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フェステが暗躍する  作者: アンバーハウス
ロミオとジュリエット
10/18

停滞/弱き者に必要なもの

「……もう一度確認します。あなたのご要望通りにすれば、彼らの計画は延期になるのですね?」

 苦り切った表情で、ローレンス・ヴェロナット司教は言う。

 いつかの時のように、テーブルの上で指を開いたり組んだりを繰り返していた。緊張と迷いを心に持っている時に出る、彼のくせだ。そう、精神状態さえも、いつかの時と同じだった。

 場所も変わらない。アンペルバールの目立たない路地にある、ユカニム大教国風料理の店。テーブルも同じで、座っている椅子も同じ。さらに言うなら、対面に座ってワイン・グラスを傾けている女性も同一人であった。黒服のシャルロット・フェステ。

 彼女は、甘く爽やかなワインで湿した唇を動かし、まるで誘惑するように『要望』を繰り返した。

「ええ。逆に言えば、そうして頂けない場合には、ピュラモッシたちは『聖杯』の爆破を実行に移すはずです。

 私が彼らの行動を阻止することもできなくはありませんが、できる限り怪しまれないように――となると、あなたに動いて頂くのが、一番自然かと。

 最悪の事態を回避し、あと一歩のところで止まっている調査を踏み出す時間を稼ぐためにも、ぜひお願いしますわ」

「ううん……わかりました。この事件にユカニム大教国の名を関わらせたくはないですが、ぼくの行動と彼らの計画とを関連付けられるような人間は、まずひとりもいないでしょう。ひとつ派手にやってみます」

「ありがとう。あなたのような素敵なお友達を持った教皇様は、とても幸せなお方ですわ」

 この言葉に、ローレンスは何か口の中でぶつぶつと呟いて、顔を伏せてしまった。

 彼がシャルロット・フェステと密会するのは、別に珍しいことではない。彼女にロミオたちの監視を依頼してから、何度も定期的に顔を合わせて、情報を交換している。

 しかし、それでも、慣れない。

 そもそも、若き聖職者であるローレンスは、女性に耐性がない。

 私生活では、とにかく清潔に生きてきた。賭け事はしない。タバコは吸わない。お酒はたしなむ程度。堕落につながるようなことには、仕事で関わらざるを得ない時以外、絶対に近近付かない。

 ユカニム教の教えでは、別に恋愛を否定してはいない。しかし、積極的に遊べよと奨励もしていない。

 どちらとも決められていないならば、真面目な人間はそういうことから距離を取りたがるものだ。そうして、自然と異性に慣れる機会を逸していく。

 そんな彼にしてみれば、シャルロットははっきり言って苦手なタイプだった。

 別に、悪人というわけではない(たとえ内面に邪悪さを秘めていたとしても、自分の見苦しい部分をローレンス相手に隠し通せないほど、気がきかないわけではない)。肉体の女性的な要素を、ことさらに強調しているわけでもない(服装はむしろ、露出が少なく、慎ましいぐらいだ)。会話は落ち着いていて、論理的な部分を重視し、感情をあまり押しつけてはこない(その傾向は、むしろ男性的でさえあった)。

 はっきり言えば、ローレンスと付き合いのある何人かの女性たちより、ずっと接しやすい。

 それなのに。

 決定的なところで、彼女がどうしようもなく、女性だということを感じてしまう。

 何を考えているのか、まったくわからないのだ。

 お互いに同じ言葉でやり取りしていて、その内容が完璧につながっているにも関わらず、相手は自分とはまったく違う結論を出しているのではないか。そんな風な不安に襲われることがある。同じ目的のために、同じ正義のために力を合わせているのに、もっと深い、根源的な部分で相容れないものがあるのではないか、そんな予感が拭えない。

 なぜ、そんな印象を持ってしまうのか。

 その答えは単純に、自分と彼女が、生物として、まったく違う存在であるからではないだろうか。

 男と女。肉体が違うように、精神のつくりも全然違う生き物。

 無難に会話をし、同じ食べ物を食べていたとしても、それは一寸先も見えない真っ暗な山小屋で、天使と悪魔がお互いの正体を知らずして、のんきに酒を酌み交わすようなものではないか。最初はよくても、身の上話などしているうちに、徐々に違和感を覚えてくるのが当然というものだ。

(ぼくはどうしても、この人が恐ろしい)

