、ようやく変化が訪れた。
――かつーん、ぎしぃっ――かつーん、ぎしぃっ――かつーん、ぎしぃっ――。
老人のうめき声のようなきしみ音が、俺たちのいる部屋の中まで染み込んできた。
扉の右側の遠い位置から、ゆっくりと近付いてくる。鮮明で、存在感に満ちた足音だ。
床板はぎしぎしときしむだけでなく、無機質な感じのする高い音も響かせていた。どうやら今度の来訪者は、底の硬い靴を履いているようだ。木製のかかとがついている革靴か、それとも鉄製のスパイクがついた登山靴か。
かつーん、ぎしぃっ――かつーん、ぎしぃっ――かつーん、ぎしぃっ――。
俺たちのいる部屋の前を、今、通過した。音は左の方向へ、ためらいなく進んでいく。まっすぐに、まっすぐに。おそらくは、突き当たりにあるゴートの隠れ家に。
我らの獲物は、――それがゴート本人か、その共犯者か、今の時点では判断できないが――どうやら無事に、罠の中に入り込んできてくれたようだ。
「リック……例の合図を」
「よしきたっ」
俺の言葉を受けて、リックは押し上げ式の窓をほんの少し開けた。そして、そのわずかな隙間から、細い紐を外に垂らしていく。
これは、アパートの外にいるクラウン部長への連絡だ。窓から紐が一本垂れ下がっていたら、『隠れ家に訪問者一名』の意味を持つ。二本垂れ下がっていたら、もちろん『訪問者二名』だ。
「おっ、紐が引っ張られた! クラウン部長も、合図に気付いてくれたらしいぜーッ、ボリス!」
「わかった、わかったから、もうちょっと声を潜めろよ……敵さんに気付かれたら、面倒なことになるだろ。……それで、部長は何て?」
「ああ、悪い悪い。えーと、短く三回引っ張ってきてたから、『そのまま待機継続』だな。今すぐ突入して、奥の部屋にいる奴を捕縛しろ……って言ってもらえるのを期待してたんだが」
「そりゃ、仕方ないさ。帰ってきたのはひとりだけだろ? ゴートの、彼の仲間と、ふたりの悪党を捕まえるのが、俺たちの目的だからな……今の時点でひとり捕まえても、もうひとりに逃げられちゃ情けないってもんだ。
行動を起こすなら、ふたりめの足音が聞こえてきてから、だ。それまでは、奥にいる奴につかの間の自由を満喫させてやろうぜ」
「わかってるよ、わかってるって。とにかく、ひとり確かに帰ってきたんだ。もうひとりだって、きっと遠からずやってくるに決まってる。だよな?」
きっと、そうだろう。
退屈な時間を長く重ねてはいるが、作戦の状況は今のところ、順調といっていい。敵の足運びに、不安や警戒は感じられなかったし、こちらがこのアパートに張り込んでいるということは、相手には気付かれていない可能性が高い――ならば、ゴートは隠れ家を手放さないだろうし、共犯者もここを訪れることにためらいを覚えるわけがない。
あとどれくらいで、最終的な結果が出るか? その予想はつかない。だが、奥の部屋にふたりの犯罪者が揃い、俺たちが彼らをふん縛る時は、必ず来るはずだ。根気よく待つ者に、天使は微笑む――犯罪捜査に携わる衛士全員にとっての、これは座右の銘だ。
■
思った以上に展開が遅い。
懐中時計の針は、静かに深夜零時を追い越した。しかし、ゴートの部屋には何の動きもない。
正体不明の何者かが、午後十時頃にやって来ただけで、また状況は停滞してしまった。耳をすませてみるが、物音はまるでしない。どうやら敵さんは、安心できるアジトにこもったきり、じっとしているらしい。もしかしたら、もう眠りについてしまったのかも。
第二の人物が訪ねてくることもなく、俺とリックはぐったりと頭を垂れながら、モソモソした携帯食をかじっていた。砂糖と麦とドライフルーツを混ぜ合わせて、クッキーのように堅く焼いたもので、栄養豊富で腹持ちもいいのだが、あんまり美味しくない。
「ううう……口ン中がパサパサする……キンキンに冷えたエールが飲みてぇ……茹でたプリプリの川エビとか、ジューシーな豚肉のグリルとか食いてぇよお……」
「言うなよリック……聞いてる俺までツラくなるだろ……」
長時間の張り込みは、衛士にとっては当たり前の仕事だ。しかも、今回のケースはまだ短い部類に入るだろう。引退した先輩から聞いた話では、いつ来るかわからない容疑者を、十日も二十日も待ち続けることもあるという。だから、二十四時間も張っていない今の時点で弱音を吐くのは、根性がないと言われても仕方がないだろう。
