後編
「……ん。」
急激な意識の覚醒。目が意思とは関係なしに半自動的に開くが、目の前は真っ暗で僅かに天井の模様を識別できるくらいのもので、部屋の中はものの見事に真っ暗だった。
いけね、寝すぎたか……。
俺は気怠い身体に鞭打って起こし、ベッド脇の時計に手を伸ばした。
「……7時12分、か。」
もう夜か。3時間以上は寝てたわけだな……。
時間を無駄にしたような、これでよかったような微妙な心持のまま、俺は軽く伸びをする。両手を上にあげて、背筋を貼るように伸ばすとポキポキとこれまた小気味がいい音が響き渡った。
そのまま手は力なくベッド上に落ち、しばらくの間は一切の言動を排除し、静寂に身を任せ、ただただ脳裏によぎる姿は変わらない。
……四葉。
ふと、寝落ちる前の記憶が脳裏を掠めそうになる……。いや、もうその記憶は既に脳裏を過ってしまっていた。四葉のことはもちろんのこと。全てを打ち明けることもなく終わってしまった俺の恋情に、今もまた堪え難い感情が溢れてくるんじゃないかって……。
「……」
でも不思議と、あの時のような激情に駆られた感情は湧き上がって来なかった。むしろ、比較的落ち着いた気分で、自分のことを主観的ではなく客観的に見ることができているような気がするのは果たして気のせいなのか。
……悩みすぎてただけなのかもな。
それに、疲れていたせいもあるのかもしれない。もしかしたら、寝る前に感情を発露し切って多少なりとも自分なりに感情の整理がついたのかも……。
いろいろ理由は思いつくけれども、とりあえず今の気持ちは落ち着いていることだけは確かだった。
「……荷物、整理しとくか。」
ついでだ。
気持ちも落ち着いている今のうちに、やることはやっておいた方がいいだろうと、俺はベッドから降りて、部屋の電気を点けた。
パチッと古臭いスイッチの音が狭い個室に響き、やがて何度か点滅を繰り返しながら灯る、天井に下がる白色照明灯。急に眼を襲う真っ白い明かりに俺は目を細めながら、ベッド脇に投げられた重々しく膨らんだ鞄を持ち上げ、ベッドの上に置き直したそいつ。見た目以上で、いつになく重かった。
荷物という荷物、この三年間がいっぱいに詰まっているだけのことはある。長く短い三年間の船旅は、ここで一度乗り換えのときを迎えたんだってこと……今日は何度も脳裏に蘇っては、俺の心を蝕んでいたっけな。
俺はジッパーを横に滑らせ、様々な想いがはち切れんばかりに詰まった鞄を開いた。
「ふぅ……」
中を覗けば、本当にいろんなものを詰め込んだなって感じだ。教科書やノートに筆箱、携帯ゲーム機、鉛筆の黒鉛で薄汚れた紙飛行機なんてものは当然だが、消しカスのついた下敷きや、ぐしゃぐしゃになった配布物。挙句の果てには、机の脚についてる茶色の誇り付きのカバーなんてものまで入っていた。
捨ててもよかったんじゃないかって品々が、大半だと思う。でも捨てられずに鞄に詰め込んだ想いの品々……そんなものばかりを取り出しては、ベッドの上に散乱していく中で、しめやかな懐かしさを感じると同時に、俺はふと見慣れないピンクの紙が教科書の隙間からはみ出ているのを見つけた。
「なんだこれ……?」
ぎっちりと詰まった教科書の隙間から、それを引っ張り出す。ピンクの紙に見えたもの……それは桜の舞い散る、ピンク色の便箋だった。
手紙……。差出人は、誰?
