ジュリエットの日記/【緋色のランタン】
心臓が、早鐘のように激しく鳴っているのが感じられる。
信じられない、という気持ちで、頭の中がいっぱいになっていた。妻の――ジュリエットの日記帳。今、ちらりと目にしたものは現実だろうか。それとも、眠りを誘うような五月の陽気が作り出した幻だろうか。
妻が絶対に知るはずのない、俺の個人的な秘密が、そこに書かれていたように見えたのだ。教会の大聖堂を爆破し、ベルホルム帝国の至宝である『聖杯』を破壊するというテロ計画――俺はそれを、現実のものにすべく活動していた。
もちろん、その内容は秘中の秘だ。妻に打ち明けた覚えはないし、絶対に隠し通してみせると決心すらしていた。知られる道理など、あるはずがないのだ。
それが、なぜ?
俺は、よく眠っているジュリエットを起こさないように、細心の注意を払って、彼女の顔の下から、日記帳を引っ張り出した。
一分ほどかけて、上手く仕事をやってのけると、食い入るように日記の文章を読み始める。
そこにあったのは――俺が気付きもしなかった、ジュリエットの苦悩だった。
■
どうしよう、夫に知らせるべきだろうか?
でも、今さら? できるわけがない。あの手紙の内容が本当かどうかも、私はわからないのだ。
ジャゼ共和国時代の悲劇。ベルホルム帝国への憎しみ。夫は、彼らの企みに賛同するだけの過去を持っていると、手紙は断言している。
夫の過去を聞いたことはない。
でも、もしやる気になるとしたら、尋ねることすらしてはならない。
それだけはだめだ。
私は妻として、夫を、ロミオ・ピュラモッシを――大聖堂を焼こうとするような、恐ろしいテロリストの仲間にすることはできない。
しかし、だとしたら、どうするべきなんだろう。
ああ、あんな手紙さえ受け取らなければ、こんなことに頭を悩まさなくても済んだのに!
いや、違う。むしろ、受け取ってよかった。受け取ったのがロミオ本人ではなく、私だったから、まだよかったのだと考えておこう。人間、ポジティブであるに越したことはない。ロミオが受け取って、私に内緒で悪い企みに荷担したりなんかしてたら、それこそ最悪だもの!
そう考えれば、五日前――ロミオがパンを焼いていて、お店にいなかった時に――あの人が、シスター・ロザリンドって名乗る女の人が訪ねてきたのも、天使ユカニム様のお導きだったのかもって思えてくる。
あの時、私はいつも通り、お店の精算コーナーに立ってた。お昼を過ぎて、客足の落ち着いてきた頃で、のんびりと売り上げの計算なんかしていたっけ。もし、忙しさがピークの時だったら、私は彼女と言葉を交わす余裕なんてなかっただろうし、顔も覚えられなかったはず。
彼女は、パンを三つ買ってくれた。オリーブ入りのパンと、リンゴのデニッシュと、バターロール。計四百八十エイン。普通の買い物で、支払いも普通。ただ、お釣りを渡す時に、こう頼まれたことだけが、普通のお客さんと違ってた。
「あの、すみません。私、ジャゼ共和国から参りました、ロザリンドという者です。
お手数ですが、ご主人に――ロミオ・ピュラモッシ様に、こちらの手紙を渡して頂けませんか」
私はつい、そのお客さん――シスター・ロザリンドの顔を、まじまじと見てしまった。黒いヴェール状の頭巾をかぶり、同じ色のローブをまとった、ごくあり触れた修道女さんだった。髪は上手に頭巾の中にしまい込んでいたけれど、ちらりと見えた前髪は明るい金色だった。
彼女は、筒型に丸められた羊皮紙の手紙を差し出して、穏やかに微笑んでた。怪しい様子なんて何ひとつない。少なくとも、テロを企むような危険人物には見えなかった。だから、私は特に疑いもせず、その手紙を受け取っちゃったんだ。このコンタクトのせいで、さんざん悩まされることになるなんて、思いもせずに。
シスター・ロザリンドは、私に手紙を託し、「くれぐれもよろしくお願いします」って念を入れて、去っていった。私は、何とも思わずにそれを見送ったわけだけど、あとになってから、妙に疑わしい気分になってきちゃった。
別に、その時点でテロだとか犯罪だとか、そんなことを予感したわけじゃない。ただ、その、もっと俗っぽい疑いっていうか、ええと――不倫とかね? 浮気とかね? そういう方面の勘繰りをしちゃったわけ。
うちの旦那、けっこう男前だし。お客さんへの当たりもいいから、近所の若奥様の間でも人気だし。恋の炎を制御できなかったどこかのお嬢さんが、発作的に恋文を送ってきたとしても、ちっともおかしくないじゃない?
