ねこもしゃくしも 上
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彼女をひと目見た瞬間、今まで信じていた世界はガラガラと音を立てて崩れていった。
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全く、川端李乃ときたら、どこまでも折り目正しく生真面目で、素行不良と型破りをまるで親の仇か何かみたいに嫌っているように僕なんかには見えていたものだから、彼女が無惨にも山中で四方八方ばらばらに撒き散らされていたことをニュースやら新聞やら週刊誌やらでおどろおどろしい演出・脚色込みで目にするにつけ耳にするにつけ、「ああ、川端、無念だったろうになあ」と柄にもなく同情などしてしまうのであった。
あたら若い命を駄目にしたことや、紅葉する樹木と一緒に山道を赤く染めたことそれ自体よりも、だらしなく道中に広がって、体の構成物を無造作に公開したことについての同情ではあるが。
常に堅苦しくきっちりと生きてきて、最後の最後があの散らかりようでは、彼女も浮かばれまい。是非、川端本人の意見を訊いてみたいところではある。
まあ、何にせよ死人に口無しで、そんな機会は永遠に失われてしまったのだけれど。
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昼休みを告げるチャイムが鳴り、終礼が済んだ直後、片手にビニール袋をぶら下げた弥彦が、僕の席の方に近づいてきた。
「よう、購買行かないのか」
「百円ちょっとのパンを買うためだけに人の波を掻き分けるのには、もう飽き飽きなんだ」
「冷めてんなあ」
そう言いながら、僕の前の席が空いていることを確認すると、躊躇なく座って袋の中身――焼きそばパンとメロンパンだ――を広げ始めた。
「冷めてるも何も、あれって特に安い訳でもないし、だったら先にどこかで買っておいた方が楽じゃないか。それに、自分だって事前に用意してるんじゃないか。同じだろ」
「んー、まあ、そうな」
などと、適当に相槌を打ちながら、むぐむぐと焼きそばパンを咀嚼している。僕も弥彦に続いてコンビニ弁当を出して食べ始めた。貴重な昼休みを無駄に過ごす趣味は、僕にはないのだ。
それから、僕も弥彦も、周期的に食べ物を口に運ぶ機械にでもなったかのように、黙々と昼食を摂り続けた。
周りのクラスメイトは、いつもと同じく笑いながら愉しそうに購買のパンをぱくついている。昼の放送が始まり、スピーカーから今はやりのJ‐POPが流れ始める。みんな会話に夢中で、それを熱心に聴いている者は一人もいない。いつの間にか耳に入ってきているだけだ。クラスメイトのお喋りの断片と流行歌が、一体となってざわざわと僕の耳の穴に飛び込んでくる。雑音に包まれて、僕と弥彦はただ漫然と食料を口に運び続ける。
――間違いなくいつも通りの見慣れた風景のはずなのに、突然、どこか遠い、知らない国に来てしまったかのように感じた。なんとなく不安になりながらも、それでコンビニ弁当を摘む手は止まることはなかった。
黙々と、ただ黙々と――。
「なんつーかな、元通りって感じか」
不意に弥彦が呟いた。
虚を突かれて、身体がびくりと震える。途端に知らない国は消え失せ、僕は学校の教室に引き戻された。
「――何が」
あまりに唐突だったもので、それくらいの返事しかすることが出来なかった。
彼の方に目をやると、ぼんやりと窓際の一番前の席を見つめているようだった。
ほんの二ヶ月前までは、生徒の鑑だと教師から誉めそやされていた優等生が座っていた、そして、きっとこれから僕達が進級するまでの数ヶ月間は、誰も座ることのないであろう、その席を。
「何がって、分かるだろ」
「分かんないよ」
そうかなあ、もう何も感じねえもんかなあ――、と呟きながら、弥彦は顎を掻いた。
「いや、川端のこと。二ヶ月も経ったら、こんなもんなのかなーと思って」
「こんなもんって、何だよ」
「あー、なんかいつも通りになったなと思ってさ。みんな、川端がいなくなったっていうのに、誰も、何の違和感も覚えてないみたいじゃんか?」
弥彦は顎に手を当てたまま、そう言った。
誰も、何の違和感も覚えていない。
――果たしてそうだろうか?