急激に心の一角で膨らみだす焦燥感と激しさを増す鼓動。俺は、一種の恐怖感を覚えながらも一呼吸おいて、その便箋を一気にひっくり返した。その、表面左下部に記された黒字の丸い筆跡……。
「ッ!」
見慣れた名前だった。心臓が爆発しそうになりながらも俺は勢い任せにその便箋を開き、くしゃくしゃになることも厭わずに、その一枚の紙を睨むように穴が開くほどじっと読み進めた。便箋の一部が破れることも気にならない。それよりも、手紙の内容の方が、俺にとっては重要だった。
短い文面。そして最後の一文。すぐに読み終えても、俺はしばらくそのまま同じ文面を読み返し続けた……。
………
……
…
「はぁっ……はぁっ……はぁっ!」
早まる呼吸に、肺が締め付けられるような感覚。息を通すことですら苦しい。月明かりを一身に受けつつ、寒風が身に染み入っては、肌を切り裂く初春の夜。俺の四肢は風を切る。
時刻は7時40分を回った頃だろうか。春先のまだ寒々しい夜の道を真っ直ぐに、家から学校までの通学路を、俺は全力で駆けていた。
視界の端に映るは、もうこの足で通ることはないだろうと思っていた通学路。まさかこんなにも早く通ることになるなんて思ってもいなかったけれども……。
俺は右手に握りしめたまま虚空を切る、一枚の紙と便箋を一瞥して、再び視線は真っ直ぐに前を見据えた。
なんで、こんなに気付くのが遅かったんだろう……。
焦燥感と苛立ち、溢れそうになる緊張感が次々に押し寄せてくる心を抑え込んで、俺はただ盲目的にひた走る。
四葉だって、なんでこんなわかりづらい場所に入れたんだ……。直接渡してくれれば、こんなことにはならなかったのに……。
くしゃくしゃになった便箋と手紙がさらにしわを増す。この寒空の中駆ける俺の額に指を這わせれば、すでにうっすらと浮かんでいた汗が指先に触れた。
これほどまでにひた走る衝動のその発端は彼女の手紙。あのとき、教科書の隙間に挟まっていた手紙の送り主は俺の……俺の想い人だった、四葉。その人のものだった。
「くッ!」
学校手前の急こう配の坂を駆け上がる。曲がりくねった道は、曲がる先々の見通しを悪しくさせるが、んなこと気にしている余裕なんて今はない。ただ駆け上る。一刻も早く、その場所へいかねばと駆り立てる理由があるんだ。もう、手紙にあった約束の時間はとうに過ぎた。もちろん、もうそこには誰もいないだろうけれども……。
ーーー放課後、3時。教室で待ってます。ーーー
待ってますと……そう言った彼女が、どれほどの間か俺のことを待っていてくれたのだとしたら。俺だって、彼女がいたはずの場所へ……たとえ、そこにはもう誰も待っていないことはわかっていたとしても、ほんの一粒ほどにも満たない僅かな期待しか残されていないとしても……。
如何ともしがたい焦燥感と義務感は、すでに過ぎ去ってしまった俺たちの、三年間の思い出が煮詰まった場所へと俺を誘った。
「はぁっ……!はぁっ……!はぁっ……!」
激しい息切れが警鐘のように、俺の身体の限界を知らせ、俺の足の動きを緩慢にさせるが、ならば鞭打つまでのこと。鳴り響く心の警鐘に耳を閉ざす。そのまま駆ける俺の眼前まで迫った生徒用昇降口の扉を、俺は勢いよく開け放った。
まだ、鍵をかけられてはいなかったらしい開ききった昇降口に、倒れ込むようにして入る。その直後に鼻を突く、陰湿とした土のにおいがどことなく懐かしい昇降口で、俺は靴を無造作に放り出し、限界を越えた足腰に鋭利な鞭を打ちつけ、階上へと駆けた。
リノリウムの床は、火照った足平に冷たく張り付く。ペタペタと平たい音が、廊下中に響くような……そんな、人っ子一人いないんじゃないかと、そうも思わせるほどに静まり返った校内。
急げ……早く。
目が回りそうな状態でひたすら登りつめる先の三階。ようやくたどり着くその部屋は、階段のすぐ目の前にあった。
眼前の暗闇に浮かび上がる、天井から引っ提げられた非常口の緑色表示の隣。三年一組の横長プレートが、緑色表示灯の淡い光に照らされては、俺の瞳に映りこんだ。まだ半日とも経っていないはずだというのにも関わらず、そのプレートを目にすることがひどく懐かしい。
「はぁ……はぁ……」
未だ治まらない呼吸、動悸、息切れ。様々な思いが交錯し、ひた走った結果のそれをどうにか抑え込むようにして、俺は三年三組の扉の前に立った。
曇りガラスの先は真っ暗で何も見えない。電気はついていない。
……人の気配も感じられない。
まぁ、そりゃそうだよな……。
俺だって、そんな数時間以上も来ない人間を、ただひたすら待ち続けることなんてできなかったさ。たとえそれが四葉だとしても、きっと……。
僅かな期待を抱いていた自分の、浅はかな考えを心のうちで嘲笑しながら、俺は教室前方のドアをゆっくりと引いた。