もしそうだとしたら、奥さんとしては、道ならぬ恋の橋渡しなんてしてあげる必要なんて、少しもないわけよ。
――まあ、そうは言っても。
本当に恋文だって確信してたわけじゃないから、勝手に手紙を捨てたりはできなかった。もし違ってたら、夫にもロザリンドさんにも迷惑かけちゃうし。でも、やっぱり浮気を誘う熱っぽい手紙だったら、後ろ暗いラブロマンスが始まっちゃうかも知れないし。あーもーどうしよーって思いながら、手紙をいじってたら――弾みで、手紙がぱかっと開いちゃった。
わざとじゃなかった。本当にわざと開けたわけじゃないの。たぶん、手紙を閉じてた封蝋が、うまくくっついてなかったんだと思う。丸まってた羊皮紙の手紙が、私の手の中でひとりでに広がって、中身が見えるようになっちゃったの。
本当なら、そこでさっと目を逸らすべきだったんでしょうね。自分宛てでない手紙なんて、ちらりとでも見ちゃダメだわ。でも、我慢できなかった。やましいことが書かれてないか、確かめずにはいられなかった。
結論から言うと、心配は杞憂だった! 別にロザリンドさんは、ロミオに色目なんか使ってなかった。よかったーめでたしめでたし!
――って、そう終わらせられればよかったんだけど。
残念ながら、手紙を読み終わった私は、笑顔になれなかった。
それどころか、これが不倫な手紙であってくれたら! って、心の底から思ったぐらい。ことはもっと深刻だった。ロザリンドさんの手紙は、夫を犯罪に誘い込もうとする手紙だったの。
内容は、とても単純で短かった――もう一度見なくても、そらんじられるくらい。
『私はあなた様と同じ、ジャゼのマンチュアナ鉱山事件の生き残りです。あの事件のために、ベルホルム帝国に対して、深い悲しみと憎しみを抱いたという点でも、おそらく共通しているものと思います。
もしも帝国に復讐したい、彼らにも残酷な死の鉄槌を振り下ろしたいという気持ちがございましたら、我々の組織、【緋色のランタン】にご参加下さい。
お返事は、アンペルバール・デイリーの三行広告に、「ロザリンドとの連絡求む」の一文を載せて頂くだけで構いません。あなた様が勇気ある決断をなさることを、心より願っております』
読み終わった瞬間、背筋にぞっとするような寒気が走った。
ジャゼのマンチュアナ鉱山事件。それがどういうものか、私は知らない。だから、その深刻さも、同じようにわからない。
でも、そのあとが不穏過ぎる。
帝国に復讐するだとか、残酷な死の鉄槌とか、とても平和な生活を送る人の綴る言葉ではない。政治に不満を持つ人が、床屋さんやカフェテリアで愚痴を言ったりするのとは、わけが違う気がする。
夫は恐らく、危険な犯罪行為を本気で企んでいる人たちから勧誘されているのだ。
私はそのことに気付くと、手紙がくしゃくしゃになるのも構わず、小さく折りたたんで、精算台の引き出しに突っ込んだ。これは、絶対にロミオに見せるわけにはいけないと思った。彼はバカじゃないから、こんな下らない勧誘の手紙を見ても、鼻で笑って相手にしないだろう。
でも、もし、万が一。
マンチュアナ鉱山事件というのが、夫にとって、バカな判断をしかねないぐらい、重要な出来事だったりしたら?