「でも、川端が亡くなったって通達が先生からあったときは凄かったじゃないか。特に女子なんかぎゃんぎゃん泣いてる奴とかいてさ、男子に関してもみんな顔面蒼白になってたし」
「いや、だからこそ嘘くせえっつーか。前の日までは『あいつ教師に尻尾振って優等生ぶっててマジうぜー死なねえかなー』とか平気で言ってたような奴が、いざホントに死んじゃった途端泣き出したりしてさ。『あの子意外と良い子だったよね』とか『そういえば委員会の仕事手伝ってくれたことあった』とか言い始めるんだぜ? そんで、葬儀まで終わったらもういつも通り。なんかさ、ハッキリは言えないけどふざけてるよな。どうかしてるよな」
一気にまくしたてると、弥彦は長く長く息を吐いた。額には汗が浮いていた。
「まあ、なんとなく言いたいことは分かるね」
僕は取り敢えず、当たり障りのない返事でごまかした。
熱くなっている彼には悪いけれど、僕にはクラスの面々の行動が、それほど間違っているものとは思えなかった。
死というのは往々にして故人に対する記憶を美化してくれるものだし、クラスの仲間だ何だと言ってみたところで、川端は所詮他人だ。今まで無関心だった――もしくは鬱陶しがっていた人の死で、二ヶ月間も悲しみ続けている奴がいるとは思えない。この期に及んで川端李乃の話なんかしている僕達の方がおかしいのだ。
――ああ、なるほど。
唐突に、最近ずっと感じていた嫌な気配の正体に気がついてしまう。
周りがおかしいんじゃない。
おかしいのは、僕だ。そして弥彦だ。
僕達は川端李乃の死に囚われ続けている。
「だからどう変なのかってのは言えないんだけどな、なーんか最近クラスの奴らが莫迦に見えてきてな? あいつら、何かに踊らされてるんじゃねえか? 主体性ってもんが欠けてるんじゃねえか? 本当は何も頭で考えてなくて、周りに合わせることに必死なんじゃねえか? なあ、全くくだらねえよなあ、おい?」
尚も弥彦は早口で何か喋り続けていたが、彼の呟きはスピーカーから流れる男性ヴォーカルのがなり声と混ざって、意味の分からない言葉の羅列になってしまい、僕の耳に届く頃にはただの雑音になっていた。
周りを見渡すと、クラスメイトの笑顔と笑い声があって、そしてそれ以外何もなかった。
弥彦は、何故川端の死に執着するのだろう。生前、仲が良かったという訳でもなかろうに。
そして、僕は何故いまさら彼女のことが気になっているのだろう。こんなことなら――。
――こんなことになると、もし知っていたなら。
「なあ、お前だって気になってないわけないだろ? 何か気に喰わねえって感じがしてるんだろ? そりゃそうだよな、だってお前は――」
――知っていたなら。
「あいつが殺される前の日――」
――知っていたなら、何だっていうんだ?
「あいつに、川端李乃に――」
「んん、何の話してるの?」
不意に、後ろの方から澄んだ声が聞こえてきた。
僕の正面でべらべらとまくし立てていた弥彦は、話が中断させられたことに苛立っているのか、むっとした表情で僕の頭の上の空間を睨んでいる。
振り返ると、色白の女子が、僕達が座っている席を見下ろしていた。
――クラスメイトの初瀬由紀だ。
「楽しい話?私もまぜて」
彼女は、トン、トトン、と爪先で木の床を打ち鳴らしながら、薄く微笑んでそう言った。
「そんなに愉快な話題じゃないよ」
「じゃあ、何について話してたの?」
「それは……」
僕は、内心焦った。川端の話をしていたのが悪いことだという訳でもないのに、何故だかそれを隠したくなった。突然、この空間において、彼女の話題はタブーであったような気がしてきたのだ。
「いや、俺たちもそろそろ三年になるからさ。高校生活中に彼女欲しいよなって話をしてた。だよな?」
僕がもごもごしていると、一足先に冷静さを取り戻した弥彦が、助け舟を出してくれた。僕は急いで頷き、彼の助けに乗ることにする。
「彼女? へええ……。君たちでもそういうの気にするんだね」
彼女はやや失礼な感想を呟きながらうんうん頷くと、「でも――」と続けた。
「たぶん、君たちに彼女が出来ないのは、行動してないからだよね。作ろうと思って積極的に動けば彼女さんの一人や二人、出来るって」
「作ろうと思って――?」
「そう、チャンスを待つんじゃなくて、能動的に動かなきゃ」
言いながら初瀬は、くるっと爪先立ちで体を半回転させ、スカートの裾を翻らせた。
「積極的――に――」
弥彦は彼女の主張に何か引っかかりを感じるらしく、なにやらぶつぶつと呟いている。
ふと、教室の壁掛け時計を見ると昼休みは残り十分で終了、という時刻だった。結局、弁当を食べるだけで時間を過ごしてしまった。
僕は授業が始まる前にトイレに行っておこうと思い、席を立って出入り口に向かう。
この時刻になっても尚クラスメイト達はやたらと楽しそうにお喋りしている。そのうちの一団が扉の前に居座り、教室のドアを塞いでいた。
ただ一言、邪魔だと口にすればいいだけの話ではあるが、面倒だ。そう感じつつ、僕が口を開いたその刹那、
「また放課後、屋上で」
耳元で、囁かれた。
前を見ると、初瀬がドアの前に溜まっている邪魔な人々を掻き分け、無理矢理扉を抜けていくところだった。
僕は、彼女の後ろ姿を見送りながら、朝のホームルームで、真ッ青な顔をした担任教師が「川端が殺された」という報告をしたときのことを、ぼんやりと思い出していた。
そういえば。あの時。彼女は。
教室内でただ一人、つまらなそうに欠伸をしていた。