「……」
「……え?」
その瞬間、俺の心臓が跳ね上がった。ついでに、口からマッハで飛び出してしまうかとも。
仄かな月明かりが照らす、俺たちの思い出の教室に一つの見慣れたシルエット。窓際の机に座り、頬杖をついて窓の外をじっと寂しそうに見つめる、一人の少女。ついさっきまで俺が抱いていた淡い期待は今、現実として俺の目の前にあった。
手元に握りしめた、汗でくしゃくしゃになった手紙の送り主。ここへと俺を誘った張本人……。
「よ……四葉。」
その人だった。
な、なんで……。
驚きのあまり、何よりも先に口を突いて出たのは彼女の名前。その名を口に出す俺の声は、僅かに震えていた。
眺めていた窓の外から視線を逸らし、俺の方へと向き直る四葉の表情には、うっすらとだけれども笑みが浮かんでいて……どことなく寂しそうで、でもしっかりと微笑んでいて……。それは四葉らしからぬ、快活さを欠いた大人っぽい微笑みだった。
「……来ないかと思っちゃった。」
「い、いや、そんなこと……」
と言いかけたところで、俺はハッとして閉口した。
ふと、ここへ来るまでの経緯が走馬灯のように脳裏を過っては彼方へと消えていく中で思い浮かぶ、自室での出来事。たまたま鞄を開いたからこそ気づいた、この俺の右手に握られた手紙の存在を思うと、来ないだなんてことない……とは言えなかった。この手紙のことを気付かずに、あの時に鞄をそのまま倉庫の肥やしにでもしてしまっていたら……きっと俺は四葉が待つここに来ることはなかった。だって、四葉がここで俺を待っているってことも、俺は知り得なかったのだから……。
あり得たはずの一つの未来の形だった。
「……」
四葉は俺の反応を見て何を思ったんだろうか。無言の反応を返す俺をじっと見据えていた四葉は、また再び視線を窓の外へと移すと、月明かりに照らされて透けるように青白く輝くしなやかな、触れれば折れてしまいそうな指先で、四葉自身の黒く長い髪を梳いた。
まだ一度も染めたこともないのだろう黒々としたストレートのロングヘアーが、指の通りを妨げることもなくスッと流れるその様は、さながらどこかのドラマのワンシーンのようで……。俺は思わず息を呑み、普段の四葉からは考えられないくらいに大人びた姿、この非日常的な美しさに魅入られてしまっていた。
「……月、綺麗だよね。今日。」
「え、月?」
「そう、月。」
そう言う四葉の視線の先には、なるほど。どうやら冬の澄み渡った空に、まんまるなお月さんがぽっかりと浮かんでいるようだった。
棒立ちしていただけの棒のような自分の足を、ゆっくりと持ち上げては前へと。机の上に、決して行儀がいいとは言えない姿で座る四葉の、そのすぐ隣へと、僅かに軋む床を踏みしめながら移動する先にようやく現れるその姿は、煌々と光り輝いたまん丸お月様。
窓際から月を眺める俺たちと月の間を隔てるものは、田舎の澄みきった空気だけ。他には何もない。時おり流れ来る、月明かりを透かした薄黒い千切れ雲だけが、お月さんを隠すだけの深秋の夜だ。
こうして見ると、今宵の月は普段よりかは際立って美しく冷ややかなその姿を、まるで俺たちに見せつけているかのようで、ひどく心惹かれるものがある。8時を超えただろう夜中でも余計な明かりなしに、物の判別も、歩くことだってできるくらいには明るく光りを受けて輝くお月様を、こうして四葉と並んで見上げていると、ふと切り捨てたはずの想いが沸々と込み上げてくるような気がした。
揺らぐ決意。どんな感情にも優先される、恋情の特殊性。間違いない過ちか、それとも……。
心臓の高鳴りは、いつにも増して高まっていた。
「……確かに、綺麗だね。」
「ん。」
視界の端で四葉は月を望みながら、さっきよりも楽しそうに微笑んだ。
そのまましばらく、無言のままで時は刻んだ。
俺たちは空を見上げながら、俺だけは時おり四葉の様子を窺い、四葉は片時も月から視線を逸らすこともなく、机の上に片足立てながら座り、じーっと空を眺め続けるだけのそんな時間。永遠に続きそうな時間の中で、俺はどことなく居心地の悪さを感じていた。
どうして俺はここに呼ばれたんだろう。四葉がわざわざ人のいなくなるだろう時間を見計らって、手紙に一言だけ添えて俺のことを呼び出してまで四葉が伝えたかったことって、一体何なのだろうか。
恐ろしいばかりの緊張感と焦燥感、そして僅かな期待が俺の心を取り巻いては、俺の汗腺を刺激し、俺は手汗を握った。
今の今まで気になることも言えずに、月と四葉を交互に眺めては口を開きかけて閉口する、その繰り返し。昔から何も変わっていない、小心者な俺の心は、勇気を振り絞ろうとする心を押さえ付けて、俺を無言のままで今この時を過ごさせていた。今までは、そうすることで楽になれたのだから、今だって楽になれる……そのはずだったのに。