ただ、そういう話に出てくる張り込みと、今の俺たちの張り込みとでは、明確に違う点がふたつある。待機する部屋の環境が劣悪であるという点と、人員の交代が困難であるという点だ。
普通、同じ場所で何日も張り込むとなると、待機場所にはそれなりに居心地の良い部屋を選ぶものだ。少なくとも、壁や床が湿っていて、かびっぽいニオイの漂ってくる、ボロボロの廃屋の中にじっと居続けるという経験をした衛士は、あまりいないのではないだろうか。
そして、もうひとつ――人員の交代の難しさ。たぶん、よりヤバいのはこちらの点だ。
張り込みなんてのは基本的に、複数人で協力しながら行うものだ。ひとりやふたりだけで、一ヵ所にずーっと固定されることはまずない。
人間の集中力なんて、たかが知れている。監視の役目を数時間頑張ったら、そのあとは別の仲間に引き継ぐ。ひとりに負担がかからないように、ローテーションでことに当たるわけだ。シフトの入っていない時間には、仮眠を取ったり入浴したりして、気力の回復を図る。監視任務の途中でも、腹が減るような時間になれば、仲間が温かい食事や飲み物を差し入れてくれたりする。そうして、何人かで支え合いながら、長い長い待ち時間を乗り越えるのだ。
しかし、今回の俺たちの場合は、そういった支え合いが存在しない。
接近する人間の存在を、足音で確実に感知できるこのアパートの構造が、悪い方向に働くのだ。誰かと交代しようとすれば、どうしても廊下を通らなければならない。廊下を通るということは、歪んだ床板を踏みしめて、あの馬のいびきのような凄まじいきしみ音を立てなくてはならない。それは即ち、奥の部屋にいるゴート(あるいはその仲間)に、監視者の存在を大声で知らせるのと同じことだ。
つまり、待機場所に収まった俺とリックは、敵を捕縛するその時まで外に出ることができず、交代要員も、俺たちのいる部屋に近付くことができないということになる。
そのことは、このアパートを最初にざっと調べた時からわかっていたし、覚悟もしていた。――いや、正確に言うなら、あまり問題だと考えなかった。多少湿っぽくてかび臭くても、他の仲間と交代できなくても、そのくらいのことは我慢できるはずだと思っていた。
ゴートは油断しているだろうし、この張り込みは長くても半日程度で終わるだろう、と。そう楽観視していたのだ。
「……なぁ、ボリス……おれ、まぶたの蝶番に油を差し過ぎたみてぇだ……目が、気が付いたら閉じてるんだよ……ぶっちゃけ眠い……」
「まあ、もう真夜中だしなぁ……少し寝るか? お前と俺とで、順番に。
三時間したら、俺がお前を起こす。そのあとは三時間、俺が寝る。そしたら、ちょうど朝になる」
「いい考えだ、ぜひ賛成してぇ……でもな、正直な気持ちを言うよ……俺、いざ眠りに落ちたら、朝日が昇るまで、揺さぶられようと殴られようと、目を覚まさない自信があるぜェーッ……」
「おい待てふざけんな。ウソやごまかしを言わなかったことは評価してやるが、本気でそれやったら絶交だぞ。リック、おい、おいって……毛むくじゃらのセドリック・メイスン! ウトウトしてんじゃないっ、口からよだれ垂れてるぞ、シャキッとしろよ……おいって!」
溶けかけたバターを思わせるリックの言葉に、俺も危機感を覚えた。こっくり、こっくりと船をこぎ始めた彼の頬をペちペちと叩いて、その意識を覚醒させようとする。だが、本当に強い眠気の前では、その程度の刺激は何の役にも立たないようだ。なので、もみあげの毛を思いっきり引っ張ってみたり、鼻の先端をデコピンの要領で強めに弾いてみたりしたが、これまた期待したほどの反応が見られない。
これはもう、みぞおちに固く握りしめた拳の一撃でも叩き込まねばなるまいと決心した時だった。思いもよらぬ形で、俺たちの過酷な張り込みは終わりを迎えることになった。
――ドタドタドタという激しい足音が、部屋の前の廊下を駆けてくる。
右手側、つまり、アパートの入口側から、その駆け足はやってきた。そして、俺たちのいる部屋の扉を、乱暴に何度も叩き始める。
「マリナー! メイスン! 私だ! クラウンだ!