 テーブルの木目をじっと見ながら、彼は考える。

(ことによると、『聖杯』の破壊を企むテロリストなんかより、ずっと。ロミオ・ピュラモッシのような、憎悪にとらわれた哀れな悪人の方が、まだしも理解しやすい。

 しかし、この人は違う。

『聖杯』と『聖水』を崇拝する『純水派シンシアラ』。その信仰自体に問題はない――天使様や教皇様にも敬意を払っているし――ぼくの基準から言っても、彼女は非常に敬虔なユカニム教徒だ。なのに、それなのに――行動がどうも、常識はずれなところがある――なぜ、そんなことができるんだ? って思わずにいられないようなことを、彼女は涼しい顔でやってのける)

 違和感は、ローレンスを不快にはしない。苦痛も与えない。ただ、困惑させる。

 シャルロットは結果を出している。ロミオ・ピュラモッシを筆頭とするテロリストたちに関しての、貴重な情報を継続的に送ってきてくれる。

 ならば、彼女の情報収集方法は、理にかなっているのだろう。スパイとして、正しい選択をしているのだろう。

(しかし、どうも――たとえ、テロリスト相手とはいえ――彼女、残酷過ぎることをしてるんじゃないか?)

 シャルロットからの要請を受け取ったローレンスは、心の中でそんな疑問を抱きながらも、それを言葉に出さず、また、自分だけで答えを出そうともしなかった。

 彼女のやり方を全肯定すれば、人として大事なものを失う気がしたし、否定したらしたで、国家の運営に関わるための柔軟性を失う気がしたのだ。

 清濁合わせ呑むことが、彼の立場には必要だ。しかし、そのバランスを誤ってはならない。経験値をろくに稼いでいない彼が出した正しい答えは、問題を先送りにすることだった。

「近いうちに、ミズ・フェステのお望み通りのイベントが、教会広報誌に掲載されるでしょう。ことによると、大手の情報ギルド誌にも。

 その結果、敵がどのような選択をするかは……彼らの会合を監視しているあなたなら、確認できますね?」

「ええ。彼らがどうするかは決まっているでしょうが、もし、想定外の選択をした場合は、速やかに報告させて頂きますわ。

 私は私で、できることをしておきますが――来週までに、こちらから特別なアクセスがなければ、『問題なし』と思って下さい」

「了解です。では、今日の報告会はこれくらいで。

 くれぐれもお気をつけて、ミズ・フェステ。ある程度こちらの目論見通りに進んではいますが、けして油断なさらないように」

 言外に『やり過ぎても、いけません』と釘を刺して、ローレンスは席を立つ。そんな彼を、シャルロットは無言で、野菊のように控えめに微笑んで、見送った。

 店を出た少年司教は、立ち去る途中で一度だけ振り向いて、陰謀をともに処理している仲間のことを思った。何となく、しかし確信的に、シャルロット・フェステという女は、ローレンスにとっての『やり過ぎ』を冒すであろうという予感があった。

 ローレンス・ヴェロナットは、頭のいい少年である。

 その頭脳のはたらきには、記憶力や計算高さだけでなく、勘の良さも含まれていた。

 優れた政治家に、直感という予知能力を備えていない人間はいない。ローレンスには充分に、優秀な指導者となる素質があった。

 ただ、いまだ道半ばの彼には、やはりその予感に、どう向き合えばいいのかがわからない。

 ローレンスには、どうにもできない。

 シャルロットが自分なりの理屈に従って、非道な方法を選択しようと、止めることはできないのだ。



「くそっ! いったい、どうなってるんだ!」

 マーキューシオの屋敷で毎週開かれる、革命家たちの秘密会議。

 普段なら、陽気とさえ言える雰囲気のもとに行われるのだが、今回に限っては、かつてないほどに荒れていた。

 俺は悔しさを込めた叫びとともに、固く握った拳を、テーブルに叩きつけた。

 三種類の視線が、三方向から俺に注がれた。困惑し、助けを求めるような表情のマーキューシオ。無念さと諦観を瞳の奥に沈めたベンヴォーリオ。下唇を強く噛み締め、苛立っているバルサザー老人。

 全員、心はひとつだ。どうしてこうなった。

 先週、計画の実行を満場一致で可決した俺たちは、やる気に満ちていた。全身に熱気がほとばしり、頭は剃刀のように冴え、どんな難しいことでも成功させられるような、そんな確信を抱いていた。