「……なぁ、四葉。」
「?」
俺の呼びかけに、顔だけをこちらに向けて首を傾げる四葉。その恐ろしいばかりに魅力的な仕草と表情、吸い込まれそうなほどに透き通った青白い瞳で見つめられて、俺の心はどうにかなってしまいそうだった。俺の全てが四葉に掌握されてしまうんじゃないかって、そうとさえ思えて……。
月桂に照らされた四葉の顔を見つめて、俺は静寂を打ち破るように、絞りだすように言葉を口に出していた。
それは、俺の勇気を振り絞る小さな心が、弱い大きな心を押さえ付け、打ち勝った初めての瞬間だったのか。拳に力がこもり、次に何を言葉にしていいのかよくわからなくなってしまう。焦れば焦るほど口は乾き、頭からまともな思考は去り、空白に埋め尽くされていく。急に自然と口に出てしまった言葉に、俺自身が混乱してしまっているけれども……。
「何か……俺に用があるんじゃないのか?」
「……」
混乱する頭でどうにか絞り出した言葉は、四葉に届いただろうか。四葉は言葉を繋げずに、ただ俺から目を逸らすことはなかった。でも、僅かに表情が変わった……ような気がした。
しばらくの静寂の中で、ただただ俺は待った。未だに鳴り止まぬ鼓動と、徐々に圧を増す緊張感に耐えながら、四葉が次に紡ぐ言葉は何かと、ろくに働きもしない頭でボーっと考えながら……。
それから、四葉は口角を僅かに上げるまでには数秒とかからなかった。
「……少しだけ、準備する時間がほしいかな。」
「え、準備?」
「ん、準備。」
準備と一言だけ告げた四葉は、机からぴょんと降りた。細くしなやかな肢体、青白い肌と、暗く輝く髪。俺の記憶の中の四葉とは違う、普段は眩しいくらいの笑顔を振りまき、姿共に輝いて見える四葉とは正反対なまでに大人びて麗しいばかりの姿を魅せる彼女。この閉ざされた俺たちだけの空間で、四葉は俺の目前に立ち、俺をじっと見つめていた。
「四葉……?」
「……」
何を考えているのかわからない表情のまま、俺の方へ一歩一歩と距離を詰めてくる四葉を、ただどうすることもできずに見据える。一歩……二歩と、その距離はもう腕1つ分も離れていなくて……。その距離は、もうあまりに近すぎて……。頭をくらくらさせる、女の子特有の甘いような香りが仄かに鼻腔をくすぐった。
よ、四葉……まさかね。
爆発してしまいそうな心臓の鼓動は、四葉に聞こえてしまうんじゃないだろうか。たった半日前までは、仲の良いグループのメンバーとして、遠くから。時には近くから見ていることしかできなかった四葉が……今こうして俺の目の前で、この距離から俺を見上げているんだ。この俺だけを、じっと……俺の目を、月明かりに浮かぶ俺の姿をうつした、透き通るような綺麗な瞳で見据えているんだ……。
もう身動きすることもままならなかった。四葉から視線を逸らすことも、彼女への大きくなりすぎた想いを封じ込めておけるほどに頑丈で屈強で融通の利く心の檻は持ち合わせていなかったことも……。俺は彼女と同じ空気を交わし合うこの刹那の間に気づいてしまっていた。
気づいてしまった……?いや、違うな。そうじゃない。
俺は今、彼女の新しきを知った。そしてまた再び、彼女に思いを募らせたのかもしれない……。
そんな風にさえ、今の俺には思えた。この青白い月明かりが魅せる、幻想的なまでに美しく彩られた、俺たちの思い出の教室で。
やがて彼女は倒れこむように、何かに吸い込まれるようにして俺の視界からは消えて……。
ぽすっ……
小さく響いた。
「……」
「……」
胸元に感じる、確かな重みとぬくもり。甘い香り。俺の腕に僅かに絡む、四葉の黒くて長い髪。交錯する想いと混乱する思考の中で、四葉は俺の胸元に顔を凭れかけていた。
俺の視界の先に揺れ動く、四葉の黒髪から漂う香りは何と表現のしようもない、芳しい花とも言えず、甘いお菓子とも似つかぬ甘い香り。強張る身体も、五感で感じる四葉の熱、匂い、容姿、感触だけでもう骨抜きになってしまいそうで……。でも、だからってどうすることもできなくて……。
「……どうして?」
ただ、そう聞くことしかできなかった。
四葉だって、俺の胸元に頭をあずけている今に、どれくらいの余裕があるのか。そんな余裕はないのかもわからないけれど……。でも、確かな壁を挟んでいたはずの俺と四葉の間にはもう何もなく……ただ俺の四葉への想いと、四葉の心とが繋がりあうか否かの、その刹那の焦燥感だけが、今の俺の全てだった。
「まだ……準備中だよ。」
「……いつまで、かかるの?」
「……」
四葉の言葉は途切れる。それはもう少し待って欲しいって合図?それとも返事に窮して言葉を濁しているだけ?
