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フェステが暗躍する  作者: アンバーハウス
ロミオとジュリエット
15/18

賛美歌/ヴェロナット司教の、最後の問い掛け

 教会からの帰り道、ちょうど衛士隊詰所の前を通りかかった俺は、ついでにバルサザー老人にも挨拶をしておこうと思いついた。

 帝都アンペルバールの衛士隊詰所は、やはり他の街や村に比べると、断然規模が大きい。七階建ての重厚な赤レンガ造りのビルディングは、控えめに言っても要塞そのものだ。有事の際には、民間人の避難所としても利用されるという。

 ジュリエットと一緒に入り口のスウィング・ドアを潜り、受付でバルサザー老人の所在を尋ねた。しかし残念ながら、この日の彼は遅番なので、夜の九時頃にならないと出勤して来ないということだった。

 そういえば、前に老人と世間話をしている時に、衛士は昼間の通常勤務だけでなく、月に三度ほど、交代で深夜パトロールの仕事をすることもある、と聞いたことがあったっけ。

 まさか今日がその夜勤の日とは、ずいぶん悪い巡り合わせもあったもんだ。

「こんな雪の日の夜に、お外を見回るの? それって、ものすごく大変なんじゃない?」

 ジュリエットにそのことを教えると、彼女は心から気の毒そうな顔をして言った。

「確かに大変だろうな。でも、街の治安を維持するには、必要な仕事でもある。

 まあ、心配することはないさ。衛士ってのはみんな体を鍛えてて健康だし、分厚い鎧も着込んでいるからな。俺たちにはつらい寒さでも、連中なら苦にしないさ」

「そうかも知れないけど……バルサザーさんって、前にシスター・ロザリンドの件でお会いした人よね? 痩せてて、白髪で、かなりお年を召してなかった? 鍛えてても、お年寄りに寒さはまずいんじゃないか、って思うんだけど」

「ははは! お前の言う通りだよ、ジュリエット! じいさんぐらいの年の人間に、若い新人衛士と同じような体力仕事は、あんまりすすめられはしないな。

 しかしだ。本人の前では、そうは言ってやるなよ? じいさんは、まだまだ若いつもりでいるんだから」

 頑固者の老人というのは、そういうものだ。自分が年寄りだと評価されることを嫌い、若者と同じ仕事をやりたがる。

 もちろん、やる気のない年寄りになるよりはよっぽどいい。負けん気があれば、自然とそれに見合う力を肉体も獲得するものだ。あの老人があの性格である限り、まだ十年ぐらいは深夜パトロールも平気なはずだ。足腰が立たなくなって、衛士としてやっていけなくなるまでには、三十年はかかるだろう。少なくとも、雪の寒さ程度に参ってしまうとは、とても思えない。

「ことによると、あんまり運動しない俺の方が、先にくたばったりすることもあり得るかもな。――って、おいおいジュリエット、そんなびっくりした顔をするなよ――ほんの冗談だ。さすがに、寿命でじいさんに負ける気はないよ」

「う、うん、それはわかってるけど。でも、確かに言われてみたら、ロミオって工房でパンこねてる時以外、運動らしい運動してるの見たことないなー、って思って。お酒も、飲み過ぎるくらい飲むし」

 やや不安げな面持ちで、ジュリエットは俺の頭から爪先までを、じーっと審査するように見てきた。

「ま、まあ、少しだけ腹回りに肉がついてきたかな、という自覚はあるが……それくらいは、大目に見てくれよ。

 ほら、そろそろ帰るぞ。俺が長生きできるように、美味いランチをこしらえてもらわなきゃいけないからな」

 心当たりがまったくない、というわけではない俺にとって、彼女の視線はくすぐったくてたまらなかった。ちょっと強引に話を切り上げて、衛士隊詰所を出る。

 対してジュリエットは、狼狽する俺をここぞとばかりにからかうことにしたらしい。「そうねー。帰ったら、ヘルシーで美味しいランチを作らなくちゃ。油とかが少ない、太りにくいやつを」などと、くすくす笑いながら混ぜっ返してくる。その攻勢に、こちらは反撃するすべを持たない。

 まったく、こうなったのも、もとをただせばバルサザー老人が詰所にいなかったせいだ。一月一日に彼に会ったら、まずこのことを抗議してやらねばならん。八つ当たりだとわかってはいるし、あの達者な老人に口で勝てるとも思わない。でも、今だけは、どこかよそに責任の所在を求めなければやっていられなかった。

「鶏肉はもも肉じゃなくて、ささみにしないとダメよねー。付け合わせにフライド・ポテトとかよく作るけど、今度からは蒸かしイモにしましょ。葉野菜のメニューももっと増やして……うわー、食卓がスゴくさっぱりしそう! お腹回りもすっきり引き締まるわね! ねえロミオ、どう思う? ねえねえねえ〜」

「ジュリエット……お前、ちょっと今日意地悪過ぎやしないか?」

「うふふ、冗談よ! 冗談!」

 はしゃぐ妻を、左腕にぶら下げて。

 雪降りしきるアンペルバールの大通りを、ゆっくりと歩いた。



 午後十一時になっても、雪は勢いを衰えさせなかった。

 無数の冷たい結晶が、アンペルバールの街を白く覆っていく。音はない――本当にない。耳の痛くなるような静寂。

 皇城に続く大通りも、名もない細い路地裏も、どこもかしこも平等に沈黙している。人の営みがある時間は、もうとっくに過ぎた。人々は各々の家で、天使に見守られていると信じながら、暖かく幸せな眠りを楽しんでいる。