今までに築いた何もかもを振り捨てて、テロ活動に身を投じることも、あり得なくはないんじゃないだろうか。
そんなのは、嫌だ。
彼には、今まで通りの暮らしをしてもらいたい。今日までと同じように明日もパンを焼いて、この店を守って欲しい。というか私を捨てないで欲しい。たっぷり八十年先ぐらいまでは、一緒にいて欲しいんだ。
だから、危なっかしい手紙は、見せられない。
精算台の引き出しの奥の奥で、静かに朽ちていってもらおう。
――あとから考えると、冷静でない行動だったと思う。夫に見せない、まではいい。でも、誰にも見られないように隠す、なんてことまでする必要はなかったのに。
そう、この時点で衛士隊詰所に駆け込んで、衛士さんに手紙を託せばよかったんだ。テロ組織への対処は、衛士隊や騎士団の仕事だ。夫の周りを危険な人たちがうろついても、通報さえしておけば、意外とあっさり捕まえてもらえたかも知れないのだ。
でも、この時の私は、そんなことは思いつきもしなかった。
――その翌々日。つまり一昨日。また、シスター・ロザリンドが店に来た。
相変わらず穏やかな物腰で、人を安心させるような笑顔を浮かべていた。やっぱり人の少ない時間帯に来て、フィッシュ・ペーストを挟んだパンと、ガーリック・トーストと、カスタードパイを買ってくれた。パンのチョイス以外は、前々日とほとんど同じ。
「もう一度、ロミオ様に手紙を渡して頂きたいのです」
手紙を差し出してくる動きすら、まったく変化がないように見えた。
受け取らない、という選択肢もあった。だけど、私は受け取ってしまった。シスター・ロザリンドにしてみれば、最初の手紙はロミオにちゃんと渡り、私はその内容を知らされていないことになっているはずなのだ(手紙への返事がイエスでもノーでも、こんなデリケートな話を夫が妻に教えるとは考えにくい)。私は何も知らないふりをして、黒衣の女のメッセージを手の中におさめた。
この時の手紙も、ロミオには届けていない。私だけが、こっそりと見た。中の文章は、最初のものよりやや長くなっており、その狂気もより具体的になっていた。
『我々には、ミスター・ピュラモッシが必要です。
同じ憎しみを共有しているだけでなく、マンチュアナ鉱山で発破技師として働いていた経験を持つあなたに、力を貸して欲しいのです。
あなたは、発破のスペシャリストでした。高性能な火薬を調合することができる上、効果的に大規模な破壊を引き起こすセッティング方法をも熟知しておられる。
その技能を、復讐のために役立ててはみませんか。
裏切られ、業火の中に息絶えた魂たちを慰めるために、あなたの炎を、ベルホルム帝国で燃やしてはみませんか。
我々【緋色のランタン】は、アンペルバールのユカニム教会大聖堂に火を放ち、これを柱の一本に至るまで焼き尽くす計画を立てております。
もちろん、非常に難しい計画です。ただ火を放つだけでは、あの巨大な建造物の十分の一も燃やせないでしょう。その辺で手に入るような油を撒いてことに及ぶとしても、すぐに消しとめられてしまうのが関の山。不可能と言っても間違いではないでしょう。
しかし、あなたさえいれば、その不可能が可能になる。
あなたなら、強力な爆薬を作れる。燃焼性能の高い油だって作れる。どこにどう火薬を仕掛ければ、効率的に炎を建物全体に行き渡らせることができるか、計算することもできるはず。
大聖堂を焼き、帝国の権威を失墜させるために。我々はあなたを必要としています。
どうか、どうかご連絡を。アンペルバール・デイリーの三行広告です。我々は常に待っています』
ダメ、絶対にダメ。ロミオは、そんなことのために炎を使わない。彼の灯す火は、石窯でパンを焼くために使われるのでなくては。
私は、この手紙も隠した。ロミオに、手紙のことを知らせさえしなければ。ロミオが、【緋色のランタン】とやらに連絡さえしなければ、この話はきっと立ち消えになってくれる。そう信じて。
でも、その考えは甘かった。
今朝、事態は予想だにしない方向に動いた。ロミオが、いつものように出掛けていったあとで(最近彼は、休みの日ごとにスペイダさんのところに行っている。バターやチーズを仕入れるんだって言ってるけど、お酒目当てなのがバレバレ!)、シスター・ロザリンドがうちを訪ねてきたのだ。
また、手紙の受け渡しを頼まれるのかと思って身構えたけれど、そうじゃなかった。今回は、伝言だった――次のようにロミオに伝えて欲しいと言われたのだ。
「ロミオ様は会合に参加できないようですね。残念に思います。
こちらにできる配慮として、あなた様のお名前だけでも、我々の名簿に入れておくことにしました。そうすれば皇帝陛下も、あなた様が帝国のために尽力したことを認めて下さるでしょう。
しかし、もし、今からでも都合がつくようでしたら、速やかにご連絡を下さいませ」
ああ、まるで教会のボランティア活動にでも誘っているような、何気ない伝言! 何も知らない人間にとっては、特別深い意味もなさそうなその文章に、なんて恐ろしい意味が込められていることか!
私にはわかった。すでに二通の手紙を盗み読みしてしまった私には、シスター・ロザリンドが、【緋色のランタン】が、勧誘に色良い返事をしないロミオに、しびれを切らしたことがわかってしまった!
