第33話 桜月断ちて
ドロドロとした怨嗟の赤を瞳に浮かべ、堕霊は後ろ足の無い蜥蜴のような身体を振るわせて神術を発動する。生み出されたのは酷く濁った鉄砲水で、二人の側から見れば壁が迫っているようだ。
「掴まれ」
「うん!」
桜真は獣の姿へ戻り、美乃梨を背に乗せる。それから背中の翼をはばたかせ、天へと舞った。
見下ろすと、水の触れた地面が腐ったように溶けており、美乃梨は息を飲む。ドブ川のような酷い臭いも漂ってきた。
「神だった名残として溜め込んでいる穢れだ。触れぬよう気をつけろ」
桜真も神術で光を生み出して堕霊へぶつけるが、大きなダメージにはならない。
美乃梨の全力よりも強力な一撃でこれなのだから、彼女が少しどうこうしたところで豆鉄砲でしか無いだろう。
「人を巻き込んでは主様に叱られてしまうな。広い場所へ誘導したい。どこかにないか?」
「うちの大学、この時間なら誰もいないはず!」
答える美乃梨の声は少し明るい。桜真が未来のことを考えていたからだ。
桜真は堕霊を攻撃しながら大学を目指す。人の道に沿って来られては気にするところが増えるのだが、幸いにも堕霊は屋根の上を通って追いかけてきた。
空を飛べば美乃梨の大学までは遠くない。降り立ったのは以前、友香へ靴を貸すために行った運動場だった。サッカーコートを陸上競技用のトラックが囲んだそこの中央で、人型に戻った桜真と美乃梨は堕霊を迎える。
「マ゛れぢぃ……!」
追い詰めたと思ったのか、堕霊はニタっと笑った。美乃梨の何度も見た、怖気のはしる笑みだ。僅かに開いた口からは深淵のような黒も見える。
「いけそうか?」
「祝詞の方は。時の呪いとかがまだよく分からないけど」
「そちらは私がどうにかしよう」
逃げながら伝えられた巫術を頭の内で必死に想像する。祝詞自体は、ある程度は桜真が神術で紙に起こしてくれた。残りは、自然と紡がれると彼は言う。
「残る問題は、どうやって猶予を作るか、だな」
「さっきあいつを捕まえてた根っこは?」
「警戒されている。簡単に躱されよう」
それもそうだ、と美乃梨は堕霊を睨む。弄ぶつもりなのか、堕霊は左右へ揺れながらゆっくり二人に近づいて来ていた。二人も徐々に後ずさるが、距離の詰まる方が早い。
美乃梨は何か使える情報がないかと化物を監察する。ヘドロの体を引きずった跡はグズグズに腐って溶けていて、臭気が目に見えそうだ。怪我らしい怪我はしていない。体を支える腕は細いが、先ほど桜真の術を受けてもまったく揺らぎすらしていなかった。桜真と似た、しかしまったく違う不気味な赤い瞳はじっと彼女を見ており、時折警戒するように桜真へも向けられている。
「もしさ、二手に分かれたらどっちを追いかけると思う?」
「あの様子では、美乃梨だろうな。……まさか」
「うん。私が囮になるから、よろしく」
美乃梨は笑顔を桜真へ向ける。あまりに危険な提案だった。
さすがの桜真も、再び肩を怒らせ何かを言おうとする。しかしその前に、美乃梨の手が震えているのに気が付いて、口を閉じた。
その笑顔は彼女の精一杯だった。
「大丈夫大丈夫。桜真がすぐふん縛ってくれたら良いから!」
美乃梨の右手は左の薬指に添えられている。それに視線を向けて、桜真は溜息を吐く。
「まったく、どうして美乃梨は、そうも無駄に肝が据わっているのだ」
「無駄には酷くない? ……そりゃ、度胸も付くよ。桜真に出会うまで、襲われても独りでどうにかするしかなかったんだもの」
随分近づいた堕霊から視線を外さないまま、美乃梨は笑みを作る。それは少し寂し気で、桜真は視線を伏せた。
それから再び瞳に強い光を宿して、堕霊を睨みつける。
「美乃梨、準備は良いか」
「うん、もちろん。いつでも」
桜真は一つ頷くと、二つの術の準備をする。一方は偽装のためのものだ。美乃梨も知らなければもう一つの術には気がつかないだろう精密さで、舌を巻くほかない。
「三つ数えたら左へ走れ」
「うん」
美乃梨は緊張した面持ちで、ごくりと喉を鳴らした。
「一つ」
にじり寄る堕霊。美乃梨は無意識に後ずさる歩幅を大きくする。
「二つ」
万が一に備えての神術も準備しつつ、走る方向を確認した。足を引っかけるようなものは、見当たらない。
「三つ、行け!」
「っ!」