 そこに突然、冷や水がぶっかけられた。

 俺はたまらない気持ちで、テーブルの上に広げられた一枚の羊皮紙を睨む。昨日発行された情報ギルドの地方新聞、アンペルバール・デイリーだ。

 その一面には、太文字でこんな見出しが踊っている。


 ――大教国幹部、『聖杯』公開式に参加


 あまりにもいまいましいその記事を、俺はゆっくり読み上げていった。

「今夏七月十一日、アンペルバールのユカニム教会大聖堂にて催される『聖杯』公開式に、ユカニム大教国のローレンス・ヴェロナット司教が参加される。同司教は、大教国を運営する政治局員のひとりであり、教皇聖下に次ぐ権力を持つ大幹部であるとも言われている。彼が正式な身分で公開式に姿を現すということは、即ち帝国と大教国の友情が強固なものであることを示しており、我々帝国国民はかの国からの来訪者を熱烈に歓迎するものである。

 当日はヴェロナット司教の他にも、三百四十名の聖騎士隊が大聖堂を訪れ、『聖杯』に礼拝し、その警護に加わるという――」

 そこまで読んで、俺はもう一度、ガン! と、テーブルを殴りつけた。

 天使を呪いながら、この新聞を火に放り込んで、何もかもなかったことにしてやりたい気分だった。大教国のバカ司教め! よりによってなぜ、今回の公開日にノコノコやって来やがるんだ!

「ちくしょう……どうする、みんな? 今まで練っていた計画が、まるで無駄になっちまった。

 大聖堂の警備体制は、人員だけで四倍近くだ。入場時の身体検査も、平時よりずっと厳しくなるだろう。大教国の政治局員様に、もしものことがあっちゃ困るだろうからな。

 どれだけ念入りに偽装しても、気付かれずに爆薬を持ち込めるかわからない。うまく持ち込めたとしても、『聖杯』のそばにそれを設置できるかっていうと……ああ、もう、絶望的だ! 祭壇の周りに、聖騎士の皆さんが隙間なくひしめいてる時に、何をこそこそできるっていうんだ!」

「仮にうまく爆薬を設置できたとしても、やっぱりまずいですよ。その状況じゃ、どうしてもユカニム大教国の人たちを大勢巻き込むことになる。

 ベルホルム帝国の人間なら、どれだけ死んだってなんてことはないけど、それ以外の国の人は……」

 消え入るようなマーキューシオの言葉に、俺は何も言い返すことができず、うう、と低く唸った。

 俺たちの原動力は、あくまで帝国への憎しみだ。逆を言えば、それ以外の国の人が傷つくようなことは、絶対にしたくない――そこら辺にいるごく平和な暮らしを営んでいる人たちが、人殺しをしたくないと思っている程度には。

 つまり、爆破という広範囲に破壊が及ぶ方法は、ユカニム大教国人たちが芋を洗っているような状況では、とても使えないということだ。

「……おい、くそ坊主。お前、先週の会議の時点で、この司教来訪の話を聞いちゃおらなんだのか?」

「聞いてなかったよ、ジョージじいさん。つい二日前に、突然申し入れがあったんだ。

 うちの教会もだいぶ混乱してるよ。普通はこういう大きな行事に、こんな大物が首を突っ込んでくる時には、半年から一年ぐらいの準備期間を設けるものなんだけどね……本当に、どうしてこんな急に……」

 バルサザー老人の問いかけに、ベンヴォーリオが肩をすくめて答える。

 確かに、それはもっともな疑問だった。常識的に考えれば、ヴェロナット司教の来訪は、ユカニム大教国の風土に合っていない。

 第二大陸の四つの国は、それぞれ宗教、農業、技術、軍事といった特色を持っているが、同じように精神性にも、お国柄というか、ある程度固有の傾向がある。

 一般的な印象からすると、ユカニム大教国の人間は比較的穏やかで、思慮深い。他国に何かを無理強いすることはないし、余裕のないスケジュールも組みたがらない。

 そういうことは、むしろベルホルム帝国のお家芸だ。速やかに行動すべし。予定は常に変動するもの。無茶は自分以外の誰かに押しつけろ――といった具合だ。アンペルバールの司教が、アポなしで大教国に乗り込んだと聞いたなら、まったく不審に思わないが、今回の場合は完全に真逆である。

