回想/お酒の欲しくなるパン/マンチュアナ鉱山事件
少し遅くなったその日の昼食は、かつてないほどに静かだった。
言葉があまり交わされない分、よく飲み、よく食べはしたが。心の中に不安があっても、ジュリエットの作る料理は美味しかった――生野菜をたっぷりのマヨネーズであえたサラダ。茹でたアンティーブ。きのことくるみのスープ。レバーと挽き肉をつめたラビオリ。デザートもあった。バラの花びらと一緒にシロップで煮込んだ、リンゴとプラムだ。最後のひと切れまで、ぺろりと平らげた。
ジュリエットはフォークとナイフを操りながら、ちらちらとこちらをうかがっていた。何か話があるが、切り出すタイミングを掴みかねている、といった風情だ。できればいつものように、明るく気兼ねなく言葉をかけてきて欲しいものだが、やはりそういう空気ではない、のだろう。
というわけで、必然的に言葉をかけるのは、俺の方からということになった。
「ええと、今さらだけど、ジュリエット。勝手に日記見ちゃって、ごめん」
「あ、う、うん。いいよ、気にしてないから。……こ、こっちも、あなた宛の手紙、勝手に見ちゃって、しかも隠したりしちゃって、ごめんね」
「ああ、俺もそれは気にしてない。じゃ、どっちもどっちでことで、決着にするか」
「わかった。お互い、クロスカウンター食らって共倒れね」
「そのたとえは、なんかおかしくないか?」
ふたりそろって、プッと吹き出して。ようやく、雰囲気がいつもの俺たちに戻った。ジュリエットは俺が、明らかにワインを飲み過ぎていることを堂々と指摘してきたし、俺は俺で、ジュリエットにもっと酒を飲むようにすすめたりした。デザートのあとは、コーヒーか紅茶でなければならないという法などないのだ。
結局、この対決は俺が白旗を上げ、紅茶にブランデーを垂らしてもらうことで妥協した。この二者は、飲み物としては最も良い香りを生じる組み合わせだ。暖かい湯気の中に、ぱっと果物の花が咲いたようなイメージ――華やかさと和やかさが完全なバランスで両立していて、不思議な感動を覚える。
ジュリエットも同意見らしく、彼女も紅茶にはレモンやミルクよりも、ブランデーを入れることを好んだ。俺はティー・スプーンに三杯、彼女は一杯。それだけで守られる、穏やかな食後のひととき。
「これを飲むと、あなたと初めて出会った頃のことを思い出すわ」
白磁のカップに優雅に口をつけながら、ジュリエットはそんなことを言った。
「ねえ、覚えてる? ロミオ。二年前、私がこの店に来た時のこと?」
「ああ、ちゃんと覚えてるとも。……ずいぶん長い付き合いみたいに感じるが、まだたった二年なんだな……きみは最初、ただのお客さんのひとりだった。しかも、旅行中に偶然、腹ごしらえのためにうちに入っただけだったんだよな?」
「そうそう。リルロッサ王国の片田舎から、ベルホルム帝国を見物しに来たの。ケッセルバーグとかノースクラヴィスとかの観光地を回って、最後にこの大都会アンペルバールへ。
その時に使った乗合馬車が、途中でずいぶんもたついてね。時刻表だとお昼前に着く予定だったのに、なんと午後二時過ぎまでかかっちゃって。
私は正午ぐらいに食事をするつもりでいたから、とにかくお腹が空いてて。できるだけ早く、ガツガツと食事がしたかったの。
うん、正直、どこの店でもよかったわ。レストランみたいに料理が出てくるまで待たされるところや、表通りの有名店みたいに混雑しているところでさえなければ、どこでもね。
で、そんな時に目についたのが、『ピュラモッシの石窯パン』の看板だった」
「午後二時過ぎだからなぁ……お客さんも少なかったから、旅行鞄を提げて入ってきたきみは、ちょっと目立っていたよ」
懐かしい光景が、自然と脳裏に浮かぶ。少し大きめのレザー・ハットを被り、丈の短いベージュ・ブラウンのマントを羽織っていたジュリエットが、入り口の扉を押して入ってくる――その印象は、はっきり言うと、田舎臭かった。衣服や荷物はだいぶくたびれていたし、表情には隠し切れない疲労の色。かなり遠くから旅をしてきました、という雰囲気を、全身から漂わせていた。
「そ、そんなだったっけ……? まあ、人目を気にしてる余裕はなかったわね。パンを選ぶのに必死だったから。
確か、ベーコンとチーズと黒こしょうのパンにしたのよね。ものすっごく良い匂いがしてたわ、あれ」
「ああ。あれのパンはバターロールを出す前の、一番の売れ筋商品だった。ベーコンとチーズの油が出す旨味と、こしょうの辛みが、スッキリ冷えたワインにとにかく合うんだよなぁ」
バターロールは老若男女、幅広く売れているが、そのパンは特に男性客の受けがよかった。仕事帰りのお父さんが、晩酌のお伴として買っていくことが多いので、昼より夕方を狙って焼くことが多い。
「うん、私もそうだろうなって気付いたわ。精算を終えて、外に出るか出ないかのうちに、がぶってひと口かじりついた途端にね。
こしょうのスパイシーさ、ベーコンの燻製らしい深い香り。チーズもほどよく焦げてて、濃厚で……空腹って調味料を抜きにしても、あれは本当に美味しかった……。
だからついつい、ほとんど無意識によ? 口走っちゃったのよねー……『お酒欲しいなぁ』って」