でも次の言葉なんて……もう決まってるでしょ?
四葉の目と俺の目とを見通わせて、そう言いたかった。
でも、四葉の口からその言葉を聞きたいから、こうして待っていたい……そんな気持ちと、もどかしさに堪えきれない気持ちとがぶつかり合って、今の俺の全てをもっともっと埋め尽くしていく。俺の中の弱い心が、強い心に打ち勝った瞬間から……今まで抑鬱に乗じて溜め込んでいた想いは弾けるように、爆発するように四葉を求める、抑えきれない『欲求』となって、もっともっともっと俺の心を埋め尽くしていった。
抑えようと思っても抑えきれない、人生十数年分の『欲求』だったから……。あらゆる決断からずっと逃げ続けてきた、俺の弱い心がずっと我慢していた『本当の気持ち』ってやつ。すべてが円満に収まるための『最良の決断』じゃない。例え、その決断がいざこざを生むことになったとしても、俺のための……俺自身が本当に望んだ、誰のためでもない俺自身のための『本当の気持ち』。俺の弱い心が強く求めたそれは今、最大の『四葉への欲求』となって俺の心全てを掌握した。
そうだ。これは他の誰のためでもない、俺のための決断。
「あと少しだけ……」
「いや……もう我慢できないかな。」
「……え?」
四葉の溜めの言葉を無理やり遮る、俺の言葉。きっと普段からは考えられなかったんだろうな。心の底から驚いたように丸くした目で俺を見上げた、その四葉の背に俺は手を回しながら、髪の合間を縫うように頭に手を添えて、俺の身体にぎゅっと強く引き寄せた。
「ふ、ふゆき!?」
「……飽きたんだ。」
「え……?」
「……我慢することにはさ。もう飽きたんだよ。」
四葉の柔らかい背とさらさらの髪の感触を、俺の手から感じるこの刹那のようでいて、悠久のようにも感じる永遠。ただ四葉を抱きしめて、その身体に触れているだけのこの時間が……こんなにも素晴らしいものだなんて思わなかったよ。
俺は四葉の髪に顔を埋めた。
「……ふゆき。」
四葉の弱々しい声が、俺の胸を震わせる。少しだけ震える少女の背から俺の手に伝う熱は、少し高いように感じた。
俺の知らなかった四葉の姿だ。もしかしたら、四葉以外は誰も知らなかった姿なのかもしれない。今日初めて、俺はその姿をこうして触れ合うことで感じているのかもしれないなんて……。
「……四葉。」
今ならば、全てを伝えられるような……そんな気分だった。
十数年分の苦悩と、三年分の想いを託した言葉。小洒落た言葉じゃなくてもいい。カッコつける必要もない。ただ、四葉に俺の溢れんばかりの想いを伝えるだけ……それだけでいいんだ。それだけが、俺の唯一の心残りだったから……。
たったそれだけのことを、今まで俺は溜め込んでは我慢し続けてきたんだ。言い出そうとは思っても、決して実行しなかった。俺は弱かったから。
でも今は違う。俺は今日、一皮も二皮も剥けた。そうだろ?