 もちろん、起きている人間もいないではない。しかしそれは、この天使降臨祭の夜においては、まず例外と見なして良い存在だった。

 はっ、はっ、はっ、と、熱い息を吐きながら、その例外が雪景色の中を駆け抜けていく。

 衛士隊の標準装備である革の鎧を着た、小柄な老人だ。右手には抜き身のサーベルを、左手には火の入ったランタンを提げている。オレンジ色の光が、狭い路地を刺すように照らした。平らに積もった雪は、容赦なく踏みつけられ、乱されていく。

 その顔に浮かんでいるのは、混乱と焦り、そして怒りだ。平静さは微塵もない。アンペルバールの静かな秩序が、彼の周りだけ失われていた。

「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……何てこった、くそっ……わしとしたことが……どうして、まったく疑わなかったんじゃ……!」

 走りながら、ジョージ・バルサザー老人は、悔しそうに呟いた。

 走るスピードを落とさないように、ほんの一瞬だけ背後を振り返り、追っ手がどれだけ迫っているかを確かめる。そう、彼は追われていた。思いもよらぬ襲撃を受けて、逃走を余儀なくされたのだ――この、神聖な天使降臨祭の夜に。いつも通り、何事もなく勤め上げられると思っていた、この夜間パトロールの最中に。

 その敵は、バルサザー老人がパトロールを始めて一時間ほど経った頃に――つまり、衛士隊詰所から充分に離れ、見通しの悪い狭い路地に足を踏み入れた時を狙って、襲いかかってきたのだった。

 軍隊にいた経験があり、奇襲への対応も訓練で身に付けていたバルサザー老人をして、回避できたのはほとんど幸運のおかげだと感じさせるような、恐ろしく鋭い一撃。迫り来る刃に気付くのが、ほんの一瞬でも遅れていたならば、彼は喉をかっ切られて雪に埋まっていたはずだ。

 老人は、ほとんど肉体の反応だけでこれをしのぐと、自らも腰のサーベルを抜いて斬り返した。だがそれは、敵を返り討ちにするということにはつながらなかった――奇襲攻撃の鋭さからも想像できる通り、相手の腕前が並ではなかったからだ。

 五、六度ほども、刃を交えただろうか。鉄と鉄とがぶつかり合って生じる火花を通して、バルサザー老人が悟ったのは――自分の剣では、この曲者を倒すことはできないということだった。あまりにも、実力差があり過ぎるのだ。

 闇の中から伸びる敵の腕は、刃渡り二十センチ程度のナイフしか持っていない。対して老人の武器は、六十センチのサーベルだ。リーチだけでも、老人の方が圧倒的に有利である。防具にも差がある。敵が着ているのは、黒く、ひらひらとした、丈の長いワンピース・スカートだ。対して老人は、急所をしっかり守る鎧を身に付けている。もちろんどちらも、老人の機動力を阻害したりはしない。長く、強く、しかも軽い。衛士隊の装備というものは、完全に実用一点張りで採用されているのだ。

 それなのに。多くのアドバンテージを持っている自分の攻撃が、余裕を持ってさばかれているとわかる。

 装備の差など、意味がない。体力、技術、反射神経。どれをとっても一対一では勝てないと、認めたくなくても理解してしまう。

「――『福音』よ、わしを助けろ!」

 虚空に向かって、老人は叫んだ。その途端、サーベルを握った彼の手が、ボッ――と赤く燃え上がった。

 正攻法で勝てないならば、裏技を使うしかない。ジョージ・バルサザーの魂に刻まれた、手から炎の塊を出せるという『福音』は、上手い目眩ましになった。真っ暗な中で、淡いランタンの光だけを頼りに戦っていたふたりにとって、突然現れた炎は明る過ぎた。炎を出した老人は、ちょうどいいタイミングで目をつぶることができたが、襲撃者の方はその輝きをまともに見てしまい、一瞬視界を奪われる。

「よしっ! ……っと、うおおっ!」

 老人は相手の不意を突けたことに満足し、反撃に移ろうとしたが、敵もさるもの。老人の方を見もせずに、気配だけで刃物を振るい、彼の耳たぶを浅く切り裂いた。

 こいつはかなわぬと、今度こそ納得した彼は、踵を返して逃走をはかった。仲間に助けを求める必要がある――さすがに複数人で囲めば、この相手も余裕ではいられないはずだ。衛士隊詰所へ、全速力で逃げ戻る。非常に冷静な、バルサザー老人の決断であった。

 しかしここで、彼は、その冷静さを失うようなことをしてしまった。

 それは衛士としての、ごく当然の習慣だった。不審者の顔を、よく見て覚えておくという――当たり前のこと。

 敵が自分を追って来ず、逃げ去る可能性もあった。次に会った時もすぐにわかるよう、顔を確認しておくことは絶対に必要だ。老人は体を反転させながら、視線を投げた。

 それまでは、とても相手の顔など見ている余裕はなかった。舞うようなナイフの動き、滑らかな体さばきを追うだけで必死だったから、敵を『女』だと認識するくらいしかできなかったのだ。

 それが、始めて顔かたちを確認し――老人は、恐怖に肌を粟立てた。

「う、う、……うわあああああ!?」

 彼は駆け出す。地獄の釜のふたを開いて、中を覗き込んだかのように、悲痛な叫び声を上げながら。

(何だ、何だ、どういうことだ? 今見た顔は……いったい……まさか……そういうことなのか?)