自嘲気味な妻の呟きに、俺はつい我慢できず、「ぶふっ」と噴き出してしまった。
「ちょっと、ロミオ?」
「ご、ごめん、ごめんって。でも、その、思い出すと、どうも……ふふっ。
『お酒欲しいなぁ』はよかったな。あれはツボに入ったよ……あのパンを食った酒飲みなら、きっとみんな同じことを思ってくれただろうけど、まさかおっさん連中じゃなくて、若い女の子が言うのを聞くことになるとは! まったく、思いもしなかったよ!」
「もう、このバカロミオ! それ以上言ったら、グーで殴るよ!?」
顔をすっかり赤くして、椅子から立ち上がりかけるジュリエットを、俺は慌ててなだめなくてはならなかった。彼女はやると言ったらやるし、そのゲンコツは大きくはないが、意外と固くて痛いのだ。
「まあ、ちょっと恥ずかしい思い出ではあるけど……あの呟きが、私たちの架け橋になったのは間違いないわね。あれを聞いたから、あなたは私をお茶に誘ってくれたんでしょ?」
「そうそう。ちょうど、軽く休憩しようかなって思ってたし、だったらついでに、この可愛いお客さんに飲み物をサービスしてあげようかなって」
さすがに仕事が終わったわけではないので、ワインを開けたりすることはできない。だが、安いお茶に風味付けをするぐらいなら、まあ許容範囲だろうと自分に言い聞かせ、ふたり分のブランデー入り紅茶を用意した。
当然のことながら、その飲み物とジュリエットの買ったパンは相性が良かった。カップ一杯のお茶とパンひとつだけの昼食と書くと、一見わびしそうに感じるが、あの時のジュリエットの表情から察するに、きっと表通りのカフェテリアとか、大衆食堂で食うよりは満足してもらえたと思う。
「あれは悪くないランチタイムだったわ。テーブル代わりの精算台を挟んで、少しがたついた折り畳み椅子に腰掛けて、食事をしながらあなたと世間話をしたのよね。私は、それまでの旅路で見聞きしたことを話して、あなたはアンペルバールの観光スポットを教えてくれた。教会の大聖堂、大帝都門の展望台、帝国美術館……それこそ、ガイド・ブックが書けちゃうぐらいの情報をもらったっけ」
「きみの話だって面白かったよ。ほら、ケッセルバーグの運河で、鯉にエサをやろうとしてゴンドラから落ちた話とか。リルロッサで放牧中の羊が勝手にベルホルムとの国境を越えちゃって、牧場主が羊の返還をベルホルムに求めたけど聞き入れられなくて、国際裁判で話し合った結果、羊が亡命者扱いになった話とか。今でも酒の席だと鉄板のネタだ」
「後者はともかく前者はやめて。いやホントに恥ずかしいから!」
「そうは言われても、もうかなりの人数に話しちゃったし」
他にも、いろんな話をしたっけ。俺がジャゼ共和国の出身だということとか。ジュリエットがアンペルバールに数ヵ月単位で滞在する気でいる、ということとか。
それを聞いた時、俺は「じゃあ、その間ごひいきにして欲しいな。暇してたら、またお茶をご馳走するよ」なんてことを言ったと思う。
その言葉に釣られたのか、違うのか――真相は今でもわからないし、わざわざ確かめる勇気もないが、ジュリエットはそれから、ちょくちょくうちの店に来てくれるようになった。
「パン屋さんのパンって、観光しながら手軽に食べるのに最適なのよね。いろんな具を挟んだロールパンの詰め合わせとか、オレンジぐらいの大きさのマフィンとか、ジャムとカスタードが中に入った菓子パンとか。大帝都門の上で食べた、イワシのパンは美味しかったなぁ」
「観光しながら、って……三日に一回は店内で食っていってたじゃないか」
「仕方ないじゃない。毎日、観光スポットばかり行ってたわけじゃないんだから。泊まってたホテルのパンは、あんまり美味しくなかったし……」
二ヵ月も経つと、ジュリエットは気がついたらそこにいる、というレベルで、うちの店に入り浸るようになっていた。
他のお得意様ともよく話をしていたし、急に店が混んできた時なんか、パンを並べるのを手伝ってくれたりもした。
もちろん俺は、彼女を歓迎した。たくさん買い物をしてくれるお客さんはそれだけでありがたかったが、それ以上に、一緒にお茶を飲みながらおしゃべりをする休憩時間が、とても気に入っていたからだ。
三ヵ月が経つと、俺と彼女は、休みの日に一緒に出掛けるようになっていた。
大帝都門前で待ち合わせて、演劇を見に行ったり、郊外の湖畔にハイキングに行ったりした。ランチには、俺の作ったパンを、バスケットにどっさり入れて持っていった。午前から午後まで、半日かけてのんびり遊んで、日が沈む前に、ジュリエットをホテルに送って帰るのだ。直接的な接触は、別れ際にする頬への口付けだけ。なんとまあ、子供じみた健全なデートだったことか!
歩み寄っているようで、しかし踏み出しはしない――そんな感じの微妙な距離感が、実に半年ほども続いた。
別に、俺が奥手だったとか、自分の気持ちに鈍感だったというわけではないのだ。彼女を休日デートに誘った時点で、俺は彼女を愛していたし、その思いをはっきり自覚していた。
ただ、俺の背負った使命に問題があった。ベルホルム帝国に立ち向かうという使命――法を犯し、世の中を敵に回すことを前提とした使命。
ジュリエットへの思いに素直になった場合、彼女を恐ろしい運命に巻き込むことにならないだろうか?