もう、我慢しなくてもいいんだ。そんな必要なんて……これっぽっちもない。
だから……。
「……ずっと、好きだったよ。」
これは、俺の心からの想い。本心。自分の本当の気持ち。
「ずっと……出会った頃から、ずっと。」
「……」
全てを伝えきり、俺は口を閉じた。もう、これ以上の言葉は必要ないって……そう思えたんだ。
………
……
…
冬の夜の帰路は、果てしなく遠くひたすらに寒い。冬の夜風に身を曝し、寒さに震えながら帰路を辿ったあの1kmほどの道のりが、途方もない距離のように感じられるこの懐かしい記憶。
でもまぁ、今だって似たようなもんだとは思う。帰路を行くのは、いつもと同じ。ただ、俺の隣に一人の少女がいることだけを除けばね。
「なぁ、四葉さん。」
「……なによ。」
「いや……なんでもない。」
余計なことは言うまいと口をつぐむ、真冬の夜の午後8時半も過ぎた頃。月明かりに照らされる道を行く二つの影があった。
俺たちが行く一車線道路を行き交う車の姿はない。静かなもんだ。ただ砂利と道、二足の靴とがこすれ合う音が響くだけのそんな田舎道を俺たちは並び歩く。
頭上にはっきりと、雲間に隠れることもない今宵の月に照らされた俺たちから伸びる二つの影は黒い一本の線となり、お互いが混じり合って繋がり合っていた。確かに感じる仄かな暖かさとしっとりとした感触。しっかりと握りしめたそれを、もう離そうとは思わない。強い想いに絆され、ぎゅっと握りしめたそれは、きゅっと優しくも強く握り返してきてくれた。
もっと四葉と一緒に……。
そう思う心が想う四葉への恋情は、四葉に絆された俺の歩調をどこまでもゆっくりと、スピードを落とさせていく。口に出すのは難しくて、こんな方法にはなるけれども、少しでも長く二人で一緒にいられるようにと……。
どうして、もっと早く二人一緒になれなかったのだろうね。
もっと早めに行動していればだなんて、そんなこと。いまさら思ったところでどうすることもできないことはわかってる。でも、そうと思わずにはいられないってこともわかってるんだ。
もっと早く二人が一緒になれていたら……もっともっと長く、学校の中でも二人一緒にいられたかもしれないのに。
「四葉さんや。」
「なによ、さっきから……」
「……」
気恥ずかしそうに顔を背ける四葉。見たこともないような新鮮な四葉の動き、行動、言葉。もっと早くに知りたかった、俺だけが知っている四葉の本当の一面。もっとずっと見ていたい四葉の……これが本当の姿なのだろう。
俺だけが知っている……そう、特別。
誰もが知り得なかった、四葉の本当の顔。四葉の本当の顔が隠されていたベールを捲りあげた最初の人間はきっと俺なんだと思うと、俺の口元には自然と笑みが浮かんでしまう。
「な、なに笑ってんのよっ……」
「い、いや……」
突っ掛ってくる四葉の照れ隠しついでに怒っているような、それでいて力の抜けた覇気のない口調で紡がれた言葉。俺は、やっぱり笑みを抑えることはできなかった。
「……なんていうか、ただうれしいだけ。」
「……」
自分に正直に、自分のために言葉を素直に吐き出す。なんというか、あの時から急に自分が自分じゃなくなったような気もするけれども、これでいいんだと思う。ふと横を見る先の四葉も、顔を俯けて月の僅かな明かりに浮かび上がる頬が火照っているように見えるのもまたいいじゃないか。かわいらしくてさ。
「顔、赤いね。」
「……誰のせいですか。」
火照った顔を俯けて表情は変わらず、四葉は小さくため息をついた。と同時に小さく『急に積極的になっちゃって……』と一言付け加えたことも、俺は聞き逃さなかった。
積極的、か……。やっぱり、俺以外の人からもそういう風に見えるんだね。
俺が15年の歳月をかけて、ようやく俺の内面の一つとなり得そうな積極的な物言い。言動。積極的と言うにはまだ早いのかもしれないけれども、少なくても昨日までの俺とは比較にならない。人のためから自分のためにと、人優先だった昨日までの俺は、今はもういない。
人のためばかりじゃいけないって、自分だけ損な役回りをしているからと言って、その自分の周りの人。相手までが幸せになってくれるかと言えば、決してそうじゃない。俺が損をして、相手も負の方向へと進んでしまうことだってある。それを俺は学んだ。だから、こうして今の俺や、この俺の四葉の関係がある。
「……」