つまり、連中はこう言いたいのだ。『我々の仲間にならないなら、お前の名前を使って犯行声明を出す。参加しようとしまいと、お前はテロリストの一員ということになるのだ。それが嫌ならば、今からでも従え』。
シスター・ロザリンドたちは、皇帝がそれを鵜呑みにするであろうことを、確信しているようだ。テロの動機になりかねないような、帝国を強く憎む原因となる出来事が、夫の過去に横たわっているのか?
それは、まず間違いなく、手紙の中にも書かれていた、マンチュアナ鉱山事件とやらだろう。実際に【緋色のランタン】が、その事件を動機として掲げているからには、それに何らかの関係があるらしいロミオもまた、同じような憎しみを抱くのが自然だし、テロ活動に関わっていたとしても不思議ではない――という論理展開がなされるだろう。
まずい、まずい、まずい。このままじゃ、何もしてないロミオが、何も知らないうちにテロ組織の一員ってことになっちゃう。
何とかしないと。これ、ひょっとしなくても、ここ数年で最大の危機だ。
まずは、今からでも、ロミオにことの次第を打ち明けてみようか? いい考えかどうか、わからない。手紙を隠したことを怒られるのは、まず間違いないだろう。でも、そのあとはどうなる?
ロミオと一緒に衛士隊に行って、手紙を渡して、これこれこういう脅迫めいたことも言われました、助けて下さいって言う? 怪しまれないかな?
どうしてそんな重大な手紙を、何日も隠してたのか。やましいところがあって、通報できなかったのではあるまいな。一応動機はあるんだろう? 一時はテロ組織に加盟したが、仲間割れして抜けてきたってところでは? どうだ、実際はそんなところじゃないのか――。
あー、ダメだー。意味もなく疑われて、身動きが取れなくなる未来しか見えないよー。
しかもいざ事件が起きちゃったりなんかしたら、ロミオは一級の容疑者になり得ちゃう。テロ組織に誘われた証拠あり、動機もたぶんあり。でも、組織の仲間にならなかった証拠はない、と。
最後のシスター・ロザリンドの脅迫が、口頭だったのが痛い。あれが手紙として残っていたら、ロミオがテロ組織に参加しなかった証拠になったのに。
衛士隊に、夫の人柄を知ってる人とかいないかな? もし友人付き合いしているような人がいたら、過激な真似する人じゃないってわかってもらえるだろうになぁ。
――あ、いや、待って。やっぱりロミオに、手紙のこと打ち明けるのもまずいかも。
【緋色のランタン】だって、まったく勝算なしにロミオを勧誘したわけじゃないはず。帝国に相当な恨みを抱いてる、と思えたからこそ――テロに走っても仕方ない、ってぐらいの目に遭ってるからこそ、夫は彼らの同志候補に選ばれたのだ。
私は、ロミオがいい夫であることを知ってる。でも、彼の過去のことは? あまりよく知らない。
マンチュアナ鉱山事件が、ロミオにとって人生の一番って言えるくらい大事な出来事だったら、どうする?
シスター・ロザリンドからの手紙を見せた途端、夫が目を輝かせて『よっしゃ俺の時代来た』とか叫んで、【緋色のランタン】への参加を宣言したら、どうすればいいの?
まずいって。困るって。リカバリーできないレベルでこじれるって。
テロ組織に喜んで飛び込むほど、アホじゃないはずだけど。――そう信じたいけど。ロミオの過去を知らない私なんかが、どこまで断言していいのかな?
ロミオに知らせるのは不安。衛士隊に通報するのも不安。放っておくのは、さすがに論外。
結局、どうすればいいんだろう。
助けて天使様。わりと本気で、祈らずにはいられない。
■
日記を読み終えた俺は、まず、安堵に肩の力を抜いた。
よかった。ジュリエットは、俺たちが進めているテロ計画については、少しも知っていないようだ。彼女が書き綴っていたのは、よく似てはいるが、まったく別口の問題であるらしい。
秘密が漏れていないということは、テロ実行後も彼女と平和な暮らしを送る予定が、中止にならずに済んだということだ。素直に喜ばしい。これがダメってことになっていたら、俺はいったい何を希望に、余生を過ごせばいいというのか。
だが、良いことばかりではない。面倒ごとも確かにある――シスター・ロザリンド。【緋色のランタン】。大聖堂への放火計画――まさか、俺の同郷の人間たちが、俺と同じ時期に、同じ標的に対して、同じようなテロ行為を行おうとしていたとは。しかも、俺を勧誘しようとしている? どういう偶然だ――いや、これが運命というものだろうか?