緊急事態だ! お前たちの監視任務は、現時点をもって終了! 即刻、私のサポートに回ってもらう!」
雷鳴のようなその大音声に、夢の世界に首まで浸っていたリックも、さすがにびっくりして飛び起きた。
俺もその声の大きさには驚いたが、それ以上に、その声に含まれた焦りの色の濃さに息を飲んだ。声の主は、他ならぬクラウン部長なのである。慎重で冷静なベテラン衛士である彼に、そんな態度を取らせた緊急事態とは、いかなるものなのだろうか?
「了解しました、部長。ボリス・マリナーとセドリック・メイスンは、ライオネル・クラウン部長の補佐につきます! ほらっ、行くぞ、リック!」
「あ、ああっ」
俺たちは扉を押し開け、クラウン部長と合流した。男三人分、都合六本の足に踏みつけられて、廊下の床は嘆くようにみしみしと鳴いた。
「今度は何が起きたんです、部長? 先ほどの猫ちゃんの時より、随分と急いでおられるようですが?」
「ああ、マリナー……私は、とんだ判断ミスをしたかも知れないんだ。ゴートの隠れ家に、ひとりやって来た時点で、踏み込んでいれば良かったんだ……罠の中にふたり揃うのを待ったりなんか、しなければ良かったんだ。
きっかけは、また窓だよ。夕方には、暗闇の中で動くものを見た。その時、部屋にいたのは、ただの猫だった……。
ついさっき、巡回中にまた、同じ窓を見た。今度は、動いているものなんか見なかった。その代わりに、宙に浮いている人影を見たんだ」
「宙に浮いている、ですか?」
「ああ。もっとわかりやすい言い方をしようか? その人影は直立したまま、がっくりと頭だけを垂れさせていて、首の後ろからは上に向かって太い縄が伸びていた。その先端が梁に結びつけられていても、私は少しも不思議には思わんよ」
その言葉で、俺は衛士にとって、非常に不名誉なことが起きてしまったことを悟った。
三人で廊下を駆け抜けて、ゴートの部屋へ向かう。誰ひとりとして、足音を立てないようにとか、自分たちの存在を他の誰かに悟られないようにとか、そういった配慮をする必要を感じてはいなかった。
扉を蹴破るように開けて、中に踏み込む。お世辞にも、清潔感があるとは言えない室内――床に広げられた毛布や、飲みかけのワインボトル、壁に掛けられたジャケットや帽子など、物品に関しては昼間に見た時と変わっていない。
しかし、しかし――『物品』と呼ぶには抵抗のある、異様な存在感を放つものが、新たに追加されていた。
クラウン部長の言った通り、それは窓際にあった。天井の梁に、太い麻縄の一端をくくりつけておいてから、反対の端を人間の首に巻きつけ、体重がその部分にかかるようにして、ぶら下げたもの。
首吊り死体と呼ばれる、恐ろしい変死体である。
死んでいるのは、若い男だった。小柄で細身、くせのない金髪をオールバックにときつけている。顔立ちは――生前は、なかなかの男前だったのだろう――だが今は、首に食い込んだ縄によって顔の皮が不自然に引っ張られていて、子供の作った粘土細工のように、不気味で歪んだ容貌に変わってしまっていた。
大きな眼球がまぶたから飛び出し、唇は溶けかけた飴細工のようにだらりと開き、その中から紫色の舌がはみ出している。皮膚は血の気を失い、灰色がかった青色に染まりつつあった。
「くそっ……やはり……!」
悔しそうに舌打ちをして、クラウン部長が遺体の手首に触れる。