 驚き、怒り、絶望。無数の、つらく激しい感情が、老人の頭の中で渦巻く。

 かつてないほどの混乱であったが、それでもわずかに残っていた理性が、自分が目撃したことに論理的な説明をつけようと努力していた。それは、別に難しい作業ではない。ただ単純に、出てきた結論が信じがたいだけだった。

(あれは――あの女は、通り魔や強盗ではない。わし個人を狙ってきた相手だ……しかし、衛士としてのジョージ・バルサザーを狙ってきたのでもない!)

(それ以外の立場としての、わしが標的なんだ! 間違いない……『聖杯』爆破プロジェクト・チームの一員としてのわしを、狩りに来ている! 顔だけで、それがわかった! ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……)

 彼は走る。真っ暗で静かなアンペルバールの裏路地を、自分自身が騒音の化身になったかのように、全速力で駆け抜ける。

 しかし、その逃走劇は長くは続かなかった。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、と、刻むような連続した音が、背後から急接近してくる。思った以上に近いその気配に、バルサザー老人は振り向こうとした――が、その前に強い衝撃が背中を襲い、前のめりに倒れ込む。

 流れていく視界の中で、老人は落下する空っぽのワイン・ボトルを目撃した。恐らく、敵は道端に落ちていたそれを拾って、投げつけてきたのだろう。手近なものを利用するその機転に感心するべきか、無責任にゴミを捨てたどこかの誰かを恨むべきか、彼は判断がつかなかった。

 地面に積もった雪とキスしないよう、しっかりと受け身を取ったが、起き上がった時には、すでに敵が目の前にいた。氷のように冷たい、灰色の目をした黒服の女――シャルロット・フェステが。

「もう、動かない方がいいわ」

 眼差しと同じくらい冷えきった声で、彼女は言う。

「抵抗をされると、手もとが狂うの。そのまま、何もせずにいて。私は別に、あなたを苦しませたいとは思っていない。

 動きさえしなければ、それでいい。少しの苦痛もなく、あなたを天使様のもとに送り届けることを――約束するわ」

 あまりにも勝手な、シャルロットの提案。

 少なくとも、老人はそれで「かしこまりました」と頭を垂れるような人間ではない。だからまともに取り合うことなく、自分の言いたいことを返事に代えて吐き出した。

「いつから、だ?」

「……………………」

「いつから、わしらの陰謀を察知していた? どれくらい前から、わしらは泳がされていたんじゃ?

 今日になってようやく突き止めた、なんて言うんじゃないぞ。くそっ……怪しいことは、いくらでもあったのに……七月十一日に、大教国の司教が教会に来たことも……あの胡散臭い、シスター・ロザリンドの件も……今考えれば、妙にタイミングがよかった……貴様だったんじゃな? 全部が全部、貴様がわしらの様子を見ながら仕組んでおったんじゃ。

 何か、引き出したい情報があったのか……それとも単に、『聖杯』が爆破される日を先伸ばしにしたかったのか、それはわからんが……とにかく……」

「頷くとでも、思う?」

 切り捨てるようなひと言とともに、バルサザー老人の目に映るシャルロットの腰が、わずかに沈んだ。

 ナイフによる攻撃が来る。それを感じ取った老人は、とっさに体ごと、サーベルを突き出した。捨て身の、クロスカウンターを狙った一撃だ。体重も速度も、充分に乗っていた。

 距離も近いので、避けることは難しい。向こうの切っ先が自分に突き刺さる前に、自分の切っ先が向こうに突き刺さるだろう。悪くても相討ち――バルサザー老人は、死地の中でそれだけの自信を持つことができた。

 しかし、シャルロットはそのさらに上を行った。

 顔面めがけて真っ直ぐに飛んでくるサーベルを、まばたきもせずに見切ると、命中の寸前に半歩だけ体をずらす。

 ただそれだけで、回避行動は完了していた。矢よりも速い刺突は、シャルロットの頬をほんのわずかにかすめただけで、空を切った。

 ぴん、と腕を伸ばしきった、無防備なバルサザー老人にかける情けを、シャルロットは持たない。

 ナイフを握る手が、極端に細い楕円の軌道を描く。その外周が老人の痩せた首をかすめ、深い溝を刻んだ。気管も、頸動脈も、まとめてすっぱりと断ち切られて、そこから真っ赤な命が溢れ出す。

 バルサザー老人は、最後の一撃を繰り出した格好のまま、どさりと倒れ込んだ。今度は受け身も取れず、起き上がることもない。温かい血が、冷たい雪の地面に広がっていく。赤と白という、あまりにも鮮烈なコントラスト――。