彼女を不幸にするのだけは、どうしても嫌だった。使命のためであれば、犯罪者になることも、命を失うことも怖くないのに、ジュリエットに塁が及ぶかもと考えると、途端に震えが止まらなくなる。
では、彼女から距離を取るべきか? ただの友人、あるいはパン屋とその客という関係から進展させずに、いずれリルロッサに帰っていくジュリエットを見送るのが正解なのか?
残念ながら、その選択は不可能だった。あの時点ですでにして、離れる気になれないほど彼女を愛していたのだ。
帝国への悪意をくすぶらせながら、破壊を行う日を待ち続ける日々。そこに潤いはなく、彩りもなかった。
何かを憎まずにはいられない、ということほど、惨めなことはない。時間が経てば経つほど、心の中に灰が降り積もっていくからだ。
パン屋の仕事は、思ったよりはやりがいのあるものだったが、それに没頭したところで、悲しみや苦しみをほんのしばらく無視することができるだけで、癒しを得ることにはならなかった。
俺は、慰めが欲しかった。
使命から逃れるためではない。使命を遂行する前に、心が灰の底に埋もれてしまわないように。喜びを、楽しみを、好きなものを、使命以外の大切なものを――自分の生きる理由を持っておきたかったのだ。
そして、ジュリエットを見つけた。
使命に命を捧げた俺にとってさえ、鮮やかに見える人。華やかで輝かしくて、手放したくない存在を。
見つけてしまったからこそ、俺は悩んだ。
何ヵ月も悩んだ。
愛こそが正義か。それとも、身を引くことが美徳か。
ロミオ・ピュラモッシは、どうするべきなのか。
結論を出すことができたのは、きっと、待つ時間があまりにも長過ぎたせいだろう。鬱屈した気持ちを爆発させる機会がもし訪れていたら、俺はまったく違う選択をしていたかも知れない。
「しかし、あれだ……今思うと、さ。きみもよく、俺のプロポーズを受けてくれたもんだと思うよ。旅行先で出会った男に嫁ぐのは、不安じゃなかったか?」
「んー、それほどじゃなかったわね。この街は、私の故郷の村より暮らしやすいし……離ればなれになって困るような家族もいないし……もともと、信託預金の利息で生活してたから、仕事の面でも不都合はなかったし……。
地元に居着く気もなかったから、いつか結婚するとしたら、旅先で出会う誰かだろうとは思ってたわ。あなたに出会って、あなたに見初められて、ここに落ち着いて。悪くない運命に出会えたな、って思うくらいかしら。少なくとも、後悔とかはしてないわ。――あなたは? どこの馬の骨とも知れない女を拾うことに、不安はなかった?」
「なかった。これからも、ない。
俺にとっては、二年前から今までのきみだけがすべてだ。それ以前のきみが、王女様だとか犯罪者だったとしても、関係なく今のきみを愛するよ」
「私も同じよ、ロミオ。今現在のあなたさえいれば、それでいい。
過去にどんなことがあったとしても、私の知っているあなたは、この穏やかな暮らしを大切にしてくれるわ。それ以上を欲する気なんて、ありはしない」
ジュリエットはそこで言葉を切り、テーブルにひじをついて、うっとりと俺を見つめた。
言外に彼女は、「あなたの過去を詮索するつもりはない」と伝えてきたのだった。それは俺にとって、本当にありがたい気づかいだった――実を言うと、食事が始まった時から、ずっと心配していたのだ。彼女が『マンチュアナ鉱山事件』について、説明を求めてきやしないかと。
普通の人間ならば、自分の伴侶が、危険なテロ組織に誘われるような過去を持っているとわかれば、その詳細を知りたくなるものだ。「いったい何があったの?」と、悪気なく尋ねてきても不思議ではなかった。そして、もしそうされていたら、こっちはテロ組織にまったく同調していないことをアピールするためにも、その過去について、完全に割り切っている風を装って説明しなければならなかっただろう。
それは、あまりにも難しいことだった。俺の中の憎悪は、現在進行形で燃え続けているのだ。それを一切表情に出さずに、穏やかな茶飲み話として語るというのは、凄まじい演技力とバランス感覚を必要とするだろう――細い釣り糸の上で、タップ・ダンスを踊るに等しい。
しかし、彼女はその難しい説明を求めなかった。それも、おそらくは臆病さによってではなく、こちらがその話題を忌避しているのを察したがために。
お互いに、平和な沈黙に浸った。紅茶を飲み終わっても、【緋色のランタン】の名前も、シスター・ロザリンドの名前も、話題にのぼらなかった。
まるで、事件に巻き込まれたこと自体が嘘だったかのように、俺たちの休日の午後はいつも通りに過ぎ去っていった。
■
その日の夜。
明日のためのパン生地の仕込みを済ませた俺は、工房の作業机に羊皮紙を広げ、秘密の手紙を書いていた。
【緋色のランタン】について、『上』の方々に意見を求めるための手紙だ。我々は、彼らの活動に対してどのような態度を取ればいいのか? 衛士隊にすべてを任せて、無視を決め込むべきか。それともこちらから接触を持って、大聖堂への放火を先延ばしにするようはたらきかけるべきか?