さて。このこんがらがった運命に、俺はどう立ち向かうべきか。
まず、【緋色のランタン】に荷担するという選択肢はあり得ない。あくまで優先すべきは、仲間たちと長年温めてきた、俺たち自身の計画だ。これをないがしろにするわけにはいかない。
となると、【緋色のランタン】は俺にとって、明確な敵となる。標的も手段も似通っているので、一見共存できそうにも思えるが、それは間違いだ。連中は、『大聖堂』を焼きたい。俺たちは『聖杯』を破壊したい。この差は絶望的に大きい。
もしも、もしもだ。【緋色のランタン】が、大聖堂に火を放ったら。俺たちが『聖杯』を破壊する機会が、永久に失われるかも知れないのだ。
大聖堂が火事になる。ただのボヤなら、まだいい。大火事になって、全焼――いや、半焼でもまずい。とにかく、大聖堂が使えなくなるほどの被害が出たら。
『聖杯』公開式が、開催されなくなるかも知れないじゃないか!
火によって『聖杯』が焼けて、使用不能になるというなら、それでもいい。だが、その貴重な神器は、普段から大聖堂に安置されているというわけではないのだ。【緋色のランタン】は、『聖杯』公開日を狙って放火をするだろうか――? いいや、そんなことがあるものか! 公開日以外の大聖堂は、ノーチェックでも入れる施設だ。少しでも作戦の成功確率を上げたいなら、わざわざ警備が厳しくなる日を選ぶわけがない。
俺にとってはどうでもいい大聖堂だけが被害を受け、俺にとって極めて重要な『聖杯』は、傷つけられないように皇帝の居城にしまい込まれる。何年も準備をしてきて、さあ来年の始めには作戦決行だ――って思った矢先に、そんなことになっては。悔しくて夜も眠れなくなりそうだ。
そんな風になることだけは、絶対に避けなくてはならない。
では、どうすればいいか?
選択肢はふたつある。
ひとつは、【緋色のランタン】に先立って、行動を起こすこと。我々が『聖杯』を爆破したのちであれば、連中が大聖堂を焼こうがどうしようが、知ったことではない。
しかし、これは少々難しい。なぜかというと、彼らは一年中、いつでも動くことができるのに対し、我々は年に二回しかチャンスを持たないからだ。
しかも、一番近い機会である七月十一日は、伏して見送ることが決まっている。結局、来年の一月一日以降までは――最低でも半年以上は――何もできない。その間に、【緋色のランタン】が自分たちの計画を実行しないと、誰に言えるだろう? 連中が準備に時間をかけるだろうと期待して、来年までのんびりするというのは、あまりにも危険だ。
ならば、選ばれるべきはもうひとつの選択肢だ。【緋色のランタン】を見つけ出し、余計なことをしないように無力化する。
ベルホルム帝国に攻撃を仕掛けるのは、俺たちだけでいい。余計な木っ端組織には、道を開けてもらわなければ。まあ、【緋色のランタン】が、どれほどの規模の組織なのかはわからないのだが――その上、我々はたったの四人だが――どうにかしなければならない。
よし、そうと決めたら、さっそく行動だ。ここからは素早さが勝負の分かれ目となる――。
「おい、おい、ジュリエット……マイダーリン。起きてくれ。そんな寝方をしていたら、風邪を引くよ。目を開けて、俺と話をしてくれないか」
俺は優しく呼び掛けながら、ジュリエットの肩を揺すった。気持ち良さそうに寝ていた彼女を起こさねばならないのは心苦しかったが、ことは一分一秒を争うのだ。
「う……ううぅ〜ん……あと五分……ん、んんん〜」
「だめ、だめ。急がないといけないんだからな……ジュリエット。ジュリエット……起きたくないなら、目を閉じたままでもいいから、とりあえず答えてくれ。きみが隠している手紙は、精算台のどの引き出しにあるんだ?」
子供のようにぐずっていたジュリエットは、俺のそのひと言で、がばっと飛び起きた。聞き捨てならない言葉、というものを、彼女は夢うつつで聞いたのだ――その灰色の目は驚きに見開かれ、俺の顔と、俺の手の中にある冊子の間を、視線が往復する。
「えっ、ちょ、ロミオ、な、何で知って……えっ、あれっ、ま、まさかそれっ、よ、読んだっ!? わ、私の日記っ!」
羞恥と狼狽に顔を赤く染め、彼女は俺につかみかかってきた。
正直、悪いことをしたとは思う。夫婦間にもプライバシーは必要だ、それはわかっている――しかし、今回の場合は、それを侵さなければ破滅していたのだ。あとでゆっくり、話し合ってわかってもらわなければならないだろう。
「すまん。つい、家計簿か何かだと思って、覗いてしまったんだ……でも、ちゃんと謝るのはあとにさせてくれ。まずは、シスター・ロザリンドという人から来た手紙を、俺に渡してくれ。大急ぎで。
そして、それを衛士隊詰所に持っていくんだ。俺ときみと、ふたりで一緒に。こういう脅迫を受けた時は、やっぱり衛士さんを頼るのが一番の正解だからね」
ジュリエットは、呆然とした様子で俺を見上げた。
「信じて、もらえるかしら? あなたが、あの恐ろしい手紙の組織に関わらなかった、って」
「きちんと説明すれば、わかってもらえる。俺は本当に、連中とは関わり合いがないんだから。
そもそも、だ。俺はどんなに頼まれたって、テロ活動なんかに手を貸さないよ。お前との生活だけで、充分に満足しているんだ。店もせっかく軌道に乗ってるのに、今さらそれをぶち壊す必要がどこにある?