 しかしそれも、わずかな間だけのことだ。

 シャルロットが無言で立ち去ると、天に召された老人の死骸は、みるみるうちに雪に覆われ、白一色に染まり――秩序に組み込まれた。

 天使降臨祭の夜は、静かだ。



 午後六時。太陽が西の空に沈み、部屋の中にランタンの明かりが必要になり始める、そんな時間になった。もう少しで、天使降臨祭が終わる。

 帰宅した俺とジュリエットは、特に何をするでもなく、穏やかに過ごした。聖なる日なのだから、あんまりふざけて遊び歩いたり、大酒を飲んだりするのは感心されない(別にしてはいけない、というわけじゃないが)。本を読んだり、絵を描いたりといった文化的活動や、天使様に祈ったり、聖句を唱えたりといった宗教的活動にふけるのが、まあ理想的であろう。

 基本は、質素にして謙虚であること。降臨祭の日には、天使様が人々の様子を見にやって来るから、恥をかかないように己を律していなければならない――というわけだ。

 唯一許される贅沢があるとしたら、それは食に関する贅沢だ。ユカニム教の教典にはなぜか、『天使降臨祭の日には、焼いた鶏肉、甘い菓子、上等なぶどう酒を口に入れるべし』という記述がある。なぜその三つなのか、詳しい説明は誰にもできないが、単に書いた人が自分の好物を挙げただけだろうと、俺は信じている。

 今日の食事は、朝はミネストローネで、昼は塩ダラのシチューだった。ならば当然、ディナーには鶏料理が出るはずだ。

 ダイニングでくつろいでいた俺は、ちらりとキッチンの方を確かめた。髪をポニー・テールに結い上げたジュリエットの後ろ姿が見える。なにか歌を口ずさみながら、フライパンをコンロの上で揺すっている――。


 我が身に寄り添うあなたの魂を

 私は常に感じています

 我が身を支えるあなたの腕を

 いつも頼りにしています

 目には映らぬ翡翠色の神霊

 あなたは私が道を往くためのしるべ


 このメロディは、教会でよく歌われている讃美歌だ。

 子供の頃、親に教えられて練習したっけ。でも、年を取るごとに歌わなくなる。普通の人間にとっては、やっぱりお堅い古い歌より、酒場や劇場で歌われるような大衆歌の方が馴染みやすいのだ。教会以外の場所で讃美歌を聴くなんて、もう十年以上ぶりのことではないだろうか。

 でも、だからこそ新鮮にも感じる。涙を誘うバラードや、気分を高揚させる軍歌とは違って、それはひたすらに平穏だ。天使降臨祭の敬虔な雰囲気の中で歌うならば、やはり最も適切な選択であろう。もちろん、聴く側にとっても。

 俺は目を閉じ、椅子の背に体重を預けて、清浄な歌の世界に浸ってみることにした。


 あなたの居場所に導いて下さい

 光に満たされた暖かい虚空へ

 私と私の愛する人たちは

 あなたの指差す先を目指します


 私たちが常に正しくあるよう

 あなたの輝きで清めて下さい

 怒りに灰をかけて鎮め

 憎しみに水をかけて流し

 悲しみに雪をかけて覆って下さい

 カントラディストの座する地獄に

 誰ひとり囚われることのないように

 罪を焼き 不和を焼き 間違いを焼いて下さい


 目には映らぬ翡翠色の神霊

 あなたは私が道を往くためのしるべ

 どうかすべてのものに救いの手を

 すべてのものに安らかな眠りを


「――よっし、これで出来上がり! ロミオ、悪いけど、大きめのお皿を二枚持ってきて!」

 ちょうど一曲を歌い終わると同時に、料理も完成したらしい。ジュリエットの呼び掛けで、俺は目を開いた。

 できればまだしばらく、美しい歌声の余韻に浸っていたかったが、「はーやーくー」と急かされたので、慌てて立ち上がる。

 彼女が夕食に用意してくれたのは、ジューシーな鶏もも肉のステーキだった。肉そのものの香りと、マスタード・ソースの香りが一体となって、食欲をかきたてる。

「あとはお酒だけど……今夜は、これを開けてみようと思うんだけど、どうかしら?」

 そう言って彼女が出してきたボトルを見て、俺は息が止まりそうになった。ラベルに書いてある文字が正しいなら、それは世界一の高級ワイン、ジュリエームの赤ではないか!

「おいおいおい! いったいどこの酒屋で、こんなすごいのを買ってきたんだ? リルロッサからの輸入品じゃないか……えっ、し、しかも二十年ものだと? これ一本で、確実に金貨五枚はするだろ!」

「ベルホルムの相場では、ね。でも、リルロッサではわりと手頃な値段で買えるのよ。

 私、もともとリルロッサの生まれでしょ? 向こうに住んでる友達に手紙を書いて、送ってもらったのよ。まあ、少しはへそくりを使うことになったけど、それでも金貨一枚以内には収まったわ」

「そ、それにしたって……いや、責めてるわけじゃないんだ。ただ、普段から節約してるきみが、こんな贅沢品に手を出すなんて信じられなくてさ。なにか良いことでもあったのか?」

「ううん、そういうわけじゃないの。やっぱり年に一度の天使降臨祭だから、奮発するのもいいかな、って思って。……そんなことより、お肉が冷めないうちに乾杯しましょ? いいお酒には、美味しい食事を合わせなくちゃ」