彼らの構成人数、拠点などを突き止めることは、そちらでできないか? いっそ、連中の排除を、そちらで受け持ってはもらえまいか? そんなことを、つらつらと書き綴る。
多少無茶に思える提案もしてあるが、それも『上』の持つ力を信頼しているからこそだ。俺は、俺たちに『聖杯』の破壊を命じた彼らの正体を知らないが、高位貴族並みの権力と経済力を持った存在であることは、まず間違いない。
俺が、彼らと関係を持ったのは、およそ七年前。あの恐ろしい『マンチュアナ鉱山事件』が起きた直後のことだった。
あの事件については、今思い出しても震えが来る。怒りと、それ以上の恐怖のために。
まったく、ジュリエットが突っ込んだ質問をしてこなくて、助かった。思い返すだけでこれでは、平静を装って話すことなど、夢のまた夢だ。
もっとも、事件の内容を説明するだけなら、短い時間で済む。あれは人手とカネはかかっていたが、しかしそのわりに、ひどく単純な陰謀だったのだから。
――事件の舞台は、ジャゼ共和国東部に位置するマンチュアナ山というところだ。ここは、良質な鉱物資源を大量に埋蔵した、非常に有望な鉱山だった。
特に、世界的に珍しい希少金属がよく採れた。この金属は、ジャゼの鉄鋼業界にとって欠かせないものだった――単体では役に立たないが、特定の割合で鉄と混ぜることで、極めて強靭な合金を作り出すことができたからだ。
この特殊合金――その名も『マーツ鋼』は、特に武器・防具の材料として重宝された。ジャゼ以外の三国で一般的に使われている鋼の剣より、マーツ鋼の剣の方が遥かに硬く、しなやかで、鋭かった。マーツ鋼の盾や鎧は、鋼の盾や鎧より薄く、軽くしても、遥かに壊れにくい仕上がりになった。
技術者集団であるジャゼ共和国が、つわもの揃いのベルホルム帝国の侵攻を撃退できているのは、これら装備品の差が大きいからだ、と言われている。
それがわかっていたからだろう、他の国々も、このマーツ鋼を欲しがった。
ベルホルム帝国は、武力によって略奪しようと試みた。もちろん、ジャゼはこれを退けた。敵は何度も何度も攻めてきたが、結果は変わらなかった。
リルロッサ王国とユカニム大教国は、商取引を持ちかけてきた。これに関しては、ジャゼも応じた――リルロッサ産の食糧はいくらでも欲しかったし、ユカニム大教国が交換材料として提示した『聖水』も、非常に魅力的だった。
しかし、この貿易はそれほど活発にはならなかった。ジャゼもそれほど大量のマーツ鋼を生産できるわけではなかったし、他国に分け与える分は、どうしても自国でキープする分より少なくなくてはならない。すると、ジャゼがつけるマーツ鋼の値段は自然と高くなり、リルロッサと大教国は二の足を踏むようになったというわけだ。
ジャゼも、リルロッサも、大教国も、本心ではもっと積極的に取引がしたい。しかし、モノの絶対量が少なく、供給元も限られている現状では、価格を変えることもできない。
そんな、にっちもさっちもいかなくなっていた時だった。リルロッサと大教国から一社ずつ、計ふたつの会社が、状況の打開策を引っ提げて、ジャゼ共和国に乗り込んできたのは。
リルロッサからやって来たのは『パリス』社。大教国からやって来たのは『ティバルト』社。どちらも新興の製鉄会社ながら、充分な資本を備えていた。
彼らは別々の国の、まったく関係のない会社だったが、その主張は双子のように一致していた――即ち、マンチュアナ鉱山開発に協力することと引き換えに、マーツ鋼の取引に『関係者割引』を適用して欲しい――といった感じだ。
つまりどういうことかというと、パリスとティバルトは、マンチュアナ鉱山から希少金属をたくさん掘り出せるよう、お金と人を出す。希少金属の量が増えれば、マーツ鋼が今までよりたくさん生産できるようになり、価格を下げることができるようになる。そうなれば、マーツ鋼市場が活性化し、ジャゼ共和国は大助かりというわけだ。
もちろん、ジャゼはパリスとティバルトに借りができるわけで、何とかしてこれを返さなければならない。そこで『関係者割引』である。鉱山開発に貢献した分、二社は相場よりかなり安く、マーツ鋼を仕入れる権利を与えられるというわけだ。
ジャゼ共和国は、この計画を受け入れた。鉱山経営はいつだって、人手不足と資金不足との戦いなのだ。それをサポートしてくれる資本が現れたとなれば、飛びついても仕方ない。
俺も、二社の協力を歓迎したひとりだった。当時の俺は、マンチュアナ鉱山の発破技師として働いていた。金のない現場の大変さは、身にしみてわかっている。
爆発物を扱う資格を持つ人間が他にいないので、何十個もの爆薬を、ひとりで延々と設置し続けたり。爆薬に回すお金がなくなったという理由で、本来爆破しないといけないような大きな岩盤を、ツルハシで何日もかけて根気よく砕いたり。重労働に耐えかねて逃げ出した作業員を、半日かけて連れ戻したり。そのせいで仕事が一日ストップしたり。
別に、運の悪い時の話ばかりしているわけではない。マンチュアナ鉱山の仕事場では、この手の苦労が日常茶飯事だった。
そんな、うんざりするような環境が――パリスとティバルトの介入によって、見事に改善されたのだ!