最初から、心配なんかいらなかったんだよ。少しもね……俺を信じてくれ、ジュリエット」
「ああ……ロミオ。私のロミオ……うん、信じる。どこにもいかないで、ずっと、ずっと、そばにいてくれるのよね?」
「もちろんだ。死がふたりを別つまで、一緒にいるよ」
彼女の両腕が、俺の背中に回った。俺もまた、彼女の腰を抱いて引き寄せる。暖かく柔らかく、そして儚いまでに華奢な身体を、全身で包むようにして、思いやりを伝える。
そうだとも、彼女を失うようなことだけはするものか。ずっと、ずっと、愛すべき人と幸せに暮らす。暮らし続けてみせる。その気持ちだけは絶対に嘘ではない。
他の部分に、多少のごまかしがあったとしても。それは重大な裏切り行為にはならないだろう。
「さあ、手紙を取ってきてくれ。なるべく早く行動しよう……個人的に顔を知っている衛士さんがいるんだ。彼に任せれば、万事いいように取り計らってくれるよ」
■
【緋色のランタン】から送られてきた、二枚の手紙。それを大切に懐に入れて、俺はアンペルバールの衛士隊詰所へ向かった。
ジュリエットも一緒だ。家にいる間に、充分慰めてやったつもりなのだが、やはり、自分の置かれた非日常的な出来事に、まだまだ心が追いつかないのだろう。さっきから不安そうに俺の手を握ってくる。彼女のためにも、早くこの件を解決しなくては。
俺はもちろん、同志であるバルサザー老人に、問題の手紙を託すつもりでいた。彼ならば、なるべくことを荒立てないように、静かに、俺の立場を完璧に守りながら、【緋色のランタン】のことを調べてくれるはずだ。
たどり着いた詰所には、残念ながら求めた人物はいなかった。どうやら、休憩時間を利用して、床屋に髪を整えに行ったらしい。これはある意味、好都合だった。多くの衛士たちに注目される衛士隊詰所よりは、床屋の方が落ち着いて話ができるというものだ。
老人の行きつけの床屋は、衛士隊詰所のすぐ裏にあった。なかなか広い清潔そうな店で、真っ白な壁にオーク材の床、濃い緑の葉を繁らせた観葉植物という組み合わせが美しい。ちょっと真似したくなる色彩感覚だ。よく磨かれた鏡が、絵画に使うような額縁におさまって、壁沿いにずらりと並んでいるのも洒落ている。
俺たちが訪ねた時、バルサザー老人は首から下をすっぽり覆うピンク色のクロスをまとって、後ろの髪を刈り上げられているところだった。ウトウトしていたその目がこちらをとらえると、ほんの一瞬意外そうな表情を浮かべて、「よう」と短く挨拶をしてくれた。
「妙なところで会ったな、ロミオ。お前もこの店をひいきにしとったんか?