「あ、ああ、そうだな! せっかくだから、味わって頂こうか」

 コルクの栓をポン、と引き抜き、ルビーのような赤い滴を、ふたつのグラスに注いでいく。

 それは紛れもなく、最上のワインだった。俺は酒好きで、毎日のようにワインを飲んでいるが、やはり一本千エインもしない安酒とは、比べるのも馬鹿馬鹿しい。

 満開の薔薇の園に迷い込んだのかと思うような、高貴な香り。口に含めば、深いコクが舌の上で踊る。甘さと酸味のバランスがちょうどよく、赤ワイン独特の渋味すらも上品だ。喉越しもさっぱりとしているので、脂の乗った肉料理と合わせれば、その旨味を何倍にも引き立ててくれる。

 ジュリエットは本当に、良いものを用意してくれた。これほどのものを飲めた以上、今日命を落としても悔いはない。

 ――いや、いや、さすがにそれは言い過ぎか。例の計画を実行に移す日が、わずか七日後に控えている。『聖杯』を爆破し、帝国に一矢報いるまでは、俺は死ぬわけにはいかないのだ。

 今日はそう、本番で使うエネルギーを蓄える日ということにしておこう。なにしろ、失敗できない一発勝負だ。充分に栄養を摂って、充分に休息して、ベストなコンディションでのぞまねばならない。

 高いワインはみるみる減っていったが、お腹の中には満足感が溜まっていく。体の隅々まで酒精が回り、心地よい暖かさをもたらしてくれた。悪い酒なら、ここで泥のような倦怠感がついてくるものだが、今回に限ってはそれがない。実にいい酔い方だ。

 食後のデザートは、アーモンド・クリームとドライ・フルーツを詰めたパイだった。干しイチジク、干しブドウ、干しアンズなどが、ごろごろ入っている。メインの肉もワインも素晴らしかったのに、それに負けず劣らずの豪華さだ。これだけの味なら、うちの店でも充分出せる。あとで、レシピを教えてもらうのもいいかも知れない。

 ――まったく、大満足の夕食だった――しかし、美味しい食事というのは、その魅力でもって人の判断力を狂わせもするらしい。

 簡単に言うと、食い過ぎてしまったのだ。デザートのパイの、最後のひと欠片を口に入れた時には、まったく動く気になれなくなっていた。パンパンになったお腹を撫でながら、今夜はもうこのダイニングで眠ってもいいんじゃないか、とい考えさえ起こしたほどだ。

 もちろん、そんなわけにはいかない。ジュリエットは俺の鼻先を指先でつつきながら、寝室に行くよう促してきた。テーブルに突っ伏して寝たのでは、風邪を引いてしまうというわけだ。確かに体調を崩しやすい季節ではあったし、俺には体調を崩せない理由もあったので、素直に指示に従うことにした。

 酒精が思った以上に効いているらしく、足元が少しふらついた。なんだか、毛足の長い絨毯の上を歩いているような、ふわふわした気分だ。眠気も感じている。油断したら、まぶたが落ちてきそうだ――いかんいかん。俺としたことが、飲んだつもりが飲まれている。いくら美味しくても、やはりお酒はお酒ということか。

 ふらふらする俺を見かねたのか、ジュリエットが肩を貸してくれた。ワインの残り香に混じって、彼女自身の香りがする。それは、俺にとっての夜の香りだ。ベッドの中で、いつも隣にある香り――。

 眠気が、どんどん強くなる。このまま、ジュリエットにもたれて眠りこけたい。彼女にとってはとんだ迷惑だろうが、俺にとっては、最も幸せになれそうな眠り方だった。

「はい、着いたわよ……腰掛けて、横になって……掛け布団、かけてあげるから……」

 すぐそばで囁かれた声に、俺は従う。尻と背中が、柔らかいものの中に沈み込んだ。コットンがたっぷり詰まった、ベッドのクッションだ。赤ん坊のように、俺は寝かされている。

 すでに俺の意識の半分以上は、眠りの雲に覆われていた。ジュリエットは、その優しい声で、いろいろと話しかけてくれていたが、ほとんど内容が聞き取れない。聞こえてはいるが、意識がそれを理解できない――。

「ねえ、ロミオ」

 そんな中で、名前を呼ばれたことだけは、はっきりとわかった。

 彼女の手のひらが、俺の頬に触れていることも。彼女の指が、俺の唇を撫でていることも。宙を漂うような心地よさの中で、感じている。

「愛してるわ。ずっと、ずっと」

 唇から指が離れ、別の何かが押しつけられた。

 桃の果肉のように柔らかく、瑞々しいそれは、ジュリエットの唇だ。

 一瞬のキスではなかった。半ば眠りに落ちていても、それくらいのことはわかる。ただ、それが十秒か、一分か、五分なのかわからないだけだ。とにかくしばらくの間、俺たちは唇を触れ合わせたままでいた。

「愛してる、俺も」と、返事をしてやりたかった。しかし、眠気が雲から沼となり、俺の意識を暗く安らかな場所へ引っ張り込もうとしてくる。その手招きには、どうにも逆らえない。

 曖昧になる。何もかも。ジュリエットの唇の感触も、彼女の手のひらも。

 ――無理をする必要は、別にない。これっきりでお別れ、というわけじゃないんだ。ひと眠りして、目が覚めてから、「おはよう」の言葉とともに、今度はこちらからキスしてやろう。