自由に使える健康な作業員が、数百人単位で追加された。その中には、ベテランの発破技師も数人おり、彼らと作業を分担することで、俺の負担はかなり減った。
採掘に使う道具もグレード・アップした。より頑丈なツルハシやスコップ。明るくて燃費の低いランタン。効率よく鉱石を運び出すため、坑道の中にはトロッコの走るレールまで設置された。高価過ぎて手の出なかった高性能爆薬も、ほとんど制限なしで使わせてもらえるようになった。
マンチュアナ鉱山の開発は、拍車をかけた馬のようにスピードを増した。希少金属の産出量は右肩上がりになり、それと比例して、鉱山で働く人たちの収入も増えていった。生活が楽になったので、結婚を決めた仲間も何人かいた。
ジャゼ共和国全体で見ても、マーツ鋼市場が盛り上がり、外国との取引が盛んに行われるようになった。モノとカネが滞りなく流動し、好景気が生まれようとしていた――経済的な春が来たのだ。
俺たちは、その状況をもたらしてくれたパリスとティバルトに深く感謝した。彼らは、当時のジャゼ共和国民にとって、天使様のようにありがたい存在だったのだ――けっして誇張ではなく。
そんなだから、俺たちも彼らと付き合うことに、まったく抵抗がなかった。
外国の人間だから、ある程度精神的な隔たりがあるんじゃないかと疑ったこともあったが、そんなことはない。パリスの作業員も、ティバルトの作業員も、陽気で開けっ広げな、いい奴らだった。仕事終わりには一緒に酒場に行き、飲み比べをして友情を深めた。誰かの家でホームパーティーが催されれば、お互いに誘い合って参加し、下手な歌を歌ったりダンスをしたりした。
仕事の時も、連中は手際がよかった。俺たちの教えるやり方をすぐ覚えたし、絶対にサボったりしなかった。仲間のミスはすぐにサポートするが、でしゃばりはしない。それでいて、休憩時間には下品な冗談を言って笑い合えるのだから、そりゃ親しみも湧こうというものだ。
二年ほど経つと、彼らは俺たちのサポートという役目を卒業し、本格的に肩を並べて仕事をするようになった。
もとからいた作業員たちに負けず劣らず、マンチュアナ鉱山を知り抜いた彼らは、もう自分たちだけでも採掘が行える程度にはノウハウを得ていた。俺も、爆薬庫を管理する役目をティバルトの技士と共有することにし、軽くなった責任の分、休日を増やすことにした。
三年が経つと、とうとう、パリスの役員が副鉱山長の地位についた。スポンサーから送り込まれた人間が、人事面で優遇されることは珍しくないが、彼の場合は純粋に、それまでの働きを評価された結果での昇進だった。俺も彼の頑張りは知っていたから、この人事も素直に祝福した。
そして、四年が過ぎようとした時。
忘れもしない、二月十日――午後一時三十分。
マンチュアナ鉱山で、謎の大崩落事故が発生した。
数十本もの坑道のことごとくが、爆音とともに崩れ落ち、作業員たちを飲み込んだのだ。
一瞬のことだった。滝のように降り注ぐ土と石。はかなくかき消されたランタンの明かり。この世の終わりのように、視界にうつるすべてのものが身をよじり、躍動し、俺自身もそれに巻き込まれた。
しかし、それもほんの数秒。すぐに、暗黒と静寂が訪れる。
闇の中で、体の半分を土砂に飲まれながら、俺は高性能爆薬が破裂した時に生じる、独特な香りを嗅いだ。
鉱山技師にとって最も恐るべきは、大地の抱擁である――という言葉を、かつて聞いたことがある。まったくその通りだった。冷たく、硬く、重く、息苦しく。生きた人間にとって、地面に抱かれることは苦痛でしかない。しかも、それは抱擁であるにもかかわらず、ただひたすらに孤独なのだ! 崩れた坑道という、音も光もない世界で、身にのし掛かってくる重さに耐え切れず気を失った俺は、まだしも幸運な方だっただろう。気絶することもできず、じわじわ窒息していった者たちと比べれば、という話だが。
大崩落から、およそ十時間後。俺は救助隊によって、地下十メートルの場所から掘り出された。
比較的浅い場所にいたために、俺は命を拾った。助けられた他の人たちも、みんな坑道の入り口付近にいたために、息が詰まる前に掘り当ててもらえたのだ。
逆にいうと、深いところにいた人たちは、誰ひとり助からなかった――マンチュアナ鉱山は、最大で地下八百メートルの深さまで坑道を伸ばしていた。一度崩れた坑道を、その深度まで復旧させるには、莫大な費用と時間がかかる。そして、大地の抱擁を受けた人間が命を保っていられる時間は、驚くほど短いのだ。
結局、地下での作業に従事していた作業員のほとんどが、冥府の門を潜ることになってしまった。生き残ったのは、わずか五十数人。死者は、遺体が確認されただけで三百七人にも及んだ。
さて、この一大悲劇は、いったいどうして起こったのか。
当然、事故発生直後から、専門の調査チームが編成され、原因の追究が始められていた。地盤の緩みとか、地下水の噴出といった、自然的な原因によるものか? それとも、爆薬の設置ミスとか、坑道の補強の不備などのヒューマン・エラーによるものか?