おやおや、奥さんもおいでじゃないか……ますます妙だ。なあおい、夫婦で一緒に調髪に来るのはいいことじゃないぞ。絶対に女の方が手間がかかるんじゃから、男は無駄に待たされることになる。どうしても同時がいいって言うなら、奥さんはカットだけにして、ロミオの方は長くかかる毛染めでもしてもらうがいいさ。それが賢い時間の使い方ってもんだ」
「いや、いや、違うんだよじいさん。今日は髪をいじりに来たんじゃないんだ。あんたにちょっと相談したいことがあってね。それ、あとどれくらいで終わるんだい?」
「ん? そうさな、十分もかからんじゃろ。いつも、後ろの方を刈り始めたら、仕上げが近いんじゃ。……何があった?」
彼の予想通り、カットはそれから十分で終わった。俺たちは、床屋のおやじに頼んで待合室の椅子を借りると、バルサザー老人と臨時の会議を開いた。
老人は、俺から受け取った【緋色のランタン】からの手紙を一読すると、例によってその表情を苦々しげに歪め、さらにジュリエットの体験した出来事を聞かされると、ひくひくとまぶたを痙攣させた。
「なるほど、確かに。こいつは、迅速な対応が必要な案件じゃぞ。もしこの腐れた計画が実現すれば、ベルホルム帝国史に残る大事件となろう。
ロミオ、奥さん、よく知らせてくれた。さっそく詰所に戻って、調査を始めるとしよう。敵に悟られないよう、こっそりとな」
「ああ、よろしく頼む。それにしても……なあ、この件で、俺たちが要らない疑いをかけられるようなことはないだろうか……?」
ちら、と、隣にいる妻の方を気にしながら尋ねる。
この問いかけは、ジュリエットにとっては、彼女自身の心配を代弁してくれた、という風に感じられるだろう。しかし、バルサザー老人にとっては――『衛士隊の調査活動の結果、【緋色のランタン】だけでなく、俺たちの計画まで嗅ぎつけられてしまうことにはならないだろうか?』という意味に聞こえたはずだ。
その含みを正しく理解してくれたのだろう、老人はわざとらしくニヤリと笑って、首を横に振った。
「案ずるな。お前たちはあくまで、テロ計画を通報してくれた善意の一般市民じゃ。誉められこそすれ、疑われるなんてことはない。そんなことには、わしがさせん。
少なくとも、【緋色のランタン】とやらが取っ捕まって計画がポシャれば、それで万事めでたしめでたし、で終わるはずじゃ……さて、ミズ・ジュリエット? 今のうちに、ここで聞けるだけのことを詳しく聞かせておくれ。そうさな、あんたが直接会った、シスター・ロザリンドとやらの特徴なんかを。金髪の、修道服姿の女だということだが……他には何か覚えておらんか。年齢とか、背の高さとか、体型とか。瞳は何色だったかとか、そばかすがあるとか、ないとか?」
「あ、はいっ。年の頃は、たぶん私と同じくらいだったと思います。他の特徴は……」
老人は、テロリストの修道女の詳細な情報を、ジュリエットから引き出せる限り引き出した。その説明の羅列だけで、絵の上手い人なら、シスター・ロザリンドのそっくりな肖像画を描き上げてしまいそうだ。
敵も、別に日常的に顔を隠して暮らしているわけではないだろう。得られた情報をもとに、シスター・ロザリンドが発見されれば、そこから【緋色のランタン】本体を手繰り寄せることも、もしかしたら可能かも知れない。
「うむ、奥さん、たいした記憶力だ。これだけ細かくわかっていれば、探す方も助かるわい」
満足そうに老人は頷き、ぽん、と労るように、妻の肩を叩いた。そして、俺の方に顔を向け、特に声を潜めて、こう言った。
「とりあえずは、ユカニム教会に聞き込みをするところから始めてみようと思う。教会所属の修道女であれば、一発で身元がわかるじゃろ。
教会と無関係なニセシスターなら、まず間違いなくよそ者だ。街の外から来る人間が泊まる宿屋だとか、週契約のアパートメント、娼館なんかを漁ることになるな。同時に、アンペルバールへの人の出入りを管理している、大帝都門の門番たちにも聞き込みを行う。上手くことが進めば、二、三日中には、お前のところに何らかの報告を持っていけるじゃろう」
「それだけでいいのか? 他にも、できることがあるんじゃないか。その……もっと『上』の人に、応援を頼むとか? 俺も、伝言役ぐらいなら、できるつもりだが」
この提案も、聞く者によってその意味が変わってくるタイプのものだ。ジュリエットはきっと、バルサザー老人の上の人間――衛士隊の上層部だとか、帝国騎士団に助力を求めたらどうか、というニュアンスで受け取っただろう。
対して、俺と秘密を共有している老人は、我々のテロ活動を支援してくれている首謀者たちに、今回の件を伝えてはどうか、という意味で理解したはずだ。
彼は、かなり悩むそぶりを見せた。それも仕方がない――俺たちは普段、『上』からの連絡を受け取るばかりで、その逆をほとんどしたことがなかったからだ。
こちらから『上』に連絡するのは、大きな問題が生じた場合に限られていた。チームのメンバーが死亡したり、計画がバレそうになったりといった、本当の本当にヤバい時の緊急手段だ。
今回は、もしかしたらそれに当てはまるかも知れない。なにしろ、別の組織に先んじられる危険性が生じているのだ。我々にとっては、計画の成功、不成功どころか、中絶すら想定しなくてはならない大問題である。
もちろん、シスター・ロザリンドと【緋色のランタン】が、あっさり捕まって幕切れになる可能性もある。しかし、そうならなかったら? バルサザー老人と衛士隊だけでは、どうにもできないような規模の相手だったら?