 ただ単純に、ヴェロナット司教が帝国的性格の持ち主だというだけなのだろうか。それとも何か、語られない理由があるのだろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい――考えてわかることではないし、わかったところで、彼の来訪を止められるわけでもないのだ。

「……決を採る。七月十一日の作戦を、やるか、やらざるか。あくまでもやりたい、という者は、手を上げてくれ」

 誰も手を上げることはなかった。

 仕方のないことだ。当然の判断だ。彼らは正しく、常識的で、俺も同じ意見だった。

 はあ、と大きなため息をつく。全身を燃やしていた怒りはその吐息に混ざって、体から抜けていった。あとに残ったのは――何だろう。無力感と――もっと落ち着かなければ、という自戒の気持ちか?

「オーケイ、計画は延期する。今回は運が悪かった。そう、今回だけは。

 なぁに、さすがにこんなことは二度とないだろうさ。特別なイベントは、そうそう何度もないからこそ特別なんだ。次の公開日には、何もかもが今までと同じ形に戻るはずだ。警備状態も、人の密度もな。そうさ、ほんの一回、延期するだけのことだ……俺たちは待ち慣れてる、これくらい、たいした苦痛じゃない。そうだろ?」

 あえて、明るくおどけた調子で言ってみる。沈んだ表情の仲間たちを、少しでも元気づけたくて。

 それに乗ってくれたのは、年の功というべきか、バルサザー老人だった。

「まあ、その通りじゃわな。ロミオの言うことは正しい。あと半年待てば、またチャンスは巡ってくる。

 次の公開日は、一月一日。一年の始めじゃ。もしかしたら、そっちを選ぶ方が、縁起としてはええかも知れんぞ。革命の炎から始まる一年なぞ、いかにも歴史家や演劇作家が喜びそうな題材ではないか!」

 あっはっはと大笑して、ワインをあおる。いつもの会議てするように。

 そんな彼のふっ切れた様子に触発されてか、ベンヴォーリオもマーキューシオも、苦笑いをして、同じようにグラスに手をつけ始めた。

 実際、陰鬱な空気を吹き飛ばすには、アルコールが一番有効だったのだ。全員で五本もボトルを空けた頃には、いつもの陽気な雰囲気が戻ってきていた――「大丈夫、次があるんだから!」「爆薬は腐らない!」「忍耐強く、最良の時を待つのが強い男ってもんです!」――そんな前向きな言葉が次々飛び出し、ひどいニュースを伝えた新聞はくしゃくしゃに丸められて、床に放り出された。

 ついには誰かが下手くそな歌を歌い始め、それに合わせてベンヴォーリオが、教会伝統のユカニム・ダンスを披露した。何代か前の教皇様が、天使様を讃えるために考えた踊りらしいが、俺が天使様なら、こんなヘンテコな踊りを奉じられたら、必ず天罰を下すだろう。タコのくねる姿とも、尺取り虫の這う姿ともつかないその異様な動きを、みんなで指差して大笑いした。

 いい仲間たちだ。こいつらと一緒なら、必ず革命は成功させられるだろう。

 たった一回ぐらい不都合が生じたからって、それがどうだっていうんだ――焦りや悔しさなんか捨ててしまえ、今、足元に転がっている新聞みたいに!

 俺はつとめて、自らにそう言い聞かせた。



 それからさらに、三本ほどワイン・ボトルを飲み干して。普段よりかなり酔っぱらった状態で、会議はお開きとなった。

 マーキューシオの牧場を出ると、そのまま家には向かわず、少し遠回りをして帰ることにした。昼食の時間までに、できるだけ酒を抜いておきたかったのだ。外で酔っぱらって帰ったりなんかしたら、ジュリエットに呆れられてしまう。

 アンペルバール郊外の、麦畑に挟まれた小道をぶらぶら歩く。収穫間近の麦の穂が、西からのそよ風を受けて揺れていた。同じ風が俺の頬も撫でていき、火照りを少しだけ冷ましてくれる。