「脈なし。体温もかなり失われている。死後一、二時間は経っているな。蘇生はまず不可能だろう」
「その男は……ニコラス・ゴートですかい?」
おそるおそる、といった様子で、リックが尋ねる。クラウン部長は、遺体に向き合ったまま、小さく頷いた。
「資料に載っていたゴートの外見と、この遺体の特徴は一致する。十中八九、本人だろうな。
犯行後に顔を見られて、フィアンチデルの街に閉じ込められて、もう逃げられないと絶望したんだろう。まさか、私たちの目と鼻の先で、こんな決断をされるとは……!」
部長の表情は見えないが、悔しげに歯ぎしりする音は聞こえてきた。
彼の気持ちは、俺にもよくわかる。もう少しで捕まえられるというところまで追いつめた犯人に、手が届く一歩前で自殺されるというのは、凄まじい屈辱である。
だが、いくら悔しがっても、もう取り返しはつかない。
盗まれたものは盗り返せばいいし、壊れたものは直せばいい。しかし、失われた命だけは、どう頑張っても元に戻すことはできないのだ。
「とりあえず、遺体を下ろしませんか。それから、部屋の中をざっと調べる必要もあるかと。自殺なら……もしかしたら、遺書があるかも知れませんし」
「あ、ああ……そうだな。その通りだ、マリナー。私としたことが……ボーッとしている暇はないよな。
ふたりとも、手伝ってくれ。まずは遺体を下ろす。私が縄を外すから、遺体が落っこちないように支えてくれ」
「わかりました」
「了解っす」
部長はそばに転がっていた椅子に乗って(おそらくゴートも、首を吊る際にこの椅子を踏み台にしたのだろう)、梁にくくりつけられている縄をほどいた。
支えを失った遺体は、思った以上にぐにゃぐにゃとしていて、まるで水を入れた革袋のようだった。俺とリックは、そんな掴みどころのない状態になったゴートを支えるのに難儀したが、何とか脇の下と膝の裏を抱え込むようにして、そっと床に横たえることに成功した。
「あの世には、財産は持って行けないってよく言うが。大悪党ニコラス・ゴートも、死んでみるとさっぱりしたもんだな……」
ゴートの遺体を見下ろしていると、ふとそんな言葉が口をついて出た。
それは、実際に俺が感じたままの印象だった。ニコラス・ゴートは、質素とさえ言えるような、飾り気のない姿で死んでいた。
まるで肌着のような薄いシャツに、軽く毛羽の立ったズボン。どちらも木綿の安物だ。足下には、底のすり減った木製のサンダルを履いている。
はっきり言って貧乏くさい。まるで、田舎の老人のような装いであった。
いや、まあ、人が自分の部屋にいる時に、どんな服装をしていようが、それはその人の自由だ。俺がケチをつけていいことじゃない。
しかし、それにしても、もう少しマシな服は用意できなかったのだろうか、とは思う。一応、こいつは第二大陸全土で暗躍した結婚詐欺師であり、セラビム子爵邸から大金を盗み出した大盗賊でもあるのだ。そんな男の死に装束として、これは、あまりにもひどいというか――。
「…………ん?」
突然、頭の中に、奇妙な疑いが浮かび上がってきた。
奇妙であり、不気味であり、恐ろしくもある疑いだ。俺たち衛士隊は、追っていた盗賊に自殺されてしまった。それだけでも面目が丸潰れなのに――その潰れた顔に、さらに新しく泥が塗られてしまう可能性に、たった今気付いてしまった。
部屋の中を見回す。あまり広くない、アパートメントの一室。床も壁もボロボロで、調度品はほとんどない。家具と呼べるのは、踏み台に使われた椅子ぐらいだろうか。