こうして今、俺の隣を並行して歩く四葉との関係。数年もの間、望み続けてきた関係。俺のはち切れんばかりに膨らんでいた恋情は、誰に知られるわけでもなく実った。
人知れず散った恋あらば、人知れず実った恋もある。これから発展していく恋心がいくつあるかもわからないけれども、果たしてその一つ一つがどちらに傾くか……。それは当人の行動だけに依らない。運にも左右されるんじゃないかなって思う。
俺だって、もしあの時に四葉からの手紙の存在に気付けなかったら、この恋心はきっと実ることもなく萎み、茶色く色も褪せ、人知れず枯れ落ちることになってしまったはず。そうでなくとも、俺が今までの生活のどこかで四葉との間に何かしらのイベントが発生していたとしたら、今日あの時を待たずして、何かしらの結果が生まれていたはずだと……そう、今となれば落ち着いて考えをめぐらすこともできる。
恋は盲目。何が正しくて何が間違いなのか。どの行為行動が+の方向に進み、果たしてどの組み合わせが-に働くのか。それは、お互いの恋心が実った当人たちにもよくわからないし、ましてや恋にひたむきに取り組んでいる真っ只中の青春人たちが把握し理解できるようなことじゃあ、決してない。
……でも、だからこそ人を好きになって、その人と結ばれるために奔走する『恋』ってものは面白いんじゃないか。結末のわかる推理小説に推理する楽しみがないのと同じだ。結果がわかっている恋に、本気を出せる恋なんてない。相手と結ばれるかどうかは自分の頑張り次第だって、そう思うからこそ『恋』は『恋』でいられるんじゃないか。
自分の気持ちに正直になれないその状況だって、思い返してみれば恋にひたむきに取り組んで、学生らしく青春を謳歌しているに過ぎなかったって、そう思える俺の傍らには今や寄り添ってくれる人がいて、二人並んでお互いの『恋』を実らせて、また行く末の見えない新たな『恋』を楽しんでいる。終わることのない『恋』の連続。飽くことなき『恋』への探求心こそが、相手への変わらぬ恋情へと繋がるんだって、俺は今になってそう思う。
今の俺にだって、この『恋』の行く末がどうなるかなんて全くもって全然わからないし、それに今はまだ分かりたいとも思わない。それはこれから二人で理解していけばいい。
理解?いや、理解することでもない。
『恋』の行く末がどうなるか、どうするかなんて……そんなもの、俺たち次第だ。
「な、四葉?」
「え?」
急に話を振られたせいか、何の話かわからないと言わんばかりの表情で俺の方を見上げる四葉のその瞳に映るは、僅かな月明かりに浮かぶ俺の姿。その瞳に映りこむ姿が、今こうして二人が同じ道を辿ることを暗示し、二人の確かな繋がりを俺にぼんやりとした感覚として与えてくれる。
だから俺は今も固く繋いだこの手を離さず、四葉の瞳からも視線を逸らさない。ただ、四葉との距離だけが狭まっていった。
「……ふゆき?」
「……」
狭まった距離、直近で感じる四葉の香り。強張った身体。もう……あと少しだった。
「……ッ!」
でもそこで俺の身体は停滞。口は無言。視線は急に揺れた。
無理、無理。やっぱり、俺にはまだ早いよ……さすがにね。
しばしの逡巡はあったけれども、俺はさっと四葉から目をそらしてしまった。高鳴る鼓動を押さえつけながら、そのまま方向を180度転換し、四葉の手を引きながらまたゆっくりと帰路を辿る。
「?」
不思議な表情の四葉を後ろ目に、俺は歩みを止めず、火照る顔を夜風に晒す。
いや、流石にまだ早すぎるし、俺もいきなりそんなことはな……。
なんとも言い訳がましいセリフを心の中で唱えながら、文字通り、手に汗握る俺のぎこちなさが四葉にばれないかと少し心配になるけれども、四葉が特に気にもしていない様子で、俺の斜め後ろを手を引かれるがままについてきていた。
「まだ、時間はあるしな……」
「時間?何の時間?」
俺のつぶやきほどにも満たないぼそっとした言葉も、この枝葉がさざめく音が全ての世界では、傍にいる四葉に聞こえてしまうらしい。
「んー……まぁ、いろいろ。」
下手なことを言う覚悟もすでに先ほど使い切っちまった感が否めない俺は、素直な言葉は口に出さずに、少しだけ言葉を濁す。当然その答えに四葉はどことなく不満そうな表情で、要領を得ないよと言いたげに眉を顰めた。
……そんな顔するなよな。