 ふと、背後から足音が近付いてくるのに気付いた。振り向くと、そこにいたのはバルサザー老人だった。普段から不機嫌そうな顔を、さらにしかめさせて、俺の横に並ぶ。

「よう」

「やあ、じいさん。あんたはまっすぐ街に帰らなかったのかい?」

「わしだって、たまにはその辺をぶらつきたくなるさ。嫌なことがあった時には、特にな。お前もそうだろうが、ロミオ」

「……残念だけど、そいつは見当はずれだよ。ちょっと酔い過ぎたから、風に当たる気になっただけさ。あの新聞のニュースについては、もう吹っ切れてる」

「ふん、ならいいんじゃがな。勘違いなら、それが一番ってもんじゃ。マーキューシオのとこを出ていく時のお前が、そのまま井戸にでも飛び込みそうなツラをしとったように見えたのも、きっとわしの目が曇っておったからじゃろう」

 ずけずけとそう言って、彼はペッと道端に唾をはいた。

 俺は、というと――何と言えば気がきいているか、どう返事をすれば自然にその場を乗りきれるかを考えて、しかし思いつけず、動揺のままに足を止めてしまっていた。

「そんな風に見えたか?」

「ああ。腕を怪我して、二度と剣を振れなくなった剣士を四人ほど知っとるが、そいつらとまったく同じ表情じゃった。

 そのうちひとりは、農家になって今も畑を耕しとるが、残り三人は崖から身を投げたり、毒を飲んだりして墓の中だ。お前の場合は……ま、二度目のチャンスがあってよかったといったところか。七月十一日だけの一発勝負だったら、お前ももしかしたら世を儚んでいたかもな」

「心配して、追ってきたってことか?」

 何てこった。

 確かにこの老人は、俺みたいな若造にしてみれば人生の先輩だ。人生の酸いも甘いも、人の気持ちの見抜き方も、ずっと心得ていることだろう。深い経験に裏打ちされた彼の意見は、会議でもしばしば重く見られたものだ。

 しかし、今回はそれがありがたくない。

 できれば、気付かないでいて欲しかった。俺はチームのリーダーなのだ。計画を延期せざるを得なくなったことよりも、もっと恐ろしいものがある。

「頼りない……って思ったかい? いずれリカバリーできる程度の挫折で、どん底まで落ち込んだりする俺のことを?」

 そう思われることだけは、避けたかった。

 俺たちの企みは暴力的であり、非倫理的であり、犯罪である。動機は、俺たち自身にとっては崇高であっても、客観的な評価をされるならば、軽薄で自分勝手なものと断じられるだろう。

 だからこそ、せめて同じ志を持つ者たちの中にあっては、お互いを重んじなくてはならない。仲間たちから重んじられる自分でなくてはならない。

 特に、俺はリーダーだ。非合法組織において、リーダーが弱い、頼りないと思われてしまうことは、結束力が弱まることを意味する。それは困る――俺は、みんなから頼られる俺でなくてはならないのだ。

「歩けよ、ロミオ。道端で突っ立っとったところで、家には帰れんぞ」

 じいさんは、振り向いてつまらなそうに言った。

「頼りない、だと? ふざけたことを言いやがるわい、この青二才が。あれだけ怒り狂って、マーキューシオのところのぶ厚いテーブルをぐらつかせるような男に、頼りなさなんか感じるもんかってんだ。

 わしもベンヴォーリオも、マーキューシオも、お前のやる気と頼りがいは疑っておらん。そう、心配するとしたら、やる気が暴発したりせんか、ってことぐらいか。死ぬには井戸に飛び込んでもいいし、毒を飲んでもいいし、首を吊ってもいい。ついでに言えば、爆薬を体にくくりつけて、皇帝の城に突撃してもいいわけだからな。今のお前なら、それくらいしかねないさ……先週は爆薬を試作するとか言ってたが、それはどうした?」

「使わずに、家の中に置いてある。だけど、俺はそんなことは――」

「せんだろうな。わかってらぁ……そんなに必死になるなよ。わしに言われたことがそんなにショックだったか?