 そう、それでいいんだ。明日はすぐに来る。今日、やり残したことは、明日すればいい――当たり前にやって来る、明日という日に。

 まぶたが閉じる。

 真っ暗闇が、すべてを覆って――。



 十二月二十五日、午後八時四十分。

 ロミオ・ピュラモッシは、自分の家のベッドで、穏やかな眠りについた。

 心配も、苦痛もなく。幸せで平和な、夢の世界に落ちていって――。

 そして、二度と目覚めなかった。



 十二月二十六日の朝。

 情報紙アンペルバール・デイリーの一面が、天使降臨祭の日の惨劇を報じた。

 その記事をざっと要約すると、こんな感じになる。――二十五日の午後四時、アンペルバールの北に位置するブラック・ウイングス渓谷において、皇家所有の高級馬車が落石の直撃を受け、大破した。

 馬車に乗っていたのは、エスカラス・ロフ・マティオ第二皇子、ドライゼン・モンタギュー伯爵、レッキ・キャピュレット伯爵の三名。いずれも、ベルホルム帝国の政治に深く関わる大物だ。彼らは、ユカニム大教国出身の枢機卿、ロンパリシオ師が主催する晩餐会に参加するため、会場である枢機卿の山荘に向かうところだった。

 ブラック・ウイングス渓谷の奥、切り立った岩山の上に建てられたその山荘は、帝国内でも屈指の展望を誇る名建築として知られており、そこに暮らすロンパリシオ師は、様々な分野の一流人と語り合うことを趣味にしている人であった。

 彼が晩餐に招くのは、優れた政策を実施した政治家や、驚くべき発見をした学者、素晴らしい作品を産み出した芸術家など、自身が高い能力を持つと認められる人物のみ。たとえどんなに立派な血筋や肩書きを持っていても、能力がともなっていないと判断されるような人には、お呼びがかからない。

 つまり、ロンパリシオ師に招かれるということは、上流階級の人間にとっては一種のステータスなのだ。彼の山荘で食事をしたというだけで、周りからはその業界の第一人者、と認められることになる。

 そんな人物の招待を断るなど、たとえ王族でもできはしない。むしろ、何を差し置いてでも飛びつくはずだ。事実、皇家のスポークスマンは、事件後の記者会見において、「エスカラス第二皇子は、ロンパリシオ師の招待を受けた時、歌い出さんばかりに喜んでいた」と発言している。

 アンペルバールの皇城からブラック・ウイングス渓谷まで移動する手段として、馬車が選ばれたのは当然であった。なにしろ距離があるし、その日は雪まで降っていた。エスカラス皇子にせよ、モンタギュー伯爵にせよ、キャピュレット伯爵にせよ、旅路に快適さを求めない理由はまったくなかっただろう。普段から交流のあった三人は、ひとつの馬車に同乗し、午後二時にアンペルバールを出発した。

 ロンパリシオ師の山荘に至る道のりは、自然の渓谷を越えなければならないので、それなりに険しい。途中には、急な上り坂もあれば、すぐ横が谷川になっている不安定な場所もある。もちろん、充分に経験を積んだ御者であれば、問題なく通過することが可能だ。少なくともエスカラス皇子一行以前に、山荘へ向かった人が事故に巻き込まれた例はなかった。

 しかし、とうとう初めての例が生まれた。落下してきた岩の重さは、ざっと四十トン以上。狙い済ましたように箱形馬車の天井をとらえ、大地に打ち込むように押し潰した――中にいた三人は、当然ながら即死。馬を操っていた御者と、後方で護衛を担当していた兵士が数名、軽傷を負った。

 この事故の原因を突き止めるために、帝国騎士団を中心とした調査隊が現場に派遣された。もっとも、明らかにせねばならない謎があるわけではない。馬車が左右を崖に挟まれた狭い道を通っている時に、落石があった。要するに、ただそれだけのことなのだ。

 事故の瞬間を目撃していた護衛兵も、「崖の上から突然、大きな岩が転がり落ちてきた」と証言している。不自然なところは何もない。もともと不安定な状態にあった岩が、雪の重みでバランスを崩した、というのが真相であろうと、調査隊は結論づけた。

 アンペルバール・デイリー紙は、三人の犠牲者の冥福を祈った上で、このような事故が二度と起こらぬよう、各地方の領主たちは街道の整備に力を入れるべきだ――と主張している。



 ベルホルム帝国の皇子と、高位貴族二名の事故死。それは社会的に、あまりにも大きな出来事だった。

 アンペルバール・デイリー以外の情報ギルド紙も、この事件を大々的に取り扱った。その分、他のニュースはスペースを削られ、ごく狭い三面の片隅に追いやられた。

 同じ二十五日に、アンペルバールで起きた四つの死亡事件などは、まさに煽りを食った哀れなニュースの見本であろう。それらはほんの数行の記事にまとめられ、ほとんど誰にも注目されなかった。

 マーキューシオ・スペイダとベンヴォーリオ・ゲルフは、それぞれ突発性の脳出血と、悪性の肺炎が死因であると診断されたため、最初から事件性を認められなかった。

 明らかな他殺であるジョージ・バルサザー老人の死は、少しばかり話題になりかけたが、物取りによる突発的な犯行という見解を衛士隊が発表すると、誰も興味を持たなくなった。