でもまぁ、今までは我慢に我慢を重ねて生きてきたわけだけど、もうその必要もないんだってことはわかってる。今更ながらに自分の明確な心の違いを実感する。今までは俺自身から触れにいくこともできなかった、その四葉とのの間にあった『友達同士』という一種の壁は、今ではもう取り壊され、新しく『恋人同士』という一つの空間が出来上がった。壁を隔ててはできなかったことが、一枚の壁を失った今できるようになったんだ。
今は臆していても……焦ることはないよ。いつでも、できるんだから。
「……」
だからやっぱり今はこうして二人繋いだ手を離さずに、お互いの体温を共有し合っているこの瞬間にただ感動していればいいんじゃないかなって思う。できなかったことができるこの瞬間をただ……。
だって、早くに望みすぎることはないだろ?これからまだまだ時間はあるんだ。いつでも、できるんだ。
「……四葉。」
「ん、なに?」
いつの間にやら俺の隣で、俺の歩調に並んで歩いていた四葉を一瞥。四葉は俺をじっと見据えてくれていた。お互い、歩調は緩めない。歩いたまま、四葉は俺を見据えて、俺は果てしなく伸びる道の先を見据えるように見つめて……。
「よろしく。」
そう、一言だけつぶやいた。
「……」
だけれども、そんな俺の言葉に四葉は、しばらくの間こっちを見たまま無言。ただ目を少し見開き、月影をその髪に揺らし、細くしなやかな体躯で俺のことを見つめ続けているだけで……。
「な、なんだよ……」
急に何か変なことでも言ってしまったかのような感覚に襲われて、俺は横目にチラッと見て四葉の顔色を伺った。
「なんか、今日のふゆき。ふゆきっぽくないなーって……」
四葉は俺の顔を覗き込む。突然のことに、俺は焦りながらもその視線から目を逸らそうと、前方へと向きを正す。だけれども、その逸らした視線を追うようにまた、楽しそうに視線を合わせてくる四葉。またそれをかわすように視線を背ける俺。堂々巡り。
覗き込んでくる時の四葉の笑顔は……なんていうか、とてもいい笑顔だった。
「ふゆき、変わったね。」
「……いーだろ、変わってもさ。」
「んー……」
しばらく四葉は逡巡し、何かに思考を巡らしているかのように上目で空を見上げる。つられて俺も見上げる空には、特に変わったこともなし。何事を考えているのかと視線は再び前へ、ときおり四葉へと視線をちょいとずらす。
「でも、こっちのふゆきの方が、いいかな……」
「え?」
視線の移動に合わせて移り変わる景色に気を取られていて、危うく聞きそびれそうになったけれども、確かに聞いた四葉のその言葉。今の俺の方がいいと、そう確かに耳に入ってきた四葉の一言。
動揺を隠せない俺と、今度は逆に俺の前を、俺の手を引くように歩き始める四葉。長い髪が揺らめく視界に、女の子独特の甘めな香りを感じる鼻腔。自分の緊張感からの産物であろう汗握る手と、彼女の暖かくて艶やかな手肌とが滑り合おうとするのを繋ぎとめるように握りしめられ、絡み合った10本の指。二人の重なり合いそうで合わない歩幅が織りなす、音のずれた異種2足の足音を感じる耳。それらの全てを感じながら、心でどこからともなく溢れてくる幸福を噛みしめながら四葉に連れられて歩く俺。
「ねっ。」
その瞬間、ふいに四葉は俺の方を向いた。その顔には、満面の笑みが浮かんでいて……。張り付いてなんかいない、乾いた笑みなんかじゃなくて、それは本当の笑みのようで……。
「よろしくね、ふゆき。」
「……」
しばらくの逡巡。きっと呆気にとられたような顔をしているに違いないけれども、でも喜怒哀楽なんてものを隠すようなことも、別に必要ない。四葉にならば、俺の本当の顔を全部見せられるような気がするんだ。
だから俺は……。
「おう、ずっとよろしく。」
なんとなく、調子に乗って『ずっと』なんて言葉をつけてしまった俺の、その顔に浮かんだ微笑みは、なんの他意もない、純粋な笑みだったってこと。自分でもすぐにわかった。
俺の前を軽快に歩いていた四葉は後退。微笑み、はにかみながら俺の真横に並んで、寄り添いながら手をしっかりと握って離さない。俺も握り返す手は離さない。
「うん……ずっとだよ。」
「……」
俺の肩口に寄り掛かった四葉の頭に、軽くこつんと自分の頭を乗せるように当てる俺の頬は、きっと真っ赤に染まっているに違いなかった。
今宵行く帰路は、齢15の人生道中間違いなくトップに輝く、最高の道草道中だって。そうキッパリと断言できる。
だってそうだろ?
齢15になるまで克服しきれなかったコンプレックスを、ようやっと乗り越えた末に結ばれた人との、初めての二人散歩なんだから……。