あらかじめ、保険を掛けておいてもいいのではないか。
我々の『上』の人たちは大物だ。その腕は長く、力も強い。それこそ、敵が国家レベルの大組織でもない限り、容易に調べ上げてくれるだろう。頼めば、排除も手伝ってくれるはずだ。
「どうする、じいさん?」
「そう、だな……時間がどれだけ残っているのかわからんからな。念には念を入れた方がいいか……よかろう。ロミオ、伝言役を頼めるか。我々の全力でもって、【緋色のランタン】を滅ぼすのじゃ」
話は決まった。老人は老人で、衛士隊を使って正規の手段で【緋色のランタン】を追う。俺は『上』の方々に連絡を取って、判断を仰ぐ。
本当であれば、ベンヴォーリオやマーキューシオにも話をしておきたいが、この件で彼らに何かができるとは思えない。俺とバルサザー老人、そして『上』の人たちで取り組んで、次の会議の時にまとめて報告しよう――たぶん、不義理にはならないはずだ。
三人で床屋を出て、すぐに別れる。老人は衛士隊詰所へ、俺とジュリエットは我が家へ。
不安はまだ、拭われてはいない――最低でも、シスター・ロザリンドが捕まるまでは、ワインで乾杯という気分にはなれないだろう。
突然に現れた【緋色のランタン】。その謎に包まれた姿は、進むべき道の途中に立ち込めた、一群の霧のようだ。得体が知れず、不安と不都合と焦りとで、こちらの神経を消耗させてくる。
――そういえば、ヴェロナット司教の『聖杯』公開式参加も、思いがけない出来事だった。我々が実際の行動を起こそうと決めた途端に、それを邪魔するように、不都合な出来事が重なっている気がする。
俺たちは、運命に呪われてでもいるのだろうか? それとも、もっと実際的で人為的な、妨害の意思がはたらいているのだろうか? 俺たちの計画を知った何者かが、ヴェロナット司教やシスター・ロザリンドとやらを差し向けて――。
いや、いや、それはさすがに考え過ぎだろう。
もしバレているなら、妨害される以前に、国家反逆罪なりで逮捕されているはずだ。誰も気付いてなんかいない――だが、しかし――。
とりとめのないことを考えながら、帰路はずっと無言だった。俺も、そして、俺の上着のそでを握ったまま離さないジュリエットも。
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(エサに食いついた)
シャルロット・フェステは、自宅に帰りついたロミオ・ピュラモッシの姿を、目を細めて観察していた。
彼女はずっと見ていた――そして、聞いていた。ロミオが妻の日記を貪り読んでいるところも、床屋でバルサザー老人に相談しているところも、『上』に応援を頼むことを、相談して決定した瞬間も。
すべて、シャルロットの想定した通りの展開だった。
言うまでもないことだが、【緋色のランタン】からの手紙を用意したのは、彼女である。いや、【緋色のランタン】という組織、その伝言役のシスター・ロザリンドも、シャルロット・フェステが適当に作った、実体のない幻だった。
なぜ、そんなものを用意する必要があったのか? これも、言うまでもない。情報を出させるためだ――ロミオたちを慌てさせ、『上』に助けを求めずにはいられない状況を作り出すためだ。
(『上』からの連絡手段は、すでに明らかになっている。金貨を使った、巧妙な手紙の配達――。
でも、もっと重要なのは、ロミオたちから『上』への連絡手段。それが明らかになれば、いまだ正体不明な、三人の首謀者を突き止める助けになるはず――ここからの監視は、より厳しくしなくては――ロミオが情報を伝えるそのやり方を、見逃すわけにはいかない)
殺意と害意に満ちた、狂気的な『純水派』の眼差しに、ロミオは気付かない。