 ま、なんだ! お前が抜け駆けしそうにない、ってわかっただけで、わしは満足じゃよ……今の話は全部忘れろ! ふん、見当違いの心配をしたこっちだって、それなりに気まずいってことぐらいわからんかい!」

 いかにもバルサザー老人らしい、勝手過ぎる物言い! 自分で言ったことに、自分で決着をつけて、この俺には何も言うなときたものだ。こちらはもう、苦笑いを浮かべるくらいしかできないではないか。

「まあ、あれだ、じいさん。俺も俺で、要らない心配をしてたみたいだし、おあいこってことにしようじゃないか」

「そうさな。その辺が丁度いい落としどころだ」

 そのまま、一緒にアンペルバールの街までだらだらと歩いた。

 陽はずいぶんと高くなっている。もうすぐ昼だ。少しだけ、空腹を意識した。

「なあ、ロミオよ。わしはな、正直なところを言うとだ、お前の今日の態度を見て、心配するどころか、安心しておったんだ」

 俺が天球を見上げていると、老人が不意に、そんなことを言い出した。

「トラブルの発生を怒り、落ち込むような女々しい態度にな。なぜか? そんだけ、お前が真剣にこの計画に打ち込んでおるとわかったからだ。

 わしは一度だけ、お前のリーダーシップを疑ったことがある。こんな奴と組んだって、上手く仕事ができるとは思えないって文句たらたらだった時がある。いつのことか覚えているか? わしは当時、その気持ちを率直に、お前にぶつけたはずだが」

「ああ、覚えてる……俺が、ジュリエットと結婚した時だ」

 あの時のバルサザー老人の目は、忘れようとも忘れられない。俺が今日、ヴェロナット司教についての記事に対してぶちまけたものより苛烈な怒りと、泥よりも冷たい軽蔑を含んだあの目。

「あん時は、本気でお前をぶちのめそうと思ったわい。国家を、さらに言うならユカニム教を、つまりは人間社会全体を敵に回すような凶行を企んどる時に、家族を増やすっちゅうんだからな。

 いざ計画を実行すれば、生きて帰れるかわからんのに。運良く逃げられたとしても、いつ捕まって死刑台送りになるかわからんのに。それなのに奥さんもらう、と。

 はん! ナメとるとしか思えんわ。

 お前が死んだら、あるいは捕まったら、奥さんがどうなるか。ちょっとでも考えておったら、そんな関係は持っておきたくないと思うんが人情ってもんじゃろ。まず間違いなく、ジュリエット・ピュラモッシは稀代の大悪党の妻として、後ろ指を指され、石を投げられることになろう。とてもアンペルバールでは……いやいや、帝国では暮らしていけぬじゃろうな。

 それくらいならまだいいか。家族である以上、連帯責任で死刑台に登らされることになるかも知れん。奥さんが計画に少しも関わってなかったとしても、お前と結婚してしまったばかりに……おう、おう、これほどの悲劇があろうか。これほどの悲劇が起こる可能性を無視して、契りを交わすほど不貞な旦那もあろうか。

 老いぼれのわしはともかく、若いベンヴォーリオもマーキューシオも、結婚はしていない。わしが今言ったような悲劇に、家族が巻き込まれるのを恐れているからだ。おそらく、計画実行以後も――成功して、一生安泰に逃げ切れるとしても――妻をめとることはあるまいな。それだけ、真剣に計画と向き合い、リスクの大きさを受け止めておるのじゃ。

 対して、この阿呆のロミオ・ピュラモッシときたら。何も知らん幸せな花嫁と、平和に乳繰り合っておる。そりゃあ、お前のことを信じられなくもなるわい。こいつ、もしかして本気で『聖杯』を爆破する気なんてないんじゃないか? そう思ったって不思議じゃなかろう?」

「……………………」

 それは。

 ああ、それは。

 確かに、うん、配慮に欠けた行動だったとは、思う。

 みんなに白い目で見られたのも、気付いてた。いたたまれない気分にも、なっていた。

「でも、俺にとって、ジュリエットとの結婚は必要だったんだ。

 あいつの魅力に、恋の熱に浮かれてた、ってのは否定できないけど。それ以上に、俺が計画を続けていくために、あいつの支えが必要だった」

 俺はたぶん、チームの四人の中では、一番メンタルが弱い。

 怒りより悲しみが勝つし、恐怖や寂しさに押し潰されそうにもなる。

 バルサザー老人の言うように、俺たちの計画は危険を伴う。将来に希望を持つことは非常に難しい――きっと、決行してから手に入るのは、わずかな満足感だけだ。それまでに味わう不安とは、とても釣り合わないような。