 そして、ロミオ・ピュラモッシは――事故死、と判定された。

 これまた話題になることはなく、彼はひっそりと葬られることになる。

 彼と、彼の仲間たちが練り込んでいた、大それた犯罪計画とともに。



 十二月二十七日。アンペルバール郊外の国民霊園に、喪服をまとったジュリエット・ピュラモッシの姿があった。

 彼女のかたわらには、黒塗りの棺。その中に、夫であったロミオ・ピュラモッシの遺体が納められている。

 頭上には、前々日の雪模様が嘘のような、透き通った青空が広がっていた。もしも、夫の魂が天高く昇るならば、遮るものがなくていいだろうな、と彼女は考える。

「……時間です、奥様。故人に、最後のお別れを」

 ジュリエットの背中に、そっと声がかける者があった。埋葬を取り仕切る、アンペルバール教会の神父だ。彼は深い思いやりをもって、未亡人に接していた。

 善良な聖職者である彼にとって、若い夫婦が死に別れるということは、目を覆いたくなるほどの悲劇だった。天使は全人類に平等な愛を注いでくれるが、平等であるがゆえに、個人を直接救ってくれたりはしない。彼は、心から天使を信仰している――しかしそれゆえに、天使の手からこぼれ落ちた不幸な夫婦の気持ちを考えるだけで、胸が詰まる。

 この神父と同じように、棺とジュリエットを見守る参列者たちも、偽りのない哀れみと同情を胸に抱いていた。彼らは、夫婦と親しくしていた近所の人たちや、『ピュラモッシの石窯パン』の常連たちだったが、誰もが死んでしまったロミオの冥福を祈り、取り残されたジュリエットを元気付けたいと思っていた。

「しかしまさか、あのロミオさんがこんな急に亡くなるなんて……こないだ会った時は、まだ全然元気そうに見えたのに。いったいどうしてこんなことに……」

「ほら、一昨日は天使降臨祭だったろう。だからしこたまお酒を飲んで、酔っぱらって川に落ちちまったんだよ」

「ほんの十分ほど、外の空気を吸って酔いを覚ますつもりだったらしいよ。奥さんも、いつものことだからあまり心配しなかったって……それがあの日に限って、雪で足を滑らせて……落ちたところが、ちょうど水位の低い場所で、しかもかちこちに凍りついてたもんだから、旦那さんは首の骨を折っちまったんだ」

「奥さんが見つけた時には、もうすっかり冷たくなってて、手の施しようがなかったって……まったく、お酒っていうのは恐ろしいよ。私たちも気を付けないとね……」

 ところどころで、沈んだ囁きが交わされる。その陰鬱な雰囲気の中で、ジュリエットは棺のふたを少しずらした。

 青白いロミオ・ピュラモッシの亡骸が、姿を現す。目を閉じ、口も閉じて、まるで夢も見ずに眠っているかのようだ。祈るように胸の上に置かれた両手に、ジュリエットはそっと自らの手を重ねた。死者と生者、ふたりの左手の薬指には、今も結婚指輪が光っている。

「さようなら」と。

 かすれた声で、別れが告げられた。

 ふたを元通り閉め直した途端に、ジュリエットの目から涙が溢れ出す。細く削り出した水晶の帯のような雫が、目尻から頬、輪郭へと流れ落ちていく。人目も憚らず、彼女は泣いた。

 ――ジュリエット自身は、泣かないでいようと思っていた。

 しゃんと背すじを伸ばして、天使の住まう虚空に行く夫を見送るつもりでいた。彼女は敬虔なユカニム教徒だ。死者はその生前の行いに関わらず、祝福されて天使のもとへ招かれると信じている。

 死は、永遠の別れではない――いずれ彼女自身の肉体が滅びた時には、再び夫と出会うことができるはずだ。だから、悲しむ必要はまったくない――それはわかっていたのに――わかっているつもりでいたのに、ジュリエットは己の心が震えるのを止めることができなかった。棺のふたに顔を伏せ、嗚咽を漏らす。その悲痛な姿に、もらい泣きをする者も少なくなかった。

 結局、ジュリエットが平静を取り戻すまでには、十分以上の時間を必要とした。それからようやく、棺が墓穴の中に降ろされ、上から土がかけられる。ロミオ・ピュラモッシは、完全に葬られた。