俺は、山自体が掘削に耐え切れず、崩壊したものであろうと考えていた。爆薬の設置にミスはなかった。他の発破技師たちの仕事も、信頼できるものだった――同じように、坑道を掘る作業員たちの仕事も確かだったのを、目で見て知っている。
充分な安全性を確保した上で、マンチュアナ鉱山は運営されていた。ならば、人の技術を容易に上回るような、巨大な自然のエネルギーが働いたとしか考えられないではないか。
ところが、真実は俺の予想とは、まったく違っていた。
崩落事故は、人に責任のあるものだった。しかも、人のミスにより引き起こされたものではなく、人為的に――能動的に――即ち、崩落よ起こるべし、という意思のもとに、マンチュアナ鉱山は破壊されたのだ。
犯人は、その事実を少しも隠蔽しようとしていなかった。埋まった坑道を掘り返して調べたところ、数えきれないほどの発破の痕跡が発見されたのだ。
どうやら、普段の採掘作業でもおなじみの高性能爆薬が、大量に使われたらしい。それも、長大な坑道を均等に崩せるよう、綿密な計算がなされたらしく、プロの目から見ても極めて適切な位置に、極めて適切な量がセッティングされていた。
これは明らかな爆弾テロであり、しかも外部犯の仕業ではあり得なかった。爆破、と聞くと、荒っぽくて考えなしでもできるように思われがちだが、少なくとも今回の事件のような大破壊を起こすためには、非常に繊細な技術と知識が必要だったのだ。
まず、複雑に枝分かれした坑道の全体像を知り尽くしていなければならない。次に、厳重に管理されている高性能爆薬を使用する権限と、発破技師としての能力を持っていなければならない。なおかつ、坑道内で作業をしていても不審に思われない立場にいるなければならない。犯人は、それらの条件を満たす人間――いや、人間たちでなくてはならなかった。
もちろん、必要な項目がそこまで多いと、該当者は限られてくる。というか、あっという間に特定された。犯人たちは、犯行の事実同様、自分たちの正体すら隠蔽しようとしていなかったのだ。
犯人は――パリス社とティバルト社の社員全員だった。
調査チームが突き止めたその真相は、本人たちを捕まえて白状させたものではないので、あくまで推定に過ぎなかったが、間違っている可能性はゼロだった。というのも、事件が発生してすぐに、それぞれの会社の社員とその家族、計五百人以上が、煙のように姿をくらましてしまったからだ。
のちの調査で、パリス社もティバルト社も、所属する国家――リルロッサ王国とユカニム大教国――とは、何の関係もないことが判明した。ジャゼ共和国に提出された書類には、二社の所在地や、代表者の氏名などが記載されていたが、それらは完全なダミーだった。
本社のあるべき場所には、小さな貸し事務所があるだけで、何も知らないアルバイトの小僧が、郵便物の整理のために詰めているだけであった。代表者は実在していたが、いざ会いに行ってみれば、引退した老司祭と、森の奥で暮らしている木こりであったという。彼らは名前を勝手に使われただけで、マンチュアナ鉱山で活躍していたふたつの製鉄会社とは、まったく関係がなかった。
パリス社もティバルト社も、この世に存在しなかった。
社員と資本だけが実体で、他は何もかも幻の幽霊会社。この事実は、彼らがどの段階から悪意を持って活動していたのかを示してくれる。つまり、何もかも、最初の最初から仕組まれていたのだ。
パリス社とティバルト社の目的は、大きく分けてふたつあったと思われる。まず、ジャゼ共和国に取り入り、マーツ鋼を安価に手に入れること。これは完全に合法だ。彼らは人材と資金という対価をジャゼに差し出したし、ジャゼにとっても歓迎すべき取引だった。真っ当な協力関係にあった四年の間に、二社はかなりの量のマーツ鋼を得ていたはずだ。
では、もうひとつの目的は?
言うまでもない、マンチュアナ鉱山の爆破だ。
どこの誰が、なぜ、そんなことをしなければならなかったのか? 一見、無差別な殺戮行為でしかないこのテロだが、マーツ鋼という資源を主軸にして考えていくと、ある程度論理的な動機を導き出せる。
犯人は、ジャゼ共和国におけるマーツ鋼の生産をストップさせたかったのだ。
マーツ鋼を作り出すには、マンチュアナ鉱山から掘り出される希少金属が絶対に必要である。一応、この金属は他の鉱山からも出ないわけではないのだが、やはりマンチュアナ鉱山の産出量が圧倒的で、他はかなり少ない。マンチュアナ鉱山が操業を停止すれば、マーツ鋼は生産不可能になると言っても過言ではないのだ。
では、マーツ鋼の生産が止まって、得をするのは誰か。
リルロッサと大教国は違う。この二国は、取引によってマーツ鋼を得ようとしていた。ジャゼ共和国がマーツ鋼を生産できなくなったら、供給が完全に止まることになる。まさか自分が欲しいものを、市場から消そうとするわけがない。
となると、考えられるのはベルホルム帝国だ。
ベルホルムは、マーツ鋼をよだれが出るほど欲しがっていた――自分たちの攻撃を押し返すほどの、優れた武器の材料になる合金を。
しかしジャゼは、帝国にだけはマーツ鋼を売ろうとしなかった。当然だ。しょっちゅう武力を振りかざして攻め込んでくる侵略者どもに、どうして自分たちの力の源を分け与えたりなどしようか。
そう、ベルホルム帝国になら動機があるのだ。通常では手に入らないマーツ鋼を、リルロッサと大教国の名を騙ることで手に入れる。自分たちが充分に資源をストックしたら、他の三国がマーツ鋼不足になるよう、供給元を破壊する。
まったく、恐れ入ったとしか言いようがない。自分たちを潤しながら、敵を枯渇させるとは。実に軍国主義的な容赦のなさではないか!