 しかし、それでもなお諦めずに続けていくために。ある意味で、計画を成し遂げるために、俺はジュリエットを欲したのだ。

「あいつがいるから、俺は俺たちの計画に取り組める。

 絶対にバレないように。絶対に捕まらないように。あいつとの暮らしを守っていけるように。

 結婚する前より、したあとの方が、ずっと本気で、俺は計画にのめり込むことができている」

 バルサザー老人の剃刀のような目が、さらに砥石にかけたように鋭くなる。

 じっと、俺は見つめられていた。こちらも、正面から視線をぶつけにいく。この信頼できる老人には、疑われたくないから。お互いにひとつの仕事に命を懸けているのだと、芯から認めさせたかったから。

 剣の切っ先を突きつけ合うような時間が、じりりと流れ。

 やがて、先に肩をすくめたのは、老人の方だった。

「わしは『聖杯』を破壊できたら、その場で死んでもいいと思っておった。その一点さえ叶えられるなら、他は妥協してもいいとな。

 それを、お前ときたら……生きて帰り、バレずに済ませ、さらに幸せに暮らし続けたいとほざくか。ああ、まったくもう! だが、それでこそだよ、リーダー」

 老人の固い拳が、ごす、と俺の脇腹を叩いた。

 痛みでうずくまるこちらを見もせずに、彼はさっさと行ってしまう。リーダーと認める相手にするような扱いではない――だが、それで平気なのが、ジョージ・バルサザーという人間だ。

「また来週な」という声が、最後に道の先から投げられた。俺は無性に、ジュリエットに甘えたくなった――昂ったり落ち込んだり、心の振り幅が大きくて疲れを感じている時には、とにかく癒しが必要だ。



「ただいま」と言いながら玄関の扉を潜ったが、中から期待した返事はなかった。

 時間は、お昼を少し過ぎたところ。普段であれば、ジュリエットの「おかえりなさい」の声が迎えてくれるのだが、はて、買い物にでも出掛けているのだろうか?

 いや、彼女はちゃんといた。ダイニングに行くと、椅子に座ったままテーブルに突っ伏して、すやすやと安らかな寝息を立てている、我が妻のだらしない姿を見い出したのだ。

 ジュリエットは眠りながら、右手に鵞羽根のペンを握っていた。その手のそばには、ふたの開いたインク壺があり、さらには一冊の帳面が、中ほどのページを広げた状態で、彼女の頬の下敷きになっていた。おそらく、何か書き物をしている途中で、穏やかな眠気に襲われたのだろう。羊皮紙とインクの香りを枕に眠るのは、さぞ心地よかったに違いない。

「こりゃ、ランチはちょっと遅くなりそうだな……」

 さすがに、気持ち良さそうに眠っているジュリエットを起こしてまで、食事をねだるようなことはできない。しばらくは眠り姫の美貌でも観賞していようか、と考え、その顔を覗き込んだ時――俺は、蜂にでも刺されたかのような衝撃を受け、思わずのけぞった。

 ふと、目に入ってしまったのだ。ジュリエットが書き物をしていたらしい、帳面の中身が。

 それは、安物の羊皮紙を数十枚束ねて綴じた、どこにでもある帳面だ。俺は、てっきり彼女が家計簿でもつけているのだろうと思って、特に注意もせず、そこに書かれている記号を読んでしまった。

 それは、家計簿ではなかった。

 俺が見たのは、数字ではなく、文字だった。一連の文章だった。

 ジュリエットが、誰にも気兼ねなく、自由に、内心を吐露した文章――それが連ねられたもの――そう、日記というやつだ。

 本来ならば当然、俺が見ていいものではない。日記だと気付いた時点で、さっと目を逸らすべきだっただろう。

 しかし、俺の目はそんな常識とは逆に、帳面に釘付けになった。

 あまりにも不穏で、あまりにも俺自身の秘密に関わる情報を、そこに発見してしまったから。

 どういうことだ。

 いったいどうして、お前がこんなことを書いているんだ、ジュリエット?


『どうしよう。夫に知らせるべきだろうか』

『でも、今さら? できるわけがない』

『あの手紙の内容が本当かどうかも、私はわからないのだ』

『ジャゼ共和国時代の悲劇。ベルホルム帝国への憎しみ』

『夫の過去を聞いたことはない』

『でも、もしやる気になるとしたら、尋ねることすらしてはならない』

『それだけはだめだ』

『私は妻として、夫を、ロミオ・ピュラモッシを――』

『大聖堂を焼こうとするような、恐ろしいテロリストの仲間にすることはできない』


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