 これで葬儀は終わりだ。すべてを見届けた参列者たちは、未亡人に慰めの言葉をかけて、立ち去っていく。

 最後に神父が帰っていくと、墓の前にはジュリエットだけが残された。彼女はしばらくの間、じっとその場に立ち尽くしていたが、やがて踵を返し、歩き出した。


 我が身に寄り添うあなたの魂を

 私は常に感じています

 我が身を支えるあなたの腕を

 いつも頼りにしています

 目には映らぬ翡翠色の神霊

 あなたは私が道を往くためのしるべ


 あなたの居場所に導いて下さい

 光に満たされた暖かい虚空へ

 私と私の愛する人たちは

 あなたの指差す先を目指します


 私たちが常に正しくあるよう

 あなたの輝きで清めて下さい

 怒りに灰をかけて鎮め

 憎しみに水をかけて流し

 悲しみに雪をかけて覆って下さい

 カントラディストの座する地獄に

 誰ひとり囚われることのないように

 罪を焼き 不和を焼き 間違いを焼いて下さい


 目には映らぬ翡翠色の神霊

 あなたは私が道を往くためのしるべ

 どうかすべてのものに救いの手を

 すべてのものに安らかな眠りを


 空に向かって、讃美歌を口ずさむ。澄み切った空気の中、歌声は遠く、遠く、美しく響いた。

 無数の墓石が、背の高いすずかけの樹が、石畳の敷かれた道が、溶け残った雪が、祈るようなその歌を聴いた。霊園の門の手前に立っていた、栗色の髪の少年も。

 その少年の存在に気付いたジュリエットは、歌うのをやめた。ひとりで歌っていたのを聞かれて、気恥ずかしくなったというわけではない。見知った顔だったので、知らんぷりをして通り過ぎることができなかったのだ。

 ――ユカニム大教国政治局員、ローレンス・ヴェロナット司教。

 その若き政治家は、まだ幼さの残る顔に悲しみの色をにじませて、ジュリエットに会釈した。

「こんにちは、ミズ・ピュラモッシ」

「こんにちは、ファーザー・ヴェロナット」

 ジュリエットも、小さく頭を下げて挨拶を返す。

「亡くなったミスター・ロミオに、最後の挨拶をさせて頂きたいのですが。お許しを頂けるでしょうか」

「ありがとうございます、ファーザー。きっと、ロミオも喜んでくれると思います。……どうぞ、私のあとについてきて下さい。夫の墓に、ご案内いたしますわ」

 そう言って、来た道を戻っていくジュリエット。その後ろに、ローレンスが続く。

「あなたは、これからどうなさるおつもりですか。ミズ・ピュラモッシ?」

「遠からず、アンペルバールを去ろうとは思っています。夫の遺品を整理してからですから……十日以上先にはなるでしょうけれど」

「あなたたちのお店……『ピュラモッシの石窯パン』も、やはり閉めてしまいますか?」

「そうなるでしょうね。でも、パン屋をやりたいと思っている人がいれば、店を譲りたいと思っています。工房にあるパン焼き窯は、かなり立派なものなので、できれば破棄したくないんです」

 いまいち気の入っていない、ぎこちない会話が往復する。ふたりのうち、どちらかに原因を求めるならば、それは明らかにローレンスの方にあった。彼はジュリエットに質問を投げ掛けながらも、きょろきょろと周囲を警戒していた。

 今、この未亡人とふたりきりでいるところを、誰にも見られたくない――と思っているようでもあり、あるいは、この未亡人との会話を、誰にも聞かれたくない――と思っているようでもある。どちらにせよローレンスが気にしているのは、第三者の存在だった。ジュリエットと自分以外、誰もいないということを、彼は確信したがっていたのだ。

 色のない冬の霊園に、冷たい風が吹いた。

 葉を落とした木々が揺れ、ざわざわと音を立てる。その枝にとまる小鳥がいないことを、寂しがるかのように。

 冬はもともと、命の数が減る季節だ。春の陽気が訪れるまでは、犬猫さえどこかへ姿を隠す。

 もちろん、人だってそうだ。凍える季節には、できるだけ外出を控える。墓地になんか、葬儀に参加するという理由でもない限り、やって来たりはしない。

「ミスター・ロミオは、天に召されるにあたって、苦しまずに済んだでしょうか」

「そう信じています。少なくとも、ロミオを診て下さったお医者様は、何も感じないままに逝けただろう、と仰っていました」

 誰もいない。

 見渡せる範囲には、人の気配はおろか、動物の気配すらない。

 百メートル以上を歩いて、ローレンスはようやくそれを納得する気になった。

「ミスター・ロミオのことを、愛していましたか」

「はい。心から」

 もう少しで、ロミオの墓にたどり着く。

 実を言うと、わざわざ案内されなくても、ローレンスはロミオの墓のありかを知っていた。ジュリエットの案内を断らなかったのは、単にそれが彼女と話をするための方便だったからだ。

 彼はジュリエットに、尋ねておかなければならないことがあった。なるべく早くコンタクトを取り、顔を合わせて話を聞きたかった。そのためには、葬儀が終わった直後のタイミングが、一番都合がよかったのだ。家族を失い、悲しみに暮れる遺族を慰めるのは、僧侶なら当たり前のことだから。

 ひとつ都合の悪いことがあるとすれば、それは、ローレンスが少し慎重になり過ぎた、という点だろう。この若者は要領が悪いというか、周りに人がいないことを確かめることに、無駄に時間をかけていた。霊園は広いが、目的の墓までは、もう何十メートルもない。

 ローレンスは政治家としては、やや罪悪感を感じやすいたちであった。できることなら、自分が殺させた人物の墓になんか参りたくはなかった。

 だから彼は、墓にたどり着く前に、聞くべきことを聞いた。

 同じユカニム教徒であり――深く信頼し、重要な仕事を任せていたその人物に。


「ロミオが調合した爆薬は、確保できましたか? ミズ・フェステ」

「はい。問題なく」


 ジュリエット・ピュラモッシと名乗っていた、その女性――シャルロット・フェステは、短く、無感動にそう答えた。

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