いや、ただ容赦がないだけではない。彼らはそれ以上に、陰湿で我慢強かった。
目的を達成するために、パリスとティバルトの二社をわざわざ用意したことに、彼らの底意地の悪さが表れている。言うまでもないが、この二社の社員は全員、ベルホルム帝国の特殊部隊に所属するプロフェッショナルだった。
その任務は単純明快。マンチュアナ鉱山で一生懸命働いて、ジャゼ共和国の人々の信頼を得ること。
彼らが真面目な作業員として尽くせば尽くすほど、ジャゼはそれに報いるためにマーツ鋼を提供してくれる。さらに、仕事をしっかり覚えれば、重要な役職にもつくことができるようになる。爆薬庫に出入りする権利や、深く長い坑道の地図を閲覧する権利、そして、作業員のシフトを決定する権利が、彼らの計画のためにはぜひとも必要だった。
そもそも、テロによって鉱山の仕事を止めるのは、そう簡単なことではない。地下深くに仕事場があるので、破壊工作のために侵入することがまず困難だ。次に、坑道が蜘蛛の巣のように複雑に、広範囲に渡って伸びているので、ほんの一ヵ所か二ヵ所で事故が起きても、全体の操業にはそれほどの影響が出ない。
鉱山を再起不能状態にまで持っていくには、誰にも怪しまれないように爆薬を配置し、坑道全部を一斉に破壊しなければならないのだ。
それを可能にするには、職場で高い地位につくしかない。たとえば、爆薬をいくら持ち出しても不自然でない、爆薬庫を管理する発破技師の地位であったり。たとえば、鉱山全体を統括し、人員配置を操作できる副鉱山長の地位であったり。そういった権限を得てようやく、事故を起こす下地が完成するのだ。
彼らは、与えられた任務に忠実に従った。四年間――そう、実に四年間も――彼らはいずれ破壊する予定の鉱山で、昇進を目指して、やる気たっぷりに働いていたのだ。
ジャゼの作業員たちと――いずれ生き埋めにする予定の人々と語り合い、笑い合い、友情を育んで。彼らとの出会いを、人生における最も幸福な出来事のひとつだと信じさせておいて――準備ができた瞬間、華麗に手のひらを返した。
彼らにとっては、四年間に起きたことはすべて、任務の一部に過ぎなかったのだろう。こちらは、お互いに信頼や愛情を結んでいるつもりでいたのに、向こうにはそんな気持ちは微塵もなかった。
正直なところ、俺にとっては鉱山が崩れたことより、自分が死にかけたことより、この裏切りの方がショックだった。
俺の素敵な飲み友達――パリスのイアーゴとマクベス、ティバルトのリチャード。今でも、彼らとの楽しい宴会の光景を夢に見る。可愛いウェイトレスの尻をみんなで眺めて、仲良く肘鉄を食らったことがある。崖の上にみんなで並んで、立ち小便を降らせたこともある。フライド・チキンにレモン汁をかけるかかけないかで、殴り合いの喧嘩をしたことだってあるのだ(ちなみに俺は、最初にみんなの分にもまとめて回しかける派だ)。
そんな彼らとの間に友情がなかったと、なぜ簡単に認められたりしよう?
時間が経ち、動揺がおさまり、冷静に事実を受け止められるようになった時、俺の心に訪れたのは、怒りよりもむしろ、あの大地の抱擁にも勝る、暗く冷たい虚無だった。
体の怪我が治っても精神は癒えず、暮らしは荒んだ。食っていくために別の鉱山で働き始めたが、やる気が起きずにすぐ辞めてしまった。
自分でも意外なくらい、俺は他者との関係に依存して生きていたらしい。己のあまりの女々しさに、気分はより沈み込んだ。
――しかし、これは俺という人間だけが抱える欠陥だろうか?
実際のところ、他の人との関係の中に自己を見い出している人間というものは、俺以外にもたくさんいるのではないだろうか?
たとえば、家族や友人の喜ぶ顔が見たいから頑張れる、という奴もいるだろう。
大勢の手下を従えて、ふんぞり返ることに喜びを感じる奴もいるだろう。
仕事に生き甲斐を感じて、それ一直線に取り組んでいる奴がいたとしたら、そいつは自分の仕事を誰かに評価してもらうために力を尽くしているのだ、と言い換えても問題はないはずだ。
社会の中で生きている以上、他者との関わりはけっして軽く見ることはできない。ならばむしろ、幸せも不幸せも、自分の中だけで完結させられる人間の方が、稀なのではないだろうか?
――俺は恐らく、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、誰かと関わりを持っていなければ生けていけない人間なのだ。
だから、『上』の使者に声をかけられて、ベルホルム帝国への復讐のために働くことになった時。俺は、それまで萎びていたのが嘘のように、活力を取り戻した。
心の虚無を怒りと憎悪に変え、それをさらにエネルギーとして使うことで、しゃっきりと立ち直った。もちろん、それは健全な回復ではない。希望のない渇いた心に火をつければ、確かによく燃えるだろう。だが、そのあとに残るのは、ボロボロの灰だけ。
わかってはいる。どちらにせよ、破滅に向かっているということは。
ちゃんとわかってはいるが、それでも動けない腐りかけの人間でいるよりは、選ぶ価値もあろう? 少なくとも、当時の俺は復讐鬼となることを、良い変化として受け入れていた。
パン屋という仕事にも、驚くほど熱を入れて打ち込むことができた。新しい仲間たち――ベンヴォーリオにマーキューシオ、バルサザー老人――とも、十年来の親友のように意気投合することができた。彼らも俺に負けず劣らず、ベルホルム帝国に対して深い恨みを抱いていたから、共感し合うことに苦労するはずがなかったのだ。
――俺は、今も変わらず、帝国への憎悪を糧に動いている。
長い待機時間の間に、店だとか、可愛い妻だとか、復讐とは何の関係もない生き甲斐も増えたけれど。それでも、優先順位の第一位は、帝国に正義の鉄槌を振り下ろすことである。
失敗は許されない。不安要素があるならば、最大限の注意でもってこれを取り除く――。
手紙を書き終えた俺は、充分に内容を確認した上でそれをくるくると巻いて、細いスティック状にした。
次に、パンを焼くために使う太い薪を一本取ると、それにねじ込み錐を使って、孔を空けにかかる。
螺旋状の刃がごりごりと薪を削り、作業机の上に細かい木屑を積もらせていく。大工や木工細工師がよく使うこのねじ込み錐、なかなか面白い道具だが、意外と力が要るのが玉に傷だ。ねじ回しと同じで、パンをこねるのとは違う筋肉を使わなければならない。
結局、必要な大きさの孔――直径二センチ、深さ十五センチほど――を彫り終わる頃には、手首がすっかり痺れてしまっていた。
まあ、ここまで来れば、あとは何も難しくない。
細く丸めた手紙を、薪に空けた孔に差し込む。最後に、木片で作った栓を嵌め込んで、孔を塞げば完成だ。
ためつすがめつして、それの出来を確認する。見た目は完全にただの薪で、とても内部に手紙を孕んでいるとは思えない。
発想としては、『上』の使う金貨の中の手紙と同じだ。遥かに安価な分、庶民向けではあるだろう。
あとはこれを連絡員に渡して、『上』に届けてもらえばいい。すでに一番危険な段階は脱した。この通信手段の弱点は、薪への細工をしているところを誰かに見られた場合、言い逃れができないという点だ。それをクリアした以上、もう恐れることは――。
(……いや、待て。誰にも、間違いなく見られてないよな?)