美乃梨が弾かれたように走り出すのと同時に、桜真が偽装用の術を使う。生み出されたのは白い雷で、中心からずらして撃たれたそれを堕霊は横っ飛びで回避した。
堕霊の跳んだ方向は、美乃梨たちから見て左。そうなれば、まず視界に映るのは彼女だ。
必死に走る美乃梨へ堕霊は愉快気な笑みを向けて、追いかけようとする。
だがそれは許されない。
地面から急激に伸びた根が地面を割って飛び出し、堕霊の前足を掴む。十、二十と続いたそれは、そのまま幾重にも重なって全身に絡みついた。
覚えのある術に堕霊は桜真のいた方向を睨む。桜真はちょうど桜の花吹雪に身を変じさせている最中で、狼の木面に美麗な笑みを浮かべた。
「美乃梨、良いな」
「うん!」
美乃梨は桜真から受け取った紙を広げ、意識を集中させる。そして時神の姿を思い浮かべながら彼と息を合わせ、祈りの言葉を紡いだ。
「『掛けまくも畏き時の大神、天月の館の大神、諸々の禍事、罪、穢れ有らんをば祓い給い清め給えともうすことを聞こし食せと、恐み恐みもうす』」
美乃梨は急激な虚脱感に、倒れこみそうになる。桜真の支えでどうにか立つが、その額には玉のような汗が浮かんでいた。
強力な巫術を使う際に唱える祓詞だが、術の規模故にか、それだけで美乃梨の許容量に近い神力を消費したのだ。
案ずる桜真に、美乃梨は頷いて答える。
「『高天原に神留坐す御身が末裔をば贄とせんとす者有りて、罪穢れに塗れしなりければ、』」
言葉の一つ一つを口に出すたびに、二人の内から青銀の光が溢れる。桜真を以てしても冷や汗を流すほどの力を秘めたそれは、時神と美乃梨の先祖たる神の力だ。
先ほど桜真が命を代償に行使しようとしていた術だが、美乃梨の血とその魂に刻まれた時の呪いを介したことにより、桜真独りであった時よりも明らかに強い力が集まっていた。
「『今一度ばかり御身が御力振るい給い』」
溢れ出る光は見る見る強くなり、空は昼間と見紛うばかりに明るくなる。星は隠れ、風が渦巻いて、天災の様相すら見せる。
その力は、因果にすら干渉した堕霊をも震撼させるほどだ。
しかし元々は桜真が命をかけたほどのもの。彼女ら自身の身体が錘となって圧し掛かり、支え合わなければ立っていることすら難しい。どちらかが一瞬でも気を抜けば、倒れ込む他の道はない。
それでも、祝詞だけは途切れさせない。言葉を紡ぎ、神々への祈りを届け続ける。
当然堕霊も座して見るばかりではなく、先刻以上に激しく抵抗をして根の戒めを侵食していた。
美乃梨達の見る先で次々と根が腐り、或いは引き千切られていく。自らの命すら燃やすような抵抗を堕ちた神が見せる。
あとは、どちらが先に目論見を叶えるかだ。
「『神太刀と為して大敵打ち――』」
根は残り二本。堕霊は持てる力の全てを以て、完全に脱出する。
しかし逃げるつもりはないらしく、堕霊は二人に向けて神術を発動した。
規模からして、堕霊の、元神の全力だ。先ほどの鉄砲水を優に上回る規模の濁った水が生み出され、頭一つで身の丈を越えるほどの龍へと変じて美乃梨たちへ襲い掛かった。
迫りくる不浄の水龍。しかし二人は焦らない。
その身に残った最後の力を振り絞って互いを支え、龍を見据えて、祝詞の最後の言葉を形にする。
「『払い給えと、恐み恐み申す』」
瞬間、煌々と輝く神々の力の全てが解放された。青と銀の奔流は二人の手の動きに合わせて天へと上り、太刀を象る。よくよく意識してみれば、巫女装束が二柱の神の力を纏める補助をしてくれているようだった。
「終わらせよう。巡る時を蝕む呪いを」
「違うよ、桜真。ここから始まるの、私たち二人の日々が」
美乃梨は疲れ切った、しかし月のように眩しい笑みを向ける。
「ふっ、そうだな」
桜真も柔らかく笑い返すと、水龍を睥睨した。
「ゆくぞ」
「うん」
二人は深く息を吸い、呼吸を合わせる。
「神太刀の祓・桜月」
そして、言霊の込められた言葉と共に二人は腕を振り下ろした。
神の光剣はその動きに従って龍を断ち、そのまま、堕霊をも切り裂く。
堕霊の断末魔は力の奔流に飲み込まれ、美乃梨たちには届かない。祓の光は無数の桜の花びらとなって月明りに消え、夜が訪れる。逢魔の時を経て、残ったのは、全ての力を使い果たして座り込む一組の夫婦ばかりだった。