ゴートの私物も、あまりない。毛布。ワインボトル。葉巻煙草。リンゴの芯。帽子。ジャケット。
他には、何もない。
――なぜ、俺は不思議に思わなかったのだろうか。
昼間、ゴートの留守中にこの部屋を訪れた時、あるべきものがないことに、どうして思い至らなかったのだろうか。
彼は、当然所持していなければならないものがあったはずだ。しかし、それは鍵束や煙草入れのように、ポケットに入れて持ち歩くようなものではない。かなりかさばるので、自分のプライベート・スペースにしまっておくのが普通だ。そう、たとえば、この部屋のような隠れ場所に、だ。
なのに、見当たらない。
当然、存在するべきものが、ここにない。
それは恐るべきことだった。ゴートが、あれをこの場に残さずに死んだのだとしたら――俺たちの仕事は、さらに大変になる。
「……おい、どうしたよ、ボリス? 幽霊でも見たようなツラしやがって」
ぽん、と、後ろから肩を叩かれる。振り向くと、何も考えていなさそうなリックの顔があった。
「人の死体を見て、気分が悪くなるってガラでもないだろ、お前。しゃんとしろって。
まあ、ゴートをふん縛れなかったのは残念だけどよ、たまにはこういうこともあるさ。気持ちを切り替えて、ちゃっちゃと事後処理をしちまおうぜ」
あまりにも軽く言われたので、俺は苛立ったりあきれたりすることもなく、逆に冷静さを取り戻すことができた。そうだ、こいつの言う通りだ。事後処理をしなければならない――犯人は死亡したが――俺たち衛士隊の仕事は、まだ終わっていない。
「なあ、リック。ちょっと疑問に思ったんだが」
「ん? 何だよ」
「ゴートが盗んだセラビム子爵のお宝。いったいどこにあるんだろうな?」
俺のその言葉は、その場に数瞬の沈黙を生み出した。
リックは目をぱちくりさせ、クラウン部長は弾かれたようにこちらを振り向いた。どちらも驚き、焦っている――もちろん、俺もそうだ。
そう。ゴートは、セラビム子爵の家の金庫から、五千万エイン分もの金貨や宝石を持ち出したはずなのだ。
財産の価値と体積が一致するなどとは、俺も思っていない。が、それでも盗まれた品々は、量的にもかなりのものになるはずだ。
それが、まったく見当たらない。
まるで、最初から何も盗んだりしなかったかのように、ゴートはゴミしかない空虚な部屋の中で、貧乏人のような姿で死んだのだ。
もちろん、そんなはずはない。奴は隠したのだ。この隠れ家以外の場所に。このフィアンチデルのどこかに。
それを見つけ出して、セラビム子爵に返却するまで、俺たちの仕事は終わらない。
「……なあ、ボリスよ。今度は、おれの方から聞きたいんだが」
「何だよ、リック」
「被疑者死亡で報告書書いてさぁ、それ以外のことは全然気付かなかったフリして、さっさとウチに帰ってゆっくり寝る……。そういう手は選べないもんかな?」
「寝たいんなら、詰所の仮眠室があるぞ。あそこのベッド、やたら固いけど」
ていうかリック、お前、度胸あり過ぎだろ。
ごほん、ごほんと、クラウン部長がわざとらしく咳払いをした。部下にカミナリを落とす時に必ずやる、彼のクセである。
長くツラい張り込みは終わった。しかし、俺たちの仕事は、まだしばらく――それも、かなり長引きそうな形で――続いてしまうようだった。
主人公の出番……一文字もなし!(*´ω`*)