なぜか急に、得体の知れない疑惑が頭をかすめた。
念のため、周囲を点検しておくことにする。工房の窓は、全部、きちんとカーテンが閉められている。外から覗かれるという心配はない。
出入り口はふたつ。店の裏手に通じる扉と、店舗に通じる扉だ。前者は、内側から鍵がかかっているし、覗き見できる隙間もない。安全と見ていいだろう。
後者は――? と、そちらの扉に目をやった瞬間、俺は口から心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。確かに閉めたと思っていたのに、その扉はほんのわずかに開いていたのだ!
十センチほどの狭い隙間が、怪物の口のように不気味に見えた。そこには何の気配もない――当たり前だ、扉の向こうは店だ。今の時間、誰もいないに決まってる。
それでも、何かが不安だった。俺はそろそろと忍び足で、扉に近付くと、音を立てないようにそれを開いた。
工房の明かりが、真っ暗な店内に流れ込む。闇は弱まり、陳列棚だとか、精算台だとか、『本日のおすすめパン』を書き込むための小さな黒板だとかのシルエットが、うっすらと浮かび上がる。――当然だが、人の気配はない。誰かが隠れられるような場所もない。
もちろん、この店舗フロアにも出入り口はある。表に通じている扉と、俺とジュリエットが暮らす住居フロアに通じる扉のふたつだ。
工房の時と同じく、前者は内側から鍵がかかっていた。ノー・プロブレム。後者は、普段からあまり鍵をかけない。俺がしばしば、工房と住居フロアを往復するからだ。
誰かが俺の作業を覗き見していたとして――その人物Xが逃げ込める場所は、住居フロアしかないということになるが――。
と、そんな風に考えていた俺の目の前で、住居フロアに通じる扉が突然開いた。
「あら? どうしたの、ロミオ? こんな暗いところでボーッとしちゃって」
扉を開けたのは、ジュリエットだった。パジャマ姿で、片手にランタンを掲げ持っている。
「いつもより仕込みに時間がかかってるみたいだから、見に行こうかと思ったんだけど……工房から出てきたってことは、もう全部終わったの?」
「あ、ああ。今、ちょうど片付いたところだよ。えっと、それじゃジュリエットは、これから工房に来ようとしてたってことかい?」
「ええ、そうよ? ……それがどうかしたの?」
「いや、誰かがさっき、工房の扉を開けたような気がしてね。……一応聞くけど、誰かが工房の方から、きみのいた住居フロアの方に入ってきた、なんてことは……?」
「ちょっ、こ、怖いこと言わないで! 誰も来てないわよ!」
「間違いない?」
「天使様に誓って、誰も来てません! 私、扉を開ける前に、しばらくぐずぐずしてたし――ランタンの芯がちょっと潰れてて、火をつけるのに手間取ったの――だから、工房の方から誰か来たりなんかしてたら、鉢合わせになってたはずよ」
「そう……そうか……」
俺はほっとため息をついて、肩から力を抜いた。
どうやら、本当に誰もいなかったようだ。俺の仕事は、覗かれてなどいない。
絶対に見られてはいけない、気付かれてはいけないと思い続けていたから、緊張で不安が膨らんでしまったのだろう。
工房の扉が開いていたのは、きっとただ閉め忘れただけだ。まったく、俺としたことが、バカなことを考えたものだ――外であれば、通りすがりの人間にちらりと見られる、ということもあるだろうが、ここは家の中だ。他人の視線なんて、あるわけないじゃないか。
もう寝よう。ぐっすり眠って、この疲れた頭を休めなくては。
準備はすでに済ませている、あとは明日、『上』につながる連絡員に、薪の手紙を渡すだけでいい。問題はない――心配する必要はない――すべては順調だ。これは自分に言い聞かせている言葉ではない――単なる事実だ。
ジュリエットと腕を組んで寝室に向かいながら、俺は心の中でもう一度繰り返す。
誰もいなかった。誰も、俺の仕事を覗いてなんかいなかった。誰も、誰も――。
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ぱたん、と。店舗と住居フロアをつなぐ扉が閉ざされる。
夫婦が立ち去ったあとの店舗は、暗く、静かだった。何者の気配も、残り香すらもない。




